囚われた貞操
女侯爵ハシュレイ・メロウスは激怒した。
その原因は一通の手紙。怪盗パンコレと名乗る輩から届いた予告状の内容が、あまりに不愉快だったからだ。
彼女は苛立ちを隠そうともせず、乱暴な手つきで呼び鈴の魔道具を掴む。足を揺すりながら待っていると、ほどなくして執務室の扉がノックされた。
「ハシュレイ様。どうかされましたか。ご昼食にはまだ早いかと思われますが」
現れたのはメロウス家の筆頭執事、オウディという名の40歳過ぎの男であった。
彼がこの家に仕え始めたのは、ハシュレイが生まれたばかりの頃。当時の彼は若干10歳の見習い使用人でしかなかったが、幼いハシュレイがよく懐いたこともあり二人は兄妹のように育ってきた。
状況が変わったのは、ハシュレイが他家から婿を迎え入れた頃からだろうか。周囲から妙な誤解を受けないよう、二人はいつしか不要な接触を避けるようになっていた。
そしてその関係は、夫が戦争で死去した今も続いている。
「どうもこうもないわ。見なさい、オウディ。この不快な予告状とやらを……腹が立って仕方ないわ」
そう言って、叩きつけるように便箋を置く。
オウディはそれを丁寧に手に取ると、目を丸くしてハシュレイを見返した。
「これは……こいつはド変態だ。馬鹿なのか、少なくとも正気じゃない。ハシュレイ様、早急に警備を強化いたしますので――」
「そうじゃないッ!」
「はっ」
「冒頭よ、冒頭……! 『美しいご令嬢へ』なんて、こんな嫌味ったらしい書き方……。この家には女なんて私しかいないわよッ。こんな年のいった未亡人相手に、ご令嬢だなんて……侮辱だわッ」
彼女が憤ったのは「ご令嬢」という言葉に対してであった。
一般的にそう呼ばれるのは、せいぜい成人前の女性たちである。母譲りの美しい容姿は自認しているものの、さすがに30歳を過ぎた未亡人をご令嬢と呼ぶのが相応しいとは言い難かった。
「この怪盗はきっと、私が屋敷の警備を固めたら陰で笑うつもりなのよ。『あの女、自分をご令嬢だと思ってやがる』なんて言ってね」
「……考えすぎではないでしょうか。それにハシュレイ様が狙われているとあっては、我々も落ち着いてはいられません。警備は厳重に――」
「分かってるわよッ。ただ不愉快というだけ。それに……屋敷の皆は良い気味でしょうよ」
そう言って眉間に皺を寄せる。
彼女が不機嫌さを隠さないのは、いつものことであった。
きっかけはもう10年以上前になる。
夫が戦争で亡くなったと連絡を受けた時、彼女は周囲が驚くほど取り乱していた。さほど仲睦まじい夫婦だと思われてはいなかったのだが、彼女はその後も恋人すら作ることなく年齢だけを重ねてきたのだ。
それと同時に、屋敷には彼女の怒鳴り声が毎日のように響くことになった。結果、理不尽に耐えられず何人もの使用人が辞めていくことになり、古株の中で残っているのはオウディと他数人程度になってしまっている。
「癇癪持ちの女主人が痛い目を見れば、少しは溜飲が下がるのではなくて?」
「そんなことはございません、ハシュレイ様。私は貴女を本当に心配しているのです」
「気休めは止して……もういいわ。警備はあなたの好きなようになさい。まぁ、こんな『ご令嬢』の下着などに盗む価値があるとは思えないけれど」
吐き捨てるようにそう言うと、彼女は視線を切って執務机の引き出しを開いた。その中から便箋を一枚取り出すと、慣れた手付きで羽ペンとインク壺を準備する。
「……オウディ。現在の帝国美女会議の議長は、第一皇女だったわね」
「はっ。その通りでございます。まさか招集を?」
「引退した身でそこまではしないわよ。ただ、この怪盗パンコレとやらが帝国貴族家の女を侮辱しているとあっては、帝国美女会議も動かざるをえないでしょう」
帝国美女会議。それはその名の通り、帝国内の選ばれた美女を招集した会議である。元々は皇帝・皇太子の結婚相手を選別する目的で始まったものであるが、今では帝国の政治を裏から操作する「第二の元老院」とも呼べる集会となっていた。
ハシュレイはそのOBであり、引退した今でも強い影響力を残している。探偵皇女と名高いランネイを動かすことも可能だろう。
「不愉快な怪盗は、必ず処刑台に送るわ。帝国貴族を相手にナメた真似をするからよ。ふふふ……良い気味ね」
ハシュレイは腹の底で怒りを燃やしながら、仄暗い笑みを浮かべる。
――その行動の全てがランネイの思惑通りなのだとは、気づきもしないままに。
それから数日後。
ハシュレイは就寝の準備をしながら、その後受け取った「もう一つの」予告状をひっそりと眺めていた。憂鬱の籠もったため息が、誰もいない部屋の空気に溶ける。
【追伸】
ハシュレイ・メロウス様。
貴女を囚えているパンツは、折りを見て必ずや頂きに上がります。その際、窓の鍵を開けておいていただければ幸いです。
貴女の味方、怪盗パンコレより
「どうして知っているのかしら……。いえ、それより。本当に私を解放できるというの……?」
彼女はそう呟きながら、期待と諦観の交じった複雑な表情を浮かべ、今夜も窓の鍵をそっと外す。毎晩厳しく警備をしているオウディには悪いと思うが、彼女は怪盗が来るのを待ち望んでいた。
盗めるものなら盗めばいい。
そう思いながら、彼女は自分のパンツを見る。
――それは、貞操帯と呼ばれるものであった。
戦争に行く夫が、美しい妻の浮気を心配して残していったプレゼント。
鍵の付いた金属製のパンツは、魔術の効かない高価な金属で作られている。夫の命とともに鍵まで失われた今となっては、脱ぐことも壊すこともできない厄介な呪いとして彼女を蝕んでいた。
ハシュレイはそのことを誰にも打ち明けられず、浄化魔術で汚物を処理しながら、10年以上に渡る屈辱的な日々を過ごしてきたのだ。
「貞操帯。前時代的で、馬鹿で、どうしようもない発明品よね……。まるでアイツみたい」
脳裏に浮かぶのは、政治的な損得だけで結婚してしまった亡き夫の姿だった。
彼が戦争に行く前夜、どうしてもと請われて一緒に酒を飲んだのが運の尽きだ。おそらく薬を盛られたのだろう、意識を失っていた彼女が気がつくと、決して脱げない金属製のパンツを身に着けていたのだ。
「怪盗パンコレ。本当にこの呪いを解いてくれるというのなら、一晩くらい貴方の女になってやってもいいわよ。だから……」
ハシュレイは窓に向かってそう呟き、しばし目を伏せると、ゆっくりとベッドに入って眠りについた。
翌朝、寝室には窓から差し込む朝日が満ちていて、明るく照らされたベッド脇の机には一通の手紙が置かれていた。
【ご報告】
貴女のパンツは頂きました。
ご令嬢のまま止まっていた時は、もう動き始めております。どうぞこれからは、貴女の人生をお楽しみください。
怪盗パンコレより
ハシュレイは既に目を覚ましていた。
仰向けに寝たまま両手で顔を隠し、震えながら声を殺している。手の端から頬を伝って流れるのは、10年分の思いの込められた涙だった。
彼女の着衣はネグリジェ一枚のみ。下半身には何も身に着けておらず、死んだ夫の忌々しい呪いは影も形もない。
「ハシュレイ様。どうされましたっ!?」
ドアの向こうから、いつもは冷静な筆頭執事の叫ぶ声が聞こえてくる。なかなか起きてこない女主人を心配してくれているのだろう。
凍りついていた心に温かいものが流れる。
うまく声を出せない彼女は、剥き出しの下半身を隠すように布団を掛け直し、小人のような微かな声で「入りなさい」と答えた。
「どうされました!?」
「お兄ちゃん……私……」
「ハシュレイっ!」
オウディの反応は早かった。
ハシュレイの様子がおかしいと見るや、失礼など構わずにベッド横へ駆け寄る。それはまるで、兄妹のように過ごしていたあの頃のようであった。
「どうした、ハシュレイ!」
「あのね……お兄ちゃん……」
「もしかして、怪盗パンコレが……?」
オウディの発言に、ハシュレイの雰囲気がサッと変わる。彼女はゴシゴシと涙を拭うと、気の強そうな目で彼をキッと睨んだ。
「様をつけなさいこのデコ助ッ!」
「は……?」
「怪盗パンコレ様が、私のパンツを盗んでくださったのよッ! あぁ、安心なさい。あの方は女の貞操をみだりに奪うような馬鹿者とは違うわ。はぁどうしましょう、このご恩にどう報いれば……」
夢を見るようなウットリした目で宙を見るハシュレイの姿に、オウディは苦笑いしながらため息を漏らした。そして少し遅れて、そうやって彼女と阿呆くさいやり取りをするのが、ずいぶん久しぶりなのだということに気がつく。
「パンコレ教……っていうのはどうかしら?」
「ハシュレイ!? 急にどうしたっ――」
「そうと決まれば、まずは同士集めからよね」
「コイツ聞いちゃいねぇな……ククククク……」
寝室の空気は、これまでの淀んだものからすっかり様変わりしている。おそらくこれからは、屋敷中が前向きに変化していくのだろう。
メロウス家の凍てついていた時計の針は、こうして確かに動き始めた。