酒場の姉弟
帝都の酒場には、給仕として働く姉弟がいた。
姉のシローネは12歳で、弟のシアンは10歳。
二人の母親はその美しい容姿を活かして娼婦をしており、シローネたちの見ている目の前で客に絡みついているのも珍しいことではなかった。また、二人の父親は――
「あー負けた負けた。今日は大損だ」
そう言って、妻と二人の子どもが働く酒場に赤ら顔でフラフラと現れる。彼が手に持っているのは、いつもの競竜新聞だった。競竜とは、竜を走らせて金を賭ける、紛うことなきギャンブルだ。
自分で稼いだ金で楽しむのならまだ良いが、彼は働きもせずに遊び歩く日々を過ごしている。シローネはそんな父親に幻滅しきっていた。
しかし、母親はそんな父親の様子を気にもしていないらしい。酒場の客席へ座った彼のもとへ、酒瓶を片手に近づいていく。
「あら。競竜の必勝法を編み出したって言ってなかったかしら?」
「ありゃ全然ダメだ。やっぱり賭け事はロジックでやっちゃあダメだな。ハートだよハート!」
「もーう、昨日と言ってることが真逆じゃない」
クスクスと可笑しそうに笑う母を見て、シローネは信じられない気持ちだった。惚れた弱みとは言うけれど、放蕩三昧の父を前にどうやったらあんな風に笑えるのか。
「シローネちゃん、そろそろ歌ってよー」
「あ、はーい! 準備しまーす!」
客からの呼び声に反射的に答えると、シローネは両親から視線を剥がし、弟に目配せをしてステージに向かう。
シローネがステージに立つと、店中から歓声が上がった。
「それでは一曲、歌わせていただきます」
彼女が一礼すると、背後からポロンとピアノの音が鳴る。チラリと目を向ければ、鍵盤を叩いているのは弟のシアンであった。
こうして姉弟で演奏するのは、もう何度目になるか分からない。
客席に目を向ければ、仲睦まじい様子の両親が揃って笑顔を浮かべ、シローネとシアンを見ている。彼女はモヤモヤとした気持ちを振り切るように、どこまでも伸びるような歌声を響かせていった。
そんなある日のことだった。
今日は家族揃って夕飯を食べるはずだったが、家長である父親が返ってこない。心配そうにしている母の横で、シローネはポツリと呟く。
「父さんなんか、帰ってこなくていいよ。このまま消えればいいのに」
その一言に激怒したのは母親だった。
彼女の頬をパチンと張ると、涙をいっぱい溜めた目でキツく睨みつけてくる。
シローネは訳が分からない。いつも遊び回っているだけで家族に苦労ばかりさせている父親も、それを全面的に擁護する母親も、誰も彼も信じられなくなって家を飛び出した。
あたりは既に夕暮れが迫っていた。
街を駆けるシローネに、様々な声がかかった。
心配してくれる顔見知り。あからさまに絡んでくるガラの悪い連中。また、心配しているフリをして最もたちの悪いことを考えている者たち。彼女は全てを振り切って走る。
そうして気がつけば、神殿のある丘の上に来ていた。
「……おや? お嬢ちゃん、こんな時間に出歩くのは危ないぞ」
話しかけてきたのは、年老いて腰の曲がった白髪の神官であった。
優しそうな笑い皺からは、毎日ニコニコと笑って過ごして来た様子が見て取れる。それは、演技では決して作れない顔だろうと彼女は思った。
「家に帰れない事情があるのなら、今日は神殿に泊まって行きなさい。話くらいなら聞いてやろう」
「……はい。お願いします」
「ふぉふぉふぉ。では、一緒に来なさい」
そう言って神殿の中に案内される。
結局その日は、神殿で夕飯までご馳走になり、いろいろと日々の愚痴も聞いてもらって少しスッキリしながら寝たのだった。
……そしてこれが、シローネにとっては最初で最後の家出になってしまった。
翌日、まだ朝日の昇りきらない薄暗い街を、母親に叱られないか戦々恐々としながら自宅に帰る。
すると、そこにあったのは地面や壁に広がる黒い水跳ね。そして、闇色のフードを被った数人の人影が、何やら魔道具を持って歩き回っている姿だった。
そのうちの一人が、シローネに近づいてくる。
「君はもしや、長女のシローネちゃんかい?」
「……おじさん誰?」
「君の両親の仕事仲間さ……。詳しい話をしてあげるから、一緒においで」
父親は仕事をしていなかったはずだ。
そう訝しみながら、シローネは仕方なく彼らについていくことにした。
それは、初めて聞かされる話であった。
ランジュ王国に暮らしていた頃、シローネは確かに病気に苦しんでいた。しかしある時から症状が出なくなり、ビアンケリア帝国への引っ越しもあって、最近は病気のことなどすっかり忘れていたのだが……。
実は彼女が治ったのは、両親が借金をしてまで魔法医に頼み、高価な秘薬や高難度の魔術で治療してもらったかららしい。
「その治療費の返済のため、君の両親は暗殺者ギルドの諜報員の仕事をすることになった。このビアンケリア帝国に送り込まれてきたのも、その仕事のためだ」
美しい母は、自らの身体を使って。そして、無職だと思っていた父親は、連日危険な場所に忍び込んで。それぞれ、暗殺者ギルドにとって重要な情報を入手する任務に着いていたのだという。
……そんな父に、自分はこれまでどんな言葉を掛けてきただろう。
「それで、父と母と弟は、どうなったんですか」
「あぁ。大変言いにくいが、残念ながら……」
話によると、調査対象の貴族宅に忍び込んでいた父親は、その家の衛兵に見つかってしまったらしい。命からがら逃げ出したはいいものの、後を付けられていることに気付かないまま、母親と弟の待つ家へと帰ってしまったようなのだ。
そのまま三人は命を落としたらしい。
シローネは天涯孤独の身になってしまった。
「君の治療費の返済はまだ残っている。今の収入ではとても返せはしないだろう。分かるね?」
「……はい。私もギルドで働きます」
「うん、それがいい。住む場所はこちらで用意しよう。仕事のいろはを教える先輩も付ける。なに、初めから無茶をさせようなんてつもりはないから、安心して良い」
こうして、シローネは暗殺者ギルドの諜報員として働くことになった。
そして数年掛かりで自分の治療費を返し終わった後は、最低限の貯蓄だけをしつつ、同じ病気で苦しんでいる子の家庭へこっそりと治療費を援助をして回るようになっていた。だからこそ、彼女は無駄金を浪費することが嫌いなのだ。
歌劇場の歌姫になり、帝国美女十選のメンバーになり、暗殺者ギルドで重宝されるようになっても、彼女の心からあの頃の後悔は消えない。
(父さん……母さん……シアン……)
優しさも可愛げもない姉の後ろで、シアンはどんな気持ちでピアノを弾いていたのだろう。そして、ステージで歌う自分を、両親はどんな思いで見ていたのだろうか。堂々巡りをする思考。
彼女の意識はゆっくりと浮上していき――
ガタガタ、ガタガタ。
体を揺らす振動に薄っすら目を開けると、そこは竜車の中であった。あたりは真っ暗闇。おそらくは夜を徹して走っているのだろう。
体には布が掛けられ、倒れないように誰かの腕が自分を支えている。
「起きたか、シローネ」
「キリヤ……?」
隣に目を向ければ、そこにいたのは暗殺者のキリヤであった。
ふいに記憶が蘇る。確か自分は探偵皇女に捕縛され、三択を迫られたのだ。自白するか、犯されるか、自ら死ぬか。簡単に言えばその選択だ。
彼女が選んだのは、四番目の選択肢だった。
「仮死薬を飲むタイミングが早すぎる。救出が一日遅かったら本当に死んでいたぞ」
「あら。間に合ったなら良かったじゃない」
「下手をすると内臓疾患が残る可能性もある」
「上手くやったから大丈夫よ」
実は彼女は、懐に忍ばせていた暗殺者ギルド秘伝の薬で仮死状態になっていたのだ。蘇生する薬も当然ながら存在しているが、早めに投与しなければ健康へのリスクも高い。
ただシローネは、これまで空いた時間で医療魔術の勉強も行ってきていたため、起き抜けに自分の体をざっと診察して概ね問題ないことは確認できていた。
「それでキリヤ。パンツは全部集めたの?」
「……残り1枚だ」
「そう。じゃあ私は寝るから、好きにして」
彼女はそう答え、キリヤの胸に頭を預けた。そのまま目を閉じて、まだ少し残っている眠気に身を任せる。
これからの身の振り方は、明日の朝日が昇ってから考えることにしよう。
太腿にキリヤの柔らかい手が伸びてくるのを感じると、シローネはふっと腰を浮かせて、最後のパンツ集めをほんの少しだけ手助けした。





