暗殺者の矜持
月明かりだけが差し込む寝室。
大きなベッドの上には、この家の主人である冒険者の男を中心に、内縁の妻である3人の美女がスヤスヤと眠っていた。
キリヤは物音も立てずにその側へと近づく。
両腕を大きく広げ、首から伸びる黒腕を高々と掲げながら、彼は小さく息を吐いて呼吸を止めた。
(キリヤ流・奪パン術。玖ノ型――〈狂猿〉ッ!)
一足でベッドを飛び越えながら、全ての腕を美女それぞれに伸ばす。
音もなく着地したキリヤが持つのは、腕1つにつきパンツ1枚。3人の美女から同時にその薄布を抜き去ったのだ。もはや神業と言ってもいい。
保存用の真空パックを背中に仕舞いながら、キリヤは冒険者たちの様子を慎重に探る。目覚める気配はなさそうだ。
(……よし。撤退する)
実戦に勝る修行はない。
犯行24日目、これで盗んだパンツは80枚に到達していた。当初は難易度の高いと思われたターゲットも、今ではこうしてスムーズに相手取ることができている。
(あとは追加報酬ターゲットだな……空で寝ている魔術師、か)
裏通りへ出たキリヤは一路、暗殺者ギルド職員との待ち合わせ場所へと走った。
貴族街にある高級ホテルは、遠方から帝都を訪ねてきた貴族用の宿泊施設だ。その中でも、宿泊客の立ち入りが許されていない屋上に、キリヤは佇んでいた。
目の前にいる男は気弱そうに肩を縮こめているが、その眼には深い闇を湛えている。歳はキリヤとそう変わらないだろうが、どこか油断のならない気配を纏っていた。
「ククク。三本腕のキリヤ。本当に行くのか?」
「……あぁ」
「情報の通り、帝国城の上空には雲上で寝ている人影が確認された。例のパンツ未回収の魔術師だろうね。だが……ククク。これは十中八九、探偵皇女の罠だよ。捕まりに行くようなもんだと思うけど」
男の言うことはもっともだった。
諜報員の調査では、探偵皇女はシローネの他にも帝国美女十選のメンバーにスプレー缶を配り歩いていたらしい。おそらくは、その中に裏切り者がいると予想し、怪盗パンコレをおびき寄せるためわざと情報を漏らしたのだろう。
魔術師アズサが寝ている場所には、皇女の罠が待ち構えているはずだ。
「ククク。わざわざ危険な誘いに乗るのか?」
男の言葉に、キリヤは小さく口角を上げて答える。
「罠を恐れて依頼から逃げるのは、三流の暗殺者だ。そういった者は地力が伸びない。いつか必ず行き詰まり、命を落とす」
「だからって、無闇やたらと突っ込む奴はすぐ死ぬじゃないか」
「あぁ。だから二流は、考えうる限りのリスクに備える。事前準備を綿密に行うことで、依頼人からの期待に応えるんだ」
そう言うとキリヤは、バックパックから先程奪取したばかりのパンツを取り出し、男に手渡す。せっかくの成果を無為にしないためにも、今のうちに渡しておくのが最善だろう。
「ククク。それが君の矜持か。で、一流は?」
「そういった修羅場を何度もくぐり抜け、死なずに戻って来た者のことだ」
「あぁ、そりゃあそうだろうな。ククククク……」
キリヤのそれは、師匠からの受け売りだ。
当の本人は既にこの世を去っているが、彼は暗殺者としての技術や心構えなど、様々なものをキリヤに残していった。人生最大の恩人と言っても過言ではない。
男は少し呆れたように肩をすくめた。
「まぁ、そこまでの覚悟があるなら、ギルドからこれ以上は言わないよ。ククク、暗殺神のご加護を」
「あぁ。暗殺神の――」
ふと、キリヤは出発しようとしていた足を止め、振り返る。
「あぁ、そうだ……。シローネは早々に逃しておいた方がいい。魔術師アズサの潜伏場所が十選の誰かから漏れたことが分かれば、彼女も容疑者の一人になるからな」
「……ギルドもそのつもりだ。彼女の進退は、リスクとリターンのバランスを見て本部が決めるさ」
とはいえ、シローネほど帝国の深部に入り込んでいる諜報員はいない。ギルドとしては、よほど危うい状況でない限り、彼女を帝都外に逃がす判断はしないだろう。
キリヤはコクリと頷いた。
「では、暗殺神のご加護を」
そう言って駆け出すと、ホテルの屋上から外へ飛び出す。薄い黒布を翼状に広げると、気流に乗って旋回しながら空高くへと舞い上がっていった。
彼がこうして鳥のように空を飛ぶのは、初めてのことではない。『魔術師と煙は高い所へ昇る』と言われる通り、追い詰められた魔術師は空へと逃れることが多いのだ。
(魔術師の気持ちも分からなくはないが……)
上へ上へと羽ばたき、雲を突き抜ける。
すると、キリヤの頭上には遮るもののない星空が、足下には果てのない雲の海が広がっていた。
それはとても綺麗で、幻想的な光景だった。
力を持たない一般人にとって、空の上というのは未知の場所だ。そのためか、飛行魔術を覚えた魔術師は、初めて目にする雲海に特別な感情を抱く。ここは選ばれし者のみが到達できる場所なのだと。
(空にいるというだけで油断してくれる相手だと、仕事がやりやすいんだがな……)
そんなことを思いながら、キリヤは闇を纏って夜空を駆るのだった。





