平成最後の年に
そして1年。靖男の成績はさっぱりのままで、やけくそで京都の大学の経済学部の論文入試に挑もうとしたが、共通一次からセンター試験と呼び名が変わった試験はさっぱりで、特に英語は“BANBOO”(「竹」と言う意味なのだが)、が分からず焦ってしまい、自己採点をする気にもなれなかった。それでも一応願書を出したのだが、思った通り、見事に足切りに会い、晴れて浪人生の身分となった。
予備校に通いはしたものの、高校時代の腐れ縁の友人と、パチンコや麻雀に明け暮れていた。真面目に勉強しようとしている生部の机の上から参考書やノートを取り上げて、まだ開いてもいない雀荘に、植木鉢の裏に鍵が隠してあるのをもう知っていたので勝手に開けて入り、麻雀に明け暮れたりしていた。
そんなこんなで成績が上がる筈もなく、それでも親に迷惑をかけてはいけないと、あんまりよくなかったセンター試験の自己採点で受かれそうな地方の国立大学を靖男は受験した。
合格したのだが、受験の際、行ってみるとあまりに辺鄙な場所だったので、こんな所にいたら腐ってしまうと親に懇願して、2浪する事となった。
今度は地元の京都の大学か、防衛大学校以外の選択肢はない、と思っていた。2浪までして私学に行って、一層親に負担をかける選択肢はなかった。
そんな決意を固めた3月も終わり頃、1枚の葉書が靖男に届いた。住所は書いて無く、「葵」とだけ書かれていた。裏を返すと、
「受かったよ。そっちはどうかな?」
とだけ書かれていた。
懐かしい、葵さんの文字だった。
それに喚起されたのだろうか、靖男は猛勉強をした。「HONT MILK」への投稿も、編集長に「勉強に専念します」と送って絶った。生部は神戸の大学に合格していなくなっていたが、その他の腐れ縁の連中が麻雀に誘ったりしてきたが、断り、必死で勉強した。
癪に障ったのか邪魔をされたりしたが、めげずに頑張った。
そうしている内に、何か歯車が急に噛み合ったように、まず数学が理解出来、計算するのではなく論理的に考えるのだと分かると、他の教科も一気に分かり出した。
元々、小説、エロ小説だが書いているだけあって、論理の筋道が分かると自ずと理解が深まっていく。夏休みの模試では、まだ京都の大学の入試判定ではEランク(ゼッテー受カラネェヨ、ってレベル)だったのだが、冬休みの最後の模試では、Aランク(受かるんじゃね?ってレベル)にまでなっていた。
防衛大学校は合格していた。京都の大学の入試の感触も悪くなかった。
合格発表の日、靖男は怖くて見に行けなかった。封筒が届いた。分厚い。
合格通知だった。
そうして晴れて大学生となり、靖男は大学生活を謳歌していた。アウトドアサークルに入り、一応、中高と、なんちゃてではあるが山岳部だったので、みんなを連れて山に登ったりしていた。先輩の下宿に転がり込んで、朝まで飲み明かし、二日酔いでサークルのブースで寝込んだりもしていた。気になる女の子が出来たりもしたが、声をかける事が出来なかった。
そうして、葵さんの事がおぼろげな過去になっていった頃、葉書が届いた。
住所は書かれておらず、また「葵」とだけ書かれていた。
「司書検定、合格したよ。勤める図書館も決まったよ。マンガの司書をやりたい、って面接で言ったら、マンガも文化として取り込みたい、って言ってくれたの。マンガの司書が出来るみたい。楽しみだな」
と書かれていた。
・・・あぁ・・・葵さんだ・・・
もう随分昔の気がする。
高校1年の秋から、高2の冬までの、ほんの短い時間、それでも一緒だった。
葵さん・・・どこの図書館で働くんでしょうか・・・自分もちまちまですが、エロ小説を書かせて貰っています。このままプロになるのは難しいでしょうが、何か文字に関わる仕事をしていきたいと思います。
お互い、頑張りましょう。
葉書に向かって靖男は呟いた。
・・・
天皇陛下が生前で退位する事となり、「平成」という年号が最後となる年の春、中原靖男は47歳になっていた。小説家にはなれなかったが、一応ジャーナリストとして文字で食べていく職業につき、独立し、こじんまりだが事務所を構えることも出来た。部下というか仲間というかも出来たし、彼女は部下と言えるのだろう、女の子を雇える身分となった。
今年の冬はさほど寒く無く、逆に春はなかなか暖かくならないからか、4月中旬前、ようやく桜が散り始めているのが事務所の窓から見える。すっと燕が通り過ぎていった。
「あの~今日は窓辺で、と言う事で許してますけど、窓から風が中に吹き込んで来るんですよ。そんなに何本も吸わないで下さい」唯一の、本当の部下と言える石倉杏奈がふてくされながら言ってくる。
「ああ。後、1本だけ許してくれないか」
「もう。何しているんですか?こんな場所でお花見ですか?」
「お花見?いいねぇ。ワンカップ大関でも買ってくるか」
「お酒はもっとダメです!」
「杏奈ちゃんは厳しいな」
「事務所を管理するのも私の仕事ですから。だらしのないボスを監視するのも」
「ははっ」
靖男は煙草を灰皿に押し付けて消すと、最後のもう1本を吸う前に、手近にあった新聞を手に取った。何気なく記事に目を通す。GWに、滋賀県の小さな私鉄と沿線の街が共同して、その街を舞台としたアニメのフェスが開催される、という記事が、ふと目に入ってきた。
「杏奈ちゃん、『おたく』ってどう思う?」ふと、靖男は問いかけた。
「え?『オタク』ですか?・・・そうですね、サブカルチャーというか、もう日本のメインカルチャーですよね。外国の人達もアニメや漫画、そしてその関連グッズを求めて日本に来ますし、大企業もアニメとコラボした商品を販売したり。エッジの効いた、なにかカッコいい、とまで言えば言い過ぎかもしれませんが、今の日本が生み出した、新しい文化だと思います」
「『カッコいい』、『日本の新しい文化』か・・・」靖男は杏奈が聞き取れるかの声で呟いた。
『おたく』は決して新しい文化じゃないんだよ。もう30年以上も前に、中森明夫が自嘲気味に『おたく』と言う言葉を産み出したんだ。靖男は杏奈の言葉に、心の中で返事をする。
ダサさの象徴であり、世間からの風当たりもきつかった。「いい年して子供のモノで遊んで。いい加減大人になれ」なんて言われもしていた。
宮崎事件の時は更に厳しかった。『ロリコン』と、可愛い女の子の絵を描くだけで冷たい視線を浴びせられた。警察が、いわゆる『ロリコン雑誌』と呼ばれていた、まぁ可愛らしい女の子がセックスをするエロ漫画雑誌だ、警察がそれを捜査し、摘発して廃刊にした事もあった。
いつの頃からだったんだろうか。『おたく』が『オタク』になったのは。
靖男が中学生の頃から読んでいた『フアンロード』で、台湾や香港、東南アジアやヨーロッパでも、日本のアニメや漫画が人気だという記事が時折掲載されていたが、まだ『おたく』だった。大学最後の年、『エヴァ』が社会現象になった時にも、それでもまだ、『おたく』だったと思う。
就職先が決まった日、『HONT MILK』の編集長、O子御大から手紙が来た。
妊娠したので会社を辞める、との事だった。実質、妊娠解雇だったのだろう。そんな時代だった。それから1年程、新たなスタッフで作られていた『HONT MILK』を読んではいたが、編集者が変われば、掲載される漫画家の作品も自ずと変わっていくもの。自然と読まなくなっていった。1度だけ、増刊号にエロ小説を書かないか、と誘いがあったが、仕事が多忙だった事もあり、断った。
そう、『おたく』が『オタク』になったのは、KeyやLeafのPC18禁エロゲーがエロシーンを省いて、プレイステーションに依嘱された頃からかも知れない。本来18禁なのに、アニメ化されたりもした。可愛い女の子がセックスをするエロ小説が、若者向けの、愛らしい女の子が主人公の読みやすい小説と一括りに、「ライトノベル」と呼ばれるようになった。同人ゲームの、Type Moonの「月姫」が大きなブームとなり、ついに会社となってプロとなったのもその頃だっただろうか。
靖男は大学を卒業して記者となると、漫画は読み続けていたが、アニメはあまり見なくなった。「おジャ魔女どれみ」位だった。PC18禁エロゲーもさほど興味を持っていなかった。しかし、たまたま足を運んだSOFMAPで、龍乃巣の『フォークソング』を見かけた。パッケージの女の子の絵が綺麗で、思わず買ってしまった。
面白かった。靖男が求めていた、「心温まるエロ」だった。イラストを描いていた小池定路さんを手掛かりに『終末の過ごし方』も買ってやった。
そして、Keyの3部作『ONE』『SNOW』『AIR』、Leafの『To Heart』等、有名どころにも手を出した。名が知れ渡っているだけあって面白かった。コンプリートするには随分時間がかかったが、仕事の合間に寝る時間を削ってやり続けた。
『家族計画』『Cross Channel』という、田中ロミオ作品も人気がある事を知らずにやって物凄く感動させられた。エロゲーで泣くとは思わなかった。つい、mixiで発信しようと思ったが、検索してみるともう多数の投稿があり、自分はもう時代遅れのおじさんになったんだな、と苦笑した。
そうして、休みの日になると日本橋に通う日々が続いた。東京に転勤になった時には、せっせと秋葉原に足を向けた。
『グレンラガン』が放映され、アニメーター系同人誌に興味を持った。盆暮れにコミケに行く時間も体力もないので、随分な高額を設定するもんだとボヤきながら、「とらのあな」で購入し、原画マン達の筆致の凄さに驚かされた。
そして今、海外からアニメ関連のグッズを買いに、多くの人が海外から秋葉原に押し寄せている。テレビをつければバラエティー番組で『ONE PIECE』のクイズをしたり、国営放送でもジブリの特集をしたりしている。週末のローカルニュースでは、必ずと言っていいほど、どこかで催されているアニメとコラボしたイベントのニュースが取り上げられている。カラオケの歌唱勝負番組では、必ずと言っていい程、エヴァの『残酷な天使のテーゼ』や『魂のルフラン』が課題曲になっている。
しかし、最近、ロリコン漫画、いや、今はもうそうは呼ばれてはいないのだろう、カタカナで「エロマンガ」だろうか、の話は、とんと耳にしなくなった。18禁のPCゲームの話も聞かない。自分が疎遠になったからだろうか。代わりにネットの中、PIXIVなんかで素人玄人混在となって愛らしいイラストが次から次へと見ている内に上がってくる・・・
そんな時代になっているんだ。『おたく』は消え、『オタク』が堂々と表舞台を歩んでいる時代に。
「杏奈ちゃん、自分が高校生の頃はね・・・」
「あ、そういう話をすると、もうおじさんですよ」
「まぁそうだな。でも、自分にしてみれば、ほんの少し昔だった気がする・・・自分も、いわゆる『おたく』だったんだ」
「そうなんですか!その頃の『オタク』ってどんな感じだったんですか?」
「う~ん、一つ一つは小さな火だったかも知れないが、狭い場所に集まって、熱い炎になっていた、って感じかな・・・フォービズムのように後ろに隠れた色で、絵具で魂をキャンバスに叩き付けろ!ラファエロ前派みたいに旧来のアカデミズムに囚われない道を進め!印象派の如く見えない光をキャンバスに描け!キュビスムのようにあらゆる角度から対象を捕らえろ!シュールレアリスムみたいに日常だと思っている事を疑問に思え!ダダイズムの如く、絵具に捕らわれるのではなくあらゆる素材を画材にしろ!・・・って、分かるかな?変な例えで」
「印象派とシュールレアリスム、って所で、絵の話かな、なんて思いましたが・・・」
「すまない。つい、あの頃の話になると、ほんの少し前の事だと思って、熱くなってしまう」
「そうですよね。私も中学生の頃の事、昨日みたいに思います」
「自分が高校生だった頃と言えば、杏奈ちゃんはまだ生まれてなかったんだな」
「そう言えばこんな話、知ってます?ハツカネズミはその短い命の間、人間と同じ位に、ネズミとしてのレベルですが、情報を蓄えるんですって。そう考えてみると、人間も80歳まで生きるっていいますが、それまで生きて来た年月に比例して思い出がある、とか」
「あぁ、40歳の人の20歳頃の思い出ってのは、20代の小学生位の思い出と同じ、っていうヤツかな?杏奈ちゃんは、小中学生の頃の思い出を、鮮明に覚えているのかな?」
「もちろんです!例えば・・・」ふと、杏奈は、幼馴染みの健次くんが中学に入って暫くして家に引き籠っている時に、健次くんのアソコを、自分のアソコに入れようとした事を思い出し、恥ずかしくなって頭をブルブルと振って、それは言っちゃダメだ、と思い、
「・・・そうですね・・・幼馴染みの男の子が、少し前みたいに桜が満開の時、燕が飛んでいた、って言っていたんです。そして、『つばめ桜 入学式の 親子かな』って、俳句を詠んだんです。・・・あれが、私が字に携わりたい、と思ったきっかけだったかもしれません」
「いい思い出だね」
「はい・・・あ、中原さん!また煙草に火をつけた!」
「ごめんごめん。どうも杏奈ちゃんとの話が面白くってね」
「もう!本当に、それが最後の1本ですよ!」
「わかりました」冗談めかして靖男は答える。
その時、事務所の電話が鳴った。珍しい。一応オフィスではあるのだが、所長である靖男も気が向いた時に、週に2、3度来る程度だし、そんな所に電話をかけてくる人なんと殆どいない。
「はい、中原報道事務所です」杏奈が受話器を取った。
「・・・はい、少々お待ちください」杏奈は受話器の話す側を手で押さえ、
「所長に『タンゲシタナカウチ』さんからです。変な名前ですね、本名なんでしょうか?そう言えば、一週間前にもかかってきていました。中原さん、いえ、所長は不在と言うと、すぐに切れちゃったので、いたずら電話かと思っていました」
「そういう些細な事でも報告してくれなきゃ困るよ。丹下下中内、って名乗ったんだね?」
「はい」
「子機に転送してくれ」
「分かりました」
吸いかけの煙草を灰皿でねじり消し、靖男は子機を持つと、事務所の奥に向かった。
暫くして戻ってくると、
「少し事務所を空ける事になる。留守番、お願いする」と言った。
「いつもの事じゃないですか?」少しその言葉に驚きながら、杏奈は答えた。
「それよりもう少し、来る間隔が長くなるかも知れない、って事だ。そう言えば、みんなから何か連絡は入っているか?」
「いえ、最近はみなさん静かです。定期報告も殆どありません」
「そうか・・・『神は天にいまし 世は全て事も無し』か」
「?」
「ロバート・ブラウニングの詩の一節だ。平和過ぎて、ジャーナリストが食いっぱぐれる、って事だ」
「・・・はい・・・」
靖男はライナーを外したトレンチコートを着て、ハンチング帽をかぶり、事務所を出た。特にケチをしている訳ではないが、タクシーは使わず、市バスに乗った。
「ツギハ、カラスママルタマチ、カラスママルタマチ、デス」録音されているアナウンスが、機械のようにバスの中に響く。
市バスは、新緑に映え始めた御所の横を通り過ぎていく。御所を目にするのは、京都に住んでいるにも関わらず、久し振りだ。
蛤御門の次の門、名前は憶えていないがそこは、葵さんと何度となくくぐり、歩いた門だ・・・。
・・・葵さん・・・
靖男は、心の中で呟いた。
・・・どうしていますか・・・自分は偉そうに「一発ヌいた後でも感動出来るエロ小説を書く」なんて言っておきながら、しがないジャーナリストをやっています。まぁ、かろうじて文字に携わっているってところでしょうか・・・
京都に国際マンガミュージアムが出来てから、全国に随分沢山の漫画の図書館が出来ましたね。そこの何処かで働いていらっしゃるのでしょうか・・・不思議ですね、あんなに楽しくて、口には出しませんでしたが『好き』だったのに、こうして偶然御所の横を通るまで、ぽっかりと忘れていました・・・
葵さんも、自分の事は、もう忘れていらっしゃるのかもしれませんね・・・
きっと、叶わない夢でしょうが、一度でいい、洒落たイタリアンなんかじゃなくって小さな居酒屋で、日本酒を酌み交わしながら、あの、御所で別れた日からの事を語り合ってみたい。葵さんが、そっと一合桝に口を付けて、ちょっぴり日本酒を飲んで頬を赤らめる姿が目に浮かびます・・・
「一つ空の下 繋がっている」なんてクサい台詞ですが、そんな気がします・・・何かのきっかけで、葵さんも自分の事を、ほんのちっぽけでもいい、思い出してくれたら・・・
市バスは御所の緑を後ろに置いて、ビルの中を走っていく。
靖男は、京都駅で降り、東へ向かう新快速に乗った。
完)