第7話 帰還
一瞬の浮遊感。直後、ヴァルの体は座席に強く押し付けられた。
海底が一瞬で後方へ遠ざかる。
数多の水泡が次第に速度を増して流れ去る。
メカニカの速度によって、ヴァルの視野と意識は一点のみに絞られていく。
只々、見据える真正面……海面だけが世界の全てになる。
海がネイビーブルーからコバルトブルーへ、そして眩いシアンブルーへと変わる。
そして、水の向こう側が見えたと思った瞬間、視界が白く激しく泡立ち……消える。
浮上。
古代のメカニカは海面を突き破り、宙へ躍り出た。さながら、古代の鯨がそうしたように。
海は青く、空もまた青い。追随する水飛沫が陽光に煌めき、その一瞬を強く眩しく彩った。
ヴァルは見た。
『空』は遠く、『海』すら遥かに遠く、『陸』など見えもしない。
そしてそれら全てがごく小さく見える中、只々広大な空と海が水平線の果てに融け合っていた。
永遠にも思える一瞬がヴァルに焼き付いた。
次の瞬間、古代のメカニカは再び海面を突き破り、海の中へと体を沈めた。
第7話~帰還~
それからヴァルが古代のメカニカの操縦に慣れるまで、少しばかりの時間を要した。
逆に言えば、少しばかりの時間のみでヴァルは古代のメカニカを乗りこなすようになっていたのである。
初めこそ少女の手がヴァルの手を支えながらの操縦であったが、今や少女はただ、ヴァルの様子を見ているだけとなった。
古代のメカニカは、まるで空を飛ぶように海を泳いだ。
ヴァルが行きたいと思った方向へ、そう思った瞬間に移動できる。古代のメカニカはあまりにも自由だった。
「古代人って、どういう頭の作りしてたんだろうな」
独り言のつもりで呟いたヴァルは、少女に覗きこまれて苦笑した。
「いや、すごいな、って思ってさ。どうやったらこんなメカニカ、作れたんだろうな……」
ヴァルはそう言って、古代のメカニカ技師達に思いを馳せた。
ヴァルにとって『学ぶ』ということは、海の底から拾い上げたメカニカの欠片を分解する事であり、海の底から幸運にも引き上げることができた古代の書物を読み解くことであった。
生きる為の必要最低限以上の事を誰かに『教わる』ということなど当然のように経験が無かったし、誰かと意見を交わすことも、協力して1つの物を作り上げることも、ヴァルは知らない。
『海』の『魚』達はヴァルのように書物を読んだり、貴重なメカニカの欠片を分解したりする余裕など無かった。『学ぶ』余裕がある者は希少であったのだ。
であるからして、ヴァルは古代のメカニカがどのように作られたのか、或いはメカニカを作り上げた古代の技師達が何をしていたのか、想像することができなかった。ただぼんやりと、メカニカのパーツを取り扱う人を想像しただけであった。
だが、ヴァルの想像の中のメカニカ技師達はヴァルより優秀で、ヴァルより優れた人々だ。
だからこそ、ヴァルは疑問に思う。
「なんで、滅びたんだろうな」
優秀であったはずの彼らは、何故、文明を、技術を、途絶えさせたのか。
何故、海は『死の海』と化したのか。
そして、彼らはどこへ行ってしまったのか。
ヴァルは無意識に、海面のその先を見上げる。
少女はそんなヴァルの想像図を知ってか知らずか、空を見上げる事も無く、只々ヴァルを見つめていた。
ヴァルは古代のメカニカを動かしながら、さて、これからどうしようか、と考える。
『どうしたいか』なら、簡単だ。
『空』へ行きたい。
その為にこの古代のメカニカを『海』へと運び、一度点検して補修が必要なら補修して、改造が必要なら改造する。そして『空』へ向かうのだ。
加えてヴァルは、この古代のメカニカと少女について、調べてみたかった。
古代のメカニカの詳細は分からないままだし、少女の正体は曖昧なままだ。もしかしたら古代の書物を探せば、ヒントになる情報があるかもしれない。
だが、ヴァルはそうできない。
このメカニカはヴァルのものではない。
そしてこのメカニカの所有者であろう少女を、危険に巻き込む訳にはいかないのだ。
このメカニカがあれば、『空』を再び目指すことは容易いだろう。
だが、願ってはいけない夢があることもまた、ヴァルは知っていた。
……しかし。もし、少女が許してくれるのならば。あわよくば、少女が同じことを願ってくれるのであれば。
ヴァルはそんな期待を抑えて、少女に尋ねた。
「君はこれからどうするんだ?」
『海』は遠いが、この辺りからならなんとか、泳いで『海』まで辿り着けるだろう。その自信がヴァルにはある。
だから、もしここで少女と別れることになったとしても大丈夫だ。そう、自分自身に言い聞かせながら、ヴァルは少女の返事を待つ。
少女は目を瞬かせて、首を傾げて、ヴァルを不思議そうに見つめる。
そして、さも当たり前、とでもいうように答えたのだ。
『おまえについていく』
予想より期待に近かった回答にヴァルが面食らうと、少女はさらに続けた。
『人間の居るところへ行きたい』
そう言いながらも特に表情を変えるわけでもない少女を見て、ヴァルは考える。この少女はこれでも現状を心細く思っているのかもしれない、と。
思えばこの少女には動じるところがまるで見受けられないが、少女は今、自分の知らない世界に居るのかもしれないのだ。
どんな事情かは分からないが長い時を眠り続け、遠く離れた時代に来てしまったのだとしたら……見ず知らずのヴァルを助け、更にはついて行きたくもなるのかもしれない。状況から考えて、少女が知る今時代の唯一の人間がヴァルなのだろうから。
少女の瞳は真っ直ぐにヴァルを見つめている。決して、縋るような目ではない。ただ、ひたすらに真っ直ぐなだけで、むしろ何の色も無く、何の感情も篭ってはいないように見えるような眼差しだ。だが、ヴァルはその真っ直ぐさに、どこか哀しさを見出した。
「そっか。……でもな、危険だぞ」
じわり、と胸を締め付けるような哀しさを感じながら、ヴァルは少女に言い聞かせるように、それでいて少女を必要以上に傷つけないように、少女の夢を壊さないように、言葉を選んでいく。
「このメカニカはこの時代じゃ、珍しいものだ。奪おうとする人が大勢居る」
『海』の『魚』達が拾い集めたメカニカの欠片が『陸』の人間達に買われることからも明らかなように、古代の遺物はその欠片であっても十分な価値を持つ。
現在では作ることができない部品、現在では失われた技術の結晶。それがメカニカのほんの一欠片に宿るのだ。
ならば、欠片などではない、丸のまま、動くまま、生きたまま残っていたこの古代のメカニカは一体どうなるか。
想像に難くない。もしこのメカニカが『陸』の人間に見つかれば、抵抗することもできない内に奪われてしまうだろう。そして『海』の人間に見つかっても同じことだ。日々の暮らしにすら困窮する者達のことだ、メカニカを解体して売りさばこうとすることは間違いない。
「それに、君も。珍しがられて……狙われると思う」
海の底からやってきた少女など、『陸』の人間にとっては、研究の対象でしかない。ヴァルには想像がつかないが、決して良い扱いはされないだろう。
更に、娯楽が少ない『海』の人間にとっては、より酷いものの対象にすらなり得る。少女はあまりにも美しいから。
何にせよ、『生きた遺物』を欲しがる人間は間違いなく多い。少女も古代のメカニカも、下手に『海』へ連れ帰れば、酷いことになるだろう。
「俺も君の身の安全を保証はできない。それからきっと、君が見たいものは『海』には無い。見ない方がいいと思う。……それでも、『海』に行きたいのか」
ヴァルは少女に確認した。言葉を選んだり、詳細をぼかしたりこそしたが、嘘はつかなかった。ヴァルは少々突き放すような言い方になったとしても、むしろその方がいいと思った。少女の弱味につけ込むようなことはしたくなかったのだ。
『私は知りたい』
だが、少女は相変わらず表情一つ変えずに言う。
『私が眠る間に、人間はどうなったのか』
少女の瞳は強い意思を宿して、真っ直ぐに『海』の方を見ていた。
『知らなければいけない』
「……分かった。君を連れて行く」
ヴァルは結局、そう言った。
「君がそうしたいって決めてるなら、止めない。俺は手伝うよ」
答えたヴァルに打算が無かったと言えば嘘になるだろう。
古代のメカニカが自分から離れずにいるかもしれない可能性に、ヴァルは後ろめたい喜びを感じないでもなかった。
『空』へ近づくために少女やこのメカニカの協力を得られるかもしれない、と、考えないでもなかった。
だがそれ以上に、ヴァルは少女に自身を重ねていたのだ。
ヴァルが少女に見たものは自分だった。止められても、自分を犠牲にしてでも『空』に行きたいと望んだヴァル自身の姿だった。
行ったところで何かが変わるわけでなくても、望むものがそこに無かったとしても。それでもヴァルは『空』に焦がれたのだ。
少女が『海』へ行くことで危険な目に遭い、決して美しくないものを見るとしても、それでも少女がそう望むなら、ヴァルは少女を助けようと思った。
ヴァルは少女を通して自分自身を否定することはしたくなかったのだ。
或いは少女を、メカニカを手に入れるための道具などではなく、古代の人間であることも関係なく……仲間として、理解者として、望んだ。
今まで『陸』は勿論、『海』の仲間たちにすら理解されなかった、自分の中にある衝動を。『空』への、恋にも似たこの感情を。
少女は理解してくれるような気がした。
「ええと、でも、君はともかく、このメカニカは『海』に持って行くわけには、いかないよな」
ヴァルは期待を押し殺しながら、今考えるべき事を考える。
少女はまだいい。彼女自身が動ける。危ない目に遭っても逃げる事ができる。だが、メカニカはそうはいかない。このメカニカを『海』へ運べば混乱を招く。隠しておく場所でもあれば話は別だが、ヴァルにはそんな場所は思いつかなかった。
それでも必死に考えるヴァルを見て、少女は首を傾げる。
『ここへおいていけばいい』
続いて聞こえた声に、ヴァルは戸惑う。
「ここに……って、海の中に、か?」
冗談だろう、と言わんばかりのヴァルの声に、しかし少女ははっきりと頷いた。
確かに、『海』からすら遠いこの辺りであれば、『魚』とてそうそう近づくことは無いだろう。
だが、それは同時にヴァル自身も近づくことが難しい、ということだ。
……しかし、ヴァルは同時に思う。
『鯨』という二つ名を得た自分だけが辿り着ける、ギリギリの距離。その海にこのメカニカを隠すのならば、或いは、と。
どのみち他に道は無い。ヴァルは意を決して、少女に尋ねた。
「君、泳げるか?」
少女ははっきりと頷いた。
ヴァルは少女の手を引いて泳いだ。そういえば昔、こうしてミラの手を引いて泳いだことがあったか、と、ヴァルは幼い頃の自分を思い出しつつ水を掻く。
メカニカ・フィンを着けずに海を泳ぐのは久しぶりだ。それこそ、まだ幼かった頃、海に潜り始めてすぐの頃ぶりの出来事であった。
だが、ヴァルは『鯨』だ。メカニカ仕掛けの鰭が無くとも、十分速く、力強く泳いだ。潜ってメカニカの欠片を引き揚げるのでもなく、ただ『海』へ帰るためだけに泳ぐには十分すぎる程だ。
そして少女もまた、それなりに達者に泳いだ。しかし、どこか動きがぎこちない。少女には『泳ぐ』という知識があり、かつ、知識を利用して体を動かす能力も備わっているのだろうが、『泳ぐ』という経験自体は碌に無いのだろう。ヴァルは少女の様子からそう察し、そんな少女を気遣いながら泳いだ。
2人が海上に顔を出すと、『海』が存外近くに見えた。鋼と廃材でできた海岸がはっきりと見える。
「ほら、これが『海』だ」
ヴァルは少女を支えて立ち泳ぎしながら『海』を示し、少女に言う。
少女はかすかに目を見開き、じっと、『海』を見つめた。
まるで、この光景を目に焼き付けようとしているかのように。
「そろそろ行こう。あまり海に長く浸かってると体に悪い」
ヴァルは『海』を見つめる少女を促して、『海』へと再び泳ぎ始める。
少女はほんの少しばかり戸惑いの色を浮かべた瞳を閉じ、ヴァルの後をついて泳ぎ始めた。




