第5話 生きた遺物
ヴァルはそう多く、シータシアの飛行機能を体験したわけではない。
シータシアが飛行するためには、貴重な燃料を消費する。それだけでなく、更に貴重なメカニカの耐久性をも削る。
シータシアがそう長い距離を飛行できないのも、ヴァルが飛行訓練を多く積めていないのも、結局は『海』の『魚』故の物資不足が原因だった。
よって、シータシアは宙で数度、ふらついた。空を飛ぶという動作は、ヴァルが今まで体験したあらゆる動作と異なるものだった。
だが不安定な挙動は初めの内だけだった。
一度、体勢が安定すれば、あとはシータシアに組み込まれた姿勢制御装置が働く。そしてヴァル自身が宙の感覚を掴んで、安定した操縦ができるようになっていた。
シータシアのゴーグル越しにヴァルは『空』を見上げる。
『海』から見たよりも遥かに近い『空』は、それでも尚、遠かった。
第5話~生きた遺物~
シータシアが安定して『空』を目指すようになる頃には、『陸』もまた動いていた。
ヴァルにとって今日が運命を変える日であるならば、それは『陸』にとっても同じことである。『陸』にとって今日は、『海』からの侵入者を許した忌むべき日であった
『陸』では各種のメカニカが動き、光線銃を空へ向けて放った『陸』の管制塔にして『空』の警備塔であるスカイ・センターは、『海』からの侵入者を殺すべく、『陸』の武力を総動員して攻撃を開始した。
ヴァルのすぐ横を光線が通り抜ける。
幾本もの光線は、地上の各種メカニカが放つものだ。
それらを逐一見て躱すことなどできない。振り返ることなく『空』だけを見据えるヴァルは、勘と運に頼って動きながら、できるだけ照準を合わせられないようにするしかない。
幾らかは光線銃が命中するが、防護フィルムはまだ保たれている。シータシア本体へのダメージは軽微であった。
ヴァルは唯一、実弾兵器による攻撃を警戒していた。防護フィルムは光学兵器のみに対応した装備であったし、実弾を防ぐ装甲は重すぎる故に空を飛ぶシータシアには搭載できなかった。実弾の前には、シータシアはあまりにも脆弱である。
しかしヴァルの心配は杞憂に終わった。どうやら実弾兵器は動員されなかったらしい。
『陸』の地上において実弾兵器が使用されれば、ヴァルに全弾命中しない限り、『陸』の何かしらかを傷つけることになる。それが『陸』の人間になるかもしれない以上、『陸』は地上、それも市街地の中心では実弾兵器を滅多に使えない。
そして今、『空』へと向かうヴァルに対しても同様に実弾兵器を使いにくい状況であった。
ヴァルは今にも実弾兵器の射程範囲外へ出ようとしているところである。ならば射程距離に限界のある実弾を使うよりは、射程の長い光学兵器によってシータシアの防護フィルムを削りきり、着実にダメージを与えた方が良い。
一方ヴァルは、煙幕弾や廃オイル弾を地上へ投げ捨てながら『空』へと飛翔していた。
煙幕は光学兵器の照準を狂わせるのに役立ち、廃オイルは地上に散乱して混乱を巻き起こす。これらはアナロジカルながら、確実に『陸』の戦力を割くことに成功していた。
そうして上へ上へと進むヴァルの目の前に、鈍色に輝く巨大な物体が迫る。
遥か古代よりそこに在るとされ、そこに『神』が在るとされる、巨大なメカニカの浮島。
『空』であった。
『海』から見上げた『空』は、大気の層に薄く霞んで薄青く輝いて見えるのみであった。
しかし、『陸』から更に近づいて見る『空』は、確かな質量を持ってそこに存在する、鋼の塊だ。
鈍色の重々しいそれを見て、瞬間、ヴァルは『海』を思い出した。
『海』でヴァルが幾度となく目にし、幾度となく引き揚げてきたメカニカの欠片。あれらの鈍色の輝きは、間違いなく『空』と同種の物であった。
今までのヴァルにとって、『空』はあまりにも遠い存在だった。しかしヴァルは今まで『海』で、海の底で、『空』と同種の物に触れて生きてきたのだ。
それに気づいた時、ヴァルは歓喜とも畏れともつかない寒気のようなものを背筋に感じた。
『空』は、死の海に沈んだ無数の遺物が、確かに生きていた時があった事の証明でもあったのである。
ついに『空』が迫る。
『陸』からの攻撃は止むことが無かったが、奇跡的にシータシアはなんとか耐えていた。防護フィルムもまだそれなりに持っている。
ヴァルは思う。今なら神に祈ってもいい。今にも手が届くメカニカの塊は、静かにそこに佇んでいる。ここまで来たのだ、あと少し、どうか。
シータシアの腕が伸びる。
そして、メカニカ仕掛けの指先が、『空』に、触れた。
瞬間、音のような、衝撃のような何かがシータシアを襲った。
体勢が崩れる。
予期せぬ事態に、しかし冷静に体勢を立て直すべくシータシアを動かすヴァルの耳に、聞き慣れないノイズが届いた。
「……うこ……、ほ……くを……」
ザリザリ、と砂を掻くようなノイズの中に誰かの声らしい音が混じる。
音の出処に気付いたヴァルは、背筋に寒気を覚えた。
シータシアの外から聞こえてくる音ではない。
これは、シータシアの内部スピーカーに届いている音だ。
「……ス、ほ……を……」
「お前は誰だ!?」
止まないノイズとその奥に聞こえる声に、ヴァルは問いかける。
シータシア内部には粗末ながらも無線機器が備え付けてある。相手がこちらの声を拾えたならば、対話の余地はあると踏んだのだ。
「……で……は……」
「ノイズが酷くて聞こえないんだ!……ああくそ、なんでこんなに……」
だが、ノイズに掠れて、相手の声は聞こえない。これではヴァルの声が届いているかも不確かだ。
「俺はヴァル!『海』から来た!お前は……」
それでもヴァルは、マイクに向かって話し続けた。
「お前は、神か?」
しかしそれきり、スピーカーから声が聞こえてくることは無かった。
ノイズもまた、ぷつり、と途切れ、シータシアは静寂に包まれる。
茫然としながら『空』を見上げ直したヴァルの目に、太陽の如き光が映る。
「……はは」
ヴァルは乾いた笑いを上げ、シータシアを全力で動かした。
「祈りなんて、するんじゃなかったな」
きらり、と一瞬強く瞬いた直後、光が膨張した。
『海』にもその光は届いた。
メカニカの欠片を収穫して海からでてきたばかりのミラの目にもその光が見える。
遥か遠く、いつも薄青く霞んで輝く『空』が、強く輝いていた。
破壊の光は『空』の下を焼き尽くさんとばかりに強く輝き、そして、薄れ、消える。
『空』から放たれた古代の光学攻撃が止んだ直後、今度は『陸』から無数の光線が飛ぶ。
『陸』から放たれる光線は『空』付近を、次第に『空』から離れていく一点を追いかけるようにして飛び続ける。
「……ヴァル」
ミラは空に飛び交う光を見て、ただ呟いた。
シータシアは制御を失っていた。
『空』の攻撃の中心はなんとか外れたものの、受けたダメージは甚大。防護フィルムは一瞬で焼け落ち、飛行機関も『陸』からの攻撃に撃ち抜かれた。
「……くそ!」
遠のく『空』をちら、と見て、ヴァルは舌打ちしつつ撤退を決めた。
飛行機関の一部を失い、高度を保てなくなったシータシアでは、再び『空』へ戻る事は難しい。
それどころか今は、生きて帰還すること自体が難しかった。
『陸』から執拗に放たれる光線は間違いなくヴァルを狙い続けていたし、そもそもシータシアの飛行能力が、果たしてどれほど持つか。この高さから落下すれば死ぬことは決まりきっている。
ヴァルは始めから生きて帰るつもりは無かった。しかし、『空』に碌に到達もできないまま死ぬつもりも無かったのだ。
ならば、もう一度、機会を待つしかない。
機能が失われつつあるシータシアを動かして、ヴァルは『空』から離れる。
それすら許されなかった。
一瞬の出来事であった。ヴァルからすれば、何が起きたのかすら分からなかった。
ただ、先ほど『空』から発せられた、音とも衝撃ともつかない何かが、今度は『適切な』出力を以てしてヴァルを攻撃した。それだけの事である。
シータシアは完全に制御を失い、無抵抗に吹き飛ばされた。
ヴァルは朦朧とした意識の中、静寂と冷たさを感じた。
海だ、とヴァルは思う。
冷たく澄んだ水。沈んだ鋼。
どうせ死ぬなら、海で死ぬのは悪くないかもしれない。
そう思いながら、水に包み込まれて沈んでいく中、ヴァルは見た。
それはそこに在るはずの無い1対の瞳だった。