第4話『陸』
汚水の中は海とは勝手が違う。
海の水は透明だ。深さにもよるが、大抵は海の底まで光が通る。
しかし汚水は濁りきっているために光が全く通らない。更にはパイプの中に入ってしまえば、それこそ一条の光すら届かぬ暗闇になる。全く何も見えない暗さは、海の底の比ではなかった。
そして何より、汚水のパイプの中は狭い。広大な海でのように自由に泳げるわけではない。ほとんどヴァル1人分の幅しか無いパイプの中を、ひたすらまっすぐ泳ぎ続ける。
視界は利かず、体は自由に動かせない。ヴァルは自分が進んでいるのかどうかすら曖昧になる中、それでも水の感覚を頼りに泳ぎ続けた。
やがて、水の流れが変わる。
ヴァルが泳ぐパイプに、正面からだけではなく、斜め前方から、時折水が流れてくる。連結された他のパイプの汚水が統合されているのだ。
ヴァルは数度、その感覚を拾う。
右斜め前から。次は左斜め前から。次はまた右。
進むにつれて、パイプが連結されている頻度が高くなる。中央に近づいているのだ。
そしてヴァルは、予めトーレムに教えられていた回数だけパイプが連結されていたことを確認すると、ついにその枝分かれした一本へと進路を変えた。
より狭くなったパイプの中、ヴァルは泳ぎ続ける。
度々、徒に水の流れが変わる中を慎重に泳ぎ、進み、そして。
『陸』の中心に程近い場所。その地面にごく当たり前に存在しており、それでいて存在をほとんどの人間に忘れ去られていたマンホールが、動く。
吹き飛んだマンホールの蓋が、けたたましい音を立てて道に転がる。道行く人々が注視する中、マンホールから現れたのは、古代のものであるかのような、メカニカの塊。
人の形をした、義肢とも鎧ともつかないメカニカは、マンホールから這い出すと、地面を踏み、立ち上がった。
人々が異常事態を察知して逃げ惑う喧騒の中、メカニカの頭部が静かに上を向く。
『陸』から見る『空』は、『海』から見るより大きかった。
ヴァルは遂に、『陸』へと到達した。
第四話〜『陸』〜
最初にヴァルは、ジャミング用のメカニカを起動させた。
ここから『空』までは隠れる場所もない。少しでも敵を増やしたくはなかった。
立て続けにダミーのブザーのタイマーをセットして、マンホールの中に投げ入れた。
これで下水の中をブザーが流れ、ここから離れた場所で警報音を鳴らしてくれるだろう。気休め程度だが、やらないよりはましである。
ヴァルはここでようやく、『陸』を見た。
美しかった。
罅割れも、錆付きもしていない建物が整然と並び、『海』ではほとんど見ることのできない植物が美しくその緑を茂らせている。緑の中に咲く花の名前は、ヴァルには分からなかった。
そして、人も同様に、整えられて清潔に保たれていた。
美しく整えられた髪。傷一つ無い肌。布を惜しげもなく使った服。
全てが『海』では滅多に見られないものだった。『陸』に紛れることを生業としているトーレムでさえ、この中に紛れれば多少の違和感を発するだろう。
『陸』の人々は、異形のメカニカを見てざわめいた。
それは未知への恐怖であり、好奇であり、そして、汚水に塗れたそれへの侮蔑である。
決して好意的ではない視線を数多注がれたヴァルは、シータシアのゴーグル越しに彼らを見返した。
遠巻きに見ている『陸』の人間達には、ゴーグル越しのヴァルの瞳は見えない。
だが、メカニカの首が回り、頭部の正面が確実に自分たちに向けられれば、流石に『陸』の人間たちも、『メカニカの中に居るであろう意思を持った何者か』の存在を感じる。
ヴァルは自らを取り巻く『陸』の人間達を睥睨し、こんなものか、と思った。
大した人間たちではない。
神に選ばれて『陸』に住まう人間達はさぞ素晴らしい生き物なのかと、思った日もあった。
だが、今、ヴァルの姿に怯え、ヴァルの視線に、意思に怯える彼らは、『海』の人間達と大して変わらない……ただの人間達であった。
変わらないなら、何故。
何故、神は『陸』と『海』を分かち給うたのか。
ヴァルは『空』を見上げる。輝く『空』はヴァルの真上をやや離れた位置にあった。
どうやら、出て来るマンホールを幾つか間違えたらしい。ヴァルは小さく舌打ちした。
だが十分、許容範囲内だ。『陸』の中心であるスカイ・センターは通りを数本分挟んだ位置にある。どうやらここは『陸』の中心からややずれた位置らしかった。
ここから飛んでも、なんとかならないでもないだろう。だがヴァルは安全を期すべきだと判断する。シータシアに不具合があった時の事を考えれば、飛行距離を極限まで縮めた方がいい。
ヴァルはシータシアの脚で地を強く蹴り、『陸』の中心に向けて走り出した。
『陸』は幾重もの守りによって安寧を保たれている。
町には警備員が常に配備されているが、これは『陸』の守りの一部でしかない。
例えば、町を監視・管理し、有事の際には光線銃を発砲する定置型メカニカ。
町を警羅し、人や他のメカニカの要請に応じて救助活動や戦闘行為を行う巡回型メカニカ。
これらのメカニカは、犯罪者があれば即座に捕縛できるように、それが叶わないならば、即座に殺せるように配備されている。
『陸』の真の守りは、メカニカによる管理と防護であった。
『陸』には『海』から回収されたメカニカの破片が集まる。それらは『陸』で組み立てられ、『海』に在るより遥かに多くのメカニカとなって『陸』を守るのだ。
定置型メカニカは『陸』の人々1人1人を識別・管理し、常に健康かつ安全に生活できるように補助している。
巡回型メカニカは『陸』の人間のちょっとした要望……道を尋ねるであったり、荷物運びの要請であったり、そういったものにまで応え、助けている。
そしてより大きな、大規模かつ高性能な……古代のメカニカそのものとも言われるメカニカが『陸』の中枢を支えているのだ、と囁かれてもいる。
このように、『陸』にはメカニカが多い。
『海』では考えられない程の数のメカニカが、『海』では考えられない程の性能を持って、そこかしこに配備されている。
「不審物を確認。サポート要請中。不審物を確認。サポート要請中」
そしてまさに今、ヴァルの目の前に立ちはだかっているのもメカニカであった。
尤も、ジャミングの効果か、はたまた防護フィルムによって感知が届かないのか、メカニカはヴァルを人間だとは感知していないようだった。
あくまでもシータシア、メカニカの言うところの『不審物』止まりであるらしい。
ヴァルはふと、生身の自分がメカニカの目前に立ったとして、その時自分は『不審物』ではなく『不審者』と言われるのだろうか、と、考えた。
「不審物を確認。サポート要請中。不審物を確認。サポート要請中」
『陸』の人間は、『海』の人間を人間とは思っていない。ヴァルはそのように扱われてきたし、そのように扱われる仲間達を、そしてそのように振る舞う『陸』の人間達を見てきた。
ならば。
自分はやはり、『陸』にとっては、『者』ではなくて『物』なのだろう。
メカニカの破片を海の底から拾い集めてくるための、メカニカと何ら変わらない、否、メカニカよりも価値の低い、『物』である。
そこまで考えたヴァルは、何故か低くこみ上げる笑いを抑えることもせず、シータシアの腕に組み込んだ武器を取り出した。
「不審物を確認。サポート要請中。不審物を確認。サポー……」
『陸』に久しく響かなかった、実弾銃の発砲音が響き渡った。
悲鳴と狂騒の中をヴァルは走る。
メカニカが如何に優れた性能を有していても、実弾銃に撃ち抜かれ、物理的に破壊されてはどうしようもない。
ましてや相手は、実弾銃が厳しく規制されている『陸』である。
『陸』で実弾銃を製造・保有することがあれば、即座にメカニカによって発見され、処罰の対象となる。
よって『陸』には実弾銃がほぼ存在しておらず……そのために、『陸』のメカニカの大半は、実弾銃への対策など、碌にしていないのだ。
ヴァルが実弾銃を発砲する度、メカニカが破壊され、狂った電子音をまき散らしながらその場で動かなくなる。
当たるを幸いに実弾銃を撃ち、その度に『陸』の何かしらかを破壊しつつ、ヴァルは走る。
走る脚が迷う事は無い。何故ならば、目印があまりにもはっきりしているからだ。
『陸』の中心、スカイ・センター。『空』に倣った名を関するそこが『陸』の中心である。
超高層の建物は、遠くからでもよく見える。よって、初めて『陸』に来たヴァルですら道に迷うことなく進むことができる。
走り続けたヴァルの視界が、急激に開けた。
立ち並ぶ建物が皆、一歩譲るかのように場所を開け、その空間がだけが一際広く、そして一際美しく整えられていた。
美しい庭園と、その中央にそびえるスカイ・センター。
『陸』の中でも特別なこの場所が、『陸』の中心であり、最も『空』に近い場所である。
「警告。侵入者はただちに武器を捨てなさい。この様子は記録されています。警告。侵入者はただちに武器を捨てなさい。この様子は記録されています」
スカイ・センターを守るメカニカから無機的なアナウンスが発される。
それと同時にスカイ・センター前の道が開き、中から多数のメカニカが現れる。
ヴァルが振り返れば、背後でも同様にしてメカニカが地下から現れてきていた。これがスカイ・センターの警備の一角らしい。
全方位をメカニカとメカニカの携える光線銃に囲まれたヴァルは、改めて『空』を見る。
また少し、近づいていた。
『空』は、ヴァルの頭上、ほぼ真上と言ってもいい位置にあった。
「警告。市民は避難してください。警告。市民は避難してください」
アナウンスと共に、メカニカの光線銃がチャージを始めた。どうやら『陸』の人間を避難させる必要があるような攻撃をヴァルに対して行う予定らしい。それにどのみち、全方位からチャージ済みの光線銃を一斉に撃たれれば、流石の防護フィルムも役に立たない。
ヴァルは意を決して、身を低くする。
「警告。侵入者はただちに武器を捨てなさい。この様子は記録されています。警告。侵入者はただちに武器を捨てなさい。この様子は記録されています」
無機的なアナウンスを聞きながら、ヴァルはシータシアのロックを幾つか解除する。
そして。
人間が筋肉を弛緩させてから一気に収縮させるように。
瞬間的に伸縮したメカニカの脚のピストンが、強く強く地面を蹴り、一気にシータシアを地面から引き離す。
続いて、宙に浮いたシータシアは、その構造を変化させた。
両腕と両脚、そして両肩と、人間における尾てい骨の両脇あたりから、翼めいたメカニカが現れる。
機械仕掛けの翼は一瞬唸ると、その内部に青白い光を灯す。
そのまま3秒ほど、宙に停滞しただろうか。シータシアはその4対の翼の光をより強くし、青白い光が周囲の人間達の目を灼くまでになり、そして。
轟、と強く激しい音と旋風、青い光の尾を長く残して、シータシアは『陸』から飛び立ったのだった。