第18話 月夜
翌日もヴァルと少女の海中作業は続いた。
2日目ともなれば、作業にも大分慣れてくる。1日目よりも効率よく作業は進み、そして、午後に差し掛かる頃には作業の大半が終了した。
組み立ての速さは、神がかった少女の技術によるものが大きかったが、ヴァルもそれなりに健闘したと言える。少なくとも、少女からの指示を待たずとも自ら動き、少女の意に沿って作業を助けることができたのだから。
少女はそんなヴァルに対して特に満足も不満も表さなかったが、ヴァルはなんとなく、何も言わないことこそがこの少女の表現なのだろう、と思った。
海中での作業は全てが終了すると、残る作業は内部の細かな調整のみとなる。
2人はメカニカの中に乗りこんで作業を進める。
「いよいよ、か」
少女と共に作業を行いながら、ヴァルはまるで湧かない実感を湧かせるために、敢えて口にした。
『空』へ行く。
最早その目標は脆く儚い夢物語などではなく、手の届く距離にある、実体のある標であった。
また、その標への道も以前とは違い、無謀と自棄によるものではなく、技術や経験によって舗装されている。
だから、こんなに『空』が近い。
これはヴァルにとって、不思議な感覚だった。
『空』は遠く、だからこそ憧れであり、希望であり、縋った。その『空』が、今やこんなにも近い。
しかし、憧れも希望も、失ったわけではない。近くなればなるほど、ヴァルは『空』へ抱く感情を少しずつ変え、しかし『空』を求める気持ちは強くなりこそすれ、弱くなることはない。
恋焦がれるかのように。或いは、憑りつかれたかのように。
第18話~月夜~
ふと、少女が作業の手を止めた。
考えるような素振りを見せた少女はやがて、声を発する。
『おまえは幸福ではないから『空』へ行くことを望むの?』
ヴァルはまず、珍しくも少女から話題が提供されたことに驚いた。
だが、さほど返答に時間もかけず、ヴァルは答えた。
「そうかもな」
『海』に絶望しているから。そして、『空』に希望を見ているから。『空』へ言ってもどうせ何も変わらないと思い、しかし現実を見ながらも現実逃避するように、まだ見ぬ世界に胸を躍らせた。
「でも、もし『海』での暮らしがそんなに悪くなかったとしても。俺、『空』へ行こうとしてたかもしれない」
ヴァルはごく自然に、そう口に出す。ただ、思った事を、そのまま。
少女はそんな返答をしたヴァルを不思議そうに見て、首を傾げた。
『なぜ』
「だって、見えてるんだぜ?『空』」
問いかけにヴァルは苦笑しながら、上を指さす。
「閉じ込められてたら外に出たくなる。知らないことがあったら知りたいと思う。俺だけじゃないはずだ。人間って、そういうもんだろ、きっと」
少女はゆっくりと目を瞬かせ、また声を発した。
『外が危険なこともある。知らない方がよいこともある。なのになぜ人間は、与えられたものを幸福だと思わないのだろう』
相変わらず、抑揚の薄い言葉の連なりに、しかしヴァルは、どこか不満げなような、苛立っているような、不安がっているような、そんな様子を感じた。
『幸福ではないから『空』へ行くのなら、幸福ならば『空』へ行くことはないはず』
「今日はよく喋るんだな、君」
ヴァルは少女に苦笑交じりの笑顔を向け、それから、自らに問いかけるように、脳内で言葉を1つ1つ繋いでいく。
そして、ようやく、少女への答えを出した。
「きっと人間は、永遠に幸福になれないんだ」
少女はかすかに目を見開いて、動きを止めた。
「ずっと足りないんだ。どんなに幸福でも、その先が見えちまったら、追いかける。まだ足りない、って思う。……単に俺に幸福が不足してるから、ってだけなのかも、しれないけど」
少女は固まったように動かず、何も喋らない。ただ、視線だけがヴァルに注がれ続けた。
「或いは……幸福を追いかけること自体が、幸福なのかもしれない」
ふと、ヴァルは苦笑でも自嘲でもない笑みを浮かべた。
自分で発した言葉を確かめるように一度、瞑目し、それから少女に向き直って、真っ向から少女の視線と視線をぶつけ合った。
「だから今、俺、幸福なんだと思う。明日が楽しみなんだ。こんなの、感じたことなかった」
ターコイズブルーの瞳の奥で、一瞬、弾けるように光が走る。
「君のおかげだ。ありがとう」
少女は目を一度だけ瞬かせ、そして、じっと考えるように、自らの手元へと視線を移し、じっと手元を見つめ続けた。
少女が再び、話題に言及することはなかった。
だが、作業を再開する中、そっと、少女は手をやり、自らの胸を押さえる。
答えはどこにも無かった。少女の知る全ての中の、どこにも。
夜。
バラック街を細い人影が足早に通り過ぎていった。
酩酊した男がその細い肩を抱こうとすれば、鋭く突くような蹴りを鳩尾に叩きこまれて蹲る羽目になる。
蹲る男を無視して足早に進むミラは、やがて目的地に辿り着くと、入り口に立っていたガードマンを無視して中に入った。
「トーレム、居る?」
呼びかければ、ミラの目的の人物、トーレムは椅子に座って足を組んだまま、ひらり、と手を振って応えた。
こうしてミラがトーレムの元を訪れるのは、ここ最近だけでもう数度目となる。
幾対かの視線が注がれる中、ミラは臆することなく部屋の中央に踏み入り、トーレムの隣の椅子に腰を下ろした。
「いよいよ明日だな」
飲むか、とトーレムが差し出した酒の瓶を、ミラはやんわりと断った。
「あなたから貰った物、しっかりシータシアに組み込んだわ。動作に問題なし。流石ね」
「ん、そうか」
代わりにミラは、卓の上にあった割材であろう炭酸水に勝手に手を伸ばし、中身をグラスに注いだ。
無遠慮な振る舞いだったが、トーレムはそれに文句を言うでもなく、むしろ満足気ですらあり、上機嫌な様子を隠そうともしなかった。
「……ヴァルは何か言ってきたか?」
「なーんにも。びっくりするくらいよ。私の事なんてどうでもいいんでしょう、あの『鯨』は」
ミラが吐き捨てるように言うと、トーレムは喉の奥で笑った。
「そうだな。あいつは何か1つに集中すると周りが見えなくなるバカだ。昔っからそうだ」
「……まあ、その馬鹿な『鯨』のおかげで稼げるんだから、文句は言えないでしょう。違う?」
「違わないね」
トーレムはいよいよ上機嫌な様子で、酒の入ったグラスを目の高さに掲げる。
「バカな『鯨』に乾杯!」
一同が銘々のグラスを掲げる中、ミラも黙って微笑んで、炭酸水のグラスをそっと、トーレムのグラスに打ち合わせた。
ヴァルはいつもの入り江に居た。
決まったように寄せては返す波の音を聞きながら、黒い海の輪郭を月の光が浮き上がらせる様子をぼんやり眺めていた。
少女は隣に居ない。少女は部屋で眠っている。ヴァルは1人、眠れずに外へ出たのだ。
緊張してもいるし、高揚してもいる。不安もある。だが、眠れない理由はきっとそれだけではなかった。
昼間、少女と話していた時のことを考えていた。
その内容についてもだがそれ以上に、少女の反応について。
ヴァルの言葉に固まっていた少女の姿は記憶に強く残っている。そして、会話の後にどこか上の空だった少女の様子も。
……酷な事を言っただろうか、とヴァルは思う。
どこか浮世離れしたような、少なくとも現代の人間とは幾分異なる古代の少女について、ヴァルは未だに分からないことだらけだ。表情に乏しく、言葉すら少ない。少女の内心を読み取ることはヴァルにとって、至極難しい事だった。
だが、少女のあの反応は、動揺だったのかもしれない。或いは、困惑か、怒りか、恐怖か。それすらヴァルには判然としなかった。
少女に言った言葉はヴァルの本心だった。
『人間は永遠に幸福になれない。追いかけることが幸福である』。ヴァルは本気でそう思っているし、そう思うことで救いを求めてもいるのかもしれない。せめて追いかけている間は幸福であれ、と。
その考え方が少女にとって馴染みのないものであったことは間違いないし、それによって少女を傷つけたかもしれない。
……嫌われてなきゃいいけど。
ヴァルはそう思い、胸の奥に棘が刺さったような気分になった。
ヴァルはもう1つ、少女の反応を鮮明に覚えていた。
少女の瞳の瞳に、光が灯ったようなあの瞬間。
少女に礼を言った時の、あの少女の表情。
何かに気付いたような、何かを知ったような、そんな顔に見えた。少なくともヴァルはそう思いたかった。
ヴァルにとって少女が希望であるのと同じように、少女もまた、ヴァルに何かを見出してくれたなら。
「……それも、幸福、なのかもな」
少女にああ言った手前、今更ではあったが。
ヴァルはもう1つ、自分が今まで見てこなかった幸福の形に、触れた気がした。
触れてしまった、気がした。
誰も居なくなった部屋の中で、トーレムは1人、酒を煽っていた。
明日未明、否、最早『今日』となる決行に備えて眠ることはしない。このまま夜を明かすつもりだった。
『陸』の酒は既に尽きた。それでも尚、『海』で愛飲されている、アルコールである事だけが取り柄の安酒でも構わない、と手を伸ばしながら、トーレムは昨日『協力相手』と話したことについて思索していた。
『陸』の人間は守られている。だがそれは同時に監視されているということであり、管理されているということである。
だから『陸』にだって自由は無い。
何所にも自由などありはしない。
そして、幸福だって、同様に。
トーレムはこの閉じた狭い世界の中で、他の人間よりマシな生活を送ることを求めた。何処にも最善が在りはしないなら、せめて少しでもいい生活を、と。
言うなれば、絶望を受け入れて生きていくことを決めたのだ。どうせここは碌な世界じゃないのだから、と。
賢い生き方だ。少なくともトーレム自身はそう思っている。
何処にも真の希望は無く、何所にだって絶望が蔓延しているこの世界で、真っ当に生きていこうとする奴は馬鹿だ。
ましてや、手が届くか、そもそも存在するのかすら危うい希望を追うなど。
「バカだよなあ、『鯨』」
敢えてトーレムは、ヴァルを二つ名で呼んだ。
それが彼なりの整理の仕方だった。
自室の地下で、ミラは口ずさんでいた歌を止め、工具を置いた。
シータシアは不足したパーツをなんとか補い、なんとか使用に耐え得る性能を取り戻していた。
元のシータシアから多少の見た目の差異こそ生じたが、ミラは満足していた。
ミラは多くの事を考えはしなかった。考えるべきことは既に考え終えた。伝えるべきことは伝えきれなかったが、最早そんなことはどうでもいい。
ただミラは、未明から起こるであろう宴に思いを馳せ、そっと、嗜虐的ですらある笑みを口元に浮かべた。
……ヴァルが知ったら、どんな顔をするかしら。
そう考えて、そして頭を緩く振った。ヴァルが知ることはないのだから、考える意味もない。
ざまあみなさいよ、『鯨』。胸の内でそう呟き、ミラは小さく息を吐くように笑う。
完成したシータシアに、満足げに手を触れて、ミラは今度こそ、口に出して言った。
「振られた同士、仲良くしましょう」
シータシアは当然、答えない。
それでもミラは満足気に、微笑みを浮かべた。
そして訪れた、太陽が未だ眠る時刻。
ヴァルは暗い水平線……空と海の境を眺めて、一呼吸した。
振り返る。
『海』を目に焼き付けるように、ゆっくりと見渡して、そして。
「行こうか」
ヴァルは少女と共に、海へと入っていった。
『空』へ行くため。