第14話 夢と利益と友情と取引
ヴァル達はヴァルの部屋に移動した。
ドアを閉め、暗い部屋に小さなランプを灯す。
そして一呼吸おいて、ヴァルは切り出す。
「知ってたんだな」
ミラはヴァルの言葉にため息を吐く。
「知ってたわ。昨日、トーレムが教えてくれた。どこかの馬鹿な『鯨』が『陸』の連中に目をつけられてる、って、ね」
トーレムなら情報を仕入れていてもおかしくない。ヴァルは納得しつつ、あの器用な男の情報網の広さに感服する。
「実際に少し、『陸』の人間が歩いているの、見たし、ね。流石にバラック街には入らなかったみたいだから、あんまり本気じゃないのかもしれないけど」
ミラが『陸』の人間を見たというのならば、やはり、喫茶店で時間を潰したのは正解だったらしい。ヴァルは内心安堵しつつ、しかし安堵し切れない状況に嘆息した。
「そうか。じゃあやっぱり今日は部屋に篭ってた方がいいな」
ヴァルの言葉にミラは一度口を噤んでから、改めて言葉を選ぶように言った。
「ねえ、ヴァル」
ヴァルと目を合わせずにミラはその先を続ける。
「今日じゃなくても。『空』へ行くのは無理よ」
「『海』にすら『陸』の連中が来たのよ?『陸』ではもっとでしょう?それに、一度見逃されたからって、次はそうはいかない。きっと見つかり次第殺される」
ミラの言葉は至極真っ当であった。
ヴァル自身も、『陸』に踏み入る危険を十分に考えていた。『海』ですら見つけられたのだ。『陸』で隠れ通すことなど不可能だろう。
「ねえ、もう顔が割れてるのよ?なのに、ただでさえもう失敗してるのに、警戒されてる最中につっこんでくなんてそんな馬鹿な事、しないわよね?」
ミラのどこか懇願するような声に、ヴァルは、流石に言葉を躊躇った。
行かない、とは言えない。
ヴァルはそれでも『空』へ行きたかった。
そして、『今すぐには』行かない、とも言えない。
時間を置けば『陸』の人間達を誤魔化す事はできるだろう。だが、ヴァルにだって、どのぐらいの時間が残されているのかは分からないのだ。死の海に潜り続ける『魚』は、ある日突然、死んでいく。ヴァルが明日、そうならない保証はどこにも無い。
だから、『空』へ行く。どうせ不本意に死ぬのだから、最後ぐらいは『海』ではないどこかで。
その思いは変わらず、曲がることもない。
そう思ってヴァルは、しかし言葉を発することはできなかった。
ミラの瞳は逸らされることなく、ヴァルを射抜かんばかりに見つめている。
瞳に湛えられているのは苛立ちのような怒りのような、しかし別種の何かである。ヴァルはそれに見覚えがあった。
「『空』へ、行くの?」
何も言わないヴァルにしびれを切らしたように、ミラが問う。
ヴァルはやはり、何も答えなかった。そしてそれこそが答えになる。
「……やっぱりあなた、馬鹿だわ」
ミラは頭を振って嘆くように呟くと、俯き、それから再び瞳に怒りのような苛立ちのような、鋭い光を宿してヴァルに詰め寄る。
「ねえ、ヴァル。『空』に何があるっていうの?此処には無い何か?此処に居ない誰か?神様?そんなものの為に死にに行くの?それとも死なずに済むなんて思ってる?」
強い語調とは裏腹に、ミラの声は震えた。言い募る言葉は募る思いを伝えきれない。伝わらない。伝わっても尚、理解されることはない。
ミラは悟った。どうしようもなく厚い壁が生まれていたことに。
「『空』で『鯨』が生きていけるはず、ないじゃない」
ミラの瞳に過った光は、希望に縋る絶望の色であった。
ミラは『魚』である。
長く、『海』で生きてきた『魚』であり、それ故にヴァルが『空』を目指す理由も、その思いも理解していた。
『海』には何も無い。食料も医療も無い。娯楽も無い。長く生きられる保証も無い。短い生涯が幸福であることもなく、漫然と日々を生きる為に行き、死んでいくだけの生活しかない。
それ故に『海』の『魚』は、『持たざる者』であると言える。
失うものすら何も無く、それ故に、『空』へ焦がれ、所詮は露と消える命と割り切って、死へ自ら足を踏み出すことができる。
合理的とも自暴自棄とも言えるその心は、ミラにも理解できた。
だが、ヴァルが『空』へ焦がれるのは必ずしも絶望だけが理由ではなかった。
そしてミラは、必ずしも『持たざる者』ではなかった。
ミラは、世界で唯一、失いたくないものがある。
しかしその存在に気付いた今、それはミラの手をすり抜けて行こうとしている。
もう手遅れだ。
ミラは瞑目し、暗く深い海の底に沈むように、絶望に沈んでいく。
自分は『鯨』を『海』に繋ぎ留めるものにはなれなかった。
「ねえ、ヴァル」
再び発せられたミラの言葉は先ほどの鋭さを失い、いっそ空虚なまでに穏やかな調子であった。
「その子も『空』に連れていくの?」
ミラの緑眼が、少女のターコイズブルーの瞳と交錯した。
それから、ふと、少女の瞳がヴァルに向く。ヴァルもそれに合わせて、少女に視線を向けた。
2人の間で視線が交錯し、そして、ヴァルの瞳がようやくミラへ向く。
「ああ。一緒に行く」
「そう」
ヴァルが見たミラの瞳は静かに凪いで、感情の波を感じさせなかった。
ヴァルの部屋を出て、歩きながらミラは思った。
ただ、「行かないで」とだけ言えばよかったのかな、と。
遅すぎる思いつきにミラは自らを嘲笑い、そしてふと、その笑みを寂しげなものに変えた。
バラック街へ歩くミラの足取りが変わることはなかった。
第14話~夢と利益と友情と取引~
ヴァルはミラの去った部屋で、思った。
ミラは言った。
再びシータシアで『陸』へ行ったなら、顔が割れている以上、すぐに見つかって殺されるだろう、と。
ヴァルもそう思うし、実際に『海』でも『陸』の人間達に狙われた。だから対策もするつもりだったが。
逆にとらえれば。
『何故、シータシアを装備していたヴァルが、シータシアを装備していない状態で、狙われたのか』。
シータシアの装備は、フルフェイスだ。
「……ちょっと、出かけてくる。誰か来ても絶対にドアを開けないでくれ」
ヴァルは少女に言うと、部屋のドアへと向かった。
『どこへいくの』
少女の声に、ヴァルは戸口で振り返り、言った。
「トーレムの所だ。『陸』についてなら、あいつが一番詳しい」
トーレムの住処は一定していない。
やっている事が事だけに、敵も多いトーレムは、住処を転々とすることである種の防衛としていた。
尤も、トーレムと利害が一致しない誰かが命を狙ったとして、トーレムと利害が一致する、より多くの人間が彼を守るだろうが。
「ここ……も居ないか」
だが、ヴァルはある程度、トーレムの住処の候補を知っていた。正確な居所が分かる訳ではないが、手あたり次第に訪問すれば、どこかでは行き会うだろう、と踏んでバラック街を彷徨っていたのだが。
「ってなると、どこだろうな」
ヴァルは未だ、トーレムを見つけられずにいた。
トーレムのことだ、ヴァルの知らない隠れ家に居る可能性だってあるし、『陸』に居たとしてもおかしくない。
無論、そうであったならヴァルにとってはお手上げである。ヴァルは嘆息しながらあばら家を出て、人探しを諦めかけた。
「さぁて、どこだろうな?」
だが、後方、あばら家の中から声を掛けられて、ヴァルは立ち止まり、渋い顔で振り返った。
「……居たのかよ」
「悪いね、随分珍しい『鯨』の様子が見えたもんでな。ちっとばかり観察させてもらった」
皮肉気ないつもの笑みを浮かべたトーレムはヴァルの前に立つと、ヴァルを見て、少々目を細めた。
「で、どうした。お前が俺を探すってことたあ、『陸』関係か?」
「まあ、そんなところ」
ヴァルが答えると、トーレムは大仰に肩を竦めてにやついた。
「ああ、昨日は随分とお楽しみだったみたいだもんなあ?……冗談だよ、そんな顔すんなって」
既にヴァルが『陸』の人間に殺されかけた事は知っているらしい。トーレムはヴァルにとってはあまり笑えない冗談を飛ばしつつ、どこか居心地悪そうに首を掻いた。
「で、『陸』の連中から匿え、ってことか?それなら悪いけど他を当たってもらいてえなあ、俺だって危ない橋は渡りたくねえ」
「いや、違う。聞きたいことがあるんだ」
ヴァルは声を潜めて、言った。
「『陸』の連中は、何で俺を狙ってる?」
「……は?そりゃお前、身に覚えが無いとは言わねえよな?下水処理施設から『陸』に上がった『鯨』は何所のどいつだよ」
「俺」
「分かってんじゃねえか」
ならこの話は終わり、とばかりにトーレムが両手を広げるが、それを遮るようにヴァルは言葉を続ける。
「いや、確かに俺は『陸』に行ったよ。でもその時俺はシータシアを装備してた」
トーレムはヴァルの言葉に眉を顰め、虚空を睨むようにして考える素振りを見せた。
「……確かに、な。あれ、フルフェイスだったな?」
「ああ。ゴーグルも片面透過だから、外側からは碌に顔が見えないはずだ」
「成程、な。じゃあ確かにおかしいっちゃあおかしいのか。『陸』に上がったのはシータシア。中身が誰かなんて、分かりゃしねえ。その通りだ」
トーレムは頷いて、しかし、首を傾げる。
「だがよ、そりゃあ、お前がシータシア着てた時の話だろ?『空』に辿り着く前にシータシア、破損してたんじゃないか?顔が見えればメカニカで撮影するぐらいはできるだろ」
「そんな性能のメカニカ、あるか?」
「それはお前の方が詳しいな。俺は生憎メカニカ馬鹿じゃねえんだ」
ヴァルはトーレムの説に懐疑的ではあったが、『そんな性能』のメカニカと海の底で出会ってしまっている以上、否定しきることもできない。
「……それともなんだ、他に心当たりでも?」
トーレムが覗き込むようにヴァルを見る。
「……いや」
だがヴァルは何か言うでもなく、目を逸らした。
心当たりが無い、と言ったら、嘘になる。だが、言うべきではない。
『誰か』が裏切ったのではないか、などと。
「で、お前、どうするんだ。まさかまだ『空』を目指すなんて馬鹿な事言うんじゃねえだろうな?」
「そのまさかだよ」
ヴァルの返答にトーレムは、ひゅう、と口笛を吹いて目を丸くして見せた。だがさして驚いているようでもない。恐らくヴァルがこう答えると踏んでの質問だったのだろう、とヴァルは思う。
「じゃあ、考えねえとな。お前の顔が割れてようが何だろうが、ぶっ壊れちまったんだ、シータシアは使えねえだろ?なら新しい手段が必要なんじゃねえか?」
そして、このセリフだ。トーレムは間違いなく、ヴァルが再び『空』を目指すと信じていたのだろう。そしてそのついでに金を儲けよう、という魂胆なのかもしれないが。
「ああ、悪いけど、それはアテがあるんだ」
金目当てだろうが何だろうが、『空』を目指すことを否定されはしなかった事にどことなく嬉しさを覚えながら、ヴァルはトーレムに謝る。
「は?シータシアはぶっ壊れたんだろ?」
「まあ……」
だが、手段の詳細を言うつもりは無かった。古代のメカニカの事が知れたら、少女もだが、トーレムをも巻き込む恐れがあるのだから。
「……やっぱり言えねえ、ってことか」
「ごめん」
改めてヴァルが謝ると、トーレムは如何にも残念、といった顔で肩を竦めてみせた。
「ま、いいけどよ。こっちは他にも商品があってだなあ……」
そしてトーレムはにやり、と笑う。
「なあ、『鯨』。お前、『陸』に狙われてるんだよな?」
「ああ。ご存知の通り、な」
「ならよ、『陸』の目を誤魔化す、『陸』の目を分散させるような事が起きたら、お前、楽なんじゃねえのか。ま、勿論、お代は頂くけどよ」
ヴァルは何のことか咄嗟に理解できずに、ぽかん、とする。
その様子に益々笑みを深めて、トーレムは、言った。
「『陸』で一騒動、起こしてやろうか」