第11話 逃走
ヴァルと少女の会話はしばらく続いた。ヴァルが10投げかけて少女から1返ってくるような会話だったが、ヴァルは満足していたし、少女もどこか満足げであった。
「君は……」
そんな折、ヴァルは言葉を続けようとして、はた、と気づいた。
「そういえば君の名前、聞いてもいなかったな」
ヴァルは少女の名前を知らなかった。少女を認識した始めはそもそも、少女に言葉が通じないとすら思っていたし、ヴァルの側も何か尋ねられるような体調ではなかった。
そのままずるずると機会を逸してきたことに自分でも呆れながら、ヴァルは問う。
「おれはヴァル。君は?」
少女は目を瞬かせ、それから……珍しいことに、困ったような顔をした。
おや、と思いつつヴァルが返答を待っていると、しばらくの後、少女はどこか困ったような、悩むような顔で、首を横に振った。
「え?……もしかして、名前が無いのか?」
予想外の返答に困惑しつつも尋ね返すと、少女はまたしても首を横に振る。
『無いわけではない。教えられない』
教えられない。ヴァルは言葉を反芻して、少女よろしく首を傾げることになった。
「それって、どういう意味だ?」
尋ね返すも、少女はやはり、首を横に振るばかりだ。
『好きに呼んでくれて構わない』
少女はそう言うが、ヴァルは、益々困る。
「ええと……じゃあ、いつかは、教えてくれるか?」
例えば、別れの時にでも。
そう言おうとしてヴァルは、口を閉ざした。いずれ来るその時の事を考えたくなかったし、考えたくない自分に気付いたので。
ヴァルの曖昧な視線を受け止めて、少女は迷うように、しかしはっきりと、頷いた。
そして。
『約束しよう』
少女はか細い指の中でも殊更に細い小指を立てて、ヴァルの目の前に差し出した。
だがヴァルは少女と少女の小指を見て、どうすればいいのか分からない。
「ええと、これは」
曖昧にヴァルが問うと、少女は首を傾げた。
『約束する時に人はこうするのではないのか』
少女のもう片方の手が伸び、ヴァルの手を掴んだ。
ヴァルはそのままなされるがままに、少女の小指に自らの小指を絡める。
何が起こるのか、と見守るヴァルの予想に反して、その後少女がとった行動はそう多くなく、そう大きくもなかった。
ただ、絡めた小指を、その腕ごと、小さく上下にふらふらと揺すって、それからそっと、指を解く。
「……もしかして、古代の人間の儀式、なのか」
不思議な動作であったが、不愉快ではなかった。むしろヴァルは、古代の文化の一端、それも、酷く人間じみた……確かに昔、人が生きていたのだと強く感じられるその行為に触れた事を、嬉しく思った。
その時、少女が1人。廃材の陰から、傾きかけた陽光が照らされる2人の姿を見ていたが。
何をするでもなく、そっとその場を後にしたのだった。
第11話~逃走~
翌日、ヴァルは少女と2人、バラック街を歩いていた。向かう先は、『海』では珍しくも堅牢な作りをした建物。メカニカの欠片の回収センターだ。
1日程度は貯蔵分の食料だけで2人が生活できたが、流石にこれ以上となると心もとない。
使うメカニカの欠片は少女が既に選り分けた後である。余ったものは換金して、食料やその他の物品を入手する手立てにした方がよい。
「いいか、絶対に顔、見られちゃ駄目だからな」
ヴァルが念を押すと、少女は頷く。大丈夫かな、とヴァルは内心不安だったが、仕方ない。少女が頑としてついてくることを主張したのだ。
バラック街ならともかく、『陸』の人間が居る回収センターへは、少女を連れていきたくなかった。『海』の人間には無法者も多いが、その分彼らは『わきまえている』。
他人の、それも『海』一番の『魚』である『鯨』たるヴァルの『もの』だと分かっていれば、少女にはそうそう手を出しはしないだろう。
だが、『陸』の人間は違う。彼らは『海』の人間達について、あらゆる権利を持っているのだという。それは所有権についても同じことで、もし『陸』でもめったに見られないような美しい少女が『海』に居ると知ったら、何をするか分からない。
それらの可能性について、ヴァルは少女に説明した。だが少女は『人間を見に来た』と主張して譲らなかったのである。
『海』だけでなく『陸』の人間も見たい、ということなのだろう。
ヴァル自身だって、『空』や『陸』見たさに死にかけた人間なのだから、人の事をとやかく言える立場ではない。
むしろ、好奇心や興味の為に危険を冒そうとする少女には同調すべき立場であるし、ヴァル自身、そんな少女を嬉しく思う気持ちもあった。
かくして2人は回収センターへと赴いたのだった。
入ってすぐ、ちらり、と視線を向けられたが、それきりだった。『陸』の人間達はヴァルと、ヴァルが手を引いている小柄な少女の存在を認めた。その上で少女の事を、ヴァルが面倒を見ている後輩の『魚』だろうと結論付けたらしい。確かに少女のうつむき加減なところも、ヴァルに手を引かれて歩く様子も、物珍し気に辺りをちらちらと見回す様子も、それらしいものではある。
「いいか、こうやって拾ったメカニカを検査するんだ」
ヴァルも『それらしく』見えることは承知の上だったので、如何にも新人に仕事を教えているように、少女に施設の使い方を説明する。
少女は、目の前にあるメカニカをじっと見つめる。
ヴァルにとって、回収センターのメカニカの装置は立派なものだったが、古代のメカニカからは比べ物にならないくらい稚拙な物なのだろう。少女が首を傾げる様子を見て、ヴァルはそう思った。
少女は手を伸ばして、メカニカの欠片を装置の上に乗せていくと、装置が作動して、乗せられたものの重量や品質を調べていく。
その挙動が終わるまで、ヴァルと少女はしばらく待つことになる。
その間、少女はカウンターの向こう側で談笑する『陸』の人間達を眺めていた。
『陸』の女達は服の話と食事の話をしているらしいが、ヴァルには同じ世界の話とは思えない内容だった。少女もまるで理解できていないような顔でぼんやりと彼女らを眺めている。
その時ヴァルは、ふと、自分達に向けられている視線に気づいた。
視線は施設の入り口の方から向けられている。
できるだけ自然にそちらを見ると、そこには保安に携わる者の制服を着た『陸』の人間達が居た。
『陸』には保安に携わる職業がある。彼らは『陸』の保安に努めるにあたって、ある種の特権を与えられていた。
第一に、銃の携行を許されている。その実は『陸』でよく使われている光線銃だが、一般的なセキュリティに使われている物より数段性能が良い。階級が上がれば上がる程、装備の質も良くなっていくのが倣いだ。
他にも、容疑者の身柄の拘束、物品の押収などの特権を与えられて彼らは『陸』を闊歩しているのだった。
しかしあくまでも彼らの職務は『陸』に限定される。何故なら、『海』は無法地帯であれ、とされた場所であるからだ。『陸』の掃き溜めが『海』である以上、その掃き溜めの保安など必要無い。
であるからして、『陸』の彼らが『海』を訪れることなど、滅多に無い。だがヴァルは、彼らの存在程度は知っていた。
そして、彼らの狙いが自分達であろうということも。
ヴァルは黙って少女に目配せした。こういう時、自分も少女のように脳裏に直接声を届けることができればいいのに、と思う。
だが少女はヴァルの様子を見て、状況をなんとなく察したらしい。帽子をより目深に被り直し、顔を伏せる。
やがてカウンターの上に放るように置かれた金銭を掴むと、ヴァルは少女を伴って施設の出口へと足を向ける。できるだけ、相手を気にすることのないように。
だが、そのまま見逃してもらえる訳がなかった。
「そこの『魚』2名、止まれ」
威圧的な声が掛けられ、更に前方を囲むように立ち塞がられ、ヴァルは足を止める。
「……何か?」
敵意を隠すことなくヴァルが返すと、数名の中で一番背の高い『陸』の人間が進み出て、ヴァルの眼前に一枚の紙を突きつけた。
「令状が出ている。反逆行為の疑いでお前の身柄を拘束する」
迂闊だった。
少女さえ顔を隠せばいいと思っていたが、まさかヴァルの方が狙われるとは思ってもいなかった。
『陸』へ行ったことが露見したのか、と、ヴァルは内心冷や汗をかきつつ、表情は平静を装う。
「身に覚えがないな」
「小汚い『魚』が何を言う。お前達の存在自体がそもそも反逆に他ならないのだ」
ヴァルは背の高い『陸』の人間と睨み合いながら、逃走経路を探る。
出口まではそう遠くない。迷路のように複雑なバラック街に逃げ込めれば、そうそう追いつかれないだろう。
だが問題は、今目の前に居る数名をどうするかということだ。
相手は複数人であり、更には銃も所持している。逃げることすら難しい状況だった。
そんな折、ヴァルの横から手が伸びて、少女の帽子を取り上げた。
少女は咄嗟に顔を伏せたが、その程度でどうにかなるわけもない。
「お、中々可愛い顔をしてるじゃないか」
『陸』の人間の下卑た笑い声と、少女に注がれる視線に、遂に。
ヴァルの手が出た。
喧嘩の一つもできずに生きられる『海』ではない。ヴァルもそのご多分に漏れない『海』の人間だった。
咄嗟の判断と効率的な暴力。それらを用いて相手の隙をつき、自分に有利な状況を作り出すのは『海』での必修事項だ。美しい少女に目を奪われた不注意な人間1人程度、ヴァルが処理できないわけがない。
少女の帽子を奪った『陸』の人間の横面に拳を叩き込むと、続いて足払いを掛ける。
体勢を崩した『陸』の人間に巻き込まれ、他にもバランスを崩す者が出てくる。これで突破口は開けた。
だがヴァルは逃げない。ポケットから小さなナイフを取り出す傍ら、転倒した1人の襟を掴んで引き寄せる。そして露わになった首筋にナイフを突きつけた。
「動くなよ」
ナイフの刃を相手の首筋に食い込ませながら、ヴァルは周りの人間達を睨みつけた。
ヴァルの予想通り、すでに何人かは銃を構え、ヴァルに銃口を向けていた。
彼らが銃を持っていることは分かっていた。だからヴァルは、安易に逃走しなかった。
今まで銃を使われなかったのは、その時間が無かったからでもあるが、それ以上に至近距離での混戦状態であったことが原因だ。もしヴァルが背中を向けて彼らから離れたなら、すかさず銃で撃たれただろう。
『陸』の人間達は銃を構えつつも、撃たない。人質を取られた以上、彼らの銃は威嚇以上の意味を持たなかった。
ヴァルは哀れな『陸』の人間の襟首を引き寄せる力を強め、自分を守る盾にする。
「銃を捨てろ」
少女が自分の横に逃げてきたのを確認したヴァルは、『陸』の人間達に言う。
『陸』の人間達は憎悪を込めた視線をヴァルに向けながらも、ゆっくりと屈んで、慎重に銃を床に置く。
その時だった。
「……え?今、なんと」
『陸』の人間の内、一番背の高い者……恐らくこの中で最も地位が高いであろう男が、不意に声を漏らした。
男が言葉を発しているのは、ここではない場所に向けてである。小型の通信用メカニカが男の耳から口元にかけて取り付けられている。所属する機関と通話しているらしい。
「待ってください、それは」
続けて、焦るように言葉を続けたが、そこで男は押し黙った。目を見開き、表情を凍り付かせた男は……歯を食いしばり。
床に置きかけていた銃を再び構え、撃った。
『撃たれる』
銃が撃たれる数秒前、ヴァルは少女の声を聞いた。
だから光線が放たれるより速く、動くことができた。
人質を捨て、身を低く。横へ。
ヴァルを狙ったであろう光線が飛んでいき、人質の胸を貫いた。
くぐもった悲鳴と、じゅ、という嫌な音が響く。
『陸』の人間達は、人質を、仲間であるはずの人間を撃った。いともあっさりと、殺した。その事実にヴァルは衝撃を受けた。
だがヴァルは動揺しつつも、成すべき事を成す。
胸から血を流す人質のベルトから光線銃を掠め取り、そして、照準も碌に定めず、撃つ。
乱射された光線は確かに『陸』の人間達を怯ませた。そして怯ませるだけでなく、幾らかは命中しもする。
「撃て!躊躇うな!」
自らを奮い立たせるように『陸』の人間が掛けた号令に、他の『陸』の人間達も戸惑いつつ、続いて銃を構え始める。
ヴァルは撃たれる前に、天井を狙った。
ぶら下がった照明が光線を受け、落ちる。
丁度、ヴァル達と『陸』の人間達の間に、照明が落下し、けたたましい音を上げながら割れ砕けた。更に、天井版も幾らかが被害を受け、同様に落下してくる。
生まれた粉塵と瓦礫が壁となり、『陸』の人間達からヴァル達を守った。
「逃げるぞ!」
その混乱に乗じてヴァルが呼びかけると少女は頷く。2人は混乱の最中、走り出した。