第10話 砂の浜辺
その日の夜、ヴァルは物音で目を覚ました。
ぼんやりした意識で、ぼんやりと記憶を手繰る。
今、寝ているのはシータシアを組み立てる為に使っていた部屋だ。少女1人を匿える程度のスペースがあり、かつ安全な場所がここしかなかったのだ。
出ていく時にある程度は片付けてから出ていったので、特に片付ける必要も無くスムーズに就寝できた。
少女もはじめこそ布団を珍し気に触っていたが、その内布団の中に入って目を閉じ、そして静かに眠っていたはずだ。
少女から離れた場所で掛け布を被り、横になっていたヴァルは、上体を起こして物音の出処を探す。
物音の出処は、案の定少女だった。
第10話~砂の浜辺~
少女はいつの間にか、工具の類を引っ張り出して何か作業をしているらしい。
カチャリ、と時折、金属同士がぶつかる小さな音が響く。
邪魔をしないように、そっと、ヴァルは少女に近づいて、手元を覗き込んだ。
そこにあったのは、ヴァルが見た事もないような緻密なメカニカの内部機構であった。
散々メカニカを扱ってきたヴァルだが、少女が手掛けているメカニカがどのように動くのか、まるで想像ができない。
少女は背後で息を呑むヴァルに気付いているのかいないのか、作業の手を止めない。
その作業工程はまるで芸術作品のように美しい。細い指がそれぞれ生きているかのように複雑に動き、ごく細い金属線を繋ぎ、ごく小さな金属片を削り。少女の技術の高さは、ヴァルの目にも明らかだった。
しばし、少女の神がかった技術に見惚れていたヴァルは、少女の作業が一段落したらしいところで少女に声を掛けた。
「それ、どうしたんだ?材料は?」
少女は黙って、部屋の片隅を指さした。
そこに在るのは廃材だ。確かに少女の手の中の精巧なメカニカの欠片には、どことなく、部屋の片隅に放置してあった廃材、屑鉄の欠片に見た光沢がある。
「廃材で?これを?」
だが、ヴァルは驚きと疑いの目でメカニカの欠片を見る事しかできない。廃材だけでこのようなものができるなんて、俄かには信じがたい。
メカニカの欠片は、現代においてメカニカを再現できないからこそ価値がある。だから『魚』達は海の底へ潜ってメカニカの欠片を拾い集めるのだ。
少女はヴァルの視線を受けて、首を傾げるとふと、席を立つ。
そのまま部屋の反対側へと移動していき、そこに置いてあった本……ヴァルが海の底から引き揚げた、水で濡れて乾いて、それでも未だ中の文字をなんとか残している古代の本を、手に取った。
波打ってかさつくページをめくり、やがて少女はある一ページを開いて、ヴァルに示した。
そこにあったのは、文字列である。本である以上は当たり前なのだが、そこには文字があった。その一部を少女の指が指し示すのだが、ヴァルは申し訳なさそうに言うしかない。
「ごめん。ほとんど読めないんだ」
ヴァルが言うと、少女は驚いたように目を見開いた。
この少女が表情らしい表情を浮かべるのは稀であるらしいことはヴァルにも既に分かっていた。その上でこの顔なのだから、相当驚いたのだろう。ヴァルは内心苦笑する。
「いや、本当に読めない。古代文字だけじゃなくて、今の文字だって自信ないんだぜ、俺」
目を丸くして瞬かせる少女の手から、本を受け取り、ヴァルはいつも自分が見ていたページを見せた。
「だから、俺が参考にしてたのはこういうページだけだったんだ」
ヴァルが開いたのは、図表が多く載っているページだ。
メカニカの図からなら、ヴァルにもある程度の情報を読み解くことができた。
図につけられた注釈の横には、ヴァルの筆跡で書き込みがある。その書き込みは現代語であったが、そこに所々存在する間違いにヴァルは気づいていない。『海』の識字率は高くないのだ。これでもヴァルは勤勉な方であった。
「多分こういう意味だろう、って、推理してさ。それで実際にメカニカで実験してみて。推測が合ってればそれで良し、間違ってればやり直し、って。だから、文字ばっかりのところは全然」
図を見て、試行錯誤を重ねる。それがヴァルの学習であったし、『海』においてはこれ以上の学習など、元より望むべくもない。むしろ、『陸』においても、古代語の解読は未だ完了していないのだから、独学で古代の本を読み解いているヴァルは優秀であると言えるだろう。
少女は少し考えるような素振りを見せたが、1つ頷くと本を閉じた。
『海に行く』
「え?」
『材料が足りないから』
ヴァルは、それなら自分がとってくる、と言おうと思って、口を噤んだ。
恐らく、少女が欲している材料が何なのか、自分には分からないだろうから。
「それはありがたいけれど……海に入ると、あまり体に良くないぞ」
『問題ない』
少女が曲がらない様子を見せたので、ヴァルは内心申し訳なく思いつつもそれ以上少女を止めないことにした。
「そうか。じゃあ明日の朝、行こう。俺も一緒に行くから」
だが、止めない代わりに自分もついていくことにする。
元より、海に潜らずに生きていける『魚』ではない。どのみち、金にするためのメカニカの欠片は必要だ。そしてそれ以上に、少女を1人で海へ潜らせるのはヴァルの良識に反する。
少女が嫌がってもついていくつもりのヴァルだったが、少女はヴァルを見つめながら、1つ頷いて了承の意を示した。
「ってことで、寝よう。寝ないと体が持たないぞ」
なんとなく、ついていくことを嫌がられる気がしていたヴァルは内心ほっとしながら、少女の肩を押して寝床へと向かわせる。
『問題ない』
「駄目だ」
少女は相変わらずの調子であったが、ヴァルは、なら自分も自分の調子で行ってやるぞ、とばかりに少女をぐいぐいと押していく。
小柄な少女はヴァルによってあっさりと寝床へ連行され、そして特に抵抗らしい抵抗もしない内に布団に包まれて寝かされてしまった。
「じゃ、おやすみ」
布団の上から少女の肩のあたりを軽く叩いて、ヴァルは自分の寝床へ戻っていく。
少女はヴァルの背中を見、床に横たわって掛け布を被ったヴァルを見ていたが、やがて諦めたように目を閉じた。
静寂が満ちた部屋の中、小さなランプの明かりだけが取り残された。
翌朝、ヴァルが目を覚ますと、ターコイズブルーの瞳と目が合った。
「うわっ」
ヴァルの顔を覗き込んでいた少女は、驚いたヴァルに驚いたのか、目を瞬かせる。
「……あんまり人の寝顔なんて、見ないでくれよ」
少しばかり恨みがましげに言いつつ、ヴァルは体を起こした。
部屋唯一の出入り口まで歩き、そっと、ドアを開ける。
僅かに開いた隙間から、眩い光が漏れ入ってきた。既に朝日は昇っているらしい。
開いたドアから入ってきた光と、やや強い海風とを浴びて、ヴァルは少女を振り返る。
「とりあえず、飯にするか」
貯蔵していた食料を適当に分け合って食べ、ヴァルと少女は海へとやってきた。
ヴァルの部屋から海辺まではほとんど距離が無い。
だが念のため、人が居ないかを先にヴァルが見てから、少女を連れて海へ向かった。
「いい天気だな」
少女と共に海へ向かいながら、ヴァルは空と海の境界線を見やる。空には雲がゆったりと流れ、海はそれなりに穏やかな凪であった。海へ潜るには良い日和と言える。
やがて海辺に着いた2人は、装備を整えた。
ヴァルは手足にメカニカ・フィンを装備して起動させ、それから、少女にも似たようなものを装備させる。
「俺が昔、使ってた奴だ。こっちより性能、良くないけど。サイズはそっちの方が合うだろ?」
少女は手足に取り付けられたメカニカ・フィンを興味深そうに眺めて、起動させた。
カシャ、と音をさせつつ起動したそれを見て、おおよその仕組みや使い方は把握したらしい。1つ頷いてから、ヴァルを見て、もう一度頷いた。
「じゃ、行くか」
2人は揃って海の中へと入っていった。
如何に体に毒であろうとも、ヴァルは海が嫌いではない。
透き通った水の中に差し込む光の美しさも、冷たく滑らかな水の感触も、海の底に沈む古代の遺物も、ヴァルが好きな物である。
『空』から落ちて以来、海の底に居た訳だが、やはりメカニカ・フィンを装備して海の中を泳ぐのとは訳が違う。泳ぎを得意とするヴァルならば尚更だ。
水を掻いて進む爽快感にヴァルは幾分気分も良く、しかし少女のために普段より速度を落として泳いだ。
少女は前回よりもより達者に泳いだ。覚えが早いのか、或いは、一度泳いで、泳ぎ方を思い出したのか。メカニカ・フィンの扱いも下手ではなかった。
メカニカ・フィンが古代にもあったかは定かではないが、少女を見る限り、似たようなものがあったのかもしれない、と、ヴァルは思う。
『見つけた』
しばらく泳いだところで、少女の声がヴァルの脳裏に響く。
水の音、泡の音しか響かぬはずの海の中、人の声が聞こえると流石にぎょっとするヴァルであったが、少女が自分の少し先で待っているのを見て、慌てて追いかける。
少女が降り立った水底には、小さな、メカニカの欠片とも言えないような部品が砂に半ば埋もれて落ちていた。
少女は砂を掻き分けて小さな部品を拾い集める。ヴァルも手伝って集めていると、少女はまた、ふい、と泳いで行ってしまう。
ヴァルも部品を鞄にしまって少女を追いかけると、少女は少し離れたところで、やはりまた、同様に小さな部品や、屑鉄の欠片を拾い集めていた。
ヴァルが追う中で、少女は部品を拾い集め、そして或いは、落ちているメカニカの欠片に見向きもせずに別の欠片を拾いに行った。
それらの規則性がヴァルには分からなかったが、少女が必要とするものは即ち、『空』へ至るために必要なものなのだろう。
適当に金にするためのメカニカの欠片も拾いつつ、ヴァルは少女を追いかけて海の底を泳ぎ続けるのだった。
2人が海から出たのは、規定時間を少しばかりオーバーしてからだった。
だが、数分程度の規定時間オーバーなど気にならない程に収穫は上々であった。
少女は砂に埋もれかけていても、メカニカの欠片を見つけ出したし、廃材の陰、時には下に隠れたものですら、見つけ出したのだ。まるで見えないものが見えているようだった、とヴァルは内心、舌を巻く思いである。
少女が必要としているパーツは限られていたが、その付近に落ちているものもヴァルは拾い集めたため、鞄はいっぱいになっていた。これで当面の金銭は賄えそうだ。
真水で体を一通り流した後、ヴァルは小さな入り江の砂浜の上に腰を下ろした。少女もミラから貰った上着を羽織り、隣に腰を下ろす。
「ここ、小さい頃から好きでさ。海から出た後、体が乾くまで、よくここで海を眺めてた」
砂を握れば、白く、ごく細かい粒が指の間から零れてさらさらと落ちていく。この感触が好きで、幾度となくヴァルは砂を握ってきた。
この砂は古代の生物のなれの果てだ。細かく砕けた生物の骨が、砂のようになって浜辺に体積している。
ヴァルはだからこそ、この入り江が好きだった。古代の伝説が骨となり、砂となって、残っている。この場所が好きで、幼い時分よりこの入り江に入り浸って過ごしてきた。
時には1人で、時にはミラも一緒に、海を眺めて、或いは会話して。
だからヴァルはいつものように、海を眺める。
そして少女もまた、ヴァルと同じように海を眺めた。
海は穏やかだ。波が大きく立つでもなく、小さく揺れる水面に反射した陽光が煌めくばかりである。
『静かだ』
ヴァルはふと、声を発した少女に目をやる。
少女は海を眺めながら、どこか寂しそうにも見えた。
ヴァルは思う。もしかしたらこの少女が見ている海と空は、少女が知るものとは違うのかもしれない、と。
少なくとも、少女が古代の人間ならば、海には生物が居たはずである。今、ヴァル達が座っているこの砂浜の砂が、骨であり、そして生物であった時代が、確かにあったのだから。
ヴァルが伝説にしか知らない、魚、という生物が泳ぎ、海の中に植物が揺れている、そんな海が、少女にとっての海なのだろうか。
それから少し雑談(とはいってもヴァルが一方的に話すようなものだったが)して、ふと、ヴァルは思いつく。
「……なあ、鯨って、知ってるか?」
もしかしたら、程度のつもりだった。
ヴァルにとって鯨とは伝説上の生き物であったのだ。ほんのつまらない話程度のつもりで、口にした。
『知っている。見たことがある』
だからヴァルは、少女の返答に驚いた。
「見た事、あるのか」
少女は頷いた。
「鯨、って、本当に、居たのか」
少女はやはり、頷いた。
ヴァルは少女の返答に驚き、静かな興奮を感じる。
鯨。自分の名でもあるその伝説の生物は、あくまでも伝説の生物だった。遠い昔に存在した、かもしれない、という程度の。確証などどこにも無く、あくまで、夢物語としての古代の話に出てくる程度の。
だが今、ヴァルにとって鯨は、物語の生物ではなくなった。
1人の生きた少女を通して、伝説が現実となった。
胸が詰まるような感覚の中、ヴァルはやっと、一言だけ発した。
「君に会えてよかった」
少女は微かに目を見開き、目を瞬かせると……微笑んで1つ、頷いた。