空の器
昔々、世界の天井には水が張っていた。というのも空がそれは大きくて透明な『器』を抱えていたからだ。
空は時として泣く。人間のように悲しいことがあれば泣いたし眠くてあくびをした時も泣いた。そうして流した涙がその器に溜まって世界の天井に水を張ったのだ。
さて、空に器があるということはこの世界には雨が降らない。地上にある水といえば更に大昔、空がくしゃみをした際にうっかり器からこぼした分だけだった。
故に人々は水を最も貴重な資源として扱い、出来うる限り無駄なく利用できるよう進化、発展してきたのだった。それは一度使った水を再び使えるようにする機械であったり、そもそもあまり水分を取らなくても生命活動に支障をきたさない身体であったりだ。
とはいえ目に見えて有限な資源である。水を奪い合う争いが人の間では絶えなかった。戦争に負けた貧しい国では人々は奴隷のように扱われ、労働の中で流した涙や汗さえも資源として搾取された。せめて泣いてやるまいかと涙を堪えると泣くまで拷問にかけられる。そんなことがまかり通る世界であった。
そんな世界であるからこそ誰もが夢見るのが水に困らぬ世界である。そして天を見上げればそこには確かに大量の水があるのである。人が空を飛び、水を手に入れようとするのは自然の流れであった。
とある小国では空を飛ぶための研究が盛んに行われていた。決して資源に恵まれず強国ではない自国が未来にわたって繁栄していくには空に望みをかけるしかなかったからだ。
数多くの失敗、他国との争いにより研究が立ち行かなくなることもあった。それでも、何年も、何十年も、何百年も国と歴史を紡ぐ中で少しずつ歩みを進めて行った。途切れる事はあっても探求の糸が消え失せなかったのはこの小国に多くの空にまつわる伝承が残っていたことも一因だろう。先の空がくしゃみをしたという話も有名な物語として語り継がれていた。決して裕福でないにしろ、心の豊かさを、知的好奇心を持ち合わせた国民性が着実に彼らを空に近づけた。
そしてついに、長らくの研究開発の末小国は飛行機の開発に成功したのだった。
国民全員が悦び、祝い、国中が祭り騒ぎに包まれる。パイロットは数々の検査項目、試験をクリアした者の中でも一際優秀だった青年が選ばれた。そしてしばらくの準備期間の後、パイロットの青年は国民の期待を背負って空へと飛びたった。
最初の飛行試験から月日が経ち、飛行高度も日に日に増してついには『器』のへりが見える所にまで青年は飛べるようになっていた。その日の任務は器の材質を確かめる事である。
ガラスにもシャボンのようにも見えるそれは果たして壊す事ができるのか。それによって水を手に入れられるか否か、どのように地上に水を持ち帰るかを考えるのである。
「旨そうな水だ。毎日焦がれたそれが目の前にあるのだから、どうにかして持ち帰りたいものだ」
青年は一人宙でぼやくといそいそとパチンコを取り出した。これで小石をぶつけてみるのである。
青年は目一杯器に近づくとグッと引き絞ったパチンコから小石を打ち出した。
カツン
なるほど。どうやらそれなりに硬い物らしい。つついて破けば水が取れるという訳では無いようだ。
青年は念のためもう一度パチンコの弦を引き絞る。
「私の器に傷をつけるのは誰だ?」
突如どこからか青年に語りかける声があった。
青年は数瞬怯みはしたもののすぐさま一つ思い至る。
「貴方が空か!」
「如何にも。」
青年に語りかけたのは空そのものだった。
「ついに人の子がここまで来たかと思えば私の器を壊そうとするとはな。」
どうやら空はお怒りのようだ。青年は慌てて取り繕う。
「突然の非礼お詫び申し上げたい!何分我々は貴方に対して無知なのだ!」
「…ああそうだろうな。ようやっと空に出てきたのだ。それも仕方あるまい。どうせ人の子にこの器を破る事も出来ぬしな。」
「寛大なご配慮賜り感謝する!」
「そのように声を張り上げずとも聞こえておる。」
「なるほど!承知致した!」
「・・・まあよい。さて、ここまで来たのは目的があるのだろう?」
「そうだ!ぶしつけな事は承知で言わせてもらうが我々は水が欲しい!この器になみなみと注がれた水が!」
先程空も人には器を破れぬと口にしたばかり。小国は空の意志が在ることも、器が破れぬ物であろうことも予測はしていた。その際にはパイロットにもう一つの任が与えられていた。
「ですから!どうか分けていただきたい!貴方の器に入った水を!」
空との交渉である。
たとえ器が壊せぬ物であったとしても空は水をその器からこぼした過去がある。空の意志で水を分けてもらおうというのが小国の考えであった。そういう国民性なのである。
「ならぬ。」
小国の甘い期待はいとも簡単に切り捨てられた。
「何故だ!確かに都合の良いことを言っているのは百も承知!しかし!ほんの少し!ほんの少しでいい!今の人間は水の絶対量さえ増えれば後はそれを使いまわせるのだ!どうか御慈悲を!」
「私はこの器を満たしたいのだ。それだけが私の望みだ。」
「なぜ器を満たしたいのだ。」
「分からぬ。ただ私の自我が生まれた時からただこれだけが目の前にあって、私にはこれを満たすことしか出来ぬのだ。」
「器を満たした後はどうする。」
「それも分からぬ。何せ満たしたことが無いのでな。ただその後は地上に水を分けるのも悪くないかと思っている。」
「本当か!して、器が満たされるまであとどれほど時間が掛かる?」
「私も好きな時に水を増やせるわけではない。ただ、少なくともあと10億年ほどかかるのではないか?」
「10億年!?その頃にはもう我が国は滅んでしまっている!いや人類さえも生き残っているかどうか…」
「私に言われても困る。すぐさま満たせるなら私もそうしているさ。」
「どうにか、今だけでも分けていただくことは出来ぬのか!」
「私は忘れない。くしゃみをしてこぼした分を取り戻すのにどれだけ時間がかかったかを。」
「どれだけ時間がかかろうとも良いではないか。貴方の命に終わりはないのだから。」
「わからないさ。いつこの世が終わってしまうかも。私に生まれがあったように私に終わりがあってもおかしくあるまい。」
空が終わる日が来るとしたならそれは世界の終わりだろう。
「どうか貴方には未来永劫健在であってもらいたいものだ。」
「うれしいことを言ってくれる。でもそれを決めるのは私じゃあないさ。」
空は気紛れだという文献が残っていたことをなんとなく青年は思い出していた。そしてその文献には空は気紛れが故に水を生み出すのだと書き記されていた。
「…そうだ。貴方にも終わりがあるように人にも終わりがある…」
「急にどうした」
「自分は、戦争孤児だ。」
「…」
青年は自分の身の上話を語り始めた。
水が無いが故に争いは起き、その最中で少年は家族を亡くした。ものごころ付く前の話だ。それから国から国へと難民として移り住んだ。根無し草だった少年は同じような境遇にあった子供たちと身を寄せ合う。中には盗みを働く子供もいた。捕まれば殺された。水を盗むことは人の命を奪う事よりも重い罪だった。しかし子供は成人よりも代謝がよいためどうしても水が必要だったのだ。それこそすすれるのなら文字通り泥水でさえすすった。自分の為に水を譲る兄貴分のような子供もいた。その子供は脱水症状で死んだ。子供ながらにたくさんの死に触れ、生かされた。いつか、この生かされた命を意味のあるものにしなくてはならない。その一心で生き延びて、流されて、気が付けば小国の片隅に打ち捨てられていた。幸い小国は子を宝とし身寄りのない子供にも職と配給を与えるような世界で類を見ないおくによしであった。そこでまた人に生かされた。感謝の念と決意は募る。そんな少年の目の前に小国の役人は一つの夢をぶら下げた。いつか飛行機の開発が成功した際には、それを運転する人間がいる。運転技術など確立されている訳がなく1、いや、0からの始まりであり、空から落ちれば死ぬことは想像に難くない。いつ完成するかもわからない。それでもパイロットという職についてみないか。そんな話を少年に持ちかけた。少年に鉢が回って来たのは身寄りのない子供で他に出来る仕事が無かったからというよりも、いつも少年がそうありたいと願い続け町中の人々がそれを知っていたからだ。少年は喜び勇んで了承した。訓練生となった少年は飛行に必要と思われる技術を片端から習得し、毎日鍛錬に励んだ。いわば軍属のようなものだ。前任のパイロットからは様々な事を教えられ、時に厳しく、時に本当の家族のように扱われた。前任のパイロットは老齢で目を悪くしていた。先代も先々代もそのもっと前も結局空を飛ぶことはなかったが確かにその意志と技術は受け継がれていた。
「お前は空を飛べよ」
そして今、青年は空にいた。
「お゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛」
空は大泣きしていた。
「私はこういう話に弱いんだ…」
器は水位を上げていく。青年の考え通り、空は涙もろかった。青年の話は作り話などではなかったが。
「よかったなぁ…お前も、先代も、国の人も、よかっだな゛ぁ゛!」
泣きながらに空は話す。
「空よ、この話はまだ終わりではない。」
「?」
「自分は空を飛んだ。だが空を飛ぶことは手段なのだ。」
「ああ、そうだったな。お前は水を持って帰らねばならぬのだった。だがならぬぞ。流石にこれくらいではお前に水をやるわけにはいかぬ。」
「そうか…したらばまた、お話しをしにくることにしよう。」
「ふむ。私は退屈だ。いつでも相手をしてやろう。お前の望みは叶えてやれんがな。」
青年はそれから来る日も来る日も空と話をするために飛んだ。日によって話す内容は違った。だが一様にして青年には目論見があった。悲しい話をすれば空は号泣し、面白い話をすれば空は泣きながら笑った。見る見るうちに器は満たされていった。それまで独りだった空に新たな感情を与え毎日泣かせたのだ。そんな青年の目論見に空は気が付いてはいたがあえて口にすることはなかった。
空を毎日のように飛ぶ青年だったが風が強く飛べぬ日もあった。
「何で昨日はこなかったんだ!」
「風が強くて飛行許可がおりなかったのだ」
「明日も来ると約束したではないか ! 」
「それは悪いが空なら風の一つや二つ止めてくれ。」
「そんなことできるわけないだろう!」
「横暴だ。」
「一昼中待ったのだぞ!」
見れば一昨日より水かさが増している。
「すまなかった。出来得る限り毎日来る。だがどうしても無理そうな日は国の真ん中にある時計塔を見てくれ。そこに白い旗を掲げた日は行けぬということにしよう。」
「…仕方あるまい。それで、今日は二日分の話を持ってきたのだろうな?」
そんな風に日は過ぎた。
器の水がなみなみと揺らぎ今にも溢れんばかりになった時。青年は既に老夫となっていた。
「なぁ、私とお前が初めて会ってからどれだけの時間が過ぎただろうか」
「急にどうした」
「なに、いい加減私も器を支える手が辛くなってきたんだ。」
「ではいっそのことぶちまけてしまったらどうだ?」
「ここまできたんだ。最後まで耐えきるさ。」
「あとどれくらいで器は満たされる?」
「きっと。きっと私はお前が死んだら大泣きするだろう。そしたらこの器も満たされると思うんだ。」
「自分が死ぬまでに満杯になった器を拝んでやりたいものだが」
「最近のお前の話はつまらん。」
「仕方ないだろう。毎日話を考える身にもなってくれ。」
「同じ話をしてきた時はあきれたものだ」
「困った記憶力だ。でも、そうか。自分が死んでも器は満たされるのだな」
「実際は分からぬぞ」
「それは困る。」
「嘘だ。絶対泣く。」
「安心したよ。それでは。」
そういうと老夫は降りていった。
その日はいつもしていた次の日の約束が無かった。
次の日、季節柄ずいぶん遅くに空が目を覚ますと、大地は赤く燃えていた。
一瞬何が起きているのか空には分からなかった。長い歴史の中で偶に大地がそうなることはあった。空には関係の無いことだし興味もなかった。だが、老夫の話の中にそれが何を意味するか語られる節はいくつもあった。
隣国が小国へと攻め入ったのだ。
そのことに気が付いた空は、器をひっくり返した。
世界中に水が降り注いだ。戦火は消え、火薬は湿気り、それ以上戦争は続けられなくなった。
それ以前に、人々は争う理由を失った。
溜まりに溜まった大量の水は戦争が終わった後も降り続けた。
池ができた。湖ができた。川ができた。
その間も空は老夫を待ち続けた。器の中身が無くなるまで。それは長い時間だった。何年もの時間が過ぎた。その間時計塔に白い旗が掲げられることもなかった。きっともう老夫が私に会いに来てくれることは無いのだろう。そのことに思い至ると空は涙を流した。器の一杯など比べ物にならないくらいの涙を。
涙は大地に延々と降り注いだ。人の一生が何回も始まっては終わるほどに。それは老夫に二度と会えないという証明でもあったから空は一層激しく泣き、終いには海を作った。そうして小国の周りが海に囲まれたところでようやっと空は泣き止んだ。空が眺める事の出来る唯一の老夫との思い出だったからだ。
二度と、空の器が満杯になることはなくなってしまった。だがそんなことは空にとってもうどうでもよかった。
今も空は老夫を思い出しては時に激しく、時にさめざめと、泣いている。