第六十五話 お月様に守られて
夕日が一瞬強くきらめいて、遠くに見える家々の向こうに完全に沈む。
街中に有る階段を昇った先。どこまでも続く街を見下ろすことができる小さな丘の真ん中に立つ、大きな木の下で。
ちよさんと俺は草原に腰を下ろして、そんな様子を眺めている。
太陽が沈んでも、まだもう少しだけ、この時間を味わっていたかった。
「わたし、この場所が大好きなんです。雨が上がったら、すぐに歌いたくて……」
ちよさんは涼しそうな表情を浮かべて、言う。やわらかな頬の毛がふわりと、風になびいている。
「本当に、町中が良く見渡せますね」
俺は目を凝らして遠くまで見つめるけれど、本当に街の終わりは見えない。
もっともっとその先には、どんな場所が有るのだろう? 想像すると、心が弾む。
色んな場所に行ってみたい。色んなことをしてみたい。
「あちらには、とってもおいしいお団子屋さんが有るんです」
と、ちよさんが、街を貫く大きな通りのそばを指差した。
「ちよさん、お団子好きなんですか?」
「はい。あんこのたっぷりかかったお団子が、特に大好きなんです……!」
たまらない、という風にちよさんが声を弾ませる。
「何だか、夕日ってお団子に似ていますね……おいしそう」
俺は頭の中で、沈んだばかりの夕日を想像しながら言う。何だか腹が減ってくる。
「みたらし団子ですね……!」
きらきらと目を輝かせて、しっぽをぱたっと揺らすちよさん。
そんな様子を見ていると。とくん……と、また、鼓動が少し大きくなって、体が熱くなってきて……。
「お団子以外には、どんなお菓子が売ってるんですか?」
嬉しそうなちよさんに尋ねる。一体どんなお店なんだろう。今度、早速行ってみようかな。
「ぜんざいに、かりんとうに、ようかんに――数えきれないくらい沢山です。お隣のお茶屋さんの抹茶との相性も――」
そしてちよさんと俺は、そんな感じで話を続けていく。
好きな食べ物は何か、どこにどんなお店が有るか、どんな本を読むか――。
何気ない話題は移り変わって、次第に夕日が沈んだ後の空が青から紫のグラデーションに、夕闇に染まっていく。
涼しくなってきた気温と、時々丘に吹く爽やかな風が心地良い。
いつまでも、こうしていたいな。
楽しくて、楽しくて時を忘れてしまうぐらいで……。
◆ ◆ ◆
「二人とも、どこに行っていたのかな?」
……そして。
夜になってからも丘の上で話していたちよさんと俺を、お屋敷の玄関先で出迎えた蓬さんは、腕を組んで、仁王立ちをしていて……。
……明らか、にいつもと様子が違う。
淡い茶色の瞳が今は、強く輝いていて。それに、声と表情は普段通りなんだけど、明らかに全身に迫力を身に纏っていて……。
正直言って滅茶苦茶怖い。ガタガタと、ひとりでに足が震えてくるぐらいに……。
「い、いえ、ちょっと――」
「洗濯物が、たっぷり残っているんだけど……」
気圧されてうろたえる俺の言い訳を遮って、ゆっくりと、蓬さんが言う。
「あっ……」
思わず声を漏らしてしまう。
いけない……すっかり、忘れてた。
そう言えばさっきの俺は、あの歌を追い掛けることに夢中で、蓬さんから頼まれた庭の洗濯物を殆どほっぽり出してきたんだった……。
……だけど、今更気付いても、もう遅い。
「……」
ちら、と隣のちよさんを見れば、……ハッとした表情を浮かべて、だけどすぐに耳としっぽがしゅんと、垂れてしまっていて……。
……どうやら、裏庭の洗濯の担当のちよさんも、洗濯物を放り出して、あの丘まで歌いに行ってしまっていたらしい。
「あの、ですね、久々に、天気が良かったので、つい、……」
「?」
俺はそう言い掛けると、蓬さんは首を傾げる。ちよさんと俺のことを見つめたままで。
こ、これは、結構、怒っているのかも、しれない。
血の気がさーっと引いていくのが自分でも分かる。
「ですから、その、えっと………………」
「あ、雨が晴れて、歌いたくなってしまったんです……! それで……」
最早収集が付かなくなった俺とちよさんが、言い淀んでいると。
「わっ!!!」
!!!!!
「う、うわあああ!」
な、何だ……?!
驚きのあまり、腰を抜かすよりも先に声が出る。
突如蓬さんが叫んで。両手を高々と振りかざしたのだ。
に、逃げ……逃げなきゃ、逃げろ!
そして、考えるよりも先に、本能に突き動かされて。
俺は振り返って全速力で走り出す。
「~~~!」
ちよさんも俺の隣を、恐怖に駆られた様子で全速力で駆けている。
「待て~!」
そして後ろから、蓬さんがかなりの速度で追いかけて来た。
徐々に徐々に、その距離は縮められていく。もっと、もっと走らないと、絶対に捕まる……!!
つ、捕まったらどうなるんだ? お仕置きを喰らわされるのか……??
「すみません、い、今すぐ干してきます!」
声を枯らしながら、追ってくる蓬さんに大声で叫ぶ。
「ご、ごめんなさい……!」
ちよさんもそう叫んで、一刻も早く俺達は庭へと向かった。
◆ ◆ ◆
「ぜーっ、ぜーっ……」
全力で駆けて庭にたどり着く。振り向いてからようやく足を止める。
……どうやら、蓬さんは、ここまでは追いかけてこなかったらしい。
というか、今のも多分、本気で捕まえようとしていたんじゃないんだけど……。
とにかく、全力で8走ったからか……俺は背中を丸めて、荒い息をつく…。
「……」
ちよさんも冷汗をかいていて、しっぽの毛が、いや、全身の毛が恐怖で逆立ってしまっていた。
……だけど、いくら疲れていたとしても、洗濯物はまだ沢山残っている。
「「………」」
呼吸が整うと俺達は、縁側に積まれた山の様な洗濯物に取り掛かることにした。
まずはこれが、この庭に干す分。それから更に、裏庭に干す分まで残っている。
夕方の時と違って今度は、二人がかり干しても干しても全然、洗濯物が減らない気が……。そんなの錯覚に決まってるんだけど、それでも……。
「流石は七人分ですね……」
俺は地面に落としてしまいそうになった着物を、再度竿に引っ掛ける。
「お日様が嬉しくて……」
ちよさんが、小さな声で呟いて。
「少しの間なら、丘の上で歌ってもいいかな、って思ったんです……」
目の前に干したばかりの大きなタオルをぎゅっと握って、照れている顔を隠してしまった。
……かわいい。と、思うのと、同時に。
正直、ちよさんが仕事を抜け出してしまっていたなんて、かなり意外だ。
ちゃんと洗濯を終わらせてから、あの場所に向かったのかと勝手に思っていただけに……。
「それも、仕方ないですよ。こんなにいい天気ですからね」
洗濯はさみで足袋を干しながら、ちよさんを励ます。
結局、今日のちよさんと俺は二人とも仕事をほっぽり出してしまっていたのだ……ちょっと悪い子だ。
そう思うと、ちょっと可笑しくなってくるのはどうしてだろう……?
雨上がりの後。ついつい丘に登って夕暮れを見て歌いたくなる気持ちは、とても良く分かった。
空を見上げれば、丁度、満月と半月の中間ほどの月が、夜空に昇っていて。
三日月までは、あと何日ぐらいなんだろう?
「お月様も、喜んでいる様ですね」
また一つ着物を物干し竿に通しながら言う。雲に隠れることはなくて、今日の月は何だか嬉しそうだ。
そんな月明かりが、皆の暮らすお屋敷を見守る様に、優しく包み込んでいる。
ちよさんの持つ御珠様の着物にも月明かりが当たり、金や銀の刺繍が美しくきらめている。
「……」
するとちよさんは、着物をそっと竿に掛けながら……。
「~♪」
静かに、ハミングをし始めた。
「~~♪」
これは……。ゆったりとしたテンポと、なだらかで優美な曲調。
聞いていると、歌詞は無いはずなのに、月夜の下で、踊り子が上品に踊っている風景が自然とイメージできた。なんて……なんて、綺麗な曲なんだろう。
これは、きっと……お月様の歌だ。
そして意外にも、お月様の歌が始まってからは、俺もちよさんも、洗濯物を干すのがスムーズになってきて。軽快に、着物を広げて竿に通して、タオルを引っ掛けていく。
歌うちよさんはとても生き生きとしていて。それを見て俺も更に、仕事の調子が弾んでくる。
「~。……」
歌が終わるころには、あれほどまでに積まれていた着物も、もう二着しか残っていなかった。
「もうそろそろ、お茶の間に来てね! 晩ごはんにしよう!」
お屋敷の方から、蓬さんの明るい声がする。
「「はい!」」
それから俺達は一着ずつ、残った着物を物干し竿に通す。
月明かりに照らされた着物がきらりと輝いて、庭を鮮やかに満たしていて。
夜空には、沢山の小さな星たちが瞬いていた。




