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第六十一話 夕暮れの歌 一

「おはよう、景君」


 枕元から声がする。見上げてみれば(よもぎ)さんが、俺のそばにしゃがんでいた。


「おはようございます」


 と返事をするものの、もう朝という時間帯じゃなかった。

 お昼すらもすっ飛ばして、空には夕方の気配が漂っている。薄くなった雨雲の色も夕日の橙色を映していて。

 ……すぐに分かった。恐らく、昨夜、お屋敷の皆で梅雨入りのお祝いパーティーをした後、疲れた俺はそのまま夕方まで、ずっと眠ってしまっていたんだな……。


「す、すみません、こんなに遅くまで寝てしまっていて……」


 俺は体を起こして、蓬さんに謝る。


「ううん、別に構わないよ」

「その……俺、もしかして、また、蓬さんに運んでもらったんですか……?」

「うん。景君は軽いから、背負う時助かるよ」


 朗らかに笑う蓬さん。反対に俺は、顔から火が出てしまいそうになる。

 寝落ちをして、蓬さんにここまで運んでもらうなんて、な、情けない……。

 しかも、これでもう二回目だ。うう、もっとしっかりしなきゃいけないのに……。


「あっ……ほら!」


 そこで蓬さんが、お屋敷の庭の向こうの空を嬉しそうに指差した。

 振り返って見てみれば。雲がゆっくりと引いていって……。

 眩しさに目を細める。

 ついに、西の空に夕日が姿を現し始める。

 ようやく雲の外に出られたことを喜ぶ様に、いつもよりもさんさんと輝いていて……。

 雨が上がる。


「さあ、仕事だ仕事だ!」


 どすん。鈍い音がした。

 蓬さんがいつの間にか山の様な洗濯物を運んできて、縁側に下ろしたのだ。

 ぱん、ぱん、と蓬さんが楽しそうに両手を叩く。威勢の良い音が響く。

 俺は慌てて立ち上がって、その山のそばへと寄る。

 ……凄い山だ。都季と灯詠の両方が余裕で隠れられるぐらいには、いや、それ以上に洗濯物の山は大きくて。高さは大体、一メートルは有るんじゃないか……?

 二日ほどの雨だったのに……流石は、七人分の洗濯物。


「ちよちゃんには裏庭の分をもうお願いしたから……よいしょっと。これが、私の分」


 蓬さんはその山の半分ほどを、再び楽々と抱える。


「ここに置いているのが、景君の分」

「これ……全部、ですか?」


 半分になったとはいえ、それでも凄い量だ……。


「まあまあ、体を鍛えると思って、ね!」


 蓬さんは快活に笑うと、自分の分の洗濯物を持って、お茶の間の襖を開けた。


「景君は庭に干すのをよろしくね! 私は色んな部屋を回って、窓から干しているから」


 どうやら、表庭と裏庭だけだと手狭なぐらいに、洗濯物の量は凄まじいらしい。

 それじゃあね、と蓬さんは手を振ると、襖を閉めたのだった。

 足音が遠ざかっていく。


「……」


 あんまりにも多い洗濯物にかえって笑ってしまいながら、俺はつっかけを履いて庭の土を踏む。

 雨上がりの日差しが応援してくれている様に感じる。


「さてと……」


 頑張ろう!


 

 ◆ ◆ ◆



 風が洗濯物を揺らす。干されていく着物たちが物干し竿を端から埋めていく。

 着物はいったん外した洗濯竿に袖を通して、両腕を大きく広げる様にする。タオルなどの小物は洗濯ばさみを使って干す。

 特に失敗することは無くスムーズに、全体の三分の一ぐらいは特に滞りなく干し終わっていた。

 お風呂を焚いたり、料理を作ったりするのとは違って洗濯を干すのは、細かい手順を知らなくてもできるのかもしれないな……なんて思いながら、真っ白な手ぬぐいを洗濯ばさみで引っ掛けようとして――。


「――」


 !

 ぽとりと地面に取り落としそうになる。

 咄嗟に土がつく前に掴んで拾い上げた。

 ……手元が狂ったからじゃない。

 だって、だって、今……。


「~~~♪」

「……!!!」


 歌だ。歌が聞こえる……! じっと耳を澄ませば、遠くからかすかに……。

 御珠様の歌ともまた違う。

 晴れの日の夕方になると聞えてくる、あの不思議な歌だ。

 歌詞の意味は、はっきりとは読み取れない。だけど、辛かった時に俺のことを励ましてくれた、あの優しい歌が。

 心に染み渡る高く澄んだ歌声が……!


「~~」


 耳を澄ませば歌は続いている。今日も、聴いているだけでも、励まされている様な気持ちになってくる。

 だけど……いつもの様に、その内、止まってしまうかもしれない。

 これを逃したら、再び聴けるチャンスは、もう無いかもしれない。

 そうしたら、いずれ俺はこの歌のことを、忘れてしまうかもしれない……!


「――!」


 居てもたってもいられなくなる。手に掴んだタオルを縁側の洗濯物の上に戻して、つっかけをもう一度深く履く。

 気が付けば庭を駆け抜けて、お屋敷の門を潜っていた。


 

 ◆ ◆ ◆



 冷静に考えてみるとお屋敷から出るのは、初めてこの世界に来た日以来だ。

 だから、声が一体どこから来ているかについての手掛かりなんて一つもない。

 だけど会いたい。あの歌を歌っている人に……!

 全速力で夕焼けの街中を駆ける。車が二台ほど通れる幅の道に、両脇に立ち並ぶ家。時々すれ違った人達が不思議そうにこっちを見るけれど、そんな視線も今は気にならなかった。


「はあ、っ、はあっ…………」


 息が苦しい。胸がつまりそうだ。でも、そんなことに構っている余裕なんてなかった。

 大丈夫、こっちで間違いないはず……! 根拠もないのに確信する。

 後はただ、走る、走る、走る。

 足の痛みも気にならない。声を逃がしてしまう方がよっぽど怖かった。

 幸運にも今日の歌はいつもよりも長く、まだ途切れていなくて。

 それに、徐々に徐々に、大きく聞こえる様になってくる……!


「……!!」


 通りの途中で立ち止まる。視界の先に有るのは、建物の間に挟まれた暗い路地。

 勘だけが頼りで、迷いなんか無い。すぐに俺は路地に入った。


「~~~」


 ! 声がまた、大きくなった!

 間違いない、こっちだ! 更にペースを上げ、あっという間に路地を駆け抜けて。 

 その先に現れたのは。


「あっ……」


 両脇にぽつぽつと民家や、茂みが並んでいる、長い上り階段。

 ざっと百段以上は有りそうな、そびえる様な階段。

 きっと明日は筋肉痛だって分かるぐらいに、足が鈍く軋んでいる。それに、呼吸の音も変だし、鼓動も早くなっている。

 だけど、そんなの構わない。

 石で出来た階段を一歩踏む。 

 それから、飛ばす様な勢いで駆け上がり階段を登っていく。

 全身が痛い、それに燃えている様に熱い……! 呼吸も何だかおかしくて、ちゃんと肺に正常に空気が入っているのか真剣に心配になる。

 だけど、先に階段の終わりが見えると一瞬で、体の痛みや呼吸の苦しさなんて、意識の外に追いやられた。

 そして俺はとうとう、最後の段を踏みしめて。

 長い階段を登り切り、ようやく足を止めた。

 爽やかな風に頬を撫でられる。足元に生えている葉っぱが宙を舞っている。


「ここは……」


 階段の先に広がっていたのは、なだらかな斜面になった小さな草原。

 ここは……丘……?

 この街に、こんなところが有るなんて。

 お屋敷の庭からだと、決して見えなかった、知らなかった。

 雨を浴びた後の草木の柔らかい香りがする。

 斜面の頂上――恐らく丘の真ん中には、一本の大きな木が、空に向かって枝を伸ばしていた。


「~♪」


 そして、歌ははっきりと聞こえてくる。きっとあの木に寄りかかって、歌っているんだ。 

 夕焼けによってできた木の影と、そしてその人のしっぽの影が、こちら側へと長く伸びていた。

 こんなに近くでもその歌声は、淡く透き通っていて……。

 ……。

 俺は再び、歩き出す。もう、走ることはしない。足音で、静謐な歌を邪魔したくなかったから。

 どくん、どくん……と、跳ねる心臓の音。

 三十歩ほど歩くとすぐに、その木のそばに辿り着いて。

 息を呑む。

 目の前に鮮やかな夕焼け空が広がった。日暮れが近づいて一層橙が強くなった太陽。

 その下に立ち並ぶのは、沢山の小さな木造の建物。その合間を縫うように道が出来ていて……。そんな街並みが、先が見えないほどまでに続いていた。

 上から見るそんな景色に、ただただ目を奪われていると……。


「~~。……」


 すぐ近くから聞こえていた歌が止む。


「あっ……」


 そして木に寄りかかっていた誰かは、ハッとした表情でこっちを見た。

 ああ、やっぱりだ。間違いない――。

 丘の上で歌っていたのは……ちよさんだった。

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