第五十四話 狐疑と潜入
雨の日の夜中、九尾の御珠様に呼び掛けられて俺は部屋の外に出た。
ほんの少し涼しい空気に当てられて、眠気は完全に消えて無くなる。
だけど雨戸が全て閉ざされているからか、どこか空気は淀んでいる様だった。
……御珠様は、どこに行くつもりなんだろう。そんなもやもやした気持ちと、空気が重なっていた。
板敷の縁側を踏む。ひやりとした感覚が足の裏に走った。
今夜は昨日の様に、天井が輝いて照らしてはくれていなかった。その代わり、紅い狐火がふわふわと漂っていて、御珠様と俺のことを律儀に待ってくれていた。そして俺達が出ると狐火は、ふわふわと漂って移動を始める。
「こっち」
俺は御珠様の隣に並んで、訳も分からず付いて行くしかない。閉まっている雨戸の外では今、どれぐらい雨が降っているんだろう?
夜、雨の日、御珠様と一緒。
何が起こるのか想像するだけ無駄だし、正解に辿り着いたところで回避できる訳じゃないけど……ついつい、考えてしまいそうになる。
「やっぱり、あのまままぐわっておけば良かったかのう?」
と、そこで御珠様が振り向いて。さっき俺の部屋に忍び込んで、九本のしっぽでがっちりと全身を束縛したことについ、冗談混じりの口調で言う。
「……いきなりで、本当にびっくりしましたよ……」
御珠様の……大きなおっぱいの谷間に押し付けられたり、顔をなめまわされたりした感覚が強烈に焼き付いている。あんなの、あまりにも唐突過ぎて、どうすることもできない……。
「まあ、おぬしがその気になったら、いつでもどこでも言ってくれると良いぞ?」
そんな御珠様の表情はいつもと変わらない様に見えた。……?
「おっと」
俺が返事に窮している内に、すぐに御珠様は立ち止まる。
当然、狐火の動きも止まった。だけど、まだ縁側を少ししか進んでいないのに……。
「しっ……」
すると御珠様は口元に右手の人差し指を当てた。立ち止まったのは……俺の部屋の隣――つまり、灰白猫の女の子の、ちよさんの部屋の前。
「ちよは、まだ眠っているかのう……」
そして御珠様は、ちよさんの部屋の障子に向き直る。
……どうやらここが、御珠様の言っていた『寄っておきたい所』らしい。
とにかく、御珠様が何をするつもりなのか、察せてしまう。
そして御珠様は妖し気な、悪戯っぽい表情を浮かべながら、そっと障子に手を掛けて。すすす……と、静かに、わずかな隙間を開ける。そして、そろりそろりと、ちよさんの部屋の中に無断で侵入していく。
「いや、マズいですって、御珠様……!」
返事は分かり切っていても一応俺は忠告する。
「平気平気、気楽にのう」
と、御珠様は当然のごとく侵入を続ける。分かり切っていた答えだった。
「う、む……」
九本のしっぽをつっかえない様に通るのには、ちょっと苦労していたみたいだけど……。
「……よしっ」
最終的には通ることができて、御珠様は満足そうに額を拭った。
御珠様は何をするつもりなのか。大方ちよさんにも、さっき俺に仕掛けた様な寝起きドッキリをするつもりなんだろうな……。
普通に起こせば良いのに……。そんな御珠様の様子を、呆れながら見ていると。
「……景、景」
御珠様がちらっと、こっちを振り返って手招きをして、ひそひそ声で話す。
「なんですか……」
「景も、来ようぞ」
「嫌です」
「今なら絶対にバレぬぞ」
「嫌ですって……」
「お堅い奴じゃな……」
と、御珠様はむーっと頬を子供っぽく膨らませて、それからそっと部屋の中に入っていく。
いやいや、俺が入ったらそれはただの変態だ。というか御珠様だって、起こすためだけならもっと普通の手段を使えば良いはずなんだが……。
と、心の中で突っ込んでいると。
「――? み、御珠、様…………!?」
開いた障子の隙間、何も見えない暗闇の向こうから、ちよさんの驚いた声が聞こえてくる。
「ふふっ、ちよはかわいいのう……!」
「え、えっ……。…………!」
御珠様の甘い声。そしてちよさんの声にならない声。大方、ちよさんの顔にぎゅむっと御珠様の胸が押し付けられたんだな……。
「ふふ、たまには存分に甘えても良いのだぞ……?」
「く、くすぐったい、です、御珠様……!!!」
「照れる顔もかわいいのう」
「ひゃ、ひゃあっ!」
「ふふ、ちよのほっぺたの毛はやわらかいな。どれ――」
……。
ススス……からり。
俺はちよさんの部屋の障子をそっと閉めて、背を向けて雨戸を向く。
……うん。何も見えていなかったし、何も聞こえていなかった。
それに、今からしばらくの間は何も見えていないし、何も聞えていないことにしよう……。
◆ ◆ ◆
……それから、十分ほど経過して。
「待たせたな、景」
ようやくふすまが開いて、ますます元気そうになった御珠様が溌溂とした様子で部屋から出て来た。
「? ……??」
そしてそのすぐ後にちよさんが部屋から出てきた。
「……こんばんは」
「こんばんは……」
お互いに挨拶をする。ちよさんのしっぽは、所在なさげに、くいくいと動いていて。
ああ、やっぱり、ちよさんも恥ずかしかったんだな……。
「さて。それでは早速――」
一人とても満足そうな御珠様が、再びはだけた着物を直して。縁側の先を見つめる。
「行こうかの」
悠然として御珠様は歩き出す。九本のしっぽがゆらりゆらりと揺れている。
……御珠様。それにちよさんも一緒に。
本当に、一体、どこに向かうつもりなんだ……?
「あ、あの、すみません……!」
俺は意を決して尋ねてみる。やっぱり、このまま何も知らされないと不安だ。
せめてどこに行くかだけでも、教えて欲しい。
「……」
だけど御珠様から返事は返ってこなくて。ただ、ぴくりとしっぽが軽く反応したから、聞こえてはいるのだろう。
「あの――」
俺が再び口を開きかける。すると。御珠様は、ゆっくりと振り向いて……。
「……!」
悪寒。
「なにかえ?」
暗がりの中、御珠様の黄金の瞳が妖しく輝く。




