第四話 御珠様と三人のケモノ
障子の向こうの部屋は畳敷きで、手前の板敷の部屋よりも更に広く感じた。
部屋の奥には、龍の絵が書かれた金の屏風が飾られていて。
「よく来たのう、おぬし」
そしてその屏風の前、周囲よりも二枚ほど高く積まれた畳の上に座っている誰かが、落ち着いた声で俺に話しかけてくる。
まるで、このタイミングで俺が来ることを予測していた様に。
「あっ……!!」
この声は……! 聞き覚えが有る。家を覗いた俺に歌を歌った、あの女の人。
一気に鼓動が加速する。
見れば、その女の人も当然、獣人だった。さっきはコスプレだと勘違いしていたけれど……。
思った通り、女性にしてはかなり背が高い。
170センチの俺よりも、少なくともあと5センチは高いだろう。
着ているのはさっきと同じ、色とりどりの刺繍の施された朱色の豪華な着物。髪は黄金色の綺麗な長髪で、腰まで届いてしまいそうなぐらいに長い。
立派なしっぽは大変にもふもふとしていて、しかもかなり数が多かった。鼻先から口先にかけてのマズルと呼ばれる部分は長く、しゅっとしていて。
犬にほんの少し似ているけれど、明らかに違う。
なめらかで美しい体毛の色は、黄色とも橙色とも言い切れない。
強いて言うなら……狐色。
そう、狐だ。九尾の狐の、獣人……。
「くふふ」
と、微笑む狐から、俺は目が離せなくなっている。
……美人だ。いや、狐を美人って思うって、おかしいかもしれないけれど、それでも、そんなこと些細に思えるぐらいに、美人だ……。
実際には何歳か分からないけれど、見た感じ、年は二十代前半ぐらいか? とにかく、狐は大人の女性の魅力に満ちている。
狐が元々持つ洗練さをそのまま引き継いだような、端正な顔立ち。
それに加えて、その身には妖艶な雰囲気を纏っていて。金色の瞳を持った、少しつり目気味な目にじっと見据えられると、何故だか胸がきゅっとしてしまう……。
それと、狐から目が離せない理由がもう一つ。
着物で抑えきれず、若干はだけてしまっているほど、狐の胸が、かなり大きくて……。
それは、もふもふとした毛に包まれて、とても柔らかそうで……。
自分に呆れつつも、やっぱり横目でちらっと見てしまう。……やっぱりデカい……って、今はそんな場合じゃない。
煩悩を打ち消すために、俺は狐に話しかけようとする。
「……コスプレじゃ、なかったのか……」
さっきは耳としっぽのコスプレとしか思ってなかったけど……まさか、本物だったなんて。驚きや戸惑い、色んな感情を抱きながら、どうにか声を絞り出す。
「「あ!」」
だけど、それは別の声によってかき消された。
驚いているのは、正面に座っている九尾の狐じゃなくて。
その左右にそれぞれ座って、九尾の狐にぴたりと体を寄せている、二人の小さな白狐だった。
九尾のしっぽの陰に隠れて、見落としていたけれど、狐はまだ、いたらしい。
その二人の外見は生き写しかと思うぐらいそっくりだ。肩に掛かるぐらいの濃い黒髪に、朱色に塗った目尻。全身を包む毛の色は、雪の様に真っ白だ。当然着ている深い紺色の着物の柄もお揃いだ。
「なんて無礼な。客人」
「御珠様に失礼です!」
右側に座っていた方の子狐が、さっと手を挙げる。
「痛っ!!!」
全身に、走る、衝撃。
――後ろから突然、思いっきり床に叩きつけられる!
悶える暇も与えられず、地面に伏すように押さえつけられて……!!
「くっ……!」
な、何だ!??
辛うじて振り向けば、笠をかぶった男が、俺の両腕を固めている。
その男は、まるで足軽の様な簡単な防具を胴に付けている。茶色とグレーと白が混ざったような、比較的複雑な毛の色。
笠の陰に隠れてその顔はよく見えない、顔の輪郭付近と首周りの毛が白いことぐらいしか分からない。そんなことお構え無しに、男は俺の両腕を締め上げる。
「痛たたた!」
ぎり、と関節の悲鳴。軋む音。
痛い、痛いって! やばい、これ、折れる……!!!
「御珠様を誰だと心得ているのです?」
「身の程知らずな奴め」
九尾の両側の二匹の狐が、ざまあみろという風ににやにや笑う。
「悪かった、悪かったって! ごめんなさい、ごめんなさい!」
訳も分からずひたすらに謝っていると、九尾の狐の落ち着いた声がする。
「離してやれ、十徹」
その声に応じてようやく俺の腕が解放される。
一応加減はしてくれていたらしく、折れてはいないみたいだけど……。
い、痛たかった……。
「都季も灯詠も、そんなに怒らなくても良いではないか」
たしなめるように九尾の狐は左右に言う。
「……しかし」
「この者は初めてこの世界に来たのだぞ」
「ですが……!」
「慣れないことが有っても不思議ではないだろう?」
「「……」」
そんな九尾の狐の言葉に、都季と灯詠と呼ばれた子狐たちはようやく静かになった。
しかし、諌められた後も、白狐達はじっと俺のことを睨み続けている。
子供みたいに頬を膨らませながら。いや、実際恐らくまだ子供なんだろう。見た目で分かる。
同じ狐と言えど、九尾の狐とは違って人間の子供と同じぐらいにちっこいし、表情もまだ幼い。
人間で例えると7~8才ぐらいな感じか?
こっそりと様子を伺ってみれば、屈強そうな大男は障子の前に立って番をしている。
190センチは有るんじゃないかというぐらいの巨体だ。やっぱり、顔は笠の影に隠れてよく見えない。笠に開けられた穴からは、二本の立派な角が出ている。
ぎろり、と影の奥で一瞬男の目が輝いた。
これは、逃げられない……。本能的に悟ってしまう。
「おぬし、名は、なんと言う?」
不服そうな小さな狐達の頭を撫でてなだめながら、九尾の狐は俺に問いかける。
空気が震える。ぴり、と、緊張がその場に一瞬で漂った。
「あ、浅野景……と申します」
自分の意志というよりも場の雰囲気、いや、九尾の狐の雰囲気に圧倒されて敬語が自然に出る。
圧迫面接もいいとこだった。
「わらわは名を、御珠という」
「御珠、様」
「うむ。そして、今おぬしの後ろに立っておるのが、カモシカの十徹」
なるほど、カモシカか。どの種族か分かったことに、何故かほんの少しだけほっとして。
振り向けば背後に立っている大男、十徹さんと目が合った。
こくり、と十徹さんは軽く会釈をしてくれる。恐怖心と震えを抑えながら何とかそれを返す。
「わらわの左側にいる白狐が都季で、右側にいる白狐が灯詠じゃ」
次に御珠様は、両側に居る白狐を交互に見る。
「「べーっ」」
すると、示し合わせた様に二人は俺に向かって、思いっきりあっかんべーをしたのだった。
子供のすることなのに、いや、子供のすることだからこそ、単純ながら心に刺さる……。つらい。
「というわけで、これからよろしくな、景」
御珠様がお辞儀をしたので、俺は慌てて頭を下げる。
「は、はい、よろしくお願いします」
御珠様。十徹さん、都季と灯詠。
名前が判明したことで、得体の知れない恐怖心が少しだけ和らいだのも確かだ。
だけど、やっぱりなにが何だか分からない……。
「そうは、言っても」
悪戯っぽく口元に手を当てて御珠様が、くすりと笑う。その表情はとても生き生きとしていた。
「何も分からぬこんな状況では、のう。矢張り落ち着かぬであろう?」
『そんな顔をしておるよ』と付け加える御珠様。
そりゃそうだ。
一体ここはどこなのか、この人達は誰なのか、俺はどうなってしまうのか、一切知らないのだ。不安になるに決まってる。
「はい、正直言って、全く……」
ここは素直に答えた方が賢明だな。自分でいくら考えたからといって、答えが出るわけでもないし……。
「ふふふ、どこから話し始めることにするかのう?」
御珠様は袂から扇を取り出して少し広げ、それを口元に当て、小首を傾げる。
「まずは、そうだな」
けれど御珠様はすぐに扇を畳んで、
「この場所は、おぬしの暮らしていた世界とは、異なる世界にある」
いきなり本題から切り出したのだった。
「……!」
既に予想は付いていたにしても、他の人から改めて聞かされて、動揺は隠せない。
やっぱり、やっぱりそうだったのか……!
「聞くところによると、おぬしら『人間』はわらわ達のことを『獣人』と呼ぶらしいな?」
俺は黙って頷く。人間と、獣人。
「まあ、その様な呼び名や区切りは、さして問題ではないが、のう。しかし、あえて分かりやすく言うならば――」
一瞬、御珠様はぴたりと話を止めて。
その黄金の瞳が、妖しく輝いた。
「――ここは、わらわ達の様な『獣人』が住む世界ということになる」
「それって……」
「ああ、おぬしは人間で初めて、わらわ達の世界に来たのだよ」
……目眩がした。