第三十九話 よみがえる謎
俺が御珠様と話している間。誰かずっと、俺の様子を観察していた。
……気のせいじゃ、ない。
「……」
訝しく思いながら俺は二階の長い廊下を歩き、階段を降り、一階の廊下に立つ。
「――!」
やっぱりだ。誰かに、後ろから見られている。
すぐに振り向いてみても、当然の様に誰もいない。でも、確かに今、誰かが遠くから俺のことを眺めていたはずだ。直観がそう告げている。
それは、昨日俺を観察していたのと同じ気配。
……また、都季と灯詠の二人の仕業か?
だけど最早、それだと説明がつかない気がする。
昨日、この気配の正体は、耳を撫でて貰て欲しいと俺にこっそりと頼むために、後をついてきている子狐達だとばかり思っていた。だけど、そんな二人の願いは、もうお屋敷の皆にバレてしまったのだ。今更内緒で、ねだる機会を伺っているとは考え辛い。
いや、待てよ……?
そもそも、昨日俺の様子を観察していたのは、本当に都季と灯詠だったのか?
例え大人しかった昨日の二人でも、あんなに音を消して黙って観察することなんて、できるのか?
あの二人ならもっと騒いで、尾行もすぐに露見してしまいそうな気がするけれど……。
でも、あの白狐の双子じゃないなら一体、気配の正体は?
ただ掃除をしているだけの俺の姿を観察して、得の有る人? でも、そんな人本当に居るのか?
居ないとしたらやっぱりそれは……幽、霊。
そんな突拍子も無い考え、普段の俺だったら笑い飛ばしていた。けれど、この世界には妖術が存在するんだから、幽霊とか妖怪とかお化けの類だって無いと言い切ることはできない。
それに、昨日も今日もあの気配からは、足音すらも聞こえてこなかったし……。
本当に幽霊なら、どうして俺を? それとも何の目的もなく、ただ俺のことを観察しているとか?
特に何も考えず、ただじっと後をついてくるだけで。
ぞわっと、身の毛がよだつ。
だとしたら、かなり不気味だ。気配の正体が幽霊でも、そうじゃないにしても、向こうが何を考えているのが全く分からないのが恐ろしい。
脅かされるのも嫌だけど、向こうからは決して手を出してこないで見てるだけ……というのも、嫌な想像を掻き立てられて、背筋が凍る。
……とにかく、このままここでじっとしても良いことは無い。
俺はなるべく後ろを見ない様にして、早足で廊下を進んでいく。
今俺が歩いている廊下は、両側にずらっと障子が並んでいて窓が無く、昼間なのに日光が差し込まないから、ほんのりと暗い。他の人達の声も聞こえてこない。
謎の気配が動く気配はしなかった。とっくに飽きて、居なくなっているのかもしれない。
だけど反対に俺は、徐々に早足になってくる。
『とーりゃんせ、とーりゃんせ』
あの歌。今は、御珠様の歌を聞かされた時の、あの奇妙な駆り立てられる様な感覚と同じ。
この気配も、御珠様の仕業か? 今度は、声すらも聞こえてこないのに。なのに何故か、不気味だ。
……御珠様は、何を考えている?
何であれきっと、俺に危害が降りかかる様な大したことじゃないだろう。それに、気配だって俺を観察するのを止めたみたいだし……落ちつけ、焦るな。そう思っていても、鼓動は早くなっている。
「あれは……!」
見れば、廊下の突き当りに有る障子が、わずかに開いていて。
そこから、白い明かりが漏れている。それに、誰かの声も聞こえてくる……!
早歩き、いや、殆ど走っている様なスピードで俺はそのふすまの前に着く。そして、すがる様な気持ちでふすまを引いて、中に入った。
「あっ、景」
「……景?」
そこに居たのは、白狐の双子の――都季と灯詠。
俺が辿り着いたのは、いつも全員でご飯を食べているお茶の間。
縁側からは眩しい日光が差し込んでいる。子狐達は、長方形の大きなちゃぶ台のそばに座っていた。
「よ、良かった」
どっと疲れが押し寄せる。後ろ手でふすまを閉めた途端に力が抜けて、その場に座り込んでしまった。
「ありがとうな、都季も灯詠も……」
気配からは、無事に逃げ切ることができたみたいだ。子狐達がここに居てくれたお陰だろう。
「な、何か変なものでも食べたのですか?」
「いつにも増して……様子がおかしい」
「大丈夫、平気だよ」
俺は安心して立ち上がり、怪訝そうな顔をする子狐達のそばに寄る。
「あ、もしかして、景も食べたいのですか?」
「少し遅めの、昼ごはん」
見れば子狐達は、海苔を巻いた大きなおにぎりを手に持っていて。
ちゃぶ台の上には、ご飯が入って湯気の立つおひつと、小さな皿に盛られた塩。それから海苔の缶。
蓬さんの言っていた通り、今日の昼ごはんは塩むすびらしい。
きょろきょろと辺りを見回しながら俺は、いつも自分が座っている場所につく。
俺の左隣には灯詠が行儀良く正座をしている。ちゃぶ台をはさんで灯詠の正面には、同じく都季が正座を。今、お茶の間にいるのは、俺と都季と灯詠の三人だ。つまり、都季と灯詠は気配の正体じゃなかったということが確定する。
「他の人達は?」
「皆、多分、自分の部屋にいるのです」
「素敵な休日」
と、答えてから子狐達はまた、おにぎりをほおばりはじめた。ごはん粒をほっぺたにくっつけている二人を見ると、自然と心が和んでいく。……お腹、減ったな。
「俺も食べていいか?」
大きなお皿の上には、子狐達が先に作っておいたのであろうおにぎりが、四つほど置かれていた。
その内の一つに手を伸ばそうとすると……。
「駄目です」
「……駄目」
子狐達は皿を持って、さっと俺の手から遠ざける。
「いや別に、一つぐらい良いじゃないか」
「これは、これは私達のとっておきなのです!」
「綺麗に、握れたのに……」
おにぎりを守ろうと、子狐達は訴える様な目線でじっとこっちを見つめてきて……。
「このおにぎりは全力で守るのです!」
「……渡さない」
「分かった、分かったよ」
その本気さに、これ以上ねだる訳にもいかなくなる。確かに、このぐらいは面倒がらずに、自分で作らないとな。
「じゃ、俺も作ろうかな」
腕まくりをしてから俺は、おひつの隣に置いて有る、お米を上手く握る為の水の入った、小さな桶に手を伸ばそうとするけれど……。
「あ、駄目なのです!」
「いけない」
と、子狐達が今度は、慌ててその桶の方を遠ざけた。
「? どうしたんだ……??」
「手を洗わないと駄目なのです」
「石鹸でしっかりと」
と諭すように伝えられ、はっとする。
うっかりしていた。おにぎりなんか特に、手を洗わないといけないよな。
俺は立ち上がって、再びふすまを開ける。
「俺の分のご飯も、ちゃんと取っておいてくれよな」
振り返って、一応子狐達に忠告しておく。
「前向きに善処するのです」
「心配しないで、ゆっくりゆっくり洗ってきて」
「……」
絶対、すぐに戻って来よう。決意して、台所に向かって廊下を急いだのだった。
◆ ◆ ◆
今度はあの気配を感じることも無く、安心して俺は台所までの廊下を歩いている。
台所に辿り着くと、そこには誰もいなかった。
早速、流しで手を洗おうとすると……あれ、蛇口が無い。
そうだ、この世界では……。
俺は台所から石鹸を借りて、勝手口を開ける。
その先に広がっているのは、四方をお屋敷の建物に囲まれた正方形の裏庭。広さは大体、縦横十メートルぐらい。芝生の生えたその空間の中心には、目当ての物――屋根付きの井戸が有る。
俺は勝手口に置いて有った下駄を履いて、裏庭に一歩踏み出した。
……けれど、反射的に左足はピタッと止まってしまった。
蓬さんの言葉が、脳裏をよぎる。
あれは、水神様の、井戸。
――水神様。




