第三十四話 なでなでたいむ! 下
「ん……」
さわっ……という滑らかな都季の耳の毛の感触。俺の右手がゆっくりと、ふわふわの白い毛に少し沈む。本当に、積もった雪みたいだ。
撫でるだけで、良いんだよな。
俺はそっと都季の右耳に触れて、指を動かしていく。
狐の耳は綺麗に少し尖った三角形で、他の種族と比べても大きくて厚みも有る。
撫でがいが有るって言うと何だかおかしいけれど、とにかく、沢山撫でてあげた方が良いだろう。
「……」
あんな風に頼まれたからか、指先に妙に意識が集中してしまっている。
撫でて欲しいだけならわざわざ夜中に俺の部屋に来なくても、食後とかにでも普通に頼んでくれて良かったんだけどな。別に、恥ずかしがるようなことでも……。
「……あ……」
ふと、都季の声が聞こえてくる。
「……ん、ん……ん」
くすぐったいのか気持ちいいのか都季は、俺が手を動かすたびに小さく声を漏らして、わずかに体をよじっていた。
……前言撤回。やっぱり他の人がいる場所で頼んで貰わなくて正解だった。
ただ耳を撫でているだけなのに何なんだ、この犯罪の香りは……。
「……そんなに、気持ち良いのか?」
「う、うん……あ……」
都季は目を閉じて、体を少し震わせている。しっぽもとうとう堪え切れなくなったみたいで、ぱたぱたぱたぱた……。人間の俺には想像もできないけど多分、物凄く気持ち良いんだろうな……。
「どうだ?」
うん、そろそろ良いだろう。右耳を満遍なく撫で終わった俺は、都季に声を掛ける。
「……左も」
「ああ、分かった」
こくこくと都季が何度も頷いて促したので、俺はその通りに今度は左耳にそっと触れ――。
ガラッ! その時、部屋のふすまが勢い良く開いた。
「!」
な、何だ? 呆気に取られていると、誰かが俺達の下に駆け寄ってきて、叫んだ。
「あーっ! やっぱり!」
白狐の灯詠は、俺とその膝の上の都季を交互に見て、驚いた様な呆れた様な表情を浮かべた。
「い、いや、違う、これは……」
やましいことなんて何もしていないはずなのに、しどろもどろになってしまう。
どうして、灯詠まで俺の部屋に?
「眠ってたはずなのに……?」
流石の都季も、これには驚いているらしく、ぱちぱちと瞬きをして、呆気に取られた表情を浮かべている。灯詠まで起きて、ここまでやって来るのは予測できなかったらしい。
「都季! 抜け駆けはズルいのです!」
そして灯詠は俺の膝の上、都季の隣に割り込んだ。
「さあ、景、私の耳も撫でるのです!」
灯詠は振り返って、今度はうずうずとした様子で、上目遣いに言う。
見れば都季と同様、灯詠のしっぽもぱたぱたぱた、と激しく動いていて……。
「分かったから、静かに、な……」
こうなると、都季だけ撫でてあげる訳にもいかない。正直、あんまり長い間撫でているのも良くない気もするけれど……。
「じゃあ、ちょっと都季は待っててくれ」
流石に二人同時だと手狭だし重いので、都季には一旦膝から降りて貰うことにする。
「……どうして」
「まあまあ、後で撫でてあげるから」
不機嫌そうな都季に声を掛けてから、代わりに膝に乗った灯詠の頭をゆっくりと撫でてあげる。
流石は双子。灯詠の耳の形とか触った感覚は、都季とかなり似ていた。
「あ、け、景がなでるの、すっごく、気持ちいいのです……」
……反応も大体同じ。さっきの都季の様に目を閉じて体を震わせて、時々小さく声を漏らす灯詠。
ただ、灯詠の方が口数が多いので、より危険度が高まった気がしてならない。普通に撫でているだけなんだが……。
「……じゃあ、左はこんなもんで良いよな」
そう言って灯詠の左耳からそっと指を離すや否や。
「交代」
都季は痺れを切らしたのか、無理やり灯詠を押しのけたのだった。
「あ、何をするのです! 」
そんな都季の態度に灯詠の方も反発して、ぐいっと押し返す。
「元々は、灯詠が割り込んできた」
都季も再び灯詠をのけようとする。普段は大人しいはずの口調にも、少し力が籠っている。
「だからって、今のはズルいのです!」
「……そう?」
ピリピリとした緊張が走り、見るからに一触即発の雰囲気だ。
こいつらも、喧嘩するんだな……って、呑気に考えている場合じゃない。
「いや、お前らちょっと落ちつけって」
夜中に騒がれたらたまったものじゃない。そもそも、どっちが先に撫でて貰うかで喧嘩するのはあまりにもアレだ。えーっと……。
「じゃあ、二人一緒に乗っても良いぞ。それなら文句無いよな……?」
「「……」」
慌てて仲裁すると、子狐達はじーっとお互いけん制し合うように顔を見合わせる。
腹の中を探るような無言の時間は、そのまま数分続いて……。
「……まあ、良いとしましょう」
「……中々、名案」
一応子狐達は納得してくれたらしい。これで一安心と、ほっとするのも束の間。
「それじゃあ、早速再開するのです!」
「善は急げ」
すぐさま子狐達は同じタイミングで俺の膝の上に飛び乗るのだった。灯詠は左側に、都季は右側に。
「う……」
昨日も思ったけれど……こいつら見た目は太っていないのに、意外と重い。
「喧嘩は止めろよ……」
もう一度念を押してから、左手で灯詠を、右手で都季をそれぞれ撫で始める。
「景は、本当に撫でるの上手なのです! あ、そこ、すっごく良いのです……!!」
「……気持ちいい…、あ……」
あくまで業務的に、業務的に。無心を貫こうとするけれど、二人の声に掻き乱されて到底無理だった。いよいよ加速していく犯罪の香り……。
「あれ?」
「……?」
しばらく撫でて、俺がさりげなく手を引っ込めると、子狐達が悲しそうな顔をして見上げてくる。
「もう、止めちゃうのですか……?」
「……もっと」
「いや、でもちょっと、これ以上は……なあ」
していることは普通だけど、この状況は非常に危険だ。夜中だし、二人の反応も何か妙だし……。
「そんなの無責任です! ここまで来たら、ちゃんと最後までやり遂げるのです!」
「早く撫でて……」
「……できません」
俺は首を横に振る。自分の身の安全の為にも、これ以上は断った方が懸命だろう……。
「「……」」
すると子狐達は泣きそうな顔を見合わせる。そして、こくり、と一回大きく頷く。
「それなら……仕方ありません……」
「……最終手段」
……何か、嫌な予感。
「お前ら何を……うわっ!」
何のつもりだ? と尋ねる間も無く、子狐達が突然のしかかって来た。支え切れず、後ろに倒れ込む。
するとその隙を突いて二人は俺の手首を取って、無理やり自分達の耳に触らせて、撫でさせる。
「景の手、とってもくすぐったいのです……!」
「……ん、……」
「お、お前ら、ちょっと冷静になれって!」
流石に強引過ぎだ。というか最早これだと、撫でるのが俺の手で有る必要性は無いんじゃないか??
見れば二人ともしっぽを激しく振って、赤い瞳が妖しく光っていて。慣れない夜更かしをした眠気で、訳が分からなくなっているのか……?
「……景……」
「もっといっぱい、触って欲しいのです……。……あれ?」
ふと、灯詠が何かに気が付いて顔を上げる。その視線の先、空いた障子の向こうには。
「!!」
……十徹さんと、蓬さんが立っていた。
二人の背後には月。逆光なので、一瞬誰だか分からなかったけれど。
「……」
……着物を着た十徹さんの顔は、前髪で隠されていて、何を考えているかは良く読み取れない。
でも、それは普段からなので、特に気にならなかった。
……問題は、蓬さんの方だ。
部屋の入り口で仁王立ちをしている蓬さんは、いつもの温和な様子からかけ離れた、限りなくクールな表情をしていて……。
氷の様に冷たい目線で見つめられ、背筋に走る、悪寒。
「――景君。これは、どういうことかな……?」




