第二話 もふもふわーるど
「――!」
女の声に不意を突かれ、持っていた鞄を手からうっかり滑らせてしまう。
ドサッ。
静かな通りに響き渡る、鞄の鈍い音。
途端に空気が張り詰め、背筋が凍る。喉元まで出かかった声を必死に押しとどめた。
だけど、それに何か意味が有ったとは思えない。やばい、気付かれた!
「よい、よい。構わぬ。どうせおぬしには関係のない話」
ふふふ、と怪しげな笑い声。女はこっちを見てはいない。だけど、分かる。
明らかに、俺に、話しかけている。
「それに……ちょうど良かった」
逃げろ。本能がそう伝えていた。だけど足が、動かない。
蔦が絡みついてしまったみたいに、動かせない。女から、目が逸らせない!
「……のう」
女の黒髪が、室内の行燈の灯りを仄かに映している。すっと静かに息を吸う音がして。
「とーりゃんせ、通りゃんせ」
そして、ささやきかけるように、女は歌い始めた。
「こーこはどこの細道じゃ」
これは、この歌は……。
「天神様の細道じゃ」「ちっと通して下しゃんせ」「御用のないもの通しゃせぬ」――。
なんて、魅力的な歌声なんだろう。
淀みなく、美しく響いていて、だけどどこか艶めかしくて……。
「――いーきはよいよい、帰りは」
いや、まずい!
歌が終わりに差し掛かって、はっとして、我に返る。
これ以上聞いたら、駄目だ!
目に見えない呪縛を何とか振りほどいて、すぐにその場から逃げ出した。
逃げろ。
逃げろ!
◆ ◆ ◆
そして今俺は、無人の道を来た方向へと戻っている。
脇目も振らずに、息を切らしながら、全速力で走っている。
心臓が、心臓が破裂しそうだ! だけど、足は止められない。
一瞬振り向いて確認する。だけど、誰も追いかけて来てはなかったし、誰かの足音が近づいていない。
それに、よくよく考えれば、女は俺が覗いてしまった俺を咎めたり、責めたりもしていないのだ。
ただ、歌を聞かされた……だけ。
でも、それが余計に不気味だった。
得体の知れない恐怖が、焦りが、徐々に徐々に、耐えきれなくなってしまうほど膨らんでいく。
――覗き見なんて、絶対にするべきじゃ無かったんだ。
無人の道のおかしな空気にあてられて、妙な高揚感に駆られて調子に乗っていた。
異常な状況だからこそ、慎重になるべきなのに、さっきの俺はどうかしていた……!
だけど、後悔しても、もう遅い。
――きゅっ。
「?!」
今、誰かに、手首を、掴まれた?!!
だけど、後ろには誰もいない。その感覚もすぐに消えてしまう。
でも、違う。何かが、確実に俺に迫ってきている、待てと言っている!
待たないと、さもなくば……。
背中を伝う冷汗を拭っている余裕も無く、逃げる。
相変わらず暗く寂しい通りに、地面を蹴る俺の足音がだけがこだましている。
『行きはよいよい帰りは怖い』。
走っても走っても走っても走っても女の歌が振り払えずに、ずっと頭の中に響いている。
『怖いながらも………』
これ以上、振り返っちゃ駄目だ。
前を向いて、走り続けなければきっと、何かに、飲み込まれてしまう。
とにかく、異変が始まったあの交差点を超えて、いつもの街に戻れば大丈夫だ、逃げ切れるはずだ!
そんな希望を抱いていた。
だけど、いくら走っても、見覚えの有る交差点は現れない。一本道だから、戻る道を間違えるはずがないのに。それなのに、同じ道を延々と回っているような気がしてしまう。繰り返される似たような景色。
真っ暗なビル、灯篭。
嫌な予感がする。
もしかして俺は、この不気味な、誰もいない場所から、もう出られないのか?
一生? 一生???
嘘だ!
頭の中に浮かんだ不吉な可能性に首を振る。
足を止めてしまえばその瞬間に、心が折れてしまいそうだ。
その時。
「――!!」
聞こえる、雑踏の音が。がやがやがや、と何処からか。
俺の知っている、あの賑やかな大通りの音が……。
「これは……」
――すぐ近くだ。
足を止めて、周囲を見回し音の方向を探る。
人波に紛れればきっと、この恐怖から解放される。
息を潜め、全神経を集中させる。
!
一本の細い路地から、うっすらと白い明かりが漏れ出しているのを発見する。しかも、話し声も聞こえてくる!
気が付いた瞬間には走り出して、その路地に入っていた。
ここを抜ければ、解放される!
一気に路地を駆け抜けた。
途端に、ふっと緊張が切れ、倒れるように、地面に両手両膝をついてしまう。
「ぜーっ、ぜーっ………………ぜー……」
つ、着いた……。
でも、疲れた。死ぬかと思った……。胸に手を当てて、呼吸を整えようとする。
心臓がこれでもかというぐらい激しく脈打っていた。
一体、あの不気味な場所は何だったんだ?
人が一人も歩いていないし、明かりは灯篭だけだし……。
それに、あの女は、何者だったんだ? どうしてあんな場所でコスプレを? それに誰と、何の話をしていたんだ……?
どうして、歌を……。
分からない。だけど、ここまで来れば大丈夫だ。
ようやく息も落ち着いてきた。
俺は顔を上げて、立ち上がろうとする。
だけど、ぴたりと動きが止まる。
目を、疑った。
「何だよ、これ……」
アスファルト、電灯、高層ビル。目の前の景色の中にそんなものは一切無かった。
見ればアスファルトではなく、砂利の上に俺は立っていて。電灯の代わりに、明かりには提灯が使われていて。建物は全て時代劇を連想させる、瓦葺の日本家屋。当然店の看板も、全てが知らない名前ばっかり。
目をこすってみても、その景色は変わることはない。何時までたっても目は醒めない。
醒めないどころか、異様な風景はくっきりとした輪郭を持ってくる。
いやいや……冷静になれって。
俺は首を横に振る。
きっと俺は今、疲れているんだろう。疲れて、夢を見ているんだ。
あの家を覗いたところから、いや、さらに遡って交差点を渡ったところから既に全部が夢だったのだ。もしかすると本屋で立ち読みをしていたところからかもしれない。
俺はきっと今、自分の部屋のベッドの中でぐっすりと眠りこけているんだ、きっとそうだ。
だって、突然こんな奇妙な場所に迷い込むなんて、夢でなければ有り得ない。
何だ、全部夢だったのか……。
そんな簡単なことにようやく気が付いて、すっと胸が軽くなる。
さっきまでの恐怖も全て夢の中の空回り。
だけど、夢なら仕方がない。むしろ早めに夢だと判明した分、ラッキーなのかもな。
そんなことを考えていると、
「あの、具合悪いんですか……?」
誰かに、ぽんと肩を叩かれる。男の人の声。
ずっと通りの真ん中でへたり込んでいたから、心配されてしまったのだ。
「あ、すみません。大丈夫で――」
慌てて俺は立ち上がって、振り返る。
あれ? 肩に触られた感触が……。
「――?!」
俺に声を掛けてくれた人は、こっちを見てただ唖然としていた。
……俺もきっと今、こんな表情をしているのだろう。
だって、目が合ったその人が、明らかに異様な外見をしていたのだから。
ヤギだ。白ヤギが着物を着て、二足歩行を……。
?
?????
これも、コスプレか? こんな街中で?
め、珍しいことも、有るんだな……、と思いながら周りを見回してみれば。
「!」
心臓が止まりそうになる。
往来を歩いている中に、俺の様な『人間』は、誰一人としていなかった。
兎、犬、羊、鹿――。
人間の代わりに、様々な動物が街を、二足で歩いている。
いや、動物という言い方は正確じゃない。その人達は皆、髪の毛は生えているし、着物も着ているし、表情も人間の様に豊かだから。
人間と動物、その両方の特徴を併せ持っている種族。
――獣人。獣人だ……!
「まさか……」
嘘だろ、と否定しようとするけれど、無理だった。
ここは映画の撮影に使うセットで、歩いている人たちは全員特殊メイク……なんかじゃ断じてない。建物にしても、獣人たちにしても、作り物が醸し出す嘘らしさがまるで無い。
CGでもこれほどまでに再現するのは無理だ。何より実体が有って、触れられるのだから。
かと言って、精巧な着ぐるみ、とも違う。
――つまり、本物。本物の、獣人……。
愕然として、尻餅をついてしまう。膝が震えている。
掴んだ砂の確かな感触。焦って頬をつねってみる。ちゃんと痛い。痛かった。
夢、じゃ、夢じゃ、ない……!
人間は一人もいなかった。俺以外に、誰も。
つまりそれって、獣人たちにとっても人間の俺は、好奇心の対象になる訳で……。
異変に気が付いた、周囲の目線が突き刺さってくる。
に、逃げねば、怖いけれど、逃げよう、逃げなきゃもっと大変なことになる。
何とか気力を振り絞って、立ち上がって再び走り出す。
だけど、どこまで行っても見えるものは同じ。俺の知っている世界と何もかもが違っている場所。
みんな和服の中、一人だけ学ランを着ている俺は浮いている。いや、服装なんて全く関係ない。
進めば進むほどに、通りは獣人たちで賑やかになっていく。
「ううっ……!」
人波みに阻まれた。うっかり立ち止まってしまう。!
当然、獣人たちが周りに集まってくる。少し距離を置いた円を作って、すぐに俺は取り囲まれてしまった。マズい……!
「何だ、あいつ」
「見たことない格好をしているな……」
「……怖い……」
大勢の声が聞こえてくる。勿論全員が獣人で、人間はどこにもいない。
ざわめきは段々と大きくなっていく。獣人の数も、増えていく。
逃げなきゃいけないのに、無理だ、こんな大人数の中から抜け出すなんて。絶対に無理。
囲まれた。もう、逃げられない? このまま捕まってしまうのか?
捕まったら、どうなるんだ? そんな事知らない。
だけど、仮にそうなったら、良くないことが有るに決まってる。
逃げなきゃ、逃げなきゃ……! でも、逃げるって言ったって、どこに?
まずいまずいまずいまずい。
ざわざわざわざわざわと、なだれ込んでくる周囲の音。
だ、だめだ。もう……。
頭が混乱して、視界が眩んで、倒れそうになった。
「こっちです!」
突然、ざわめきの中にはっきりとした声が響き渡って。
次の瞬間、誰かが俺の手を引いて、人波をするりとかき分けて走り出した。