第十話 お屋敷生活、始まる
ピピピ……と、鳴り響く電子音。反射的に目覚まし時計の頭を叩く。
「う、ん……」
今、何時だ……? 目をこすりながら時計を確認する。
8時20分か。……あと少しだけ、寝よう。
寝返りを打って再び布団をかぶり、再び快適な眠りの世界へ……。
「!」
ガバッっと跳ね起き、時計をもう一度確認する。
『8』時20分。『7』じゃなくて『8』。
まずい、遅刻だ! 遅刻!
慌てて俺はパジャマを脱ぎ学ランに着替え、鞄を背負って階段を駆け下り家を出る。
通学路を全速力で駆け抜けていく。まだだ、まだ間に合うはずだ!
息を切らしながら、大通りのアーチを潜る。すると、
「?」
途端に視界は暗くなって、辺りは闇に包まれた。
不審に思って振り返れば、たった今潜ったはずのアーチは朱色の鳥居へと姿を変えていて。
拝殿に手水舎に、縄の結ばれた神木。目に映るのは、見慣れない物ばかり。
通学路に神社なんか無かったはずなのに。おかしいな……。
……まあ、良いか。
どうせもう学校には間に合わないのだから。結局遅刻するのなら、それが何分であろうと同じことだ。
折角だから参拝してみよう。これも何かの縁かも知れない。
提灯の灯りを頼りにして参道を歩き、拝殿の階段を上る。10円玉を賽銭箱に放り、礼をして手を叩く。上から垂れている大きな縄を揺らせば、がらがら、と鈴が鳴る。
願い事は……特にしなかった。いや、思いつかなかった、という方が正しいかもしれない。
参拝も終わって、参道を歩き始めたところで、ふと気が付いた。
「へえ……」
普通狛犬がいるはずの石の一対の台座の上に、狐の石像がそれぞれ置かれている。
珍しいこともあるもんだな、と思いながら、片方の狐のお腹や脚を何気なく触ってみた。
「くくくっ!」
すると突然、その石像がにやっと笑みを浮かべて……。
「なっ……!」
驚愕して咄嗟に手を離すと、その石像はぐらりと簡単にこちら側に倒れてきて。
当然避け切ることもできず。
「うわあっっっ!!!」
――ドスン。
◆ ◆ ◆
「いつつ……」
腹にのしかかる重みに、目を開ければ。
額と額がくっついてしまう程の至近距離から、誰かが俺の顔をじーっと覗いていて。
「わあああああ!」
眠気は一瞬で吹っ飛び、叫ぶ。
「あははは! やっと起きたのです!」
そんな俺の様子を見て、その誰かは高い声で、けらけらと楽しそうに笑っていて。
取りあえず現状確認。今、遠慮なく俺に乗っかっている白い子狐の獣人の名前は……灯詠。
「してやったり」
間髪入れず、布団のそばで待機していたもう片方の子狐も仰向けに寝転がる俺の上に無理やり飛び乗ってくる。
ジト目な所とクールそうな所を除けば、灯詠にかなりそっくりな白狐の獣人。
こっちの名前は……都季。
二人は俺の腹に無理やり並んで乗っかっていた。左側に都季、右側に灯詠。
「お、お前ら、降りろって……」
じわじわじわじわと体力が削られていく。
二人とも子供だし、太ってもいないとはいえ……両方一気にのしかかられると流石にキツい……!
訴えると、灯詠はにやにやとあからさまに、都季は少しだけ口角を上げてくすっと笑う。
「ふふん、昨日の仕返しなのです!」
「思い知ったか」
「分かった。お前らが重いのはよく分かったから……!」
「なっ……! 私たちは太ってなんかないのです!」
俺のささやかな抵抗の言葉に乗せられた灯詠は、心外だという風にあっさり怒る。
本当は二人とも全然太ってはいないが、効き目は有ったらしい。
「そう。重いのは灯詠だけ」
都季は楽しそうな表情を変えずしれっと言う。
「う~っ、都季だって同じぐらいの体重なのに~!!!」
あっさりと裏切られ、灯詠は唸り憤慨するが、はっとして我に返る。
「いけないいけない。巧みな言葉に騙されて、危うく我を失ってしまうところでした……」
何故か都季の裏切りまで俺の責任ということになっている。腑に落ちねえ。
「ちょっと待て、半分はそっちの、都季が……」
訂正しようとすると、灯詠はそれを遮って得意げに鼻を鳴らす。
「ふふん。でも、これで懲りたことでしょう」
「では、退却」
二人の狐はぴょん、と俺の上からようやく飛び降りて、
「「べーっ」」
と、息もぴったりに舌を出し、楽しそうに笑いながら縁側を走ってどこかへ行ってしまった。
「あいつら……」
恐らく、遅刻して石像が倒れてくる悪夢もあの子狐達が見せたのだろう。とんだ寝起きドッキリだった。
凝ってしまった腰をさすりながら、体を起こす。
意識は冴えて、記憶がはっきりと呼び起されていく。
ここは、御珠様のお屋敷の中に有る『水無月』の間。月を眺めている間に眠ってしまったらしい。
昨日、下校途中に俺は、九尾の狐の獣人の御珠様によって、この獣人の世界へと連れて来られてしまったのだ。
突拍子もない話だけど本当に夢ではなかったらしく、一晩寝ても現実は変わっていない。
「ふああ……」
ゆっくりと立ち上がってあくびをする。
開いた障子から外を見れば太陽は既に高い所まで昇っている。
こんな状況なのにも関わらず、俺は呑気にぐっすりと眠ってしまったみたいだ。
疲れが溜まっていたのだろうけれど……我ながら、大した図太さだった。
今、何時だろう。お昼ぐらいか?
……お昼。よくよく考えたら、昨日の昼を最後に、何も食べていないんだった。
意識すれば、自然と腹が減る。今まで平気だったのに、胃が空っぽになった感覚が突如沸いてくる。
……待っていても仕方がない。立ち上がって縁側に出る。
とりあえず、何か食べ物を貰うために俺は今日も屋敷の探索を始めることにした。
◆ ◆ ◆
適当に廊下を歩いていると、ふと視線の先に、奇妙な様子を発見する。
煙。
そう、一つの部屋の中から黒い煙が、もくもくと立ち上っていて……。
……まさか、火事?
背筋が凍る。急いで廊下を走り、その部屋に入った。
「だ、大丈夫で……あれ……」
するとそこには、あの猫の女の子がいて。こちらに背を向けて、手を動かしていた。
「あ……」
そして俺に気が付いて振り返り、少し困ったようにこっちを見る。
女の子は今、大きな魚の絵が描かれたエプロンの様な物を付けて、着物の袖はまくっていて、左手には泥のついた大根を持っていた。
その部屋の中にはまな板、包丁、鍋、他にも沢山の料理道具が並び、釜からは黒い煙が盛んに出ていて……。明らかに米を炊いている最中だった。
……うん。台所だ。どこからどう見ても日本の台所だ。
火事じゃなかったのか……。
ほっとすると同時に、猛烈に恥ずかしくなってくる。早合点もいいところだった。
猫の女の子の方も、慌てた様子でやって来た俺に当然困惑しているらしく、気まずそうに目を逸らしている。
穴が有ったら入りたい……。真剣にそう願っていると、ぎいい、と勝手口の扉が開いて。
「よいしょっと」
知らない女の人が、両手に抱えていた薪を床に下ろす。
そして顔を上げて声を弾ませ、太い尻尾を一回揺らしてこっちを見た。
「おや、君はもしかして……!」




