第一話 妖しい歌に誘われて
――『とーりゃんせ、通りゃんせ』。
真っ先に思い出すのは、背後から迫ってくる女の声。
「はあっ、はあっ……!」
息を切らしながら俺は必死に走る。だけど姿の見えない声は、振りほどけない。逃れられない。
『こーこはどこの細道じゃ』『天神様の細道じゃ』――。
それどころか、徐々に徐々に迫ってくる、近付いてくる!
暗い夜道をぼんやりと照らすのは、灯篭の赤い灯り。……それだけ。
見慣れた電灯なんて、どこにも無い。
一体俺はどこに迷い込んだんだ? 今どこを走っているんだ?
分からない。
ただ、歌から逃げるように俺は走る。走る走る走る。
さっき自分が通ったはずの出口を、必死に探している。
けれど、どこにもそれは見つからない。確かに、確かに通ったはずなのに。
どうして、こんなことになったんだ……?
◆ ◆ ◆
「……のう」
ぐるぐると頭の中を巡るそんな回想を打ち切ったのは、そんな声。
広い畳の部屋の暗がりの中で正座する、俺の正面から聞こえてくる声。
俺をこの道の異世界に誘った者の声だ。
その声の主は金の屏風を背に、扇を手にゆったりと座っている。
年は二十代前半か? かなり背が高い女性で、色鮮やかな刺繍の施された朱色の着物を着ている。
だけど、それよりも目を引くのは。
明らかに人間ではない、だけど一方で、どこか人間に近い雰囲気を纏った顔立ちだ。
人間と動物の中間の特徴を持つ――『ケモノ』。『獣人』。
全身を覆う、橙色と黄色を混ぜた色のつややかな毛。
頭の上に生えた、三角形の大きな耳。
髪は黄金色で、腰まで届くほど長い。
黒い鼻先から口先にかけてのマズルと呼ばれる部分は長く、しゅっとしていて。
口元からは尖った白い牙が覗いている。
そして、何よりも特徴的なのは――。
腰の辺りから揺らめいている、もふもふの九本の尻尾。
それから、もふもふの毛に包まれた、着物からはだけるほど大きな、おっぱ…………って、これは獣人とはあんまり関係無いな、うん。
とにかく。
――『狐』。
目の前に座る九尾の狐の獣人は、獣人を今日初めて見た俺でも分かるほどの美人だった。
全身に纏う妖艶な雰囲気に、何故か胸がどきどきとしていると――。
「おぬし、わらわと――」
再び狐が沈黙を破る。きりっとしたつり目を細め、右も左も分からない俺の様子を愉しむ様な表情だ。
一体、何を言い出すのだろう。胸の高鳴りの原因が、本能的な警戒心に変わる。
どうして俺をここに連れてきたんだ?
一体……何を企んでいるんだ?
考えていると狐はじゅるりと、長い舌で一回舌なめずりをして。
それからにっこりと、何故か爽やかに微笑んで、言った。
「わらわと、まぐわおうぞ?」
……え?
……まぐわう。
まぐわう、って……。
???????????????
「えっと、それって……」
「あ、すまんすまん、分かりにくかったな。つまりわらわと交び……」
「わーっ!! 分かります、分かりますから!」
危うく問題発言をしかけた狐を慌てて制止する。
いきなり何を言い出すんだ? 狐は何を考えているんだ? 何が目的なんだ……?!
慌てるけれど、うずうずしてこっちを見つめる狐の様子は本気らしく。
すぐにでも実力行使してきそうな気配に、俺も目が離せないでいる。
それどころか鼓動が更に早くなり、胸が熱くなってきていて……。
……誘いを受けるか、断るか。一体、どうすれば正解なんだ?
それに、ドキドキするようなこの感情は……?
混乱は留まるところを知らず加速していく。
――もう一度言う。
ついさっきまで俺が居たのは、普通の現代日本だったはずなのに。
どうして、どうしてこんな状況になったんだ???
ショートしそうな頭を必死に働かせながら、俺の回想はさっきよりも更に昔に遡っていく――。
◆ ◆ ◆
――金曜日、学校からの帰り道。
本屋を出た頃には、午後6時半を過ぎていた。
ふらっと立ち寄ったはずなのに、つい長居をしてしまったんだ。
太陽はすっかり沈んで、駅前から続く大通りはきらびやかな明かりに満たされている。
「う―ん……」
3時間も立ち読みをしていたはずなのにな……。
何となく、まっすぐ家に帰る気がしない。
金曜日の放課後は学生にとって、一週間で最も開放的な時間なのだ。
何でも出来てしまいそうなこの自由な気分を、まだ味わっていたい。
素直に家に帰ってしまうのは、非常に勿体無い気がする。
どうせ明日から休日だし。
遅くまで寄り道していても、それほど罪にはならないだろう。
よし、寄り道を続けよう。
だけど今度は、どこに寄りたいとか、何をしたいとか、具体的な発想が出てこない。
流石にもう、本屋に戻る気はしないし……。
何かヒントが得られるかもと思い、立ち止まって財布を確認してみた。
……残額、272円。
あまりにも哀しい金額。見なきゃ良かった……。
辛うじて、喫茶店ぐらいなら行けるか?
でも、行ったところでどうするんだ? これだとコーヒー一杯ぐらいしか飲めないぞ?
やっぱり今日は、大人しくこのまま帰るか?
何となく悔しいけれど、寄り道の資金は無いのだから。
結局、家までの道を、少しだけペースを落として歩くしかなかった。
仕方ない、帰るしかない。
何だか、冴えないなあ……。
もやもやする気分を抱えながら、交差点を渡る。
その途中で。
ザアッ。
目が眩む。
全身を覆いつくす、巨大な影。
「ん?」
何だ、今の?
立ち止まって辺りを見回してみた。
だけどその影が現れたのは一瞬だけで、もうどこにも見当たらなかった。
ただの勘違いか?
立ち読みのし過ぎで疲れてるのかもな……。適当に理由をつけて、再び歩き出そうとした。
「あれ?」
けれど、安心したようながっかりしたような些細な気分は、すぐに吹っ飛んでしまう。
ここ……どこだ?
今まで歩いてきたのは、確かに駅からの帰り道だったはずなのに。
いつの間にか知らない場所に、立っていた。
目の前に広がるのは、歩行者専用の道路沿いにビルが立ち並ぶ景色。
一見すると、いつもの街と何も変わらないように見える。
だけど、明らかにおかしい点が有る。
どの建物にも、明かりが一つも灯っていないのだ。全ての窓が、例外なく真っ暗だ。
けれど、決して何も見えない訳ではない。
背の高いビルには似合わない、石造りの古風な物体が周囲をぼんやりと照らしているからだ。
その物体を表すなら――灯篭。
日本庭園にある様な灯篭が通りの両脇に延々と連なって、赤い明かりを発している。
「???」
こんな場所、この街に有ったか?
記憶を辿ってみても、心辺りは全く無い。
目をこすってみても、目の前の景色は変わらない。
気付かない内に道に迷った?
それが自然だろうけれど……普段と同じ道を通っていたのに、そんなことって有り得るのか?
それにしても、高層ビルに灯篭なんて、変わってるな……。
まさかこの街にこんな場所が有るなんて、何年も住んでいて今まで一度も気が付かなかった。
目を凝らして、道がどこに続いているか確かめてみようとする。
だけど、闇に溶け込んで先はよく見えない。
灯篭の明かりだけが、確かに遠くまで続いている。
……。
知らない道に、見えない先。
自分の街に有るはずなのに、不思議とこれまで訪れたことの無かった空間。
疑問は募るばかりだけど……心を躍らせる自分もいる。
久々に蘇る、秘密基地を作る時の様な好奇心。
そうだ。普段と違う道を通ってみるのは、お金がない時の寄り道にはもってこいだろう。
どうせ同じ町内だし、ただ歩くだけなら酷く迷うことは無い。
何よりも、この道が街のどこに繋がっているのか、純粋に気になっていた。
まだ時間は存分に有る。何より明日は休日だ。
という訳で、俺は軽い足取りで、見知らぬ道へと一歩を踏み出したのだった。
◆ ◆ ◆
「う~ん……」
もう5分は歩き続けているけど、特に何も起こらないなあ……。
ありふれたビルが並んだ同じ様な景色が続いていくだけで、見ていて面白味も無いし……。
未知なる道の先に、未知なる何かが有る。
そんな漠然とした期待は、あっさりと裏切られてしまう。
まあ、こんなもんか。そりゃあそうだよな。早々に割り切るけれど、歩みは止まらない。
折角だし、もう少しだけ進んでみようかな。
◆ ◆ ◆
それから更に5分が経った頃。
「……」
俺はきょろきょろと辺りを見回して、一瞬ぞっとする。
――やっぱり、この道、普通じゃない。
変わったことは何も起こっていないのに、そんな確信が、進むにつれて徐々に強まっていく。
いや、むしろ、何も起こらな過ぎだった。
まだ、夜の七時半のはずなのに、人が一人も歩いていないし、建物の中に誰かがいる気配すらもしない。
そもそも普段から使われていないのか、どのビルも看板やら広告やら装飾やらが一切排除されていていて、寂しいぐらいに整然としていた。
灯篭だけが通りを怪しく、暗く照らしている。
辺り一面を包み込む、ひっそりとした静寂。
最初は、さびれた場所だとばかり思っていたけれど……。
ここまで誰もいないとなると、正直、かなり気味が悪いな。
ゴーストタウンというレベルを通り越して、幽霊さえもいない地域と言った感じだ。
背筋を這い回る、じっとりとした寒気。
……これ以上、ここに居たら、まずい気がする。
何も起こらないけれど、決して近寄ってはいけない場所だ。やっぱりいつもの大通りに戻ろう、その方が良い。
すぐに引き返そうとした……その時。
「……それ、…………あの………………」
……声? 誰かいるのか? ぴたりと立ち止まって、耳を澄ませてみた。
「…………まあ、……」
「……そうですね、………様」
「だから、……。………」
賑やかな場所だったら絶対に気づけなかったほど幽かな声が、二人分聞こえてくる。
やんわりとした話し方からして、恐らく両方とも女性だろう。
一体、どこで話をしているんだ? 足音を立てないようにして、少し先に進む。
「?」
ふと、奇妙な建物が視界に飛び込んできて、足を止める。
……日本家屋。木造平屋で瓦葺の伝統的な日本家屋が一軒、ビルの間に挟まれてぽつんと建っている。
灯篭とは良く似合っているけれど……周りがビルばっかりだと、いかにも不釣り合いな感じだ。
開発に取り残されたのか?
「でも、…………。本当に………」
「はい。そこは………。………」
「………。だけど、…………」
声が、聞こえる。確かに、この家から。
いけない。
とは思ったけれど……好奇心には勝てなかった。
その家に近寄って、丸い格子窓のわずかな隙間からそろっと覗き込んでみる。
中は、8畳ほどの広さの畳敷きの部屋だった。
そしてその中心に、俺に背を向けて座っている人がいる。
へえ……。
その変わった姿に、俺は目を見張った。
色とりどりの刺繍の施された、いかにも高そうな朱色の着物。
腰まで届くぐらいに長く、鮮やかな黄金色の髪。
そして頭の上には、動物の様に大きな耳。おしりの上辺りには、ふわふわとした何本ものしっぽ。
コスプレだ。まさか、こんな場所でコスプレをしている人が居るなんて、流石に思いも寄らなかった。
後姿だけでも、その人がその格好を見事に着こなしているのが良く分かる。女性にしてはかなり背の高い人だ。
ひょっとしたら170センチの俺以上に高いかもしれない。
それにしても、似合ってるな。
その格好はコスプレにしてはかなり本格的で、思わず見とれてしまっている自分がいた。
「……一つ……………ましたね」
「いや、…………は、昔……。…………ぐらい……」
「……ですか、……。……、しかし…………」
「……………あはは……、……そう言う…………ねえ」
「……本当に…………み……様……。………では、……その……」
「分か…………。…………………」
どうやらその女の人と、別の女の人が会話をしているみたいだけど……。
格子窓の死角に居るのか、残念ながらもう一人の姿を見ることはできなかった。
耳を澄ましてみても、二人がどんな話をしているのかは分からない。
きっと何か大切な話をしているんだろう。そんな雰囲気だけは伝わってくる。
何となくだけど、ようやく状況が掴めてきた。
つまりこの風変わりな道は、映画か何かの撮影に使うセットで、この家もその一部で、あの女の人は役者なのだろう。そうとは知らず部外者の俺はその中に紛れ込んでしまったのだ。
え、でもそれなら、こうやって立ち聞きしてるのって、かなりまずいんじゃ……?
撮影を邪魔しない様に、早く戻らなければ。
……恐るべし、好奇心。
今更になってそんなことに気が付いて、すぐにその家からそっと離れる。
あれ、でも、仮にここが映画のセットだったとしたら、他の誰かが一人もいないのって、おかしくないか? 部外者の俺が、勝手に入っちゃったのに、誰にも注意されないし……。
そもそもただのセットにしては、大掛かり過ぎだ。
わざわざビルを沢山建てるなんて、そんなこと普通はできない。全部がセットじゃなくて、建物とかは街の物を借りているんだとしても……そもそもこんな場所は、俺の街には無い。
……やっぱり、何かがおかしい。映画の撮影じゃ無い、のか?
再び訳が分からなくなって混乱して、一瞬立ち止まってしまった。
その時。
「――のう。」
背を向けて座っていた女の人が、ぴたりと動きを止めて。
「ぬし、人の子かえ?」
振り向かずに、そう言った。
読んで下さり本当にありがとうございます!
面白いと感じて下さった方、興味を持って下さった方がいらっしゃいましたら、よろしければブックマークや☆評価や感想などを頂けると励みになりとても嬉しいです!