式の前日
こどものころから、そういうものにはよく遇った。うちが特別、そういう場所だったからかもしれない。久しぶりにそれに出遭ったその日、妙に実感した。
沸かしたての風呂蓋に寝そべるその子を見たとき、だから、驚いたのはそのせいだと思った。
なに、してるんだい。
声をかけると、彼女はぴゃっと起き上った。なに、驚きはしたものの、黒目がちで色白の、可愛らしい子じゃないか。どこかで見たような気もする。
真っ赤な着物がよく似合って、湯気の向こうに透けている。
ごめんなさい、ぬくいんだもの。
彼女はそう言って俺をすり抜けると、風呂場を出て行った。
振り返るともう、いなくなっていた。
式の前日
母屋へ続く飛び石を踏む音が、今日はいやに軽かった。年甲斐もなく、落ちたら死んでしまうような気がして、石の真ん中めがけて跳んだ。
そうして跳ねて、少し身体がぬくまったころに、ふしぎなことが起こるのだ。目前に母屋の縁が迫ったその石だけが、いつも俺から逃げるのだ。その一歩手前で止まって、その顔面をじっと見つめた。長年の悪友に出会った気分だった。
勢いつけて、跳んだ。
届かない。一尺先に、それはある。
また、跳んだ。
届かない。一尺先に、それは。
振り返ってみても、前にいた石は、たったの大股一歩前に、ぽつねんとしている。ふむ。
やっぱり昔と変わらないようだった。この飛び石はいつでも逃げる。たぶん踏まれたくないのだろう。俺にもその気持ちはわかる。だから、今日も勘弁してやることにした。
それを遠くで見ていた小次郎が、ふしぎそうな顔して、足元までやってきた。しゃがんで撫でてやろうとしたら、小次郎は、しれっと臆病石に座った。
なんだか鼻白んでしまって、母屋へは行かずに散歩を続けることにした。小次郎は機嫌よさそうについてきた。
よいのはお前だけである。
母屋の少し西に井戸がある。水道が通ってからは、ほとんど使われていない。古い井戸だけれど、まだ枯れてはいないはずである。
だからきっと、まだ蛙もいるだろう。
井戸の中に居るから蛙。名前をそうした理由は、それだけ。
もう誰にも使われなくなった古井戸を覗き込んだ。今まで見てきたどこよりも、暗い。
びびりの小次郎は、遠くのほうでお座りをしている。小次郎は俺のことが好きだけれど、俺は、小次郎のそういうところが嫌いだった。
腹いせに、足元にあった小石を、井戸の中へ落っことした。小次郎をびびらしてやろう。
―――― ね(ぴ)。(ち)だよ(ゃ)。(ん)てる(。)よ。
そんなふうに聞こえた。俺のほうが怖くなって、足早に井戸を後にした。
また、後ろでぴちゃん、と、聞こえた気がした。
俺もびびりなんだ。親譲りで。
だから、誰もあの井戸を使わない。
井戸の中に居るから、蛙。
井戸から出たら、なんになる。
小走りになっていると、蔵へはすぐについた。何百年も前からこの家はあると、母の言葉を信じたのは蔵の中を見てからだった。
蛙が井戸の中にしか居ないのはわかっているけれど、もし出てきても、蔵の中なら平気な気がした。蔵には立派な錠がある。蛙も錠は開けられまい。
思った通り、蔵の中はよほど落ち着いた。隙間から小春日が差し込んで、ほこりが雪のようにきらきらとした。所狭しと並べられた書棚からは、古臭くも甘ったるい、古木のにおいがすんとした。
小次郎は、外で待っているようだった。びびりのくせに、中へは入ってこないらしい。外でくぅんと泣くくらいなら、素直に入ればよいものを。
やっぱり、小次郎のそういうところは、嫌いだ。
しばらく外で怖がらしてやろうと思って、適当なところに腰掛けた。ふしぎなもので、適当に腰掛けたつもりが、いつも同じ場所になる。
今日もやっぱり、同じ脚立の上だった。
腰ほどの高さの脚立だ。こどものころはこれが自分より大きくて、ちょうど自分の尻にあたる高さの足掛けに、ちょこんと座ったもんである。今では、てっぺんでもちょっと足りなかった。
入って一番手前の棚には、うちの家系図がずらりと並んでいる。大和だか平安だか、それよりもっと前からか、うちは続いているらしい。
やっぱり適当に、一番新しいのを手に取った。本ではなくて、巻物である。紐解いてみれば、長い長い枝葉の末端に、ぽつりと俺の名があった。
いつから在ったんだろう。
誰が置いたんだろう。
全部、同じ筆跡に見えてしまって。
それに、ずっと昔の古い名前を、存外まったく、信頼してはいなかった。古くなりすぎて紐解くことができないから、俺も父も、母も誰も、巻物の中身を見たことがない。本当にそこに名前が在るかどうかなんて、わからないのだ。
筆跡の間で、何かが動いた。
それは、魚。
紙に棲む、紙に澄む、魚。
幼子の落書きのようなそれは、ぽつり、ぽつりと現れて、目の錯覚のように泳いで遊って、最後にぽつりと、俺の名を食った。
俺の名に、澄んだ。
ぼわりと滲んで、それはまた、魚になったようだった。ほら見ろ、きっとみんな、そうなんだ。紐解けない名前みんな、きっとこうなんだ。
澄んでゆく自分の名を眺めているうちに、急に気がついた。
小次郎の声が聞こえない。慌てて外に出た。
小次郎、小次郎。
呼んでも、小次郎はやってこなかった。呼べばすぐくるんだ。だって小次郎は、俺のことが好きだから。
もしかして、井戸のほうだろうか。いいや、そんなはずはない。だって小次郎は、びびりだから。あそこはとても、怖いから。
もしかして。そうだ、中庭だ。きっと、そろそろおやつの時間で、おねだりに行ってるに違いないんだ。
母屋を横切って、中庭に走った。けれど正門を通り過ぎようとしたとき、両の足は止まってしまった。
門の脇に、小さな椿の生垣がある。そこだけ取り残されたかのように一株だけ、淋しく、か細く在る。その細枝には見合わぬ深緑の葉の中に、大輪の椿が一輪だけ、咲き残っていた。誰かの吐いた赤い血が、薄く薄く重なったような、そんな花だった。
椿の花を見ているうちに、その女を見ていた。彼女はただただ白い着物を着ていただけなのに、それはどうしてか、あの椿のように見えた。青く細った足は枝に、肩の下でまっすぐ切りそろえられた黒髪は、さながら欲深い深緑に見えたのだ。
女は両の手で顔を覆って、うつむいていた。頭を両腕で、支えているようだった。
椿の花が、ぼたりと落ちた。
それからは、急ぐこともしなくなった。ただぼんやりとゆっくりと、中庭へ歩いた。そこに小次郎がいることを、もう知っていた。
母屋のほかに、うちには二つの離れがある。親離れと子離れといって、こどもたちは大きくなると、広い親離れに部屋を貰う。ちょっとしたしゃれだ。とても不謹慎なしゃれ。
渡り廊下でコの字に繋がっていて、その内側が、中庭である。思ったとおり、中庭の隅、子離れの縁のすぐ脇に、小次郎は居た。
ここは寒いのね。
小次郎に近寄ろうとしたとき、赤い何かがすっと動いた。
さっき、風呂場で見かけた女の子だ。小次郎のそばにしゃがみこんでいたらしい。こんなに赤いのに、気づかなった。女の子は小次郎から離れると、子離れの縁のふちに座った。
そこに座るのは、あまりよくないよ。
うちの人間なら誰しもが知っていることだった。きっとこの子もうちの人間だろう。俺の顔は、この子によく似ている。うちの顔なのだ。
知ってる。エラそうに言わないで。
つん、とそっぽ向く態度に、ちょっとおかしくなってしまった。
変わらないんだなぁ。ずっとそうなわけ。
言いながら彼女の隣に腰掛けて、そのまま後ろを振り返った。開いた襖の向こうに、子離れの中が見えた。子離れに部屋は一つしかない。
親から子が離れるから親離れ。親が子から離れるから子離れ。
ただのしゃれなのだ。とてもとても、不謹慎なしゃれ。
冷たい空気の奥には、白い菊の一輪挿しと、小さな写真が一つ、おかれていた。その前で、誰かが座っている。
わたし、白って嫌いなのよ。
知ってる。俺は好き。
母さんが子から離れたのは、もうずいぶん前の話だった。写真以外で母さんに会うのは、本当に久しぶりだった。
写真の中と同じ、隣に座る母さんに、赤い着物はよく似合った。
母さんは座ったまま、足元の小次郎に手を伸ばした。ただの冷たい石。小次郎が好きだった飛び石を、そのまま小次郎の墓石にした。母屋の一歩手前のあの飛び石には日がよく当たって、小次郎は、そこで昼寝するのが好きだった。
だから石は、逃げるのだ。
石は、意思だから。臆病なのは小次郎の、意思だから。
あの石が逃げるようになったのは、小次郎が居なくなってからだ。
さっきまでね、小次郎が居たんだ。
あら、失礼。今でも居るわよ、ねえ。
気がつくと、小次郎は母さんの指先を舐めていた。俺を見上げて、くぅんと鳴いた。
ふと、後ろで座ったままだった誰かが、立ち上がった。彼はそのままこちらへ来て、俺の隣に座った。俺を挟んで、母さんと彼と、三人で並んだ。足元には小次郎が居た。
こどものころ、よくそうしたように。
少し見ない間に、彼の顔はだいぶ大人びていた。黒服を着ているからかもしれない。きっと彼も俺の顔を見て、驚いているだろう。
彼が退いたおかげで、母さんの写真の隣に、もう一つ写真があるのが見えた。
その写真、初めて見るだろう。
俺が訊いても、彼は何も言わない。代わりに息だけが、白く凝った。
もしかしたら、俺の声を覚えていないのかもしれない。というか、母さんほどでないにしろ、最後に会ってからだいぶ経っているから、きっと声も変わったんだ。
けれど気が早いのは、相変わらずのようだった。式は明日だって言うのに、もうそんな格好をしている。母さんだって、こんなに派手な格好をしているのに。
律儀だなぁ。
思わず笑ってしまった。彼は少しばつが悪そうに顔をしかめた。また、息が白く凝った。凝って、中庭に澄んでいった。中庭というには少し手狭なそこは、それでもこどもが遊ぶには、ちょうどよい場所だったのだ。今では彼は小柄なほうだけれど、昔は俺のほうがチビ助で、よくいじめられたもんである。
濡れそぼった小次郎を、井戸からここまで運んだのは彼だった。俺みたいなチビ助じゃできなかった。
俺には目もくれずに、彼は小次郎をひとなでして立ち上がった。名残惜しそうに中庭を見つめてから、母屋のほうへ歩き出す。
また明日、式でな。
白い袖口をふった。
気が早いのは、俺も一緒だったのだ。
「・・・・・・ああ」
やっと、声がでた。数歩行ったところで立ち止まった。古臭い板張りに、足の熱をどんどん取られてゆく。ここは都会に比べて、数段寒かった。夜には雪も降るだろう。
小次郎の墓石をなでた手も、ずいぶん冷たくなった。生前あんなに冷たい石の上で寝ていたなんて、ちょっと信じられなかった。いや、そのころあれは、もっと日当たりのよい場所にあったのだけれど。
周りがいやに静かだったせいだろう。声が思いのほか、低くなっていたことに、いまさら気づいた。こどものころとはずいぶん違う。あれから何年も経った。
彼の声は、どうなっていたのだろう。
「おーい、寒いだろう。母屋へおあがりよ」
中庭を挟んだ向こうの廊下から、家の者が顔を出した。この、自分より一つだけ年かさの青年と会うのも久しぶりだ。彼とは遠い縁戚に当たるらしいが、のんびりとした面立ちが、なんとなく似ている。
言われるままに母屋へ移った。ヒーターのおかげで、中はずいぶん温かい。差し出されたお茶につられて、高級な座布団に座った。
「あの写真、初めて見た」
「そりゃ、お前がまちに下りてから撮ったやつだからね。きれいだろ」
「いや、男の写真見せられても」
いくら仲が良かったといえ、野郎のツラにきれいだのという気は湧かない。
「小次郎にも会ってきた?」
「うん」
小次郎が死んだのは、確か小学生のころか。遊びに来たら、蔵から出てきた彼が、小次郎、小次郎と叫んでいた。小次郎は彼のことが大好きだから、彼が呼んだらすぐにでも飛んでくるのだけれど、その日に限って、小次郎は現れなかった。
彼は俺の手を引っ張って、中庭に向かって駆け出した。中庭でおやつを貰ってるんだ、なんて言って、泣いていた。
門の脇の椿が、ぼたりと落ちたのだけ、鮮明に覚えている。
でも、俺はすぐに井戸だと思った。あの、暗い井戸だと。いくら中庭を探しても小次郎は見つからず、ぐずる彼にそう言った。なのに彼は、小次郎はびびりだから、あそこへはいったりしないんだと言って聞かなかった。
たぶん、彼もわかっていたのだ。小次郎はすぐに見つかった。
「あいつ、小次郎は蛙に食われたんだって、言ってたな」
彼は時々、よくわからないことをいうこどもだった。ひとには見えないものが見えたのかもしれない。この家には、そういう人間が多いのだと、後になって知った。彼の母も、父もそうだったようだ。
面白いことをいう子だな、としか、思わなかったけれど、周囲の人々は、それを気味悪がったり、崇めたりした。そのせいもあって、自分はこの子を見放さないでおこうと、幼心に躍起になったものである。
数年が経って、都会へ降りて、また、数年経った。
どうしてか顔が見たくなって、訪ねてみようと思った矢先のことだった。
「まったく、こどももいねぇくせに、なにが子離れだよ」
窓の向こうに見える、小さな建物の呼び名を、悪い冗談だと思っていた。ここの連中は、そういうことをずいぶん身近に感じているみたいだった。
何年前に死んだどこそこのおじさんと、さっきまで将棋をしていたの。
そう言う彼の顔を思い出して、窓から子離れのほうを見た。思い出の中の彼と、その奥に在る彼の写真とはだいぶ面立ちが違ったが、面差しはふしぎと変わっていなかった。
黒い豆柴の居る墓石に並んで、吞気にピースをしている。
ふしぎ、ふしぎと、彼はよく言っていた。
ここには居ない者の声が聞こえる。ふしぎだと。
居ない者と話ができた彼なら、居る者とだって、話ができたっていいじゃないか。
「ふしぎだなぁ」
俺には聞こえなかった。もしかしたら聞こえると思ったんだ。あそこに居たら。
明日は、彼の葬式だ。
見えるものと見えないものがあるなら、聞こえるものと聞こえないものもあるでしょう。
「俺」には聞こえても、「彼」には聞こえなかったようです。
初めての投稿でした。
お読みいただいた皆様、本当にありがとうございました。