檸檬 (現代受験生解釈版)
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じっとりと湿った暑さの東京都内
この都市はいささか窮屈だ
8月後半、受験生の大事な基礎締めの時期
…右を見ても、左を見てもそればっかりだ
そんな忙しい空間があると思えば、一方では今日という日を浪費し満喫、充実感を得ている空間だってあるわけで
外の世界に飛び出すと夕暮れ時、蝉の声と赤く染まっていく空
憎たらしいくらい夏を誇張してきて酷く劣等感が募る
…このまま、何処かへ行けたら良いのに
そう思ったのは一回だけじゃない
『もう8月後半なんて取り返しのつかない時期なんだ』
『周りは進んでるんだ、前だけを向いて』
『置いて行かれた私に、追いつくなんて重労働出来っこない』
自嘲、自責、焦り。
そういったものが日々私を追い詰めて蝕んで離してくれないから。
じんわりと胸の奥から滲んでくる憂鬱は下の方にずっしりと居座り、どろどろと私を洗脳していくのだ。
『お前は怠惰な欲望に抗えない弱い生き物だ』
五月蝿いなぁとその声を跳ね除けて机に向かったことはとても情けないことに数える程もあるかどうかすらわからない。
何時でも、誰とでも何処でも繋がれる、文明の作り出した独り言の世界へ逃げ込んだり、抗えない欲望に従って光る画面に夢中になったり。
そんなことで時間ばかりを無駄にして成れの果ての今だ。
この瞬間今だって机に向かえてない以上、同年代の中では圧倒的敗北者なのは決定事項だけれど。
身体と精神が理想と現実の差にこれ以上悲鳴を上げてしまう前にと、せめてもの抵抗だ。
今は光る画面も、呟きの共有もしたくなかった。
ゆっくりと家の近所を歩いていく。
何にも追われることなくこの夕暮れ時を過ごしている人々が羨ましくて仕方なくなる。
そしてまた、きりきりと胸が痛むのだ。
昔から、人と自分を比べてしまうのは良くない癖だと自覚してはいるが、それでもやはり人はそう簡単には変われない。
結局はどれだけ思い込んだって自分に言い聞かせたってハッタリで、常に自分にも周りにも嘘を吐いて生きてきた。
仮面は万能だ。しかし同時に酷く脆い。
何度も壊されるたびに本物の自分が顔を出し、理想と現実の心で葛藤を起こし理想のために現実を殺すのが常だった。
ただ丁度一年前位、そこからどうしても自分を偽るのが苦になって少しだけ本物を許すようになったけれど、それでも心のどこかで本物の心に嘘を吐いていることには変わりは無かった。
あんなに衝動的な欲望には弱い癖に。
でもそれは私の中のほんの僅かの本物の心なのだから呆れてしまう。
本物の私はつまり怠惰なのだ。
それでも夢は叶えたいし、この受験が終わったら、4年間の権利を手にしたらお金だって貯めたいしライブだって行きたいしその4年間で成長はしたい。いろんなことだって学びたい。
やる気だってある。親や周りには地頭はいいんだから勉強すれば高いところを目指せると言われる。私だってせっかくやるなら高いところや本当に行きたい場所に受かりたいし、問題が解けるようになることによる充実感、爽快感だって得たい。それに何より過去の怠惰な自分を見返してやりたいし打破したい。私だってやれば出来るって証明したい。
褒められたいし認められたいし、そのために精一杯後悔なしで頑張りたい。
変わりたい。
でも、その我慢や行為に果たして意味があるのか、少しくらいは、と言い訳に言い訳を重ね、結局私にはそんな大きなことなど出来っこない、衝動的な欲望に抗って苦しみたくない、楽しんでいたいと『怠惰な欲望に抗えない弱い私』は今日も決めつけて絶望する。
なんならその絶望が癖になってる節も少々ある。
きっと光をただ追い求めてるふりして、本当は誰かに縋りたいのかもしれない。
自分を拘束する自嘲だったり自責だったり焦りだったりの念に、自分一人の力じゃ抗えないから、ぼんやりとした『光』に連れ出してもらいたいのかもしれない。
そんな甘ったれたこと言っていられないくらいもう手遅れな時期だけれど。
大体、私は…
「あら、お嬢ちゃん丁度いいところに。ごめんなさいね、ちょっと今檸檬を収穫しているんだけど少し私だと手が届かなくて。手伝ってもらえるかしら?ここのところになっているのと、あと
その横のも」
…私はこういった場合の頼み事を断ることは出来ない。
少し背伸びして枝と葉の間から覗く黄色に手を伸ばす
思ったより遠い。でも手を精一杯伸ばして掴み取る
思ったより重量があってそれは、まるでどこかの小説家が言ったみたいに爆弾のようだった
「助かったわ。お礼にひとつ。ありがとうね」
ずしりと手のひらにひとつ、黄色。
ありがとうございますと再び歩き始めながらこんな私にも声をかける人がいるものなのかと驚きつつ、手の中の黄色をまじまじと見つめる
梶井基次郎だっけ。現代文の教科書に載ってた。
ちょうどその時やっていた他の小説が読むだけでやけに時間がかかり、退屈の暇潰しとして他の頁をぱらぱらとめくって適当に読み漁っていたときに見つけた、面白そうな題名。
確かその小説のラストシーンは。
(もし、今さっきまで私の心を束縛していたこの憂鬱や過去が黄色ひとつで吹き飛ばせたのなら)
きっと、きっと木っ端微塵になってしまうだろう。
そしたらあの囁きだってもう聞こえてこないに違いない。
ふと空を見上げると随分暗くなっていた。
あれだけ五月蝿かった蝉の音はどこかに溶けて、赤は夜の青、黒に巻き込まれて消えていった。
そろそろ帰らないと。
手元の黄色をもう一度じっと見つめる。
この生意気な爆弾は、帰ったら私の腹の中に収めてしまおう。
それもとびきり美味しくして。
私は最後まで檸檬の甘酸っぱさとその色を堪能し尽くしてやることに決めた。
憂鬱はどこかに消えていた。