ミシェルという女
場所はエルサイド王国の王城。
円卓の会議室には、怪しいローブの集団が集結し、それぞれが椅子に腰を下ろして一つ咳払いをした国王に注意を向けた。
「こほん…さて、もうすぐ国立学園の課外学習があるわけだ。
今年も海洋国家のミーリタリア王国にお世話になるわけだけど…ヤハクバル聖国との緊張の高まりもあるから護衛を増やそうと思うんだけど……どうだろう?」
「いや~、別に剣帝一人で十分だろ」
議題は主に、国立エルサイド学園の修学旅行的なイベントの護衛の人数について。
毎年剣帝が一人で護衛について行っているが……諸々あって、その人数を増やすかどうかについての会議だった。
拓也の実力を知っている炎帝はめんどくさそうにそう口にする。
「いや、拓也……じゃなかった。
剣帝は今年生徒として参加だ。折角のイベントなのに護衛として仕事をさせるのは可哀想だろう」
「あ、そっか。すまねぇな剣帝!ガハハハハッ!!」
「とりあえず痛いからそんな勢いで肩を叩くな」
この超性能のローブすら貫通する攻撃を放つ炎帝は、きっと神よりも高位な存在なのだろう。
「というか、俺は別にその辺は別に構わないぞ。
個別行動以外は俺の正体を知ってる奴を付けてくれれば剣帝の正体はバレないし」
「で、でも……」
「いいっていいって、遠慮すんなよ。
それに今年だけもう一人帝が護衛につくってのも変な話だ。剣帝が学園の3年生だと特定されかねないだろ」
「……それは確かにそうだけど……」
剣帝……拓也は、いつものようにローブの下でにやけた面を浮かべて、自分は構わないと発言した。
別に気を使っているわけではない。ただ自分の率直な感想と意見を述べただけ。
いつも通りの彼のそのペースに、国王は諦めたように溜息を吐いて苦笑交じりに口を開いた。
「じゃあ…毎度のことだけど、また君に任せるよ」
・・・・・
同刻、エルサイド王国王都の街の一角。
何の変哲もない民家の一つ。
「ミシェルちゃんはお酒飲む~?」
「いえ、私はいいです。それは私がやっておきますね」
ジェシカと彼女の母が住むミルシー家では、定例会中の拓也を待つという名目で、ミシェルがいつものようにお邪魔していた。
しかし……もともと捨て子だった彼女にとって、この場所はいわば実家のようなモノ。
また、ジェシカたちにとっても実子や姉妹のようなモノなので、何の気を遣う必要もない。
つまり、彼女らはほぼ家族と言っても過言ではないである。
いそいそと食器をテーブルに運んだミシェルは、一息ついて窓から見えるすっかり暗くなった星空を見上げた。
寒空に輝く無数の星を見て、彼女は何を思ったのだろうか……一つ小さく溜息を吐くと、その瞳に決意を浮かべて振り返った。
「あ、あの…」
「え、なに?
話ならご飯食べながらにしましょ!」
案外長い時間空を仰ぎ見ていたのか、振り返って視界に映ったテーブルには、料理や食器がすでに並べられていた。
出鼻を挫かれたような気がして少し微妙な気分に陥ったミシェルだったが、持ち前の無表情にも似たクールな表情でそれを隠して椅子に腰を下ろす。
「よっしゃー!じゃあいただきまーす!!」
「いただきまーす!」
「いただきます」
異常にテンションの高い二人と、対照的に低い一人が挨拶をして食事が始まった。
男性もびっくりなスピードで口に料理を放り込むジェシカ。
対照的に、ミシェルは箸で少量の料理をつまんでゆっくりと口に運んぶ。その小鳥が啄むような食べ方を見たジェシカママは、目をぱちくりさせながらいったん食事の手を止めて口を開く。
「……どうしたのミシェルちゃん…なんか調子悪かったりする?
さっき言いかけたコトってなんか結構深刻な話だった?」
その問いに一瞬ビクッと体を震わせたミシェル。”何かがある”ということは明確だった。
流石は彼女を幼いころから実の娘同然に育ててきただけはある。ただでさえ感情表現が少ないミシェルの異常を見抜くことができる人間は、そう多くはないだろう。
全く食べる勢いを衰えさせてはいないが、ジェシカも一応ミシェルの方へ注意を向ける。
そして十数秒後……真っ赤に赤面したミシェルは、小さくコクリと首を一つ縦に振った。
ただ事ではない様子のミシェルに、ジェシカも思わず手を止める。
「こんなこと……誰にも聞けなくて………」
「なぁに?私が答えられることなら何でも答えるわよ?」
柔らかく笑みを浮かべ、首を傾げるジェシカの母のそれはまさに母が子に向けるそれ。
悩み、戸惑う我が子をどうにかしてあげたいという無償の愛が生み出す言動。
彼女を本当の母のように慕うミシェルもまた……彼女のその慈愛に甘え、道を指示してもらうべく正直に打ち明けた。
「その……始めては凄く痛いって……本当ですか…?」
刹那……約二名の表情に、極僅かな暗がりが出現する。
何も言わずとも……両者の目が合う。実の親子だから…?いや、違う。
彼女らは同じ目的を持っていたのだ…。
面白い方に事態を転がす……という。
「(ジェシカ…ッ!!これって……)」
「(分かってるッ!分かってるから…!!絶対に挑発して遊んだりしたらダメだからね!!
…真剣に相談に乗るふりをして……誘導!!)」
「(もちろん!!流石考えることは同じのようね…っ!!)」
直前の聖母のような心情が、いきなり悪魔のそれに打って変る。
一言で言うなら…最低である。
というか何故視線が合うだけで会話が成立するのかが非常に謎だ。
「(でも取り返しのつかなくなるようなことはダメだよ!!?)」
「(分かってるわっ!!もちろんミシェルちゃんが幸せになるようにするわよっ!!!)」
しかもちゃんと善良な心をもって節度は守ってくるので腹立たしい。
ミシェルが言っているのは恐らく、夜の営みとかそういったことだろう。
菩薩のように微笑みながら……その下では悪魔の如き凶悪な笑みを浮かべて…まず切り込んだのはジェシカママだった。
「そうねぇ…ミシェルちゃんもそういう年だもんねぇ…」
まずは当たり障りのない、何の確信を吐くこともない言葉。
年の功を感じさせる表情でそう呟くように口にして笑いかけた彼女は、いっそう赤みを増して行くミシェルの表情を目にして、表情の仏純度が若干下がった。
そして彼女の質問に対する返答……自分の経験をそのまま語るのはどうしてか恥ずかしくはあったのだが、これも大切なミシェルの為と…彼女のことを思い、素直に答える。
「そりゃあ痛かったわよ。個人差はあるらしいけど……私は痛かったかなぁ…」
「そう…ですか」
先程から天使と悪魔が交互に脳内に出現しているジェシカママである。
そしてやはり天使が出た次は……悪魔が微笑んだ。
「そんなこと聞いてくるってことは……拓也君と進展が無くて困ってるって感じ~?」
「……はい」
俯いたミシェルは…至って正直にそう答えた。
いつものミシェルならば、このまま押し黙って喋らなくなってしまうだろう。
しかし…今の彼女の瞳には……決意のような強い意志が宿っていた。
「私…もう…恥ずかしいとか言って逃げるのは止めます…!!
ちゃんと拓也さんと向き合います!!」
「………」
「………」
あまりの剣幕に、思わず赤髪親子は黙り込んだ。
しかしそれも束の間。
ガタッ…と立ち上がる二人。ミシェルの傍へ歩み寄ると…二人は彼女に抱き着いた。
「よく言ったミシェルちゃん!!それでこそ私の娘よっ!!!」
「ちょっ!な、なんですかいきなり!!」
「ミシェルやるじゃん!見直した!!」
「ジェシカまで……もう、なんなんですか!!?」
戸惑うミシェルに構わず、二人は彼女を強く抱きしめ続けた。
数分後…涙を浮かべて強く抱擁してくる二人を何とか振り解いたミシェルは、彼女らを自分の席に座らせて、乱れた髪や服を整えて自分も椅子に腰を下ろした。
「でも……どうやって………その…誘ったらいいか……とか…全然わからなくて………」
「いいわよ!そんなこと私がどれだけでも教えてあげるから!!!」
「私も!!数々の恋愛小説や官能小説を読み込んできたから絶対力になれる!!」
自信満々のジェシカ親子。
照れてはいたが、自分の力になってくれる人がいるというのは非常に心強く…そして嬉しいミシェルであった。
そんな照れを隠す為か、ミシェルは近くにあった料理を適当に口に運ぶ。
咀嚼していると思い出す、ずっと昔の事……これがおふくろの味というヤツだろうか?
幼いころから慣れ親しんだ味付けにほっこりとするミシェルは、同時に……こんなことを考えるということは年を取ってしまったせいかなどと少々悲しくなる。
「(拓也さんと出会ってから……私も色々と変わりましたね…)」
昔の自分なら……アルスやメル、ビリーやセリーを始めとした、こんなにたくさんの人と今のように親しくなることはなかっただろう。
今ならばわかる。昔の自分は、あまり人を自分に近づけるような人間ではなかった。当時の自分に自覚はなかったが、よくジェシカや彼女の母から苦笑交じりに言われていたことが今ではわかる。
冷たい表情や態度もきっとそんな自分が作り出したものなのだろう。
だが…そんな自分の殻も………彼が壊してくれた。
「(とても強いのにとても弱くて……自分だって大変なのに人の為に頑張れるとても優しい人…)」
今ではわかる。出会った頃は、一番人間を止めていそうだと思っていた彼が……一番”人間”らしい。
「そうよお酒!お酒の力を借りるってのはどう!?」
すると、しばらく何か考え込むような仕草を見せていたジェシカママが手を叩き、ようやく思いついた一つの案を端的に口にした。
その発言にジェシカがすかさず食いつく。
「詳しくどうぞお母さん!!」
「ミシェルちゃんって酔っぱらった時って拓也君にだけスッゴイ甘えるじゃない?
だから酔っぱらったふりをしてそのまま勢いで……ってこと!!幸いなことにミシェルちゃんは少し飲んだだけで完全に酔っぱらうから、お酒の匂いがしないってところでバレることもないと思うわ!!」
「流石お母さん!!伊達に長年生きてるわけじゃないね!!」
「ジェシカ一言余計!!」
「痛い痛い!!」
こめかみにめり込む怒りの拳に悲鳴を上げるジェシカを目の前にしながら、ミシェル何とも言えない幸せな気持ちに浸っていた。
それこそ……自分がこんなに幸せになってしまっていいのかと思えるほどの幸せが自分を取り巻いている。
「ありがとうございます……」
誰に向けるでもなく…ミシェルは俯き加減で本当に小さくそう呟くのだった。
「よし!それじゃあ細かい作戦を練りましょ!!
最高の結果は万全の準備があってこそよ!!」
「流石お母さんいいこと言う!!……伊達にぃぃぃ痛い痛い痛いぃぃぃ!!!」
「ジェシカ一言余計よ!」
「まだ最後まで言ってないぃぃぃ!!!!」
・・・・・
「よし!じゃあ今日はここまでだね!!
はぁ~…今日の議題は結構大変なものが多かったねぇ……お腹空いた」
「まぁ国の未来の為だからね。私たちが手を抜くわけにはいかないよ」
「流石帝で唯一まともな水帝。いいこと言う」
「それ自分で言ってて悲しくならないのかい剣帝…」
「実は悲しかった」
王城の廊下を行くローブの集団と王。
聖国との件や雇用問題などで1時間程度予定終了時刻をオーバーしてしまった本日の会議。
「酒…補充しないと……」
「甘いモノ……」
デスクワークが苦手な炎帝や地帝は、フードを目深に被っていても分かる程に憔悴しきっている。
多分今の彼らならば指一本で押しても何の抵抗もなく地面へダイブするだろう。
重苦しい足を引きずりながらようやく天井がない王城の外…中庭あたりへと歩み出た帝たちは、それぞれ軽く別れの挨拶を交わしながら軽く飛翔し、夜の闇の中へと消えていった。
最期の一人まで見送って行くつもりなのか、にこやかに微笑みながら手を振る王様。
拓也も軽く一礼し、大地を蹴った。
「ふぅ~…そろそろ寒くなってきたな」
あっという間に王都の遥か上空。
民家の灯りと街灯の区別もつかない程に高い場所で、拓也は白い息を吐きながら両手を擦り合わせて暖を取り、目を細めながらそんなことを呟いた。
「落下地点…通行人無し」
ローブを脱ぎ捨ててゲートの中にしまい、元のフツメンフェイスの私服男に戻る。
元気と書かれた暖かそうな白いトレーナーといつもの濃紺のジーンズ。
これが彼のいつものスタイルだ。
「よっと…」
普通ならば潰れたトマトになること必至なのだが…生憎彼は普通ではない。
ポケットに手を突っ込んだまま楽々と着地すると、何事もなかったかのように近くの民家の扉を3回ほど叩いた。
するとすぐにどたどたと中の住人が玄関へ向かってくる足音が聞こえる。
相変わらず騒がしい…声を殺しながら笑った拓也の目の前のドアが次の瞬間勢いよく開いた。
「いらっしゃいたっくん!ほら寒かったでしょ!?上がって上がって!!」
「お邪魔しまーす」
一歩家の中へ足を踏み入れただけで感じる外との温度差。
気の抜けた溜息を吐いた拓也は、足早にいつもの場所へと向かう。
「たっくん来たよー!!」
「いらっしゃい!お腹空いてるでしょ?いっぱい食べていってね!」
「どうも~」
ニヤニヤといつも通りの腹立たしい笑みを浮かべながら拓也がまず向かったのはやはりミシェルの隣。
先程までそこにはジェシカが腰かけていたが、どういうことかそこのテーブルの上は片付けられていた。
現在はジェシカママの隣の椅子に座っているジェシカを見る限り、恐らく彼女が気を利かせたのだろう。
拓也はすぐ隣で料理を頬張るミシェルの頭の上に手を置くと、子供にするようにポンポンと軽く叩きながら笑いかけた。
「よぉミシェル、大人しくしてたか?」
「……子ども扱いしないでください」
口ではそう冷たく言い放つミシェルだが……何の抵抗もせずに拓也に頭を撫でさせる。
相変わらずクールな表情の彼女だが…口元が少しだけ緩んだのをジェシカママは見逃していなかった。
だが…敢えて何も言わず、娘同然の彼女のその”変化”に安心したように目を瞑って誰にも気が付かれないように小さく頷いた。
「それじゃあいただきます~!」
「はいどうぞ~!」
手を合わせ、食前の挨拶をした拓也はまず手近にあったサラダロールを口に運んだ。
何度か咀嚼し口の中のモノを胃に流し込むと、次の料理へ手を伸ばす。
会議が長引いたこともあってやはりお腹が空いていたのか、無言になって料理を頬張る拓也。
そんな彼の気持ちのいい程の食べっぷりに、ジェシカママは自然と笑顔になっていた。
「やっぱり男の子ね~…それだけおいしそうに食べてくれれば作り甲斐があるわ~!」
それから各々が食事を進め、ひと段落ついた頃……ジェシカママがジェシカに目配せをする。
その視線から情報を的確に受信したジェシカは、テーブルの下からあるものを取り出して拓也に喋りかけた。
「たっくん明日もうちでご飯食べない?結構良いワインが手に入ったんだけど…ちょっと量が多くて」
3本のワインボトルをテーブルの上に置いてそう語るジェシカ。
ジェシカママは中々の酒豪とはいえ、確かに二人で飲むとすると如何せん量が多すぎるかもしれない。
「俺は別に構わないけど……ミシェルは大丈夫?お酒だけど…」
彼が彼女にそう話を振ることは…赤髪二人にとっては予想通り。
ジェシカは対角線上にいるミシェルをチラと一瞥した。
通常時より高揚したほんのり赤い頬。その問いに返答するだけだというのに、彼女がかなり緊張しているということはジェシカたちには手に取るようにわかった。
「………拓也さんが良いなら…私も少しなら飲めます…」
「そっか、じゃあ是非」
内心でガッツポーズのジェシカとジェシカママであった。
「でも俺はビリーの面倒見なくちゃだから少し遅くなるんだけど……」
「おばさんは全然オーケーよ。じゃあミシェルちゃんだけ先に家来てなよ~」
「わ、分かりました」
・・・・・
翌日…。
学園が終わり、帰路につくいつもの5人。
ジェシカが軽やかな足取りで先頭を行き、ミシェルがそれを追いかける。
そんな二人の背中をぼんやりと眺めながら呑気そうにニヤける拓也と、彼の後ろで語らうビリーとセリー。
するととある十字路でセリーが左へ向かう道を指さして足を止めた。
「じゃあ私こっちだから。また来週ね~」
「うん、バイバイ」
「セリー…君の犠牲を無駄にはしない!!」
「ん、ん…?」
「物騒なこと言わないでください。ほら、困惑してます」
「たっくん…あなたは今無数の屍の上に立っているの。その自覚が…あなたにはあるの!!?」
「ジェシカも乗っからないでください」
唐突にボケる拓也。すかさず突っ込むミシェル。そしてこれ見よがしに拓也に乗っかろうとするジェシカ。
結局この後、拓也とジェシカによる即興演劇が10分に渡って繰り広げられたのは言うまでもないだろう。
通行人がいても中々に遠慮がない二人。流石に一緒に居る者の実にもなれと言わんばかりに二人の脳天にチョップが炸裂した。
「いてっ!!」
可愛らしくそんな声を上げるジェシカ。
「痛ッたァァ!!!!」
石畳を砕かんばかりの勢いで地面に叩き付けられる拓也。
「ちょっと待ってミシェル俺だけ明らかに威力違うじゃん!!」
「さぁ、気のせいじゃないですかね」
無慈悲である。
その後、ジェシカとも別れて残ったいつもの三人。
今しがたぶん殴られたことへのヘイトはどこへやら……何事もなかったかのように世間話を交わす拓也とミシェルとビリー。
しばらくすると、話題は学園卒業後どうするかという将来の方面へ向かっていった。
「ビリー卒業したらどうすんのよ、そろそろ決めとかないとヤバくね?」
「そうだよね……まだやりたいこととか特になくて」
「マジかよニートかよ最高だな」
「ギルドで働くというのはどうでしょうか?ビリーさんぐらい強ければ生活できるだけ稼ぐことぐらい簡単でしょうし」
もっともなことを言うミシェル。確かにビリーほど強ければ、SSランクのクエストをこなすこともできる。
危険度が高いが、それだけのリターンはある。高ランク帯のクエストは、そのリスクに見合って報酬が高いのだ。
現にミシェルは、SSSランクのクエストを一度こなすだけで一年は普通以上に暮らせる。
まぁしかし…そういったクエストはそんなにたくさん入ってこない。実に上手くできている。
顎に手をやりながら低く唸ったビリーは明確な答えが見つけ出せなかったのだろう。
提案してきた彼女に問いかける。
「う~ん……ミシェルさんはどうするの?」
話を繋げるためだったその問いに、ミシェルは驚いたように肩を震わせた。
形容するならば、ドキッとした様子とでもいうべきか…。
すると彼女は、微妙に赤らんだ頬を隠すように俯くと…横目でチラリと拓也を一瞥し、出来るだけ平然を装って口を開く。
「……私は……そうですね………やっぱりギルド員として働きますかね」
「ミシェルさん強いからね~…その内帝に召集されるんじゃない?」
「い、いえ…私なんてまだまだです」
彼女はビリーの問いを受け、一体何を思ったのだろう。
それは彼女のみぞ知るところである。
「拓也君はいいよね、もう帝って職業があるし」
「だろ?おまけに何もなければ定例会に参加してのんびりするだけの簡単なお仕事なんだぜ」
「……剣帝に憧れてる人が聞いたらきっとがっかりするでしょうね」
そんな冗談を飛ばすミシェルの頬は若干赤い。
しかしそんな眼福な光景を拝むことはないまま、拓也はケタケタと楽しげに笑うと、苦笑と暗い色を表情に落としながら口を開く。
「まぁまぁ、俺たちが忙しくないってことはそれだけ平和ってことだよ。実際…戦争になったら俺たちは最前線で戦わなくちゃならない。死に一番近い場所だ……」
王国の最高戦力としての重責。帝の面々とも少々交流があるミシェルは、普段の飄々としていて穏やかな帝のメンバーを思い出しながらも、彼ら彼女ら…例外なくそれを背負っているのだと……彼のその発言から再認識した。
そしてもちろん……目の前の彼もそれを背負っている。
普段が普段なだけあって、こんなシリアスな声色で喋られ、更に平和主義者の彼が嫌でも戦わなくてはならないという事実に……どこか彼が遠くへ行ってしまうようで…なんとなく悲しくなるミシェルであった。
ミシェルがそんな心境に陥るとほぼ同時…憂いを含んだ彼の声色に、ビリーは顔色を青白く変化させると、恐怖からか声を震わせながら拓也に尋ねる。
「せ、戦争って……ま、まさか前に僕に焦れって言ったのって……どこかの国とッ!?」
「ん、あぁ、その辺は別にまだ大丈夫だと思う」
「で、でも近々大きな戦いがあるって…!」
「断言はできない。あとそのことと戦争はまた別の話だ。
とりあえずお前は今やるべきことをやれ」
「……う、うん…。分かった」
視線だけを向けてそう言い放つ拓也から放たれる圧力のようなモノ。
思わず竦んだビリーはそれ以上言葉を続けることなく押し黙った。
そうこうしているうちに家へ到着。
歩いているうちに表情も纏う空気もスッカリ元通りになった拓也は、制服を脱ぎ捨てて庭に立った。
「さぁどこからでもかかってこい!」
「え、えぇ!もう始めるの!!?」
「じゃ、じゃあ私はちょっとシャワーだけ浴びてから先にジェシカの家に行ってますね」
「あいよ~!」
拓也とビリーが向き合い、互いに魔力を高める中……ミシェルは逃げるように家の中へ飛び込んだ。
何とか拓也に見られずに済んだ真っ赤な顔。
きっと彼が今の自分の顔を見ていたら風邪か何かを疑っていただろうと、気を紛らわすためにそんなことを考えながら、ミシェルはまず自分の部屋へと向かった。
若干震える手で自分の部屋のドアノブを回し、開ける。
そして彼女はクローゼットの壁面収納のクローゼットを開き、その奥の収納棚の一番の棚を引き、並んだ衣服を丁寧にどけた。
その下に現れるそこそこ大きめの箱。
蓋を開けると……普段拓也が渇望して仕方ない、彼女の下着たちが現れた。
「えっと……できるだけセクシーなのをっておばさんも言ってましたし……」
拓也ならこの中もどれでもセクシーと答えるだろうが、ミシェルにとってはそうではない。
ごそごそとその中を漁ること数分。彼女は箱の底の方にとあるものを見つけた。
「…これは……」
取り出したのはパステルピンクの下着のセット。
可愛らしくも中々大胆でセクシーなデザインのそれ。
いつかのジェシカとの買い物で勢いに任せて買ってしまったが、結局一度も身に付けたことがなかったそれは、いつしか彼女の記憶から消えてしまっていたようだ。
「でも……これはちょっと……結構恥ずかしい……」
誰も見ていないからか、ミシェルは真っ赤に顔を赤らめた。
だが彼女は思った…。
どうせ今から途方もない勇気が必要なのだから……この程度……どうってことないだろうと自分に言い聞かせ、ギュッと胸元に大事そうに抱えると、その他諸々の着替えと共に浴室へと向かっていった。
・・・・・
日が沈み、すっかり薄暗くなったエルサイド王国の王都。
ポツリポツリと街灯が灯り始める。
昨日と同じ場所…ミルシー家では、いそいそと夕食の準備が進められていた。
「ジェシカこれそっちお願い!」
「はいよ~!!」
「私は何をすればいいですか?」
「ミシェルちゃんはイメージトレーニングしてなさい!!本番でできるだけ思い通りに動けるように!!」
「は、はぁ…」
何だか自分の一言で大事になってしまったと若干の後悔と気恥ずかしさを抱きながら、ミシェルは一言そう返す。
本来ならば肌寒く、本日も例にもれず身を抱いて摩っているはずの気温なのだが……彼女は火照った頬に手を当てて、熱を持った身を抱きながらソファーに腰かける。
「……」
ジェシカママに言われた通り、頭の中で食事の後にどうやって彼にッ迫るか……その手段をシミュレーションしてみた彼女であったが…とても自分の経験では補いきれず、更には羞恥の感情が邪魔をして、結局そのシミュレーションで何かを得るということはなかった。
「ミシェル…大丈夫?」
「は、はい!!あ、ジェシカですか…驚かせないでください」
「イヤ驚かせてはいないんだけど……真っ赤になったり真っ青になったりなんか落ち着つかないみたいだけど……」
突いて遊んでやろうという普段の彼女からにじみ出ているオーラは……微塵も感じない。
ただ、共に過ごした自分の姉妹を心配するようなその問い方と目線。
「大丈夫ですよ。
…ただ……ちょっと緊張しているだけです」
隣に腰を下ろしたジェシカに、ぎこちなく笑いかける。
クールな彼女が時折見せるふわっとした綺麗な笑顔とかけ離れた、緊張など…入り組んだ様々な感情で作り上げられたそれは、ジェシカの顔からいつもの太陽のような笑顔を奪う。
それから数分後……家の玄関が数回ノックされる。
誰がやってきたかはタイミング的に最早明白。
ちょうどテーブルの上の準備を終えたジェシカママが応対に向かう。
「いらっしゃい拓也君!準備はもうできてるわよ!!」
「お邪魔しま~す」
ビリーの稽古を終えた拓也がやってきた。
するとジェシカは、こんな状態のミシェルを眺めて何を思ったのか…何も言うことなく彼女の背中をバシッと掌で叩くと、腰を上げて玄関へ走って行ってしまった。
上がりに上がっていた心拍数も、その衝撃からか少し収まる。
そしてしばらくすると……赤髪親子に纏わりつかれた拓也がリビングに姿を現す。
「……」
いつもながらニヤケ面の彼。そんな彼の顔をじっと見つめるミシェル。見ただけで、ジェシカのおかげで一旦は落ち着いた心拍数もまた上がり始めてしまった。
しかしそんな内面とは裏腹に、彼がいないときには失っていた冷たさが…勝手に表情に戻ってくる。
最早条件反射の域に達した自分のそんな悪い癖…。
ミシェルは自嘲気味な笑みを浮かべて、視線を床に落とした。
「さぁさぁ!冷めないうちに食べちゃいましょ!!
お酒に合う料理だってたくさん作ったんだから!!」
「今日は宴だね~!!」
所定の位置に腰を下ろしたジェシカとジェシカママ。
彼女らに向かい合うように拓也とミシェルも椅子に腰を下ろした。
「それじゃあ!いただきま~す!!」
ハイテンションなジェシカママが食前の挨拶を口にし、他の面々もそれに続き、食事が始まった。
すると早速二本のワインボトルのコルクを抜いたジェシカママが、まずミシェルを除いた三人の空のワイングラスに深い紫色のブドウ酒を注ぐ…。
そして……先に食事に手を伸ばしていた拓也には感づかれないように、もう一本のワインボトルの中身はミシェルのグラスに注いだ。
「すごいいい匂いがするね!!」
「確かに……」
ワイングラスを鼻の前で少し傾けると、芳醇な果実の匂いに加えて一層濃くなるアルコールの香り。
昨日ジェシカママが言った言葉の通り、このワインは中々上質なモノなのだろう。
三人がその上質な酒に舌鼓を打つ中……ミシェルは、自分だけただのブドウジュースを口にするというこの状況。
何だか一人だけ仲間外れのようなこの状況に、ちょっとだけ何だか悲しいような惜しいような気持ちになりながらも、ミシェルは自分に言い聞かせるように本来の目的を思い出しながら内心で呟いた。
「(私が酔っぱらっちゃったら制御が効きませんもんね……)」
グラスの中の清涼飲料水をチビチビと飲み、微笑んでいる拓也の様子を横目で窺うようにして……同時に内心でのその発言で脳裏に浮かぶ、酔ったことで晒してしまった数々の醜態。
別に、拓也から言えば可愛いの一言に尽きるのだが……彼女にとっては苦い思い出も多いのだ。
「ミシェルはあんまり飲みすぎるなよ~」
「……分かってますよ」
内心で反省しているのに、そんな発言で追い打ちを掛けてくる拓也。
ミシェルは少しの沈黙の後、むくれながらぶっきらぼうにそう返すと…拓也への当てつけのように、自分のグラスを一気に傾けた。
「お、おい…そんな一気に呷って大丈夫…?」
「……大丈夫です」
ミシェルが飲んでいるのがただのブドウジュースだとは露知らず……彼女の酒への免疫の無さを知っている拓也は心配そうに隣の彼女の顔を覗き込みながら…主に彼女と、それからついでに自分の身を案じて声をかけた。
フイッと目を逸らす彼女の頬が赤くなったのを見て拓也は更に心配そうに顔を歪めたが……それが照れと羞恥で染まったということは、きっと彼は知りはしないのだろう。
そして……そんな二人の様子を眺めて赤髪親子がニヤニヤとしていたのは最早言うまでもない。
「ほらたっくん手が止まってるよ!!もっと食べて飲んで!!」
「最近ジェシカがおっさん化しているような気がしてならないんだが……何その樽みたいなコップ。つーかいつの間にワイングラスからそんな荒々しい入れ物にすり替わってんだ」
「気のせいだよ!まだ乙女!!」
「まだってことは……」
「たっくん…それ以上は言っちゃダメ」
太陽のような笑顔に影が差したジェシカだった。
それからしばらく続く他愛もない会話。
良い酒のおかげか食事も進み、大皿に用意されていた様々な料理も順調に減って行き、まばらに無くなり始めていた。
「ん~…やっぱりお酒はいいわねぇ~…」
「これ本当においしいね~!どれだけでも入るよ~」
ジェシカやジェシカママたちの上気した顔を見る限り、彼女らにも順調に酔いが回ってきたようである。
めんどくさそうになりそうだ……そんな乾いた視線と笑いを彼女らに向ける拓也は、ふと隣の彼女に目を向ける。
そこで彼の視界に映ったのは、ジェシカたちと同様に頬を赤らめながらも…グラスを傾けてチビチビと艶めく紫の液体を口にするミシェルの姿だった。
「大丈夫?結構顔赤くなってきてるけど……」
数か月ほど前に計測した彼女のアルコールの限界量。
その時はおそよコップ二杯。400㏄で、理性を手放す限界ギリギリの所に達した。
しかし現在彼女が口にしているのは……三杯目。
それはたった少しの違いかもしれない……計測したときに比べてアルコールへの耐性が強くなったのかもしれない……。
だが、もし彼女の理性のタガが外れれば、被害をこうむるのは自分。
いや…別に自分が被害をこうむる分には、まぁ…とりあえず構わない。ただ一晩彼女の抱き枕にされて寝不足に陥る程度。
問題は、酔いがさめて通常のクールモードに戻り、羞恥心が限界突破して破壊衝動に目覚めたミシェルが災厄(矛先は主に拓也)をまき散らすことが拓也は心配なのだ。
「……」
彼のそんな呼びかけに彼女が見せた反応は、俯き加減で小さく頷くというほんの僅かなアクション。
内心でヒヤヒヤして気が気でない拓也だったが……彼女がまだ今のところは通常運転であることに加え、両手でグラスを抑える可愛らしい彼女を目の前に……もう何も言えなくなってしまった。
俯いた影響で垂れる彼女の銀髪。
その横髪に隠れたせいで、拓也の位置からはもう彼女の顔色は窺えない。
すると、銀色のカーテンの向こう側から小さくくぐもった声が聞こえてきた。
「拓也さんは……まだ酔ってないんですか?」
いつも通りの敬語調の言葉使い。
彼女が理性を失っていないことに一先ず安堵した拓也は、自分もグラスを傾けてワインを一口含んで柔らかく笑みを浮かべた。
「酔ってるよ~いつでも治せるけど」
「……ほんとめちゃくちゃですね…」
へらへらと笑いながら料理を口に運ぶ拓也。
何故か…彼のそんななんでもない一挙一動にすら、照れくさくなって思考が廻らなくなってしまうミシェルであった。
・・・・・
「お疲れ様、リリー君。もう上がりかい?」
疲れた表情でコートに手を掛けた幼女受付嬢ことリリーの背後から掛かった低くてよく通る声。
その主は、このギルドのマスターのロイド。
「お、お疲れ様ですマスター!
マスターはまだお務めですか?」
一瞬で疲れを脱ぎ捨てて振り返ったリリーは、地面に落としてしまった自分のコートには見向きもせずにロイドにそう尋ね返す。
苦笑を顔に浮かべたロイドは彼女へと歩み寄ると、足元のベージュのコートを拾い上げてリリーに手渡しながら口を開いた。
「僕もこれで上がりだよ。
リリー君も上がりみたいだし、今からまた食事でもどうかと思って声を掛けたんだけど」
「是非!」
迷う様子を見せず即答。
キラキラと目を輝かせながら背の高い彼の顔を覗き込むその様はまさに幼女。
そんな彼女の様子にまた苦笑いを零したロイドであった。
しかし…子ども扱いをすると彼女が機嫌を損ねるのは最早分かり切っている。
故に彼は内心で思ったことを口には出さず、すっかり暗くなった外へ繋がるドアを開いた。
「じゃあ何か食べたいものはあるかな?」
「マスターは何かないんですか?」
・・・・・
ミルシー家。食事が始まってからおよそ2時間が経過。
お酒の種類をブランデーに変更した拓也、ジェシカ、ジェシカママがデザートタイムに移行する中……。
ミシェルは一人だけ、リビングのソファーに横たわっていた。
「ミシェルちゃんやっぱりお酒弱いわねぇ~」
目を瞑って小さく寝息を立てる彼女を微笑ましい表情で眺めるジェシカママは、しみじみとそんなことを呟いた。
しかしミシェルはアルコールを一滴も摂取していない。
つまりは……現在進行形で狸寝入りの真っ最中である。
ジェシカママは計画が順調に進行するように、嘘を言ったに過ぎないのだ。
「これだとまたたっくんがおぶって帰ることになりそうだね~!」
「……まぁそれぐらいで済むなら全然構わないんだけどな……何よりその後が怖い」
ギクッといった表情の赤髪親子。
拓也は別に彼女らの作戦を知ってしまったわけではない。
ただ単純に、酒に酔った彼女が引き起こす予測不能な災厄が怖いのである。
ショートケーキを口に運んだ拓也は、ソファーのミシェルに視線を送りながら苦笑いを浮かべた後、ケーキの甘さも一緒に小さな溜息で流してしまうのだった。
最後のちょっと大きめの塊を一口で放り込むと、コップの中のブランデーも一気に呷って両手を合わせる。
「じゃあそろそろ御暇します。色々とごちそうさまでした」
「そうね~もう遅いし…またいつでも来て頂戴ね!」
「今度はアルスとかメルちゃんとか皆も呼んでやろうよ!絶対楽しいし!!」
「そうだな、また今度やろう」
そう返答しながらソファーへ向かった拓也は、目の前で深い眠りに落ちているミシェルの肩にそっと手を置き、揺する。
本当は眠ってなんていないミシェルであったが……これも作戦の内。敢えてそのまま寝たふりを続けた。
困ったように眉を顰めた拓也は、一つ深く息を吐いて彼女の腕を自分の首に掛ける。
「ん~、やっぱ起きないか……まぁいいや。おぶって帰ることにするわ」
軽々とミシェルを背負った拓也は、ここへ来る際に着てきたロングコートを片手でハンガーラックから取り外し、片手でそれを翻しながらそっと背中の彼女に被せるように掛けて玄関へ向かって足だけで器用に靴を履く。
「じゃあこれで…お邪魔しました」
「はい!またいつでも来てね!」
「また月曜にね~!!」
振り返った拓也は、背中のミシェルを起こさないようにか…赤髪親子に浅く腰を追って軽く会釈する程度に頭を下げた。
ジェシカとジェシカママも手を振って彼らを見送ると、拓也はかなり寒い外へと歩み出し、ドアノブから手を離した。
外気と遮断された途端……彼女らがニヤニヤとした笑みを浮かべたのは言うまでもないだろう。
「ハァ~…さっむ……」
背中の彼女に掛けた上着のせいで、拓也の現在の格好は白いトレーナーにジーンズ。
一言でいうと…かなり寒い。
軽く震えながらも……寒いが故に帰路を急ぐ。
「……」
言葉を一つも発さずに彼の背中に体を預けるミシェル。
静かにこそしているものの……内心では様々なエラーが発生していた。
今にも思考回路がパンクして停止してしまいそうなほどに…。
徐々に…だが確実に高くなって行く心拍数。
これだけ密着していると、この胸の音が……拓也に気が付かれては仕舞わないだろうかと心配になってくるミシェルであった。
しかしそんなことを言っている場合ではない。
もうあまり時間が残されていない。
考えなければ……そう自分に強く言い聞かせ、ようやく冷静になってきた頭で組み立てるのは……これから先の事。
どうやって彼を”その気”にさせればいいか…。
「(まず……拓也さんはきっと私を私の部屋のベッドまで連れて行ってくれる……。
そこで……そこで……///)」
一時は冷静さを折り戻した思考回路も、すぐさま渋滞。果てにはパンクする。
結局まともな作戦は一つも練り上げられずに家に到着。
慣れた手つきでどこからともなく一つの鍵を取り出した拓也は、この暗闇の中でも迷うことなく鍵穴にそれを差し込み、玄関を解錠。
静かにドアを開けて靴を揃えて脱ぐと、照明が何一つ灯っていないからか暗い印象を覚える家の中へ歩を進め、すぐ近くの階段へ足を掛けた。
「……」
話し相手がいない拓也は勿論無言。狸寝入りをしているミシェルは言わずもがな。
何も会話がないまま、気が付けば拓也は既にミシェルの部屋の前まで到達していた。
今から拓也を……誘う。
人生で初……極度の緊張に駆られるミシェルは、これまでの人生で経験してきたどんな時よりも強く脈打つ心臓に、何とか言うことを聞けと必死に呼びかけてみるが……当然彼女の意思でどうにかなることではなく、結局動悸は収まらない。
気温は低く、寒いはずなのに……火照り始める身体。全身にじっとり汗をかくような感覚。
きっと今自分の顔を鏡で見たならば、真っ赤になっているだろうと内心で自分を冷静にするために自嘲気味にそう呟くミシェルだったが……残念ながら彼女の思惑通りにはいかず、全身は極度の緊張状態に纏わりつかれたままであった。
拓也はドアノブに手を掛け、静かにドアを開けてミシェルの部屋に入った。
一方の拓也も……やはりミシェルの部屋に入るのはかなり緊張する。
まぁ大体彼が何かふざけて彼女を怒らせ、制裁を喰らい続けた結果、彼の脳にミシェルの部屋=危険な場所。という完全に自分のせいなのにもかかわらずそういった理不尽な認識をしているのだけなのだが…。
「……」
ということで、ミシェルの部屋の中へ踏み入った拓也の表情に若干の恐怖と焦りが浮かんだのは言うまでもないのだろう。
静かに歩みを進めた拓也はあっという間に彼女のベットの前に到着。
掛け布団を捲り、背中の彼女をそっとベッドの上に下して小さく一息吐いた。
目を瞑っていたミシェルであったが……彼の口から漏れたそんな息遣いは、何故だか彼女の気分を高揚させる。
いよいよだ。そう内心でポツリと呟いて、気付かれないように深く息を吸って……吐く。
それを寝息に織り交ぜて数回行って、心なしか体の熱が引いてきた頃…。
「風邪ひくなよ~っと…」
ちょうど、小声で笑いながら毛布を掛けてくれた拓也の手を…ミシェルはギュッと掴んだ。
鍛えられた筋肉で、ゴツゴツとした感触の前腕。
圧倒的な存在感。しかしミシェルが同時に感じたのは……すぐに手の中をすり抜けてしまいそうな、悲しさを孕んだ…そんな感覚であった。
羞恥、悲しみ……色々と入り混じってもうぐちゃぐちゃになっている彼女の心境など知らない拓也は、目をパツパチさせながら口を開く。
「ん、ごめん起こしちゃった?」
彼は目の前にいるはずなのに……どうしてか……煙を掴んでいるように実感がない。
本能的なモノが……彼女に囁くのだ。
どうして今日?どうしてこのタイミングで?
そんなことは分からない。
瞼を開いてみたが……僅かに空いたドアから差す廊下の照明が細く部屋に伸びるだけ。
そんな僅かな光で視界に映し出される彼のシルエット。
彼がどんな表情を浮かべているのかさえ分からない。
「おわっ!!」
視覚で彼の姿を捉えたことと、自身の目的。それらが組み合わさることでより一層高まった羞恥の感情。
気が付けば……か細い彼の腕を、まるで自分のモノだと主張するように引っ張っていた。
「あぶねぇ……もう少しでベッドに突っ込んでミシェルのグッドスメルを吸い込みすぎて急性ミシェル中毒でイクところだった…」
しかし流石は拓也か……危ないところでベッドのふちに自由な方の手を付いて難を逃れると、間隙開けずにキレッキレのこの紳士っぷり。
もちろん彼のそんな変態的な発言はミシェルの耳には入っている。…が、拓也も覚悟していた制裁は……やってこない。
「拓也……抱いて…」
代わりに訪れたのは、彼女の甘い誘いだった。
赤髪親子と共に考えた甘い誘い文句も……ここに至るまでに考えた段取りもすべて真っ白になった脳内からは跡形もなく消え去り、代わりに咄嗟に口から零れたのは単純明快なそんなセリフ。
僅かに残っていた思考力が、自分が彼を呼ぶときのいつもの呼称から危ないところで敬称を引き抜いたおかげで、辛うじて酔っているという演技は続けることができた。
顔の熱で今自分がどんな顔色をしているかなど、最早思考する必要もない。彼女はその言葉を紡いだきり、ギュッと目を瞑った。
暗闇の中、そんなことをしても自分の瞳に映る光景などほとんど変わらないのは分かってはいた彼女だが、緊張を紛らわすためか……無意識でそうしてしまう。
「……」
無言の拓也。
流石に彼も、彼女がどういう意味でその言葉を発したのか……それくらいは理解できていた。
灯りなどないこの部屋……しかし……拓也にはミシェルの表情は手に取るようにわかる。
それは別にミシェルの事を誰よりも理解しているからというわけではない。純粋に彼は目が良すぎる。
どれだけ暗くても…その空間にほんの僅かでも光が存在するならば、彼の瞳は像を捉えるのだ。
これまでに見たことのない程に上気した頬。固く閉じられた瞼…同様に閉じられたしっとりと潤った唇。
落ち着かないのか、毛布の下で身じろぎを繰り返す身体。
視覚から得られたそれらの情報だけでも男性の劣情を、理性を呑み込むほどに駆り立てるには十分すぎる。
無言のままの拓也は、彼女に掴まれたままの手をゆっくりと動かし始めた。
「……」
ゆっくり…ゆっくりと動いた彼の手。掌が向かったのは、彼女の顔。
拓也はそっと彼女の頬に触れると、自分の姿など見えているはずのない彼女に柔らかく微笑んだ。
掌から伝わる彼女の温もり…さらには、端的にだが彼女が抱く感情まで読み取れる。
言葉を交わさずとも、分かることはあるのだな……そんなことを内心で呟いた拓也は、添えた手…その指先でミシェルの頬をフニフニと何度か押し込んで遊ぶと、彼女から手を離して口を開いた。
「シラフじゃないミシェルに手を出すわけにはいかないかな」
拓也の口から発されたのは、ミシェルの誘いに対するやんわり断るものであった。
ゴムを限界まで引っ張って、今にも千切れそうな緊張状態の中に置かれていたミシェルであったが、予想外なその展開で真っ白な頭の中に僅かに発生した冷静に思考をできる部分で彼の発言の処理をする。
ジャンルとしては、拒否などの部類に入る拓也のそのセリフ。
彼の口調からも分かる通り、別に激しく拒絶しているわけではなかったのだが……ミシェルにとって、今、拓也を誘うという行為は一世一代の覚悟の末のモノ。
「じゃあお休み。寒いから毛布はちゃんと着ないとダメだぞ」
すっかり力の抜け落ちた彼女の手から腕をするりと抜くと、すぐに踵を返して逃げるように部屋を後にした拓也。
彼の目に、悲愴な彼女の表情が写ることは…なかった。
小さくバタンと音を立てて閉まるドア。廊下から差し込む僅かな細い光も消え失せ、闇に包まれる部屋。
「…………」
感情の濁流。むくりとベッドの上で起き上がったが……言葉が出ないミシェルであった。
一方……ミシェルの部屋から逃げ出した拓也。
静かで薄暗い家の中に階段を下りる音が規則正しく響く。俯き加減のままでリビングのドアを開けて、ソファーにドカッと腰を下ろし、肺の中の空気を全て排出するような勢いで息を吐く。
「俺は……一体どうすればいい……どんな顔をすればいいんだ……」
天井を仰ぎ見ながら手で顔を覆った拓也の表情は、決して穏やかなモノではなかった。




