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神様のお使い  作者: 泡沫にゃんこ
第二部
42/52

始祖返り



夏真っ盛り。


王城の廊下を闊歩する黒ローブは、気怠そうな表情をフードの下に隠しながら歩を進める。



「クソ……メルめ、今度会ったら乳首五個増やしてやる……」



何度来ても迷いそうになる王城のこの廊下。この暑さによるイライラも相まって、いっそのこと空間でも弄って廊下を一本にしてやろうかと思う拓也。


そして何故かここの主の娘にヘイトが溜まっているが、多分気にしてはいけない。ただの八つ当たりというやつなのだから。



しかし…極稀に、運命とは非常に密接に絡み合う。



「……っげ」



「おい、っげ…とはなんだ、一応お前のパパンに呼ばれてきてんだぞ?客人だぞ?もてなせやこら」



曲がり角から、ステルス王女ことメルが登場。それにしても彼女の隠密力もこの暑さで低下しているのだろうか…?


登場と共に拓也の視界で認識されるとは、彼女一生の不覚である。



「この暑い中でどうしてよりにもよって………この前ミシェルさんのお宅に泊まらせて頂いた時はあんなに涼しかったですのに……。


やっぱりあなたがいると非常に不愉快ですわね」



「丁寧な言葉使っても罵倒された方は気づくって知ってた?


それとお前らが快適に過ごせたのはあの天使共が魔法で空調システム作ってたからだしね」



「そ、そうだったのですか!?」



「え、気づいてなかったの?王女なのに……うわ、ありえねぇわ」



元より…ガブリエルとラファエルが彼女らに気が付かれないようにして発動させていた魔法だったため、メルが気付くはずがないのだが……


面白がった拓也はそれをネタにメルを煽り始める。


そして……薄々その魔法の存在に気が付いていたミシェルは、多分天才なのだろう。



「お礼をしませんと……次はいついらっしゃるんですか?」



「知らねぇ~、アイツら気まぐれだし」



先ほども言ったように拓也は王に呼ばれてこの場に来ている。それもちゃんとした仕事着ローブで。


王女の出現で止めていた足を進めながらそう発言した拓也。彼としては会話を終わらせるつもりだったのだが……数歩後ろから聞こえる足音。


振り返れば……追従してきているメル。



「お前は犬か」



「な、なぜそうなりますの!?」



やはり彼女を動物に例えるならば、犬である。



「というかさ~、お前と会っちゃったから俺お前の乳首を五個増やして七個にしてあげないといけないんだけど」



「言っている意味が分かりません!!分かりたくもありませんわ!!」



「いや、北斗七星でも作ってやろうかと……」



「だから意味が分かりませんわッ!!」



この暑さだというのに、彼女の勢いは普段と比べても全く衰えがない。


拓也は彼女の恐ろしいまでの犬スキルに感心しつつ、いつも通り無視しながら歩を進める。


しばらくはうるさかったメルだったが、拓也に無視されていると察すると、ショボーンとしながらだが徐々に口数を減らし、終いには完全に黙りこくってしまう。



その様子を音声と脳内の想像で補いながら内心で一頻り笑った拓也は、空間魔法で開いたゲートの中に手を突っ込み、暗い空間の中から一つの瓶を取り出した。



液体に満たされた瓶。その中には、小さい何かが数個沈んでいる。



「そっか……折角用意したのに………非常に残念。そして提供してくれた人たちに非常に申し訳ない…」



「あ、あなたはなんてモノを持ち込んでいますのッ!!?早く捨て……じゃなかった。早く持ち主に返してくるのですわッ!!」



「返したところでもう遅いだろ、常識的に考えて」



「っあ………」



拓也が渡した瓶の中の乳首はもちろん偽物なのだが……どうやらメルはまだ気が付いていないようだ。


これで定期テストの成績が学年主席とは笑わせてくれる。




拓也は漏れそうになる笑いを必死に堪え、何とか呼び出された部屋の前まで辿り着いた。


そして……当然のように斜め後ろに立つメル。



「お前それいつまで持ってんの?」



「じゃ、じゃあ返しますわ!!」



「いやいらねぇよ気持ち悪い」



「ならなんでこんなもの持っていたんですの!!?」



無視してドアノブに手を掛ける拓也。


視界に飛び込んだ部屋の中には、呼び出した国王と、放浪王子ヘイム。そして彼の妻、ユナがソファーに腰かけていた。



「おぉ、拓也君いらっしゃい。待ってたよ」



登場した拓也に手を上げてそう気軽に挨拶をするのは国王ローデウス。


ユナも彼に続き軽く頭を下げなて挨拶。


そして少し遅れてコップを傾けていたヘイムが拓也に気が付いて手を上げる。



「やぁ剣帝、久しぶりだね!」



「どうもっす~」



部屋の中には王族関係者しかいない。


それを確認した拓也はそう返答しながらローブのフードを脱ぎ、彼らの対面のソファーに腰を下ろす。


シンプルながらも質が良く上品さを感じさせる家具の数々。やはり王城というだけはある。



「いらっしゃい拓也さん。紅茶は冷たいものでよかったですか?」



「あ、はい」



部屋の奥に備え付けられた給仕室のような場所からひょこっと顔を出して拓也にそう問うのは……娘にも遺伝した巨乳を揺らす王妃。


また娘と似て長い金髪は、緩い三つ編みに結われている。



本来は使用人のやることなのだろうが……客人が拓也だからか何故か彼女がお茶を用意中。


そんな主人に近い人物にお茶を準備されることに若干の違和感を感じつつ、拓也は話題を切り出した。



「それで呼び出された理由ってのは……」



「うん、それなんだけどね……」



自分と同じソファーに腰かけたメルをチラリと一瞥する国王。


年頃の娘には聞かせづらい話なのだろう。拓也は、この場にいるメンツと、なぜメルが最初からこの場にいなかったのか……そこから大体の話の内容を推測し、悟った。



「やっぱり種族が違うからかもしれないんだけど、中々子供ができないらしいんだよ」



「やっぱりその話でしたか……」



クックと低く笑い、ゲートを開いてその中に手を突っ込む。


さっきの乳首瓶を取り出した時よりも大きく開かれた異界への門。


腕を突っ込んだ拓也はその中をしばらく漁るように手を動かすと……しばらくして中から長いクリーム色の髪を携えた、白衣の少女を引っ張り出した。



「何するんじゃい」



「仕事だ」



こんな小さいなりでも一応神様…リディア登場。



拓也とヘイムの決闘があった数日後……国民に向けて大々的にユナの紹介があった。


こういう展開でありがちな人種差別等も見受けられず、結構すんなりと国民に受け入れられた彼女……。



跡取り的な意味でも、おじいちゃん的な意味でも国王が早く孫の顔を見たいのは分かるが…。



「まぁでも、確かに早く子供が欲しいのは分かるけど…まだ一ヵ月だしねぇ…。もう少し様子見ってのは?」



「わ、私は早くヘイムの子供が欲し…い……」



「……そうっすか…」



「それに実際、一ヵ月じゃないしね~」



ー……結婚前から手出してやがったのかこの野郎……ー



自分がミシェルには全く手を出せていないからか、内心で彼に対しての敵対心が黒く渦巻きだした拓也だったが……何とか堪えて平然を装う。


そして国王の隣に腰かけているメルがヘイムを軽蔑するように睨んでいるが……まぁ兄妹だから多分大丈夫だろう。



やれやれと髪を掻く拓也は、隣で何やらノートにペンを走らせているリディアに問い掛けた。



「リディア、エルフと人間での受精確率は?」



「一パーセントを下回ってるの」



「なるほど、生命の神秘を感じるわ」



ここまで低い確率になってくると、確かに薬か何かを使う必要があるのかもしれない。


しかし本人たちに抵抗はないのか……それだけが課題。



「あの……俺たちが薬で手助けすることはできるけど、二人は抵抗とかはないですか?」



「うむ」



神に匹敵する能力を有する拓也と、神。二人が協力すれば、その程度の薬を作ることは確かに容易いだろう。


問題は本人たちの認識。


二人の間の愛に、自分たちが手を加えることになってしまって本当にいいのか。


リディアもその辺りは弁えているのか深く頷きながら拓也の意見に賛同の意を示して彼らの返答を待つ。



しかし……ヘイムとユナは顔を見合わせて、その顔に微笑みを浮かべると、既に答えは出でいると言わんばかりに口を開いた。



「構わないよ」



「それに…生まれてくる子も、多くの人の愛を受けながら生まれてきて欲しいですから」



参ったというように目を瞑り、いい意味での溜息を吐くと、拓也少し笑みを浮かべながら口を開く。



「分かりました。じゃあ俺たちで何とかします」




席から立ち上がろうとしたその次の瞬間……拓也の目の前のテーブルに、ドン!と勢いよくグラスが置かれる。


それを握っている腕を伝えば、視界に飛び込んでくるのは満面の笑みの王妃様。


若干前屈みになっているせいで、強調された胸部が素晴らしいことになっている。きっとジェシカやガブリエル。そしてロリーが見たとしたならば、闇の暗い感情に駆られて堕天してしまうことだろう。



「お茶が入りました~」



「あ、どうもっす」



そして拓也は彼女の瞳に浮かぶ色から察知する。彼女は『もっとお喋りしましょう』と暗に伝えてきている。


肺を悪くしていた彼女を治療していたおかげで、王妃の性格は大体知っている拓也は、ここでもし逃げても作業中に邪魔をされることが分かっているため……持ち上げかけていた腰をそっとソファーに戻して、目の前に置かれたコップを手に取り軽く傾けた。



「そういえばユナさんの話を聞きたいと思ってたんですよね~エルフの話とか…なんて…」



「わ、私の話…?」




少々無理やりだったが……メルの隣に腰を下ろしながら笑みを浮かべて頷いている王妃を見る限り、どうやら話題の展開には成功したようだ。


疑問形でそう返してきたユナに頷きで返すと、彼女は少しだけ虚空を見上げて考えるような仕草を見せた後、ポツポツと語り出す。



「エルフは大体緑が多い所に住んでいます。森林や樹海の中に小さな村を作ったりして暮らしています……人間よりもずっと長寿で……」



ポツポツと徐々に引き出されてくる彼女の中の情報。拓也たちは時折相槌を打ちながらその話に聞き入っていた。


すると……ある程度離したところでユナの表情が少しだけ曇る。



「エルフは本来、同族間の争いはほとんどしないんだけど……小さな争いだけど、最近は頻発しているの。


……先代の『始祖返り』が亡くなられてからね」



始祖返り……なんとなく聞いたことがある単語。拓也は天界時代にガブリエルから叩き込まれた知識の辞典を頭の中で引っ張り出した。


そしてその辞典のページをめくり続けること十数秒。



「始祖返り……突然変異にも似た現象で、ある種が進化する前の状態に戻ること?」



「!…そ、そうです」





拓也が始祖返りに付いて知っていたことに目を丸くして驚いたユナは、さらに細かい説明を始める。



「エルフにとって始祖返りとはとても重要なの。始祖返りしたエルフが全てのエルフの頂点となってあらゆることを取り仕切る。


始祖返りしたエルフは敬意を込めて『ハイエルフ』と呼ばれるわ。通常のエルフよりもずっと長生きで、凄まじい量の魔力を秘めていて、未来さえ見えると言われているの」



人間の世界で言う皇帝の様な存在だろうか。


それにしても未来を見ることができるとは、将来時空神となる拓也には中々シンパシーを感じさせる存在である。



「そしてつい十数年前に先代のハイエルフが亡くなったの。



通常、ハイエルフが亡くなると、数年後には新しい始祖返り…ハイエルフが生まれてくるはずなんだけれど………未だにどこの村でも確認されていないの……それで他の仲間たちもピリピリしてきているのかもしれないわ……」



「先代が亡くなると、必ず数年以内に新たな始祖返りが生まれる確証は?」



話が切れたタイミングを見計らい、そう問いかける拓也。


するとユナは迷うことなく頷き、彼の疑問を解消する答えを口にする。



「エルフ残している最古の昔の文献にもそう記されているの。始祖返りが亡くなると…必ず数年以内には次が現れる」



「始祖返りだとは、一体どう判断するんだ?」



「桃色の髪と瞳。歴代の始祖返りは皆、この二つの外見が一致しているの。


始祖返り以外のエルフがこの髪色になることは絶対にないわ。だからそれで判断するの。


それからさっきも言ったように、普通じゃない力を持っているからそこで判断することもできるわ」



彼女の発言を聞いた後…顎に指を当てながらしばらく考え込むような仕草を見せる拓也。


黒い瞳をテーブルに落としながら…一体彼が何を考えているのか……付き合いの長いメルは、彼の意図していることに気が付くことができた。



「(どうせ何とかしようと思っているのですわ……)」



自分の考えを疑うこともせず、メルは相変わらずの彼の人の良さに呆れたように小さく溜息を吐いた。



・・・・・



「はい、じゃあ拓也さんはヘイムの方の遺伝子解析するから、お前はユナさんの方な」



「了解なのじゃ」



研究と開発の為に、彼らに与えらえれた一室。


僅かに消毒液の匂いが漂う室内には、彼らの目的に適した形のテーブルとイスなどの極僅かな家具だけが設置されており、無駄なものが一切ない。


白衣に着替えた拓也がドアをその部屋のドアを押し開けながら入室し、先にいたリディアにそう声を掛ける。


彼女も頷いてそう承諾の返事をすると、顕微鏡の置かれた机の上向かった。



「終わり次第俺も手伝うから……ミスだけはないようにな」



「誰に言っておる小童。私の腕に掛かればこの程度朝飯前なのじゃ」



その言葉のやり取りを最後に、お互いに黙り込んで作業を開始する。




二人から採取した細胞のサンプルを入れたビーカーとピンセットが触れる音。


顕微鏡にセットするスライドガラスが擦れる音。



黙々と作業する二人の集中力は凄まじく、自分の机に視線を固定したままピクリとも動かない。まるでお互いの存在を認識していないかのような振る舞いである。


そして彼らが利用している顕微鏡は、倍率の限界がないという鬼灯印のとんでも製品。


彼の技術が、まともな面に生きることもあるのだ。




10分…20分。


子気味良いリズムでペンを走らせる音は、彼らの作業のスムーズさを物語っている。



そして1時間が経過したころだろうか……疲労が限界に達した拓也は背もたれに思い切りもたれ掛かりながら伸びをして、ペンを机の上に放り投げた。



「あぁ……ミシェルのパンツを一晩じっくり漬け込んだデトックスウォーターが飲みたい………」



「そんなことを言っておるからヌシはミシェルに引かれるんじゃ」



間隙開けずにツッコんでくれるリディアは、きっと彼の相方の一人に違いない。



・・・・・



「あの……すみません…」



王城の門に銀髪を揺らす一人の美少女が槍を持って門番の職に就いている騎士に声を掛ける。


声を掛けられその発信源へと視線を向ける門番は、彼女の姿を認識すると、その顔を冷たい仏頂面からにこやかな笑顔に変化させると、手を王城内へ案内するように向けて口を開く。



「あぁ、ミシェル様ですか。どうぞ、王女様からご学友様はお通しするように言いつかっております」



「ありがとうございます」



未だに剣帝の格好をしていないと止められる拓也とは大違いだ。


というか剣帝の格好をしていても新人騎士などには必ずと言っていいほど止められる拓也は、きっと相当モブオーラを醸し出してしまっているのだろう。



「いつ来ても綺麗ですね…」



すっかり慣れたような歩みで王城の庭を行くミシェルは、色とりどりの花が、鬱陶しくなく整えられて最も魅力のあるように植えられた花壇を眺めながら、結構手が掛かっているだろうな~なんてことを思いながらそんなことを呟いた。


歩を進めて行く途中でも、ミシェルの顔を覚えている使用人たちは軽く会釈をしたりしてくれる。


未だに(ry



「家も…花でも植えた方がいいですかね……」



中庭から城内に入り、名残惜しそうに背後にチラリと視線を送りながらそんなことを呟いたミシェルだったが、自分の家には既に花以上に手の掛かる厄介なのがいることを思い出し、やはり止めようと思いとどまるのだった。


そのまま迷子になりそうな程に入り組んだ場内を迷うことなく進むミシェルは、居る部屋の前に立ち止まり、その部屋の戸を軽く数回ノックする。


入室の許可を求めたのだが……数秒後、ドアが向こうから開き、見慣れた顔が視界に映る。



「やっぱりミシェルさんでした。窓から庭の方でチラッと姿が見えたので待っていましたの」



一つ、二つと世間話を交わした後、メルはミシェルを室内へ招き入れた。




「メルさん、今日は三つ編みなんですね」



「あぁ、これですか?ユナさんがしてくださったんです、すっごく手際が良くて上手なんですの!」



一応義理の姉妹関係は良好なようだ。ミシェルはメルの微笑みに同調するように自身もフワッとした笑みを見せる。


そしてタイミングを伺いながら、自分がここへ来た理由を口にした。



「あの……拓也さんって今何してるかわかりますか?」



ミシェルが浮かべたシュン…とした寂しそうな表情。


まるで飼い主に数日間無視され続けた猫のように、なんだか見ている方まで悲しくなってくるような様子の彼女を目の前に、メルは思わず笑いそうになってしまう。


現在は昼の12時ごろ。拓也が出掛けてから実質まだ数時間しか経っていない。



「えぇ、いますよ。拓也さんから何も聞いていなかったんですか?」



「……呼び出されたから王城に行ってくるとしか……………」



たった数時間離れただけで待ち切れずに、彼がいるであろう場所をこうして訪れてしまうミシェル。


彼が普通とは違い、神と戦っている人間だからという部分もあるだろうが……それ以上にやっぱり寂しいのだろう。


普段彼の前ではそんなそぶりは一切見せない。むしろ彼に対しては冷たく当たっている彼女なのに、いざ彼が自分の前からいなくなってしまうと母猫を探す子猫のようにこのように弱々しくなってしまうミシェル。


不器用すぎると思いながらメルは堪えきれなかった笑いを少しだけ漏らし、そんな自分を奇妙なモノを見るように蒼い瞳を向けてくるミシェルに向かって口を開いた。



「拓也さんはお父様に頼まれて薬の開発をしていますわ。リディアさんも一緒です。




……拓也さんもお父様の話を聞くまで仕事の内容については知らないみたいでしたわ」



よく考えれば……メルが彼とエンカウントした時の彼の様子から考えるに、どうやら拓也も今回の仕事の内容を知らされてはいなかった。つまりミシェルが拓也がこの場にいる理由を知っているわけがない。


自分の兄と義理の姉が世話になるせめてもの礼のつもりか………メルは不自然にならないように気を付けながら、拓也をフォローするように自分の言葉にそう付け足すのだった。



「そうでしたか……お昼になっても帰ってこないので、少し心配だったんです。


それからちょっと寂しかったりもして……」



その素直な一言を彼に直接言ってあげればどれだけ喜ぶだろうか……そんなこと思ったメルだったが、ミシェルが恥ずかしがるだろうと気を使い、口を噤んで無言の笑みで返す。


すると刹那の沈黙の中で、二人の腹の虫が同時に悲鳴を上げる。



女性としては恥ずかしいそんな音。二人は顔を見合わせて、照れたように頬を染めて笑った。



「お昼、ご一緒にどうですか?」



「いいんですか…?いきなり訪ねてしまっただけでも迷惑なのに……」



「いいんですよ。ミシェルさんは私の大切な友人ですから」



「じゃあ……お言葉に甘えさせてもらいます」



椅子から腰を上げて出口へ体を向ける二人。


すると……ドアが向こう側から開いた。



「おい爆乳娘、腹が減った。これでは仕事ができんぞ、ミシェルのパンツを一晩じっくり漬け込んだデトック………ス……水……」



「私の下着がどうかしましたか?」



現れたのは、黒髪をワシャワシャと掻きながらダルそうな表情を浮かべる拓也。


しかしその気だるげな表情も、ミシェルの冷たい視線を真正面から受け、委縮したように掻き消される。



「ほ、ほら、あれだよ………説明したまえリディア君」



「こやつはヌシの下着をベッドの下の南京錠付きの箱の中に数枚隠し持っているぞ」



「ちょッ!お前!嘘つくなバカやろいッ!!それはエロ本の隠し場所だっつーのッ!!!」



どっちにしてもミシェルに知られてはまずい情報である。


というかそれ自体は女性陣に知られてはいけないような情報。その証拠にミシェルとメルの瞳から光が消え失せていた。


このままではマズイ……そう思った拓也は何を考えたのか……。


ひきつった笑みをその顔に浮かべながらも、なんとその足を前に踏み出した。



「み、ミシェルんったら……寂しいからって仕事場に来ちゃ…だ、ダメだろ…ハハハ、可愛い奴め。抱きしめてやろう、さぁおいで!」



「そうですか、じゃあ早急に帰るのでそこの窓から飛び降りてください」



会話が噛みあっていないようで……



「御意」



噛みあっている。



ドォンッ!!という衝撃音と、ここまで伝わってくる振動。


どうやら受け身も取らずに地面に叩き付けられたらしい。


ミシェルは満足そうに数回頷くと、部屋の出入り口に向けて歩を進める。



「何度でも蘇るさッ!!


そしてミシェル……何か俺に隠しているな?」



そしてその扉を乱暴に開きながらドア顔でまた登場する拓也。歩みを止めたミシェルは一つ大きな溜息を吐くと、手にしていた手提げカバンの中から一つの包みを取り出して、彼の胸元に押し付ける。



「気持ち悪いほどの嗅覚ですね」



「天才だから仕方ないね」



嬉しそうにその包みを受け取った拓也は、部屋の中の適当な机にそれを置き、椅子を引っ張ってきてそれに腰掛ける。


平ぺったい銀色の箱の蓋を開ければ……美しい配色で整えられた色とりどりの食材が詰まっていた。



じゅるり……思わず涎を零しそうになった拓也だったが、何とか堪えて箸を合わせた手の間に挟む。



「いただきます!」



「ここで食べるんですか……メルさんの私室ですよ?」



「私は別に構いませんわ」



メルから許可が出たが……拓也の耳には届いておらず、彼はただ箸を動かし続ける。


その速度は常人の比ではない。余程お腹が空いていたのか、それともミシェルが休日だというのにこうして仕事中の自分に弁当を作って持ってきてくれたのが嬉しいのか……それは彼のみぞ知るところだ。



そんな様子の彼を眺めながらミシェルはもう一度カバンの中に手を突っ込み、もう一つ…彼に渡したものよりは少し小さい包みを取り出すと、今度は白衣を着た少女に手渡す。



「リディアさんの分もあります」



「む、これはありがたい」



彼とは違って落ち着いた様子でそれを受け取ったリディア。


彼女らがそんなやり取りをしているうちに拓也は既に弁当を食べ終え、手を合わせて小さく食後の挨拶をし、結び直した包みをミシェルに手渡した。



「また腕を上げたな。おいしかったよ、ごちそうさま」



「………そうですか」



ミシェルはその絹糸のような銀髪のカーテンの下に、僅かに赤らんだ頬を隠しながらぶっきらぼうにそう返すのだった。



・・・・・



ミシェルとメルが昼食に向かい、拓也とリディアその背中を見送ってから部屋に籠っておよそ数時間。


とんでもない速度で紙によくわからない記号の羅列を書き連ね、並べられた大量の試験管の中には謎の液体の数々が注がれる。



無言のまま黙々と作業を続ける二人の様子と表情から察するに、どうやら作業の進み具合は快調なようだ。



神妙な面持ちで二つの試験管の中の少量の液体を丸底フラスコに同時に注ぎ込む拓也。


鮮やかだったそれぞれの液体は、触れ合った瞬間……どす黒い闇色に変色し、ブクブクと沸騰のような現象が起こる。



「よっしゃ、完成だな」



どうやらこの見た目は完全に劇物な液体が、ヘイムたちを助ける秘薬のようだ…。


満足そうな表情でフラスコをクルクルと回し、中の液体の様子を窺えば、なにやら粘性を持っているのか、黒い液体はヘドロのようにドロドロとした動きを見せる。



いくら自分たちが欲していた薬だとしても……これを目の前に突き出されれば、誰しもがきっと一瞬は飲むのを躊躇うことだろう。



「早速持っていくぞい♪」



「二人の喜ぶ顔が早く見たいな♪」



一応言っておくが二人に悪意はない。ただ要求通りの品を作った結果、生まれたのがこのダークマターというだけなのだ。


ルンルンとキモイ鼻歌を二人で歌いながら、スキップで王城の廊下を闊歩する拓也とリディアは、恐らくヘイムとユナやその他諸々が居るであろう部屋の扉をハイテンションで蹴り開ける。



「朗報だ豚野郎共ッ!完成したぜ!!」



荒っぽい登場の仕方に少々驚いた面持ちの王族一同と、ミシェル。王族にこんな発言をしても不敬罪で罰せられないのは恐らくこの国だけだろう。


そして……全員の視線は、拓也の突き出した手に握られているフラスコに集まり………部屋の中全体が静まり返った。



数秒の沈黙の後、この件の当事者であるヘイムが恐る恐る尋ねる。




「く、薬って……もしかして…?」



「最高にイカしてるじゃろ?」



「そ、そうだね…!」



そんな悲しい空元気な発言。残念ながらテンションの上がっている拓也とリディアはヘイムが浮かべる非常に複雑な表情が示す心情に気が付いていない。





「名付けて……『一撃必中ハイパー妊娠促進薬~forヘイム&ユナ~』だ」



「さ、最高に……イカしてる…わね……」



今からこれを飲まねばならない……作ってくれたことは非常にありがたい。

しかし……流石に顔を引きつらせずにはいられないユナは、若干震える声で拓也に相槌を打ったが、その目は虚ろ。


隣のヘイムに縋るように倒れた彼女は、そのまま諦めたように目をつむった。


すると……ようやく自分の手元に集まる視線が示す意味を悟ったのだろうか?



「あぁ、そっか。見た目がアレだもんな。それに多分味もちょっと苦いし……」



空間魔法でゲートを開き、開いた暗闇の中に手を突っ込む拓也。


今度は何を始めるのか……一同が固唾を飲んで見守る中、彼は可愛らしいイラストの施された一つのチアパック飲料のようなものを取り出す。


『ニガイくすりに』と書かれたパッケージのそれを逆さに向け、グシャッ!と握り潰すと、飲み口からショッキングピンクのゼリー状の物体が噴き出し、フラスコの中に勢いよく飛び込んで……黒い煙を出しながらダークマターとフュージョンしてしまった。



「ほら、苦い薬用のおくすり飲め○ね入れたしこれで大丈夫だろ」



違う、そうじゃない……。



思わず声に出かけたヘイムだったが……すんでのところで堪え、飲み込む。


自分が頼み、こうして時間をかけて作ってもらった手前……自分は何も言えない。



果たして人間がしていいのかと怪しむほどの形相で拓也からフラスコを受け取ったヘイムは、それを天井の明かりにかざす。



「………」



まるで液体の部分だけ空間を切り取ったかのように……透けない。



もうダメだ……そう思った次の瞬間…。



「あ、それからそれ飲むのは片方だけでいいから」



拓也の口から……まだ結婚したてホヤホヤの夫婦仲を引き裂くような発言がなされるのだった。




どちらか一人が助かる道が記され……顔を見合わせる二人。


悲壮感漂う二人の表情。一体二人は何を思っているのだろうか……。



しばらくの沈黙。お互いが黙り込み、ユナが目を瞑って俯いたその瞬間…ヘイムが意を決したように表情を引き締め、拓也の手の中からフラスコを奪い取る。



「僕が…僕が飲むよッ!!」



はっきり言ってこんなものは飲みたくない。しかし……自分の愛する妻にこんなものを飲ませるくらいなら、自分が飲んで昇天したほうが全然マシだ。


引き締まった表情の中には、チャレンジャー特有の微笑が浮かぶ。



「へ、ヘイムダメよ!そんなもの飲んだら……」



「大丈夫さ、僕の愛は劇物にさえ打ち勝てるのだからッ!!!」



作った本人たちの前で失礼な気もするが、致し方がない。


彼らの反応は、コレを飲めと言われた人間の正しい反応なのだろうだから。



そしてヘイムは…ユナが心配そうな視線を送る中、自分の口のふちにフラスコの口を当て……



「いざッ!!」



一気に中のダークマターを呷った。


ゆっくりと……口の中を汚染し始める暗黒物質。


思わず涙目になり、フラスコを握る手を放しそうになったヘイムだったが……これもすべては彼女のためだすんでのところで思いとどまり、傾け続ける。


そしてすべての液体がヘイムの口の中に侵入し……彼は思う。



どうして……濃厚なチョコレートの風味なのだ…。



そう………一言で言ってしまえばその暗黒物質は……おいしかったのである。



「なんで!?なんで!!?ツッコミどころ満載な見た目のくせになんで味は普通においしいのッ!!?」



「え、だってお○すり飲めたね入れたし……」



結論、おく○り飲めたねは最強。




・・・・・



「いや~、楽しかった。見た?あの取り乱し方」



「……やっぱりワザとでしたか……普通に作れるなら普通に作ってあげればいいのに……」



逃げるようにミシェルの手を引いて窓から飛び出した拓也は、街灯がぼんやりと照らす通りを歩きながら爆笑する拓也。


ミシェルは彼の発言を聞き、やはりあの見た目にしたのは意図的だったのだと知り、溜息を吐いてそう零した。


リディアの姿が見えないところから察するに、どうやら彼女は空間異動で既に帰宅したようである。



「そういえば俺が仕事してる間ミシェル何してたの?」



「メルさんとお茶してました」



「なにそれズルい~」



他愛もない会話で盛り上がりながら人通りの少ない街を行く二人。



「……」



すると……ミシェルが彼の横顔を見上げたその瞬間、いつもの彼の浮かべている表情が消えていることに気が付いた。


いつもならば…常時、ニヤニヤした呑気な表情を浮かべている彼が、無表情にも近い暗く寂しい表情をのその顔に浮かべているのだ。



「もしだけどさ………ミシェル」



「……はい?」



急に声のトーンも落ち、返事をするミシェルも思わず声が固くなってしまう。


そして……拓也は歩みを止めず、視線は前に向けたまま小さく呟いた。



「俺が死んだら…ミシェルはどうする?」



ミシェルは……一瞬彼が何を言っているのか理解ができなかった。


足を止めて脳をフル回転させるミシェル。しかし……理解できない。いや、本当は分かっている。


彼は恐らく、神の襲撃のことを言っている。


前回逃がしてしまった以上…次の襲撃は、前回より大きい戦力で来るだろう。


そうなれば……やはり勝率は薄いのだ。


大好きな彼が死んでしまう。理解したくないといったほうが適切だろう。



「……ミシェル?」



先ほどまでとなりを歩いていた足音が消えたことで、振り向く拓也。


彼の視線に映ったのは、目じりにキラキラとした涙を溜めて今にも泣きだしそうなミシェルの姿だった。



「み、ミシェル!?ご、ごめんやっぱり何でもない!!」



慌てて自分の発言を取り消そうとする拓也。しかし…もう遅い。


ミシェルは情けない顔を見られまいと俯いて、小さく震えながらふらふらとした足取りで前進し、彼の厚い胸板に縋りつくようにして頬をくっ付けた。



「み、ミシェル…さん?」



弱々しく自分のシャツをキュッと掴み、震える彼女にそう呼びかけるが返事はない。


代わりに……シャツを通して胸元がじっとりと濡れていくのが感じ取れた。


まるで……親猫と離れまいと必死に縋り付く子猫のような彼女。



胸の中の愛おしい彼女を、気が付けば拓也は抱きしめていた。



「ごめん、弱気だった。


俺は絶対に負けないし…絶対にミシェルを護る」



小さくだが……鼓膜を揺らす、ミシェルのすすり泣く声。


自分の発言のせいで……歯を噛んで申し訳なさそうな表情を浮かべる拓也。愛おしい彼女を抱く力が自然と強くなってしまうのは仕方のないことだろう。


すると、やはり体が締め付けられていたかったのだろう。ミシェルが僅かに震わせながらだったが小さく声を上げる。



「痛いです……」



「あ、ご、ごめん!」



無意識に力が入っていた腕から幾らか力を抜き、ゆったりとした力で彼女を自分の方へ抱き寄せた。


そのまま沈黙が始まり……十数秒。


ミシェルが拓也のシャツから手を離すと、自分の腕を彼の背に回し、精一杯の力でギュッと抱きしめた。



「死んじゃうなんて……絶対に…許しません」



別に彼女が許さなかったところでどうにかなることではないが、今の彼女にはこれくらいしか表現のしようがなかった。


拓也もその辺りは弁えているのか、黙って彼女を抱きしめたままである。


そしてまたもや生まれた数秒の沈黙の後に、彼女は言葉を続けた。



「確かに……殺されるのも十分怖いですけど……私は………私は…拓也さんに二度と会えなくなるのが…………何より怖いんです」



彼女の腕に込められる力が、若干強くなった気がした。


ミシェルにとって拓也は、初めてできたとても愛おしい人。


危険も顧みずに神に狙われる自分を護ってくれて、いつだって先頭に立って道を切り拓いてくれる頼もしい存在。



しかし……同時に彼は危うい面も持ち合わせている。人に頼ることが上手ではなくすべて一人で抱え込んでしまったり、自分の体に甚大なダメージを受ける技を惜しげもなく使うなど、まるで自分の体を消耗品のように扱ったり。



ふと目を離した隙に…自分の手の届かないところへ消えて行ってしまうような…………。



そんなことを考えていると……また目から涙が零れ、拓也のシャツに染み込んだ。



「ご、ごめんって…流石に物騒すぎたよな」



「………」



こうして彼が見せる微笑みも、自分を安心させる為のモノ。


先ほど彼がポツリと零した言葉は、これから先の未来にその可能性があるということ。


ひょっとしたら明日には…今自分の体を抱きしめてくれているこの暖かい彼が……居なくなってしまっているかもしれない。


夏だというのに……ミシェルは凍えてしまいそうな錯覚に陥った。


こんなに暖かい彼が居なくなってしまったら……自分は一体どうなってしまうのだろう。



「私は……生きてなんていけないです……」



大海原に浮かぶイカダの上にポツリと一人取り残されるようなイメージを頭の中に浮かべたミシェルは……彼を離すまいと腕に込める力をさらに強め、且つ彼の背に回した手で彼のシャツをギュッと掴む。


拓也は困ったような申し訳なさそうな表情をその顔に浮かべると……彼女の銀髪に片手を置いて軽く撫で、ミシェルの名を呼んだ。



彼に名を呼ばれ、ゆっくりだが彼の胸から顔を離すミシェル。その顔に浮かぶのは、一言で表現するならば泣き顔。


サファイアのような蒼く美しい瞳からは止めどなく涙が溢れ、唇は小刻みに震える。



そんな彼女の表情を視界に収め…拓也は少しだけ笑みを崩し、真剣な表情をその顔に浮かべた。



「ミシェル。俺はミシェルが本当に大好きだ。だから隠さない。


次の襲撃は恐らく前回より規模の大きいものになる。通常の神たちに加えて、やっぱりオーディンも来るだろう。ひょっとしたら俺は……死ぬかもしれない」




ブワッと……まるで泉から水が噴き出すように、ミシェルの瞳に涙が溜まって行く。


すると拓也は……どういうわけかその顔に微笑を浮かべると、今にも零れそうなキラキラとした涙にそっと指を這わせ拭うと……。


右の手を彼女の左頬に添えて支えると……ミシェルの右の頬に自らの唇をそっと触れさせた。



いきなりのキス。放心状態のミシェルは少しだけ目を見開いたままフリーズ。


拓也は名残惜しそうにゆっくりミシェルの頬から唇を離し、彼女の視界の延長線上でまた微笑みを浮かべる。



「だが……それは今のままではという話。


神と違って人間は成長する。強くなろう。前の襲撃の後に……一緒に強くなろうって約束しただろ?」



オーディンとの戦闘でボロボロになった拓也と、ベッドの上で誓った。



それは戦闘の面のことだけを言っているわけではない……そう言っていた自分を思い出したミシェル。



「ごめん、さっきの発言は俺の”弱い部分”だ。本当にごめんな」



そう言ってまたミシェルの頭に手を置いて髪を撫でる拓也。


拓也の硬く大きな手で撫でられて、ボーっとする頭で……彼の顔を見上げるミシェルは思考する。


一緒に強くなろうと…確かに誓った。


それならば……彼の”弱い部分”は、自分が補完してあげなければいけない。



ミシェルは彼に回していた腕を外すと、またたっぷりと溜まった涙を自分の手で拭い、その顔に可愛らしくも美しくもある笑みを浮かべて、笑い飛ばすように口を開いた。



「私もまだまだ弱いですね……これくらいで一々泣いてちゃいけません。


拓也さん。あなたはとても強いですけれど……本当に弱くて脆いです」



「ハハ………人間だからな」



矛盾しているようなその発言だが、その意図が分かっていた拓也は彼女の意見に賛同するように首を縦に振り、そう口にする。


人間とは、強さとともに弱さも併せ持つ存在。


だからこそ愛を育み、共に手を取り合って”生きて行く”。



「あなたのその弱さは……私が補ってあげます」



涙を拭い終えたミシェルは少し恥ずかしそうに頬を朱に染め、彼の首に両腕を絡みつかせて少しだけ引っ張る。


いつもより低い場所できょとんとした表情を浮かべる拓也に、ミシェルは頬を染めたままだが若干挑発的な笑みを向けると……グッと背伸びをして、彼の唇に自分のそれを重ねた。


甘く脳髄を焼くような刺激に体が硬直し、金縛りにあったかのように指先に至るまでの自由が利かない拓也。


薄く開いた目をトロンと潤ませながら、名残惜しそうにそっと拓也から離れたミシェル。


すると、自分からやっておきながら急に羞恥心が込み上げてきたのか指先で自分の唇をちょこんと抑えながら俯き、その感情を吹き飛ばすように少しだけ声を荒げて言葉を紡いだ。



「そ、そういうこと!………ですから……」



「お、おう…?」



二人の唇が触れ合っていたのはたったの数秒。


しかし……当人たちにとっては、無限と錯覚するような長い時間にも感じられたのだった。


そしてやはり、経験値不足が祟ったのか…二人ともがその顔に浮かべるのは羞恥に由来する赤い色。


お互いが黙り込み、生まれる沈黙。



「……」


「……」



こうなる原因を作ったミシェルは、今にも羞恥で顔から煙を吹き出しそうなほどに赤面。


拓也も、普段は冷たい彼女に情熱的なスキンシップをされ、良い意味で軽く放心状態。



「(何か……何か言わないと……)」



原因を作ってしまったのは自分。ミシェルはこの空気を何とかしようと必死に頭を回転させるが、冷静さを失っている思考回路では短いワードを数個組み合わせるだけでたちどころに崩れ去り、とても発言どころではない。


あぁダメだ……極度に高まった緊張で、ミシェルがギュッと目を瞑ったその次の瞬間……暖かい感触が彼女の手を包んだ。



「か、帰るぞ」



驚いて目を開いたミシェルの視界に真っ先に映ったのは、拓也の上気した横顔と……繋がれた手。


普段は二人きりでもしてくれない彼のそんな行動に驚愕した様子のミシェルは、歩き始めた彼に置いて行かれないように慌てて自分も足を踏み出した。


若干荒っぽくも感じられるが…それは多分彼も緊張しているからだとすぐに察したミシェルは、柔らかく微笑んで彼の真横に付くと、彼に甘えるように体を少しだけ密着させて、満足そうに呟く。



「…はい、帰りましょう」



繋がれた手と手は、きっとこれから…より強固に結ばれて行くことだろう。





・・・・・



翌日……。



いつものように拓也とビリーが庭で殴り合い。このクソ暑いというのに炎をまき散らしながらというのは非常に勘弁してほしい。



「ハァッ!ヤァッ!!」



「じゃかしい!!」



大振りをして隙ができたビリーの顔面に、暑さでイライラしてパワーが5割増しになった拓也の前蹴りが炸裂。


弾丸のように弾き飛ばされたビリーは何度も土の上をバウンドしながら、街からこの小高い丘のような場所に上ってくる道の方へ姿を消した。



「ふぅ、俺最強」



「相変わらず容赦がないの」



「バカ言え、このくらいやんなきゃ強くなんてなれないっつーの」



いつの間にそこにいたと聞きたい拓也だったが、生憎いつものことなので今更気にしてはいけない。


リディアは『ミシェルから預かった』と言いながら拓也に水の入ったボトルを手渡すと、また昆虫採取に戻って行く。


彼女曰く、夏は興味深い生き物が増えるそうだ。



「あ、拓也君。セリーさんが来たよ」



「こんにちは~」



そんな声に視線を弟子をぶっ飛ばした方へ向けてみれば……来客のようだ。


バスケットを手に提げて現れたのは、凶悪幼女の妹の大天使セリー。



しかし……そっちより、結構強めに蹴り飛ばした弟子が予想以上にピンピンしていることに少々驚きを隠せない拓也だった。



「はい拓也君、今日はマドレーヌ焼いてみたの!」



顔を見るなり致命傷になり得る攻撃を叩き込んでくる凶暴な姉とは違って手作りお菓子を差し出してくる慈悲深い妹。



姉妹なのにどうしてこうも違ってしまうのだろうか……流石の拓也も涙を隠せない。



「最近ギルド行ってないけどロリロリロリーは元気か?」



「う、うん…?全然元気だよ……ッうわ!」



「ッ!!」



拓也がそう発言してから数間隔開けて……凄まじい衝撃と共に彼の脳天に突き刺さる鋭利な岩。


真っ赤な液体がシャワーのように吹き出て近くにいたビリーとセリーに襲い掛かるが……。


ビリーがセリーを小脇に抱えたままバックステップを踏み、何とか二人は血染めにならずに済んだ。



「な………ッ!!」



偶然ここに立つ拓也に偶然鋭利な岩が偶然音速を超え偶然ナイスでグッドな角度で偶然直撃。



ありえない……偶然だなんて…ありえない。



つまりこれは必然。ロリーの……呪いだ…。




更に降り注いだ流星群の下敷きになった拓也はいつものように捨て置かれ、来客に気が付いたミシェルが茶を用意し、ウッドデッキで休憩兼茶会が開かれる。


ミシェルは慣れた手つきでコップによく冷えた紅茶を注ぐと、ビリーとセリーに差し出した。



「ありがとう。喉乾いてたから嬉しいよ~」



「おかわりならいくらでもあるので言って下さいね。ちょっと待っていてください、お菓子を持ってきますから……」



「あぁ、それなんだけど……さっき拓也君に…」



セリーが最後まで言う前に、お互いの顔が見えるように腰を下ろしている三人の中心に、突如としてマドレーヌが盛り付けられた皿が姿を現した。



どうやら拓也は一応無事なようである。



「夏休み中ですけど…最近セリーさんはどうですか?」



「う~んそうだな~…特に変わったことはないかな~」



「僕も特に変わったことはないよ………」



ビリーの発言からだけなぜか悲愴感が漂っているのは多分気のせいではない。


何故彼がそんな様子なのか……原因は現在進行形で岩の中に埋まっている彼だということはもはや言うまでもないだろう。



しばらく冷たいお茶で体を冷やし、セリーが焼いたマドレーヌをつまんで他愛もない話で談笑する三人。



「俺だけいないモノ扱いはひどいと思うの。誰か助けに来てよ、友達でしょ!?」



「一人で抜け出せるんだから最初からそうしてください。ほら、お茶ありますよ」



「う、うっす……」



目を見開きながらそう訴えかけた拓也だったが、ミシェルの説法の前にはやはり歯が立たず、勢いを殺されたようにそう口にすると、大人しく腰を下ろして茶を啜った。


エルサイドの鬼神をここまで飼いならすミシェルの天職は多分サモナーか何かなのだろう。



拓也が加わって更に賑やかになる茶会。


この炎天下の中でやっているというのにもかかわらず、当人たちは非常に楽しそうである。


それもこれも……拓也が有害な紫外線を遮断し、且つ温度もいい感じに引き下げているからなのだが………それに気が付いているのは多分ミシェルくらいだろう。



どこでも快適な温度、おまけに日焼けをしない空間を作れる。きっとそのうち拓也が一家に一台の時代が到来することは間違いない。



「あー、でも最近また喫茶店が忙しくなっちゃったんだ。特に日曜日。従業員が一人辞めちゃったとかで」



すると、以前手伝いをしてもらったことから彼らの耳には入れておこうと思ったのだろうか……セリーは自分の母親が営業している喫茶店の話題を持ち出して、苦笑いを浮かべながら従業員不足だと呟いた。



「それは大変ですね……求人は出しているんですか?」



「うん、出してるんだけどやっぱりあまり来てくれないみたいなんだ……」



顎に指を当てながら少しだけ俯いて深く考え込むような仕草を見せるミシェル。


銀髪のカーテンに僅かに隠れた横顔を覗いた拓也は、次に彼女が何を言い出すのかを予想し、口角を釣り上げて笑いが漏れるのを堪えた。



「私でよければ手伝いますよ。夏休み中はそんなにやることもなくて暇でしたし」



「え、あ、ごめん!そういうつもりじゃなかったんだけど…」



「分かってますよ。セリーさんはそういう人じゃないですから」



別にミシェルは忙しくないわけではない。空いている時間は魔法の勉強をに費やしている。


それでも友人の方を大切にするのは、彼女の美徳だろう。


黙ったまま聞いていた拓也は、彼女のそんな部分にまた惚れ直すのだった。



「ごめんねセリーさん。僕も行けたら行きたいんだけど……」



「う、ううん!その気持ちだけですっごく嬉しいよ!!」



申し訳なさそうに目を伏せるビリーに慌てて手を振りながらフォローしたセリー。


しかし……次の瞬間、沈黙を通していた人物が口を開き、予想外の展開へ事を運ぶのだった。



「え、ビリー行きたいの?別にいいぞ」






「……………え?いい…の?」



数秒の沈黙の後、ようやく人間の言語を思い出したかのように言葉を紡いだビリー。


彼の表情は驚愕と希望に満ち溢れ、まるで聖母にでも跪くように拓也を見上げた。



「友人が困ってるんだ、当たり前だろ。これから毎週日曜は喫茶店で勤務」



「やったぁぁぁぁ!!!!」



拳を天高く振り上げて声を張り上げるビリー。その様子を形容するならば……喜び。


何が嬉しいか……イヤなわけではないが、この非常に辛い修行の日々の中で、一週間に一度休息が与えられる。


そして……もう一つの理由は……まだ少し、理由と呼ぶにはあやふやだ。



目の前で隠すこともせずに喜びを全身で表現する芸術品と化した弟子を、菩薩顔で眺める拓也。


ミシェルがそんな彼の異様な表情を警戒するように見つめていると、彼はどこからともなく一枚の白いTシャツを取り出す。



「兼、修行な。勤務中は制服の下に……これを着てもらう」



「ッぐぅ!!!?」



拓也の言葉が終わったその刹那……ビリーの体に掛かる尋常ではない力。


そのベクトルは真下。



突然の出来事で対応することができず、ビリーは膝を折って……本当に拓也の前に跪いた。


しかしそれでも体勢が安定せず…終いにビリーはアスファルトの上で潰れてしまったカエルのように地面に伏せる。



「どうだ、10倍だァァ!!Tシャツの味は?」



「10……倍…ッ!!?」



「ほら、10って区切りいいじゃん?」



知るか。ビリーの感想はその一言に尽きる。


先程までの菩薩顔はどこへやら……現在の拓也の顔に浮かぶのは魔王のそれ。


やはり裏があったかと、ジトッとした目で彼を見つめるミシェルは呆れたように溜息を吐くのだった。



「どうしたどうした、とりあえず立たないと仕事にすらならないぞ?」



「わか……ッてる!!」



腕を持ち上げるだけでも一苦労。


引きずるように四肢を動かし、地面に食い込ませて踏ん張る。



「うッあぁぁッ!!!!」



肘と膝が曲がった四つ這いのような状態にまでは持ってくることができた。


しかし……魔王の前でそんなに事が上手く進むなどと考えてはいけない。



「見てミシェル!セリー!生まれたての小鹿が立つわよッ!!」



「ぶふぅッ!!!」



甲高い声でふざける拓也。ビリーは噴き出し……再び地に伏せるのだった…。


・・・・・



数日後……先日の話し合いで決まったように、弟子が喫茶店へ勤務兼修行へ行ってしまった。


ミシェルも何やらギルドの高ランクの依頼が溜まっていたようで、慌ただしく出かけて行ってしまった……。



とどのつまり拓也は……



「何も起こらねぇ……」



暇になってしまったのである。


とりあえずいつもの謎プリントTシャツとジーンズというシンプルな格好で街に繰り出してみるが、フツメンのせいなのかイベントが全く発生しない。


ただ暑い街中をひたすら歩くという苦行を続ける拓也は、少しアクションを起こすだけで何かしらイベントが発生するイケメンへの憎悪を募らせたが、やはり暑さのせいかそんな思考も途中で途切れてしまうのだった。



「それにしても……よくこんなクッソ暑い中出歩くねぇ……」



ピーク時に比べればまだまだ空いている方だが、流石は活気のある王都の中心街。


人ごみに流されながら、拓也は自分もその内の一人だというにもかかわらずそんなことを呟く。




剣帝として黒ローブを身に纏ってこんな人気の多い場所を通り掛かれば、一瞬にして人に囲まれるほどの人気を誇る彼だが……


素顔の状態でこの場に居ても、拓也の正体を知る術もない彼らにとってはただ視界に入るだけで、注目を集めることはない。所謂モブ。


それもこれも完璧なまでに並盛な彼のフツメンフェイスがなし得る業である。



そのまま行く当てもなく歩き続けること数分…。



「おや…?」



視界の隅……裏路地の入口辺りで、膝を抱えたままうずくまる子供が映った。


すぐにそこへ視線を送り、注視する。


見た目から推測するに、恐らく10歳前後の男の子。膝下に滴る赤い滴を見る限り、どうやら怪我をしているようだ。



「イベント発生かな?」



薄っすらと潤んだ男の子の瞳。痛々しいその様子に拓也は苦笑いを浮かべながら、迷わずそちらへと歩を進めた。


「怪我してるみたいだね」



どこからともなく取り出した小さい薬箱を片手に、もう片方の手を気軽に上げながらそう声をかけてうずくまる男の子に接近する拓也。


見知らぬ人物にいきなり声をかけられたことに驚いたのか、その男の子は若干後退るような仕草を見せる。



「……」



刹那、拓也の瞳にピリッとした僅かな緊張の色が浮かんだ。



「だ、だれ……?」



「ハッハッハ、通りすがりのイケメンフェイスさ!」



「………」



沈黙が痛い。


やはり彼の眼から見ても拓也はイケメンフェイスではないようだ。



拓也は自ら行った水増しで精神に深刻なダメージを受けながらも、涙を押し殺しながら笑みを浮かべ続ける。



「転んじゃったのかな?」



「うん……」



若干落ちたテンションでそう問う拓也に、まだ警戒する様子を残しながらも頷き、痛々しく擦れた患部を晒した男の子。


すると拓也はまたケタケタと愉快そうに笑い声を上げた。



「お兄さんもよく転ぶよ~!………人生って凄く難しいよね……いやマジで……」



こんな少年に何を説いているのだ……。


ビリーかミシェル辺りが居てくれれば見事なツッコミが鋭く拓也に突き刺さるのだろうが、生憎現在単独行動中の拓也の周辺にツッコミ役は不在。



「…そ……そう…なんだ………」



何故か思い切り暗い雰囲気を醸し出し始めた拓也に、男の子はまだ幼いというのに、空気を読んで気を使いそんな相槌を打ってくれたが……この18歳。大人な対応をしてくれた10歳少年の心境を考えようともせず、突如として語りだす。



「表現するならば……時速350kmでツルッツルの氷の上を走り続けるようなもんなんだ。

当然転ぶよね?でもね……大人ってのは汚いの。誰も待ってくれず助けてくれないばかりか、転んだ奴を踏みつけ…蹴落として進んでいくんだよ?信じられる?」



「は、はぁ……」



おまけに意味が分からないと来た。非常にたちが悪い。






「あ、そうだ手当て手当て。忘れるところだった」



人間の暗い部分について一通り話し終えた拓也は、ようやく本来の目的を頭の片隅から引っ張り出し、思い出したようにそう呟いて薬箱を開いた。


大きめの砂利をピンセットで丁寧に取り除き、霧吹きで傷口を洗い、鬼灯印の絆創膏を張り付ける。


男の子は痛がる素振りも見せずに、じっとして作業する拓也の手元を眺めている。そしてあっと言う間に処置は終了。


ここまでの所要時間およそ30秒。素晴らしい手際の良さだ。



「強いね~、痛くなかった?」



「うん、痛くなかった!」



拓也の笑顔とキャラにも慣れてきたのか、初めて男の子が笑顔を見せる。


年相応の純粋な笑顔。


彼の発言を聞き、拓也は少しだけ口角を釣り上げて薬箱を閉じて立ち上がって問いかける。



「お父さんかお母さんは近くにいる?」



「はぐれちゃったの。僕……王都に来たの初めてで………」



「そっかそっかー、よし。じゃあ探そう」



拓也と同じ色の髪を揺らす彼の黒い瞳がキラキラと輝く。


頼りになる大人が同伴してくれるというのはやはり心強いものなのだろう。



「とりあえず衛兵の詰め所に行こうか。ご両親を探してもらおう」



男の子の手を引きながら通りへ出る拓也。手を離すと、この人ごみの中ではすぐにはぐれてしまいそうだ。


迷うことなく歩を進め、微笑をその顔に浮かべる男の子は腰のポーチの中に手を突っ込むと、中から飴玉を二つ取り出して、その一つを自分の手を引く彼に差し出す。



「お兄さん!あげる~!!」



「え、なに、飴玉?くれるの?」



「うん!」



「嬉しいじゃないの~」



甘味は大体好物の拓也は快くそれを受け取ると、見たことのないメーカーだったが気にすることなく包み紙をはがして黒い飴玉を口の中に放り込む。


少し苦いような気もしたが……拓也は笑みを浮かべて礼を述べる。



男の子も拓也に笑みを返した。




「……」



しばらくして……拓也の背を見つめる男の子の表情に若干の影が差した。


それはまるで……獲物を仕留め損ねた狩人が、舌打ちをするような…。



更にその顔に浮かべる表情を、暗く静かなその闇の世界に住む人間が見せるようなモノに変化させた。



そしてもう一度、様々な冷たい道具と一握りの暖かい道具で満ちたポーチの中に手を突っ込み、あるモノを……探す。



「……?」



しかし、彼が目的のモノを手にすることはなかった。


疑問符を浮かべながら、苛立ちからか乱暴にポーチの中をまさぐるが……やはり目的のモノは見つからない。


するとその次の瞬間、突如として彼の視界にエグイ形のナイフの刃を摘まむ拓也の手が映った。



「探してるのはこれ?」



それこそが自分の探していた…獲物。


人の命を刈り取る形をしたソレを摘まむ拓也の顔に浮かぶのは笑み。しかし……その笑みから感じ取られたのは、絶対的な実力の差。



「……」



押し黙る男の子。


普通に逃走したところで、捕まることは目に見えている。



自分の作戦はバレていた。その辛い事実だけが、彼に焦りを募らせて行く。



「マフィア関係だろ、暗殺を仕掛けてきたってことは正面戦闘より勝率が高いと判断したからだろ。


残念ながらそれも失敗しちゃったわけだ。


それから残念だけど、俺って毒物全般効かないのよね」



ケタケタと笑いながら……いつの間にか手の中からナイフを消した拓也。こんなふざけた態度をとっているが……全くと言っていい程に隙が感じられない。


大よそ純粋な少年が浮かべるものではない邪悪で敵意に満ちた年相応ではない黒い表情を浮かべた男の子は、低く冷たい声色で拓也に問いかけた。



「…………いつから分かっていた……」



「俺が話しかけた時。注視してきた君の視線に若干の敵意を感じた」



「………化け物め…」



先程までの取り繕っていた口調は完全に崩れ去り、汚い大人のような口調で喋りだした彼。


最早純粋な子供の面影はどこにもない。





「さぁどうする…逃げてみる?それとも戦ってみる?」



笑みを浮かべながら男の子にその二つの選択肢を与えた拓也。


笑って言えるはずなのに……得も言われぬプレッシャーに全身を襲われる男の子は、苦虫を噛み潰したような渋い表情をその顔に浮かべた。



こうして自分の正体と目的がバレてしまい、今一度理解する。


自分には暗殺しか彼を倒す手段はなかったのだと。



そして、受け入れたくない現実で渋滞する思考回路を無理やり回して創り出した次の策を実行に移す。



「………そのどちらでもねぇ…俺にしかできない手段は………ある…」



「ほほぅ?してその手段とは?」



自分の命を狙ってきた暗殺者相手に、まるで相手にしていないというような口ぶりでそう問う拓也の表情には、やはり笑みが浮かぶ。


何か楽しそうに尋ねてきたターゲットに、口角を釣り上げながら黒い笑みを返して見せた男の子は、拓也に握られた手を自分からも強く握り返し、少し手を引っ張り、拓也の歩みを強引に止めさせると……



「うわぁぁぁぁぁぁぁ!!!おじさん誰えええええええええええええええええええええ!!!???!!?!?!


はぁぁぁぁぁなぁぁぁぁしぃぃぃぃぃてぇぇぇぇぇぇぇッ!!!!


ママの所帰るうううううううううううッッッッ!!!!!!!」」



「ちょ、おまッ!!!」



涙、鼻水、涎。そして子供特有の金切り声。


それらを惜しむことなくふんだんに使って、必死に拓也の手から逃れる演技を開始した男の子。


…ちなみに言っておくと、実際に手を強く握りしめているのは男の子の方である。



拓也は一瞬で自分が置かれた状況を理解し、驚愕の表情と非常に冷たく心地の悪い汗を顔に浮かべた。



「え、なに?誘拐?」



「物騒ねぇ~……」



男の子の叫びで、一斉に拓也に注がれる視線。


軽蔑、憎悪、敵意。



冷や汗が滝のように流れ出て止まらない。



「おいそこの男ッ!!何をしているッ!!!」



群衆の中から一際大きな声が響き、それに伴って声の発生源と拓也の間に一本の道ができた。


その道を小走りで真っ直ぐ通って近づいてくるのは……衛兵。恐れていた事態が発生。


ニヤリとほくそ笑む男の子の隣で、拓也は死人のようにその顔を真っ青に染めていた。




・・・・・



「はら、入っていろッ!!」



「うげぇッ!」



騎士団の屯所のような所に簀巻きにされた状態で連行された拓也は、ようやく拘束が解かれたと思うと、冷たく薄暗い牢屋の中へ蹴り込まれた。


ちょっとした段差に躓いた拓也は、顔面から石の床にダイブする。



「王城に報告を入れてくる、大人しくしていろよ」



「あのすみません、自分ハウスダストアレルギーなんですけどここ埃っぽくないっすか?鼻がムズムズするんですけど~」



「知るか」



そっけない態度をとった騎士は踵を返して木製のドアを開けて地上の方へ戻って行ってしまった。


面白いリアクションをされなかったからか……拓也はつまらなさそうにムスッとした表情を浮かべながら、石の壁に背を預けて腰を下ろす。



「あのクソガキ…やってくれやがったな………」



そんなことをボヤく拓也だったが、彼の顔に浮かぶのは怪しい笑み。


まるでこの事態を楽しんでいるかのようなその表情は、同時に何かを企んでいるかのような色も含んでいた。




ここにこうして拘留されている間は自分が動くことはできない。


故に今は作戦を立てることが先決なのである。





・・・・・



「………なるほど、遂に犯罪者に成り下がったかゴミめ」



「遂にって何だ。俺が犯罪を犯すとでも思ってたの!?」



「現に犯しているのですわ……」



「ちげーよ!!ハメられたんだよ!!」



鉄格子を握りしめながら自分は無実だと訴える拓也を、養豚所の豚を見る目で見降ろす光帝とメル。


王城に連絡が行き、メルと、偶然居合わせた光帝が赴いたのだ。



他の騎士たちはこの場から遠ざけ、現在地下牢にいるのはこの三名のみ。



「で……誘拐未遂と聞いたが本当なんだろう?」



「なんで確定事項みたいに話し進めるの!!?」



「大人しく罪を償うのですわ…」



「だから違うって言ってんだろッ!!!」



拓也の普段の異常な行動の数々を見ているからか……彼ならやりかねないと判断した二人は、自分の考えを変えようとはしなかった。


信じてもらえない怒りからうっかり腕に力を込めてしまい、拓也の握る鉄格子がグニャリと曲がる。



それを見た光帝は、手にしているメモ帳にペンを走らせた。



「公共物破損…と」



「罪に罪を塗り重ねるとは……見下げた野郎ですわね」



「ああああぁぁぁぁぁ!!!!」



逃げようと思えば簡単に逃げられる。しかしそんなことをしては自分の立場を悪くするだけ。


恐らく指名手配をされ、きっと王都には住めなくなることは間違いない。


故に……ここを抜け出したければ正規の方法で、正面から抜けるしかないのである。



「あぁ分かった、俺がやっていないと証明できれば自由の身なんだな?」



「あぁ、そういうことになる」



「ならば君たちは知っているはずだ!普段の俺をッ!!



ここから導き出される結論は……俺は犯罪に手を染める豚野郎ではないということッ!!

つまり俺は何も悪いことはしていない!!ハイ終了もう自由の身でいいよね!!?」



「却下」



「豚野郎ですわ…」



今日、初めて彼らの前でキチガイ染みた振る舞いをしていたことを心底悔やんだ拓也だった。




地面を転がりながら藤原○也並みに叫びまくる拓也。


すると光帝が、そんな彼に相変わらず真面目な声色で問いかける。



「それにしても……貴様ならばその場で取り押さえることは容易いはずなのだが?」



「知るか、とりあえずここから出せ話はそれからだ」



「そうか……ではこの件は僕が引き継ぐことにしよう。ご苦労だった剣帝、ここでゆっくり寛いでいてくれたまえ」



「寛ぐも何も硬いベッドとトイレしかないんですけど」



昔までの光帝なら自分との会話の途中で拓也がふざけだした時点でイライラしているはずなのだが……慣れとは恐ろしいものである。


そして彼は知っている。剣帝……拓也はとりあえず一通りふざけるとちゃんと仕事はすることを。



「あいつはまだ完全に闇に染まっていない。完全に堕ちてはいなかった」



「何故分かる?」



突如として真剣な表情を取り戻し、そう語りだした拓也。


光帝も椅子に腰かけ直し、彼の話に聞き入る姿勢を作った。



「目だよ、目。


裏社会の住人……あいつらの目は暗く濁ってる。


力とは断固たる意思の元で自制し、自分の正義の為に振るうもの。


あいつらは人間の本質的に、自分たちがやってることが正義だとは思っていない。悪だということも分かっている。


何故なら……正義とは、愛から生まれるモノだからだ。


それは俺みたいにミシェルを護りたいだったり、国王みたいに孤児を見捨てられないだったり。


正義の形は人それぞれだが、それが生まれるのは愛から。それだけは絶対に変わらない。



自分たちが楽をし、得をする。たったそれだけの…自分の為に他者を傷つける。それが俺たち…人間の根底にある本質が悪だと訴えかけるんだ。


自分自身の本質がだと悪と認めてしまえば……自分自身を否定することになり、きっと狂って壊れてしまう。ただの狂人になってしまう。


だから……悪の自分を正義と偽る。自分で自分を偽っている。それが裏社会の住人だ。


だが……例の男の子の目には、そんな淀んだ色は浮かんでいなかったんだよ」



彼が一度だけ……自分に向けた輝く瞳。


拓也はその光景を脳内でよく思い出しながらそう言葉を締め括る。



「ほう、驚いた。貴様にもそんな真面目な思考ができるのだな」



「俺のシリアスタイムを返せ」



真面目な口調で話したのにもかかわらず、紅茶を啜りながらそう投げつけるように言い放つ光帝。


ミシェルほどの美少女にならばなじられても気持ちい……別に構わないが、流石に野郎になじられて嬉しいわけがない。


今にも鉄格子を千切って襲い掛かりそうな雰囲気を醸し出す拓也は、ギリギリとのこぎりのような音を立てながら自分を閉じ込める平行に並んだ鉄の棒に噛みついた。


すると……光帝がすっくと椅子から立ち上がり、ローブのポケットに手を突っ込みながら牢の方へ歩を進める。


一瞬、そのポケットの中からどんな得物が飛び出すのかと警戒した拓也だったが……彼の予想に反して、彼のポケットから登場したのは丸い輪に数個の鍵がぶら下がっているいかにも看守が持っていそうな物。


「僕としてはずっとここに入っていてもらいたいのだが……聞き込みをしてみたところ……残念ながら既に貴様の無罪は証明されている」



そう言いながら拓也の牢の扉に鍵を差し込み……解錠した光帝は、フードの下でニヤリと口元を歪ませながら拓也に向けて口を開いた。



「とっとと解決して来い、剣帝」



当初の彼ならば考えられないようなその発言。拓也も少々面食らったように目を見開きフリーズしている。


しかしそれも束の間。すぐにニッコリとした笑顔をその顔に取り戻した拓也は……



「どっせぇぇぇい!!!」



いつの間にか召喚したクリームたっぷりの紙皿を、彼の顔面に容赦なく打ち付けた。


それにしても召喚酔いせずの速攻。間違いなくスピードアタッカーである。


グシャ!…という濡れた雑巾を床に落とすにも似た音と共に、この場の空気が一気に冷たくなるのを感じるメル。


「そうならそうと早く言えや三下。時間の無駄だろうが、タイムイズマネー……Do you understand?」


フードのせいでクリームは周りに飛び散らず、すべて光帝の顔の上。


メルが真っ青になり、拓也の最高にムカつく笑い声だけが響く地下牢に……クリーム皿が落ちる音が木霊する。



「剣帝………貴様……」



皿が外れ…覗く向こう側にある表情は、憤怒。



「あ、やっべ。このクリーム消費期限4日前に切れてたわ」


「貴様ぁぁぁぁッ!!!」



・・・・・・


すっかり日が沈み、街灯が照らす明かりでぼんやりと街が明るくなる王都。


空を見上げれば、暗い夜空の中に散りばめられた星々と、丸く美しい月が視界に入った。


しかし……この夜の闇よりも暗くどんよりと落ち込んだ気分は、そんな綺麗なモノを見てもどうしても改善されない。


そんな落ち込んだ様子の小さな男の子は……ジャラジャラと金属音のする小さな袋を上へ投げてキャッチしてを繰り返しながら溜息混じりに呟いた。



「ハァ……やっちまったなぁ~……」



黒い髪に黒い瞳。本日剣帝の命を狙った彼である。


しかし……やはり彼を殺すなどということは叶うわけがなく……こうして気分を落としているのであった。


だが彼が落ち込んでいる要因は、別に仕事を失敗したことだけではない。



「前金に金貨10枚。失敗はできなかったのに……クソが……」



仕事の内容が内容だけに、こういった仕事では前金をもらい、依頼完了の後に正規の報酬をもらう。


悲しいことに……裏の仕事とは言ってもやはり信用は重要なのだ。


そして……こっちの世界での依頼失敗とはつまり、自分の信頼を自分の手で潰すということ。



「このクソマフィアは羽振りのいい金蔓だったのによぉ……」



もうこのマフィア団体から仕事は依頼されないだろうと脳内で結論付けた彼は、また溜息を吐いて袋をポケットにしまい込んだ。



しかし彼も改めて思う。自分が狙っていた相手は規格外のとんでもない化け物だったと。


王国最強やエルサイドの鬼神と謳われるだけはある。目の前にチラつかされたナイフ。そのれ摘まむニヤニヤしながらも、凄まじい存在感を放っていて……あの時、剣帝の間近で自分は……肌がビリビリと痺れるような感覚に陥っていた。


とても敵わない存在。蛇に睨まれた蛙。



「まぁ…命があっただけマシか……」



落ち込んだ自分を励ますようにそう呟くと、男の子は歩みを少しだけ速めるのだった.



男の子が足を踏み入れたのは、王の尽力で貧民街とまではいかないにしても比較手に貧しい者が集まる区画。


ボロイ家などが立ち並ぶこの区画に住むのは、浮浪者や……彼のように社会的に立場の弱い人間。


すると彼は立ち並ぶ家々の中を迷わず一直線に突っ切ると、とある家のドアを解錠した。



「ただいま~」



彼の顔に浮かぶのは、拓也といた際に見せていた偽りの笑みでもなく、今の今まで浮かべていた冷たく凶悪なものでもない。


心の底から湧き出てくる正の感情がもたらす、年相応の純粋な笑顔。


彼はまたもや迷うことなく狭い家の中を行くと、一つの部屋に辿り着く。



「寝てたのか…」



彼の視線の先には……お世辞にも大きいとは言えないベッドの上で規則正しい寝息を立てる女の子。

自分と同じ色の髪をした彼女を…男の子は穏やかな視線で一通り眺める。



「……なんだこの匂い?」



そしてようやく異変に気が付いた。


何やら台所の方から漂ってくるいい匂い。空腹も相まって思わず涎が垂れそうになったが、危ないところで堪え……今更だが足音を殺しながら静かに台所へ向かう。


台所に近づくにつれて濃くなる匂い。聞こえてくる鼻歌。



「(侵入者…?でもこんな何もない家に何の用だ……)」



ようやく台所のすぐ傍まで接近した男の子は……壁に背を預け、ポーチの中から鏡を取り出す。


もちろん物陰から直接覗き込むなんて自殺行為はしない。その程度のことは知っている。


男の子は鏡をスッと物陰から延ばし、中の様子を伺った。


映ったのは……黒髪の男の後ろ姿。どうやらコンロに向かって何やら調理をしているようである。



「(……侵入者………でもこいつ人の家で何してんだ……)」



食材を盗みに来たのなら、盗って持って帰ってしまえばいい。しかし目の前の侵入者……もとい不審者は、何故か調理までしている。

訳が分からない。


男の子が混乱していると……突如、男が振り向いた。


鏡越しに目が合う。



「あ、おかえり。もうちょっとで晩御飯できるよ」



「……なッ!!?」



揺るぎないフツメンフェイスの頂点……鬼灯拓也、見参。




「何してんだテメェッ!!」


「ばッ!そんな大きい声出したら起きちゃうだろ!!?」


「あ、そっか………いやちげーよちょっと待てッ!!」



自宅への侵入者。声を荒げた男の子だったが、何故か堂々としている拓也にそうたしなめられて一瞬黙りかけたが……やはりこの場においておかしいのは自分ではなく彼だとすぐさま再認識し、またもやそう声を荒げた。


そんな彼の反応に、ぶん殴ってやりたいほどにウザい表情でヤレヤレといったジェスチャーをする拓也は、今自分が掻き混ぜていた鍋を指さして一言。



「晩御飯作ってんだ」



「そうじゃねぇよッ!何人の家に勝手に入ってんだって言ってんだよッ!!」



「あぁそっちか。ピッキングして入ったよ」



ダメだ、こいつと普通の会話をしようとしても絶対に成立しない。


彼がひどい頭痛に襲われる中、拓也はコンロの方へ振り返って作業を再開。刃物を手にしている。


男の子は今が好機だと……ポーチの中にこっそりと手を突っ込み、獲物を探す……が……昼間、彼を狙った時のように…見つからない。



「あ、これナイフじゃん。あっぶねぇもう少しでこんな命を刈り取る形をしてるデンジャラスな刃物で食材切るところだった」



「またお前かよッ!!」



昼間のようなニヤケ面でナイフの柄を握る拓也に吠える。この短時間で突っ込みすぎたからか、心なしか喉が痛くなり始めている男の子だった。



「というかお前もうちょっと計画的に料理しろよな、キャベツ腐りかけてたぞ~」



「………」



「スープにしてみたよ~」



「………」



「コンソメって便利だよね~」



「あぁもう黙れよッ!んで出てけよッ!!」



「……………



ミネストローネと迷ったんだけどね~」



「人の話を聞けよぉぉぉぉッ!!!」



そして男の子。完全に拓也のペースに乗せられている。




連続のツッコミ、家中に響く怒声。


「お兄ちゃん……帰ってるの~?」


「か、カミラ!出てきちゃダメだ!!」


開きっぱなしの後ろのドアから現れたのは……ベッドで眠っていたはずの女の子。


しかし主に男の子の方が声を張り上げすぎたせいだろう。どうやら目が覚めてしまったようだ。


片手に猫のぬいぐるみを大事そうに抱え、もう片方の手で眠たそうに眼を擦りながらぼんやりとした視界の中に大好きな兄と……そしてもう一人、見慣れない男の存在を認識する。



「?…おじさん誰~?」


「おじさんじゃない。お兄さんだ」


「おじさん誰~?」


「………………



流離のコックだ」


「いや諦めんなよ」



男の子の鋭いツッコミを無視し拓也はさらに調理を続け……あっという間に晩御飯が完成。


良い匂いに目を輝かせるカミラと呼ばれた女の子の脇を抜け、テーブルに料理を並べ……自分も椅子に腰かけると、いつまでたっても呆けたように立ち尽くしている男の子に声をかける。



「どうした、早く食べようぜ」


「いい加減帰れよ……」


「お兄ちゃん!お腹空いた~!」


「………はいはい…わかったよ」



妹にそう言われ、仕方なさそうに……しかし拓也への警戒は解かないまま椅子に浅く腰かける。


そして食膳の挨拶が三人によって済まされ、食事が始まった。


ナチュラルに拓也も食べていることに非常に腹が立つ男の子だったが……どうせまた軽くいなされるとわかっているので、仕方なく自分の食事に没頭した。



「おいしい~!」


「コックだから当たり前なのです~」



「……」



いや、コックじゃなくて剣帝だろ……内心でそう突っ込む男の子。しかし……妹の言う通りおいしい。


本当に家にあった材料だけで作ったのかと疑ってしまうほどに絶品な料理の数々に、興奮してしまっている自分がいることに男の子はなんだか少し照れ臭くなるのだった。




するとそんなタイミングで、家のドアが何者かに数回ノックされた。


こんな時間にいったい誰だろうか……首を傾げた男の子だったが、こうして家の電気が煌々と付いている中居留守を使うわけにもいかないので、椅子を軽快に飛び降りて小走りで玄関へ向かう。


台所よりも若干温度が下がった玄関。男の子はドアノブに手を掛け……開ける。



「はーい…ッぅ!!」」



ドアが開くと同時に自分の首元へと伸びた手にあっさり捕まってしまった男の子。


気道が潰され、難しくなる呼吸。



「よぉ、お仕事失敗したみたいだから消しに来たよ」


「ッ!!」



自分の首を掴む男は、小さな男の子を壁に押し付けながらニヤニヤとした笑みを浮かべてそう口にし、手に込める力を徐々に強めていく。


倍ほどにも違う体格差。大人相手では成す術がないだろう……一般的な10歳では。



「ッぎぃ!!!」



「汚ねぇ手で俺に触るな」



しかし彼は……闇の世界を歩いてきた一人。


剣帝暗殺の仕事が回ってきたということから察するに、彼は相当の実力者。正面戦闘の実力も相当のモノだと容易に予想ができる。


体格差だけで油断した男は爪先で顎を蹴り上げられ、糸の切れた操り人形のように地面に崩れ落ちた。



「クソッ!最悪だッ!!!」



予想はしていた。信用を失うだけならまだしも、裏の仕事ではこういうことがたまにある。


依頼側の情報が外部へ漏れないように……依頼側の人間によって実行側の人間が殺されるということが。

これに仕事の成功や失敗は関係ない。問題はそこじゃない。関わった時点でアウトなのだ。


利用できる内は利用し……利用価値がないと見られるやいなやすぐに消しに来る。



「まったく……イヤになってくる……」



心底腹立たしい。男の子は虫唾が走るとでも言いたげな表情をその幼い顔に浮かべると、気絶させた男には一瞥もくれずに部屋の中へと急いで戻って行った。



「カミラ、ちょっと出かけよう!すぐに出るから大事なモノだけ持って!!」


「え、お出かけ!?」


「そう、お出かけ!急ぐんだよ!」


切羽詰まったように苦し紛れの嘘を吐く男の子。しかしカミラはその幼さ故、兄の言葉を疑うこともせずに、はしゃぎながら椅子を飛び降りる。


きっと彼女は楽しい遠足だとでも思っているのだろう。だが……実際は全く違う。


闇の連中に命を狙われ、一刻も早くこの場から逃げ出さなければいけないのだ。



明確な焦りの表情をその幼い顔に浮かべ、扉の方を警戒する男の子。そんな彼の心境はいざ知らず、小さなリュックサックに何やらいろいろと詰め込んでいるカミラ。


そして食卓に座ったまま、食事を続けている拓也。



「おいあんた……逃げた方がいい。ここに居たら……」



しかし…最後まで言いかけて気が付いた。彼は王国歳強と謳われるほどの実力者。自分が心配しなくても、この程度の状況は一人で切り抜けるに違いない。


すると……そんな彼が突然溜息を吐いたかと思うと、静かにスプーンを置きいきなり席から立ち上がった。



「お兄ちゃん準備できたー!」



「……それじゃあ忠告通り逃げるとしますかね」



ニヤニヤとした笑みをその顔に張り付けながらそう呟いた拓也は、男の子の方へと歩みより……彼を小脇に抱えた。


いきなりりそんなことをされ、何が何だかわからないといった表情を男の子が浮かべている間に、彼はカミラも同じように逆の小脇に抱える。


しばらくしてようやく自分が置かれた状況を把握した男の子は……拓也の腕の中で思い切りもがき始めた。



「なッにしやがるッ!!」



「はいはい、抵抗しない。死にたくなかったら大人しくしてろ」



圧倒的強者が少々低いトーンで放ったそんな警告に男の子は思わず恐れて黙り込んでしまう。


この状況……彼が自分を殺そうと思えば、それこそ文字通り一捻りで終わるのだろう。


おまけに逆側には自分の妹。故に彼は…拓也の発言に従って、大人しくしている他なかった。




そしてその刹那、一瞬にして切り替わる視界。


暖かな家の中が映っていたはずの視界に今映っているのは……無数の輝く星々が散りばめられた夜空。


それが剣帝の専売特許の空間魔法による移動であるということに気が付くまでに大して時間は掛からなかった。



「間一髪ってやつだな」



いきなりそんなことを呟いた拓也。男の子はそんな意味の分からないことを呟いた彼を不審そうな目で見つめているが……彼の言葉の意味をその次の瞬間には悟ることになった。


『ドォォォンッ!!』と凄まじい轟音と爆風。方向は……自分たちの真下。


慌ててそちらへ視線を送ると……眼下は既に火の海となっていた。


渦巻く炎の中心部には……自分たちが今の今までいた家。



「な、なんだこれッ!!」



「組織がお前を消しに来た。最初の奴が入ってから戻ってくるまでに時間が掛かったから……強行手段に出たんだろう」



先程までのふざけたボイスはどこへやってしまったのだと思うほどに……真剣な彼の声色。驚愕して首を回してそちらへ視線を向けた男の子の瞳に映るのは……眉を潜めて渋い顔をしている拓也の表情。


下で燃え盛る炎による上昇気流で持ち上がった髪。オレンジ色の明かりで影ができ、彫りが深くなったように錯覚してしまう彼の表情。それらはまるで……彼の怒りを体現しているかのようだった。



「……どうして……助けた…?」



死にたくなければ大人しくしていろ。あれは彼の力が自分に向くことを言っていたのではない。奴らの力が自分たち兄妹に向くことを言ったのだ。


自分は…この攻撃に全く気が付けていなかった。彼がこうして行動を起こしていなかったらあの爆発に巻き込まれていた。

そうなれば……もし自分は助かっても、妹は確実に死んでいた。



しかし拓也は男の子の問いに答えることなく……その暗い表情を変えることもせずに、空間魔法を発動させてその場から姿を消した。


視界はあっという間に切り替わり、頬を撫でていた炎による生暖かい風と熱はすっかり消え失せ、その代わりに人工的な光が男の子たちの目を眩ませる。



「やっぱり来た。すぐに水帝を派遣してくれ。火がヤバい」


「もう向かっている。拓也君、そちらは何も問題はなかったかい?」


「あぁ…」



どこかで聞いたことのあるような声に、男の子は首をかしげて眼を擦った。


すると…徐々に回復してくる視界に映るのは……立派な髭を蓄えた、ハゲたおっさん。



「……国王…ッ!?」


「あぁ、君だね?拓也君を狙ったっていう小さな暗殺者さんっていうのは」



そんな危険人物の男の子に、王は臆することなく歩み寄ると…その手を差し出して握手を求めた。


なんだこいつは…。それがまず初めに抱いた感想だった。


国の頂点に立つ国王が、何故こんなにもフレンドリーなのか?剣帝を殺そうと近づいた自分に何故近づいてくるのか?


続いて湧いて出てくるそんな疑問たちを頭の中で処理している間に……王は勝手に彼の手を握り、軽く上下に振って握手していた。



「拓也さんッ!?」


「んはぃッ!!?」



蹴破るように開かれた部屋の入口のドアの向こうから現れたのは……銀髪を揺らす美少女。


その声と扉を乱暴に開く音にビクッと体を震わせた拓也は、慌ててそちらを振り向いた。その顔には明確な怒りの表情が浮かんでいる。


彼女のそんな剣幕に思わず戦慄する拓也は……面白いように膝が笑ってしまい、その場に尻餅を付きながら後退る。


しかし逃げ場は無限ではない。あっという間に部屋の隅に追い詰められた拓也は、小刻みにプルプルと震え、顔に冷汗を浮かべながら……彼女を見上げる。



「メルさんから話は聞きました。また危ないことをしているみたいですね?それも私に黙って……」


「い、いや…あの……その……み、ミシェルっちギルドのお仕事行ってたから……仕方なかったのです…」


「…………あ……そうでした」



しっかりしていそうな彼女だが、実はたまに天然な部分があるのだ。



ここまで大きく取り乱した自分が恥ずかしいのか……ミシェルはほんの少し上気した頬に掛かった銀色の絹糸を鬱陶しそうにピンと弾くと、踵を返して近くの椅子に腰かけた。


このギャグのような雰囲気に一瞬飲まれそうになった男の子だったが、自分の置かれた状況を再認識することで何とか振り切ると…拓也にもう一度、年相応ではないまるで威圧でもするような低い声色で問い掛ける。



「何故助けた…答えろ」



彼のそんな発言で、一気に冷たくなる部屋の空気。彼の隣に立つ妹もそれを察してなのか……黙り込んでしまっている。


するとその質問を投げかけられた拓也は……床に腰を下ろしたまま、ふわりと笑顔をその顔に宿して口を開いた。



「目に入ったから。ただそれだけ」



実に単純明快。


聞いた本人の男の子ですら唖然とするようなその理由。


しかし社会的な立場の違いからか……



「ふざけんな……」



拓也のその際限のない優しさは……彼の理不尽な怒りに火をつけた。


精一杯開いた瞼の内側には、激情で血走った眼。


行き場のないそんな怒りは……声をかけた拓也へと向く。



「テメェみたいに光の中だけを歩いてきた奴に…一体何が分かるッ!!?


俺たちみたいな下の人間を見て可哀想とでも思ったか!!?子供がこんな汚ねぇ仕事してるのを見て心でも痛めたかッ!!?


ッハ!笑わせるな!!余裕がある内はそんなこと言えっかもしれねぇがテメェらが俺らまで堕ちてみろ!!そうなったらどうせ人のことを気にしてる暇なんてねぇんだよ!!!


分からねぇくせに……知ったようなこと言うんじゃねぇッ!!この偽善者のクソ野郎…」



男の子が言い終える前に……彼の頬を、白い光線が掠めた。


ジュッという音と共に、左の頬に感じる焼けるような痛み。


驚いてその場で尻餅を付いた男の子が慌てて頬に手をやると……生暖かい感触。


恐る恐る頬にくっ付けた手を離し、確認してみれば……べっとりと赤い液体が手のひらに付着していた。



「拓也さんがどれほど傷ついて……どれほど自分を犠牲にしてきたのか知りもしないあなたが………



知ったようなことを……言うな」




そんな怒りに震えた声に恐れ戦きながらもゆっくりと顔を上げる男の子。


次の瞬間、視界に映ったのは……冷たい目で自分を睨み付け、手をこちらへ翳している銀髪の少女。


彼は知らないだろうが、その冷たい蒼い瞳はいつもよりも数段その鋭さを増している。



「拓也さんが……どれほどの闇の中を歩いたか知らないくせに………それでも優しさを失わずに………精一杯生きているのに………そんな人が偽善者…?」



ミシェルはそう発言しながらゆっくりと男の子へと歩み寄ると、彼の顔面に手をかざす。


まるで蛇に睨まれた蛙のように動けなくなる男の子は……翳された彼女の手の指の隙間から覗く、ひどく冷たい蒼眼に釘付けになり、冷たい汗を頬に伝わせた。



「知ったようなことを…言うなッ!」


「ミシェル、ストップ」



瞬時に彼女の掌の前に構築される光の魔法陣。覚悟を決めて目を瞑った男の子だったが……すんでのところで拓也の制止が入る。


恐る恐る目を開けると……微笑を浮かべながら彼女の手首を掴んで、もう片方の手でポンポンと頭を撫でる拓也の姿。



「今日会ったばっかりなんだし、俺のことを知らないのは当然だろ?


ミシェルが……そうやって俺のことで怒ってくれるのは嬉しいけど、向こうにもちゃんと事情があるんだ。


まずは話し合って、お互いを知ることから始めよう。それでいいかな少年?」


「あ、あぁ……」


「ミシェルは?」


「……はい、わかりました」



少し不満そうなミシェルはそう承諾し、チラと男の子を一瞥するが、その視線には拓也の説得のおかげか先程に比べるとかなり穏やかなものになっている。


そんな彼女の様子に拓也はまた微笑を浮かべ、軽く彼女の銀髪を撫でるのだった。






ミシェルから手を離した拓也は男の子に背を向けて数歩進み、ある程度離れたところで180度振り返り、両手を広げておどけた笑いをその顔に浮かべて口を開く。



「知っての通り俺は『剣帝』本名は鬼灯拓也。あ、鬼灯がファミリーネームね。


18歳で、一応まだ学生。好きな食べ物は……う~ん……ミシェルが作ったものなら何でもかな。


最近のマイブームは、限界まで睡魔を我慢してからベッドに入って爆睡すること!


そして俺は元々この世界の人間じゃなくて、とある神に言われてこの世界に来た言わば勇者的な…」


「ちょ、ちょっと!!?拓也君ッ!!?」


「え、なに?」


「え、なに?…じゃないよ!それって言っても大丈夫なの!!?」



慌てて拓也に詰め寄ってそう問いただす国王だが……タイミングが最悪だった。


拓也がその話題についての大部分は話してしまっているうえに、彼がそのように発言をしてしまったということで、拓也の話の信憑性を高めることになってしまっているのだ。


案の定男の子は信じられないようなことを聞いたと言わんばかりの表情でフリーズしている。


ミシェルも国王と同意見なのか、その綺麗な瞳を拓也へ向けて心配そうな視線を送った。


しかし彼は自分の中でどうするかをもう決めているのか、詰め寄ってきた国王を手で制し、視線を自分へとよこすミシェルに笑顔を返すと…言葉をさらに続けた。



「俺の目的は、一部の神から命を狙われているとある人物を護ることだ。


ちなみに俺の強さは天界での長期間の修業で得たモノで、俺自身に才能なんてものはないし、全然すごくもない。


帝なんて地位に縛られるのも嫌だから、気軽な感じでよろしくな~」



そう言葉を締め括って自己紹介を終了した拓也は、今度は自分からミシェルに視線を送って合図をする。


一瞬、それを実行することを戸惑ったミシェルだったが……数秒の沈黙の後、口を開いた。



「私はミシェル=ヴァロア。ギルド『漆黒の終焉』のSSSランクです。


自覚はないんですが、特別な力があって神に命を狙われているとある人物です。


好きなものは魔法です」


「ちょ、ちょっ!?」



拓也が大丈夫と判断したのならば……自分も言ってしまって構わないだろうと考えたミシェルは、先程拓也があやふやにした人物は自分であると名乗り出た。


王が少々焦っているようだが、多分そのうち拓也の考えを理解するに違いないだろう。



「はい、次王な」



「え、あ、あぁ、うん。


僕はローデウス=エム=エルサイドだよ。国王やってます。


二人みたいにすごい秘密とかはないけど……好きなことはチェスとかかな?よろしくね」



拓也に言われるままにそう自己紹介を済ます国王。


すると拓也は…ゆっくりと男の子の方へ歩みを進め、ニッコリとした穏やかな笑みをその顔に浮かべながら彼に向かって口を開いた。



「次は君だ、少年。君のことを教えてくれ。


俺はまだ君の名前すら知らないんだ」



お互いを知ることから始めよう。その言葉にたがうことなく拓也は自分の情報。それも嘘か本当かを疑ってしまう程に浮世離れした自分の秘密も暴露してくれた。


それが嘘か誠かを判断する材料はまだないが……どうしてか少年は、拓也が嘘をついているようには見えない。


そして……彼は徐々に拓也に心を開きつつあった。



「俺は…カレナ。カレナ=ブローズ…」



パタ……そんな音が彼の言葉を遮り、部屋に響く。カレナから見て向かいうようにして立ったり座ったりしている3人の顔には驚愕が浮かんでいた。


そして続く、小さな女の子がせき込むような声。発生源は……自分の隣。


恐る恐るそちらへ視線を向けると……そこには妹が金髪ロングの女性に抱かれて意識を失って

いるという光景。



「カミラ!!」


「ど、どうしましたのッ!?…大変です拓也さん!この子血を吐いていますわ!」


「肺が悪いんだッ!」


「メル、とりあえず使ってもいい部屋に運んでくれ。すぐに処置が必要だ」



いつものように全員に認識されていなかったメルにツッコむこともせず、すぐにそう発言する彼の顔にはやはり真剣な表情。

拓也はすぐに空間魔法で異界への門を開き、中から白衣をまとったクリーム色の長髪の少女を引きずり出す。



「リディア、少し手伝ってくれ。急患だ」




「ん、まぁいいぞい」



いきなり引きずり出されたのにもかかわらずリディアは快くそう引き受けると、拓也がメルから引き取った咳き込む小さな女の子をじっと見つめて一言呟く。



「肺か」


「あぁ、多分な。今から細かい診察」



そう返答して部屋の入口の方へ歩を進める拓也とリディア。


そんな彼らの背を呆然と眺めるカレナは思う。一体どうして見ず知らずの自分たちを…彼は助けてくれるのだろう。


メリットがないはずなのに、何故彼は……。


理解しがたいそんな思考が頭の中を埋め尽くし、思わず黙り込んでしまうカレナ。


すると……後ろから彼の肩に手を置く人物が一人。あまりの存在感の無さに一瞬驚いたカレナだったが、その触り方に敵意が感じられなかったからか、少しビクッと体を震わせるだけで済む。



「あの人はそういう人なのです。先程は目に入ったからなんて言い方してましたけど……要するに困っている人には手を差し伸べずにはいられないんです。


ミシェルさんが言っていたように、自分がどれだけ大変な思いをしようともあの人の中のそんな部分は揺るがない……絶対に。そんな不器用で…とても優しい人なのですわ」



そう発言したメルは、同意を求めるようんば視線をミシェルに送ったが……なんだか照れ臭く感じてしまったミシェルは視線をフイッとそらして頬を若干赤らめた。


カレナはしばらくの間深く考え込むような仕草を見せると……俯いたままだがゆっくりとその足を踏み出す。


そして彼がその歩みの末に辿りついたのは……ミシェルの目の前。



「……悪かったよ。言い過ぎた」



そっぽを向きながらの彼のそんな謝罪。しかし素直な謝罪に、ミシェルは面食らったように固まった。


しかし彼女もすぐに自分のしなければいけないことを理解すると、右の手をそっと彼の左の頬に近づけ……その掌に、先程の敵意が籠った光とは全く別物の優しい光を灯す。



「私も……やり過ぎました。すみません……」



見る見るうちに塞がって行く頬の傷。


流石は魔法に関しては王国最高クラスのミシェルである。


あっという間に傷を完治させると、彼女はポケットからハンカチを取り出して、少し固まり始めた彼の頬の血を拭って……少しだけ笑顔を見せるのだった。





「拓也さんが言っちゃいましたからもう言いますけど……言った通りあの人は元々この世界の人間ではありません。


まだ名前も顔も知らない私を助けるために、100兆年という長い間天界で修行して……」



「は、はぁ!!?じゃ、じゃあアイツは一体何歳なんだよ!!!」



「理屈で考えれば100兆と18歳ですね。本人は永遠の18歳とかふざけてますけど……」



彼女の口から紡がれるそんな浮世離れした事実。


人間がどうしてそこまで長生きできるのか……果たして彼は人間なのか。


するとカレナのそんな疑問をミシェルは言葉がなくとも察することができたのだろう。



「これは王族と極一部の人にしか知られていない事実です。


拓也さんは神の襲撃に対抗する力を身に着けるために創造神の下で修行を受けた人間で、寿命に関しても創造神によって天界にいた時の分は帳消しにされています。


だから今、拓也さんは普通に年を取りますし、歴とした人間です。


ちなみにこのことは王族とその他極一部にしか知られていないので、口外は禁物ですよ?」



「あ、あぁ……」



ミシェルが丁寧にそう説明してくれたが……カレナはなんだか疲れたような気分に陥ってしまい、胃もたれしたような表情を浮かべてそう返答した。


とても信じられないような事実ばかりを一度にこんなにもたくさん並べられ……頭がぐちゃぐちゃになりそうだ……額に手をやりながらカレナがそんなことを考えていると、そんな彼の気を知ってか知らずかミシェルはさらに続ける。



「一年と数か月前。空に亀裂が走ったあの日を覚えていますか?」


「…?。あぁ、確か…不明の勢力からの襲撃って発表された……王都に結界が張られたやつ?」


「はい、それです」


「それで剣帝が撃退したって……まさか……」



察しの良いカレナは気が付いてしまった。


彼女の口から紡がれた言葉と照らし合わせると……これは……。



「そうです、あれは神の襲撃です」



そう結論を出すのは……自然なことだろう。




ミシェルはそう言葉を紡ぐと……何を思い出したのかその整った顔を歪め、歯を噛み、血が出んばかりに拳をグッと強く握りしめて僅かにその体を震わせた。


ただならない彼女のその様子に思わず黙り込んでしまうカレナ。


ミシェルは静かに話し始める。



「あの時……敵に一体、とんでもなく強い奴が居ました。


死闘の末…拓也さんは何とか勝利をもぎ取りましたが……腕と足の骨ほぼを複雑骨折、粉砕骨折している箇所もありました。肋骨も15本以上やられ、筋や靭帯、筋肉の断裂、損傷。


バッサリ斬られた深い傷も塞らず、当然血も足りない。


見ているだけでどれだけ心が痛んだか……今思い出しても辛いです」



彼女の表情を一言で説明するならば……激昂。


しかし彼女がそんな表情を浮かべていたのも束の間……次の瞬間に彼女の顔に浮かんだのは、苦笑いにも似た微笑。



「でもそんな中…必死に呼びかけた私たちに……彼は笑いました。勝手に殺すなって。


……約束してくれました。絶対に死なないって。致命傷をいくつも受けて息も絶え絶え。喋るのはおろか目を開けるのさえ辛いはずなのに……バカですよね、ホント。


…その後すぐに意識を失って、一週間目を覚まさないんですけど……でも…ちゃんと約束は守ってくれました。生きて戻ってきてくれました。


彼は次の襲撃は更に過酷なものになることを知りながらも私と交わした約束『護る』という約束を守るために今もまだ強くなろうと努力し続けています。私も拓也さんと一緒に強くなろうと頑張っています。


まだ背中も見えてないんですけどね…」



まるでやんちゃな我が子の自虐風自慢でもするかのような穏やかに綻んだ笑顔を浮かべるミシェルの顔を見つめ、彼女の話に聞き入りって黙り込むカレナは……純粋に驚愕していた。


自分が今まで事実だと思っていた事が……国民全員が知っている事が虚偽だったと知ったから。


剣帝……拓也が戦っているモノの大きさを知ったから。


そして何より……彼と彼女の絆の深さを知ったから。





護る側と護られる側。それだけではない彼らを結ぶ固い糸。


カレナもそれの存在をなんとなく察するのだった。



そしてしばらく黙り込んだ後……聞いた内容を頭の中でしっかりと整理し、ちゃんと理解してから彼はボソッと本音を零した。



「俺には分からない。どうしてアンタの為にアイツは命を懸けて戦うんだ……」


「答えは単純。俺がミシェルを護りたいからだ」


「ッ!!」



彼のその疑問の答えは……静かに扉を開けて入室した拓也によって返された。


実に単純明快なその答え。しかし今彼にとってそれはたいして重要ではく、最も優先すべきなのは……彼はいつも通りニヤケる拓也に慌てて詰め寄ると、拓也に掴みかからんばかりの勢いで問い詰める。



「カミラはどうなんだ!!?」


「安心しろ、リディアに任せてきた。病名も発覚したよ……かつて王妃を蝕んだ間質性肺炎だ。


俺は治療の経験もあるし大丈夫。まぁ心配することはなし、ハイ終了」


「そうか!………そうか……………」



行き場を失ったカレナの手は安堵の感情が体に定着するまでの間しばらく、宙で何かを掴むような動作を繰り返す。


それを見た拓也はまた面白そうにケタケタと小さく笑い声を上げると、向こうの部屋で新たに得た情報も交えてさらに自分の言葉を続けた。



「俺はミシェルを愛している。だから命がけで護る。それだけだ。それが俺の絶対的な正義なんだ。


ところで…俺も結構最近辿りついた結論があるんだが……聞きたい?」


「……」


「無言は肯定と取るぜ」



押し黙ったまま一言も発さずに拓也の黒く吸い込まれそうな瞳を見つめるカレナに相変わらずニヤニヤしながらそう声をかける拓也は、一間隔置いて少しだけその顔に真剣な色を宿すと……物語の語り部のように静かに語りだした。



「”正義”は…”愛”から生まれる。他者を思う”愛”が”正義”を生む。


愛の形は人それぞれ……故に正義の形も人それぞれ。


だから正義同士がぶつかることだってあるし……社会的にその正義は犯罪と分類されることもある。大きな話をすれば戦争が起こることもある。


だが……お互いが本当の正義を振るって起こった争いに、必要以上に血が流れることはない。


何故なら己の中に正義を持つものは、他者を愛することができるとても優しい人だから」



「俺は……昔は神たちも己の正義に基づいて動いていると思っていた。だがそれは違う。


保身の為に他者を傷つけることを厭わないそれは…正義とは言わない。過去の俺は間違っていた。


だからあの時はとてつもなく血が流れた。俺がこの手で殺した。主の保身を正義と聞かされ狂った天使たちも俺がこの手で殺した。


俺の考えに共感して力を貸してくれた属性神たちの手も借りて。


だけど…自分が掲げる正義を貫き通すために……奴らから俺がどれだけ凶悪な悪魔に見えようが、俺はこれからもミシェルを狙う奴を殺し続ける。


お前もそうだったんだろ?妹の薬代と生活費を稼ぐために裏の仕事に手を出した。違うか?」



自分の行動原理を具体例に出してそう解説した拓也は、じっと黙って聞いていたカレナにという掛ける形で自分の発言を締め括ると、彼の返答を待っているのか腕を組んでその口を閉じた。


きっと拓也は治療室の方で妹と話してその推測を立てたのだろう。


図星だった為少しだけ目を見開いて驚いた様子のカレナは、静かにその口を開く。



「あぁ……だから何だよ…」



たった一言だけの肯定を現すその言葉と、付け加えられる悪態。


しかし拓也にとっては、最初のその情報だけ得られれば良かった。


いつものようにニヤニヤと呑気な表情をその顔に浮かべた拓也は。悠然と前へ歩み出ると…カレナの小さな頭に手を置き、ワシャワシャと少し乱暴に撫でる。



「それはお前の正義だ。他者への愛を感じられるお前は優しいよ。


子供という立場で極端に選択が限られる中、今までよく頑張ったな」



優しい笑顔を向けられ……自分の暗い過去を肯定され……。


気が付けば…・……自然と目から涙が流れていた。





自分の人生……自分が妹を守らなくてはと必死に足掻き続けたここ数年間。


とても人に堂々と話せることではない後ろめたいそんな経歴を、彼は肯定してくれた。



涙が溢れて止まらない。嗚咽を漏らしながら溢れて止まらない……止められない。


拓也を含めるこの部屋の人間は誰もそれを嘲笑うことなく、穏やかな表情で見守った。


何故なら彼らも……他人を愛することのできる優しい人たちだから。



すると拓也は…一人立ち尽くして泣きじゃくるカレナの前で膝を付き、彼をひしと抱きしめると、非常に優しい声色で彼に囁いた。



「頼れ、自分の力じゃどうしようもないなら。ここにいる奴らはもちろん…少なくとも俺の知り合いなら全員自分の正義を持っているからさ…」



カレナは返答はせず、ただただ拓也のその言葉に、何度も何度も頷くのだった。


拓也は自分の腕の中の彼をより強く抱きしめる。そして彼の姿に、過去の自分を照らし合わせ……また穏やかな笑みを浮かべて彼の髪を撫でる。


その後もカレナは拓也の腕の中で数分間泣き続けたのだった



・・・・・



「なに?帝が現れただ?」


「は、はい…水帝が………」


「それで生死不明か……ったく…まぁいいか。あのガキは剣帝に手を出したんだ、間違いなくもう表社会には立てねぇよ。だが……ここの場所を知られている以上はいつか消さねぇとな……」


「へへ、で、でもあの爆発に巻き込まれたなら間違いなく死んでますぜ…」


場面は移り……王都外れの古城。


いつかの国王が作ったはいいが、結局用途が見つからず何にも使用はされていないそんな場所。


森を抜けた先の少々開けた場所に建造されたその城は……マフィアのちょっとした拠点になるにはちょうど良かったのだろう。


リーダーらしい男にそう報告をした下っ端らしい男は、どうやら火を放ったあの場所に居合わせたようで、あの爆発からカレナたちの生死を考察して下種に笑いながらそう口にした。





「まぁそうか。


しかしまぁ所詮はガキ。剣帝暗殺なんて無理だったか~っはぁ。運よくグサッとやってくれれば俺も昇進確定だったんだが……やっぱり社会は甘くねぇなぁ…」


「ん、何言ってんだ。社会の辛さを受け入れず……地道に働くという選択肢を捨ててに楽な方へと流れた結果が今のお前だろう?何を社会を知ったように語っている」


「「ッ!!?」」



突如として部屋の隅から聞こえてきた聞きなれないそんな声。


慌ててそちらへ振り向けば、視界に映るのは……椅子に深々と腰掛けた黒いローブの怪しい男。


目深に被ったフードの下には、挑発するような怪しい笑みが浮かんでいる。



「け、剣帝ッ!!?」


「おっすおっす、先刻は可愛らしい殺し屋さんをどうもね」



ふざけた口調で片手を上げながら喋る剣帝を目の当たりにして、リーダー格の男は自分の座っている椅子から飛び上がって尻餅を付きながら壁に背中から思い切りぶつかった。


そんな無駄に肥え太った無様な男の醜態を見た剣帝は愉快そうに笑い声を上げる。


自分が笑いものにされているが……そんなことは今は重要ではない。自分の目の前に、王国最強と謳われる化け物染みた存在が居る。


揺るぎのないそんな事実が……リーダー格の男の脳内を埋め尽くす。



「な、何故この場所がッ!!?」


「彼に聞いたのさ」


「なッ!!」



口元をニヤリと歪ませながら彼が手をやって法へ視線を向けてみると……そこには銀髪の美少女と……。


「き、貴様ッ!!裏切ったのかッ!!!?」



自分が雇った黒髪の少年。


ー……というかなんで付いて来てんのこいつら………空間移動に自分から巻き込まれやがって……ー


拓也は別に連れてくるつもりはなかったのだが……彼らもきっと思うところがあって空間魔法を使用する彼にワザと巻き込まれる形でついてきたのだろう。


内心で予想していなかった出来事に驚いて一瞬焦った拓也だったが、間一髪平然を装うとそんな言葉を口にした。


目の前の少年のせいで自分の前に剣帝が現れる事態に陥った。そのことだけを瞬時に理解した男は、怒りをあらわにしてカレナにそんな言葉を投げつける。


しかし彼は何も答えることなく、ミシェルと共に沈黙を通した。





「こいつは裏切りよりひどい目に遭わされたと思うがな、いきなり家ぶっ飛ばされるって人生で一度あるくらいだぞ?」



いや大体の奴はそんな経験しない。ミシェルとカレナは口には出さずに心の中ですかさずそうツッコミを入れる。


そうとは知らず拓也は桁けたと愉快そうに椅子に腰かけたまま一通り笑うと、フードの下の黒い瞳に……少しだけ鋭い光を宿し、声のトーンも一回り下げてリーダー格の男に語りかけた。



「無駄な殺しはしない、大人しく投降するならば命までは取らないから……」



拓也が言葉を紡ぐ中……もう一人の男が、思い出したように体の自由を取り戻す。


目の前には…自分たちが狙うべき敵の剣帝。その瞬間、彼の視界に壁に掛けられた観賞用の剣が映った。


既に抜身のその剣は。手にすれば…完全に油断している体制の剣帝を倒せるかもしれない。


そんな甘い考えが彼を突き動かす。



ゆっくりと手を伸ばし……剣の柄に手を掛けて一気に引き……



「うぉぉぉぉぉ!!!」



彼は片手で頭上に得物を振り上げながら軽巣に腰かける剣帝へ駆け出した。


その距離はあっという間に縮まり、とにかく力任せで剣筋など気にせずに滅茶苦茶な軌道で剣を振り下したその刹那……右の手に衝撃が走ると同時に手の中から柄の感覚が消え去る。



更に連続して彼の腹部を襲った衝撃は、彼に驚く暇すら与えられずまるで生身の人間がトラックにぶつかったがごとく弾き飛ばされた。



「ッ……………」



木製の壁を一枚ぶち抜いて廊下に投げ出された彼は、ピクリとも動くことなくそのまま物言わぬオブジェクトと化す。


僅かだが目で追うことができたリーダは……戦慄していた。



「な、な……こ、こんなことがあってたまるかッ!!」



「現実逃避はよろしくないね……俺もよくするけど」



彼は……剣帝は………ただ二発蹴りを叩き込んだだけ。一発目は剣の柄頭を蹴り上げ武器を取り上げ、二発目は男の腹部を前蹴り。


それだけで戦闘員が無力化された…。



その事実は……純粋に彼に恐怖を植え付ける。




すると……今の衝撃音とリーダーの怒声のせいなのか、建物の中がザワザワと人の声で騒がしくなり始めた。


拓也は分かりやすく人る溜息を吐くと、指で自分の口の周りの中のなぞり…音の魔方陣を展開。


あ、あーっと数回マイクテストのようなことをした後に、拓也はこの建物全体の人物に向けて語りかけた。


「この建物は私、剣帝が完全に包囲した。逃走は無駄だ、全方位を結界で覆ってある。穴を掘ろうが地中にも逃げ道はない。


そこでお前らに2つの選択肢をやる。まず一つは大人しく投降すること。それを選択する場合はこの建物の中に残っていろ。


そしてもう1つは私と戦ってみること。正直なところ私に殺害予告を出したりその他諸々の悪事を働いたせいでお前らファミリーは凶悪犯罪組織として指名手配されている。その首に懸賞金を掛けられるほどにな。


だから捕まったところで死刑、または死ぬまで牢の中。


まぁ後者はお勧めしないがな。わずかに残った”生”への可能性を信じたい奴は大人しく建物の中に残れ」



そのセリフが意味することは……前者を選べば間違いなく死が待っているということ。


後者を選んでも、死の可能性がある。だがこちらならばもしかしたら生き残れる可能性があるかもしれない。



「今から5分後……この城の正面玄関を出た先で待っている。もし後者を選ぶ奴がいたらそこから外へ出て来い。


俺が直々に引導を渡してやる。



あとこれは当然だが、何人たりともどちらかの選択を強制させることは許さない。もしそんなことをする奴がいた場合はその場で処理する。以上だ。君たちの賢い選択を期待している」



そう言葉を締め括って魔方陣を消し去る拓也は……それと同時に自らの使い魔を呼び出した。


様々なコスチュームを身に纏う彼らは、すでに魔力を与えられており完全体。一人一人が様々な個性と絶大な戦闘力を有することは、剣帝が呼び出したということでリーダー格の男もすぐに理解し戦慄する。



「とまぁそういうわけだ。お前もどちらか好きな方を選べ」



拓也はそう冷たく言い残すと、窓枠に足をかけて暗い闇へと姿を消した。


ミシェルたちも彼を追い、外へ飛び出す。




・・・・・


拓也が宣告した5分後…。



「マスター、城の中の構成員。気を失っているものが一名。他はいません」


正面入り口を出た先に、ズラリと並ぶ構成員を目にした拓也はシェイドからのそんな報告を耳にすると、呆れたように深く溜息を吐き……フードの下の顔に暗い表情を浮かべた。


それを悟らせまいと無駄に明るい声色を取り繕うと、首だけを少しそちらへ振り向かせ片手を上げてヒラヒラと振って見せる。



「そうか、わかった。お疲れさま、帰っていいよ」



一礼するシェイドとウィスパー。息ピッタリな二人につられて慌てて頭を下げるイスラフェル。他の面々は鼻をほじったり眠そうだったり様々だが、多分気にしてはいけないのだろう。


そして彼ら全員が姿を消し、拓也は前の集団へ視線を戻す。



「掛かってこい。1人ずつでも……全員同時でも構わない」



『おおおぉぉぉぉぉ!!!』そんな凄まじい雄たけびと共に駆け出す集団。拓也も同時一歩踏み出し…集団に向かって歩き始めた。


まず拓也に飛びかかってきたのは2人。獲物はメイスと鉈。



両者ともに上段に振り上げたその構えのせいで胴の急所がすべて丸出し。



もちろんそれを見逃すわけが無い拓也は……形状変化させて腰に差してあった刀を抜くと同時に一太刀。


横へ真一文字に振りぬかれた一振りの刃は……2人の体を丁度へその辺りで分割した。



真っ赤な鮮血が飛び、拓也のローブにも少し付着する。



「……」



ドサッという音と共に地に落ちた4つの人間だったモノをチラと一瞥しているその隙に、後衛が放った無数の魔法が拓也に向けて雨のごとく降り注ごうとした……その刹那。


開く異界への門。すべての魔法は放った本人たちの頭上から術者本人に向けて降り注ぐ。



悲痛な悲鳴は、無数の魔法の中に存在した爆発系の魔法の爆音に掻き消され、彼らの絶命の瞬間は閃光に隠されるのだった。




無言の拓也は……刀を剣に戻し、もう一本短い物を逆の手に握り、地を思いきり蹴った。固い地面が砕け、小規模なクレーターができる程の力で。



「なッ!どこへ行ったッ!!?」



「ッ!!」


「ギャァッ!!」



「な、なんだ!どうし……」



一瞬での超加速。そんな人外染みた速度の変化に、構成員は戸惑うばかり。


そして所々で上がる……断末魔。


仲間を気遣うようにそんな声を張り上げた声も、言葉を紡ぎ終える前に途絶え……次の瞬間、彼の首は地面を転がり、逃げ場を探す仲間たちに踏まれ、蹴られた。


圧倒的な力。これだけの人数が居ても埋まらない力の差。


全員が死への恐怖をヒシヒシと感じ取り、この人数ならばと感じていた一筋の可能性すら絶望の暗い闇の中に断たれた。


畏れ、後悔、それぞれがそんな表情を顔に浮かべて……そして死んで行く。



集団の中を疾風のように掛け、両手に握った刃で次々と奪う拓也は……まるで苦虫でも噛み潰したかのようにその顔を顰めたが、その殺戮の手を緩めることは一切しない。


せめて苦しまぬように一太刀で。せめて仲間の死ぬ姿を見ないで済むように素早く、そして死角にいる者から。


そんな彼のせめてものという優しい考えも……きっと彼らには伝わることもないのだろう。



「………はぁ」



30秒と経たずに集団をすべて片付け終えた拓也の黒いローブは、返り血ですっかりどす黒い色に変色していた。


そして彼がフードの下に隠したそのギラギラとした眼光を向ける先は……一人だけ引いた場所に避難していたからか、まだ生きている……リーダー格の男。



振りぬく段階ではその剣速によって刀身に血が付着することはないが、フードと同じように同じく返り血で汚れた剣を揺らしながら拓也は彼へ向けて歩を進めた。



ポタポタと切っ先から滴る仲間の血。リーダー格の男は信じられないようなまなざしを拓也に向け、恐怖で笑う膝を引きずり、自身の身に迫る死から逃れようと…這いずるようにして後退る。



肌をチリチリと焼くような、濃厚な死の感覚。


拓也が一歩、また一歩近づく度に徐々に強くなって行くそんな感覚。



生物としての本能が全力で警笛を鳴らし、リーダー格の男はそれに従ってみっともなく後退り続けるが……拓也の歩みは一向に止まらない。


宣告通り彼の命を刈り取るべく……迷うことなく一直線に歩み続けている。



「く、来るなッ!!」



目の前に迫る恐怖を排除しようとそう雄たけびを上げ、すぐに魔方陣を構築して打ち出したのは炎の槍。


しかし……拓也はそれをまるで蚊でも払うかのように左手の剣で薙ぎ、真っ二つに切り裂いた。


綺麗に二等分された炎の槍はそのまま勢いが衰え消滅。



「や、やめろッ!!やめてくれ!!!!」



自分も数秒の後には……。


灯が消えるようにして消滅していった炎を目にし、畏れるように必死に叫び許しを請う男。


みっともないことは自分でも分かっていた。


しかし………あれだけの数の仲間たちが目の前で一瞬のうちに殲滅された光景を目の当たりにした彼には……その程度しか手段が思いつかなかったのである。



埋められない実力の差………それらが生み出す……絶望。



気が付けば彼は……既に目の前にいた剣帝を制止するように片手を突き出し、脂汗と涙……おまけに失禁しながら……叫んだ。



「こ、降参だ!!わ、分かった!!投降するからひ、い…命だけは見逃してくれェッ!!!」



「………」



月明かりの加減で…剣帝の表情は口元しか見えない。


真一文字に噤まれた彼の口元を、凝視する男。



辛うじて建物の中に入った地に着く彼の手。



無限にも感じる時間の中……しばらくすると拓也は右の剣をゆらりと持ち上げ、彼の顔の前で横に薙いだ。



「ひぃっ!!!」




刀身に付着していたマフィアたちの血が遠心力で飛び散り、男の汚く脂ぎった顔を真紅に染める。



鉄の味。今の今…死んでいった仲間たちの血潮。



「……あっそ」



心底イラついた様子でそう呟いた拓也は。微量の殺気が織り交ざったその言葉を至近距離で浴びた男は…


次の瞬間、ぐりゅんと白目を剥き……意識を手放すのだった。


「……」


ジョニーを一本の剣に戻して鞘に収めつつ振り返れば……視界に映るのは幾重にも折り重なった死体の山。


このすべてを例外なく自分がやった。どれだけ言い訳しようとも…それだけは決して揺るがない事実。


心の中に深く刻み込まれた彼らの末期の悲鳴はどう足掻いても消えはしない。



「………」



昔の自分ならば………きっと壊れてしまっていただろう。


だが彼は心に決めている。それら全てを全部背負って生きて行くと。



しかし……やはりそう決めた彼でも、こうして大量に殺した直後は中々に来るモノがあるのか、少し顔を顰めて歯を噛んだ……その次の瞬間。



右の掌を、そっと柔らかで温かい感触が包んだ。



「お、ミシェル。悪い悪い、ちょっとボーっとしてた」



その優しい感触の正体は、ミシェルの手。


ギュッと優しく…且つしっかりと自分の手を握ってくる彼女は、同時にその蒼く美しい瞳を真っ直ぐ拓也の黒い瞳へ向けた。


無表情にも似た彼女の表情。拓也は参ったというように苦笑いにも似た穏やかな笑みを浮かべると、逆の手で彼女の頭を軽く撫でる。



「……分かってるよ。


じゃあ二人は先に帰すな。俺は後片付けしてから行くから。カレナ、飛ばすからこっち来い」



「あ、あぁ…」



・・・・・



「お帰り、無事に解決したようだね」



拓也に触れた瞬間、視界は切り替わり……同時に二人の鼓膜を揺らすのは、国王の声。


どうやら王城まで飛ばしてくれたようだ。



「拓也さんは後片付けでもうしばらく掛かるみたいです」



「うん、わかった」



ミシェルが国王と会話している間……カレナは今目の当たりにしたモノに驚愕し……そして昼、自分がやろうとしていたことを省みて戦慄していた。



とてもじゃないが次元が違う。正直に言って…最初の太刀筋もその後の加速も……目で追えなかった。


おまけにあれはまだ彼の全開ではない。



王国最強。鬼神の名を冠する剣帝を軽視し過ぎていたと…今になって自らの愚かさに気が付くのだった。




「あ、カレナ君カレナ君!」



そんな思考は国王に自分の名を呼ばれたことで中断する。


視線を彼に向けると……穏やかな笑みを浮かべる国王の顔が映った。



「君の家はマフィアの連中に吹き飛ばされてしまった。そうだね?」



「……はい」



「じゃあ今日からとりあえず今日からはここに住みなさい」



「はい………はいッ!!?」



一瞬返事をしてしまったが、一間隔開けて国王の発言がおかしいことに気が付くと、声を荒げて同じ言葉でも聞き返すようなニュアンスを込めてそう返す。



しかし国王はまるで彼が何を言っているのかがわからないとでも言うように首を傾げると、自分の発言の理由を明確にするため具体的なことを交えながらカレナに語る。



「妹さんのこともあるし、拓也君の働きであの支部は壊滅するだろうけど、まだ存在するであろう他の支部の同じファミリーから刺客が差し向けられるかもしれない」



「で、でも!…お、俺は人も殺してきたし…………犯罪者だろ…」



「君がやってきたのは裏の仕事だから証拠が残っていなさ過ぎて立証が難しすぎる。

それになにより…生憎この国には13歳以下を裁く法律は無いんだ」



ハッハッハと一通り豪快に笑った国王は……急にその顔に真剣な色を宿すと………彼に深々と頭を下げた。



「それより……本当にすまない。


一国の指導者として……国民が笑って暮らせる国を作らなければいけない私が…君たちのような子供の存在が見えていなかった」



一国の王が……こんな自分に頭を下げている。



カレナにとってそれは、正直に言って異常な光景だった。



「保護と手当の充実、他にも諸々、もっと住みやすく…安全で平和な国にすることを約束する。


だからどうか……こんな無能な私を許してほしい」



子供……それも闇に手を染めてきたこんな自分に……。



「あ、頭上げてくれよ!も、もう分かったから!!」



「……ありがとう………」



慌てて手を振りながらカレナが叫ぶようにそう言い放つと、王はゆっくりと頭を上げて、肺の底から絞り出すように小さくそう呟いた。





正面から国王を見られず、照れたように頬を掻きながら視線を横へそらすカレナ。


するとそんな彼の肩に、何者かの手がそっと添えられた。



あまりの気配の無さにビクッと震えたカレナだったが、ここが安全な場所だと分かっていた為反撃の手は何とか止まる。


メルも彼が驚いたことを察して、申し訳なさそうに口を開く。



「す、すみません…驚かせてしまいましたか?」



「い、いや……こっちこそ…ごめん……」



とりあえずという謝罪を口にしたカレナ。


そして彼は気が付いてしまう。メルとの身長差のせいで自分の目の前でタユンタユンと揺れる乳に……。



「ッ!!」



「…?」



裏の仕事をしてきたせいで、齢10歳の彼には……そういったことへの知識があった。


実践したことはないが……彼も小さいがやはり男。目の前でそんな豊満なものを揺らされては気になって仕方ない。


照れたような表情にさらに朱の色を足して……彼はそっぽを向いたまま黙り込んでしまった。



メルは彼が何故急に顔を赤くして黙り込んだのだろうかと不思議そうに首を傾げて頭の上に疑問符を浮かべる。


するとその次の瞬間……この空間にはいないはずの者の声が部屋に響く。



「喜べカレナ、ソイツはショタでも構わず性的な意味で喰っちまう奴だぜ?」



「なッ!ちげぇよ別にッ…!!?」



自分の考えていたことを見透かしたような拓也の声に、羞恥からか思い切り赤面しながら反射的に反論したカレナだったが……自分の横を抜ける凄まじい風圧に気圧され途中で言葉を終えてその顔に驚愕の表情を浮かべた。



刹那、ドゴッ!!という激しい衝撃音と共に鼓膜を揺らす、拓也の口から漏れる、ひゅ!っという切ない声。



まるで灰の中の空気を強制的に排出させられたかのようなそんな声と共に……彼は床に膝を付いた。



「お、おま……肝臓は打っちゃ…ダメ……だろ……」



「あなたがおかしなことを言うからですわッ!!!」



「でも……ちょっとだけ興味あるんでしょ?」



次の瞬間彼のイケメンフェイス(笑)にメルの渾身の膝が着弾したのは言うまでもない。



・・・・・



前髪をガシリと乱暴に掴まれてズルズルと部屋の外へ引きずられて行った拓也。


目の前で繰り広げられるそんなカオスな光景に驚愕するカレナだったが、ミシェルと国王はもはや慣れてきているのだろう。

特にこれといったリアクションは見せない。



「お、おい……いいのかよ…?」



「あ、はい。アレはいつものことなので」



何の動揺も見せずに彼名の質問にそう返すミシェル。


異常だ……彼がそう感じるのも無理はないだろう。



部屋の外から聞こえてくるのは格ゲーのコンボのような連続の打撃音。


その音から判断するに現在で100コンボは繋がっているに違いない。


カレナがこの異常な空間の中で青い顔をしていると……ミシェルが唐突に口を開く。



「拓也さんはとても強い人ですけれど……同時にとても弱い人です」



いきなり真剣な声のトーンで喋りだしたミシェルに、カレナも思わず視線を彼女へ送った。


その彼女の顔に映っていたのは微笑。


声色も先程の冷たいモノではなくなっており、心なしか暖かさを感じさせるモノ。



「ああやってふざけてますけど……たくさん殺して、本当は辛いんです。


けれど……周りに心配を掛けないようにああやって気丈に振る舞っている。



優しいから……目に入った困っている人を見捨てられないんです。


でもその優しさのせいで……手を伸ばすたびに自分が傷ついて。


……それでも彼は自分が傷つく方を選びます。



でも…それだからか、彼のそんな自己犠牲とも言えるような優しさは人を引き付けるんですよね。


彼は弱いから……同じ弱い人たちが集まって支えあって生きていく。



何故なら人間はとても弱い生き物だから……」



女神のように微笑みながら……彼女はカレナの方へ振り向く。



「だから……あなたも一緒に生きましょう。私たちと一緒に」



まるで全てを包み込むような包容力のあるその言葉。


少しの間フリーズしていたカレナだったが……しばらくして我に返ると、一度だけ……しかしはっきりと首を縦に振るのだった。



「まったく……いい加減にして欲しいものですわ……」



「ひゅ……ぃ………」



あぁ…確かに人間は弱い。


床に投げ捨てられたボロ雑巾を遠い目で眺めるカレナはそう確信するのだった。



・・・・・



有能なリディアが拓也の過去の記録を元に一人でできると誇らしげに報告しに来たため帰宅した拓也とミシェル。


カレナとカミラは国王の言葉通り王城で預かることとなり、何やらユナが面倒を見ると張り切っていたのは、彼女の母性本能か何かだろうか?



ともかくミシェルは風呂から上がり、軽いルームウェアを着てリビングで小説のページを捲っていた。



「拓也さんやけに遅いですね……。お風呂で沈んでるとか…ないですよね?」



いったんページを捲る手を止めて顔を上げたミシェルは、頬に掛かる銀髪を耳に掛けながら1時間以上前に風呂に向かった拓也のことを気にするようにそう呟く。


いくら彼が風呂好きだからと言っても、流石に遅い。


いつもならば40分程経てば上がってくるはずなのだが……。



「でも……前みたいに遭遇したら………」



少し前……拓也が入っているとは知らず浴室のドアを開けてしまった時の事が脳裏を過る。


湯煙モザイクのおかげではっきり見たわけではないが……しかしそれでもシルエット的なものは見てしまった彼の…”それ”。


あまりのショックで脳の片隅に放置してきたモノを思い出してしまい、ミシェルはゆでだこのように顔を真っ赤に染めたが、咳払いを数回することで何とかごまかしていつものようなクールな表情に無理やり戻した。




「いつかは………っ!!



あぁーーあぁぁ!!あぁぁぁぁ!!!!!!!!」



うっかりと口からポロっと零れたそんな一言。


その一言は無意識的な部分だったのだろうか……ミシェルの自意識がそれが意味することに気が付き……今度は先程以上に顔を真っ赤にすると、止めどなく溢れる羞恥の感情を叫ぶことで吐き出そうとするが……自身の内のその感情が外に出て行く様子はない。



終いクッションに顔を埋めたミシェルは、ソファーの上に仰向けに倒れ込み、バタバタと足をバタつかせ始めた。



そんな状態が数分続き、ミシェルの顔の熱も若干取れてきた頃だろうか?


脱衣所のドアが開く音がミシェルの耳に届く。



「ッ!!」



慌てて姿勢を元の状態に戻した彼女は、上気した顔を俯くことで見え辛くすると共に、意図的に髪を頬に掛けた。


きっと彼に自分の顔が赤いことが気付かれないようにとの細工だろう。



「ん、ミシェルどうした?顔赤いぞ」



「にゃっ!なんでも…ないですよ……」



「そ、そうか…?」



しかしそこは流石拓也。一瞬で彼女の異常に気が付いてそう問い掛けた。


彼の前には自分の小賢しい細工などは無意味だったのである。



視線を逸らすミシェルだったが……拓也からすれば小説に向いていない彼女のその視線は不自然極まりないことだろう。



だが…なんだか様子のおかしいミシェルにツッコめる程の心臓を生憎拓也は持ち合わせていなかった。


ヘタレだと思われるかもしれないが……肝臓や鳩尾、顎を的確に打ち抜かれるハメになることを考えれば当然の対応である。



恐る恐る彼女の隣に腰かけただけで、今の彼には十分頑張ったと言えるだろう。



「…あ、あれ、拓也さん珍しいですね。ノースリーブですか」



「あ、うん。なんとなくね」



普段の彼は基本的にTシャツ。しかし現在の彼は珍しく黒のノースリーブを着用していた。


サイズも少しいつもよりちいさのか、普段は服の下に隠れている彼の発達した筋肉が生地を押し、ゴツゴツした上腕が剥き出しになっている。



「あ、あの……ミシェル?」



「……ほんとムキムキですね」



普段あまり見えることのないそんな部分は……ミシェルの視線を釘づけにしていた。


ちなみに彼女がボソリと呟いた一言に、拓也のトラウマスイッチが押されたのは言うまでもないだろう。



「ハ、ハハ……鍛えてるからね………」



辺りを警戒する拓也。


とりあえずラファエルの気配は感じないことに安心し、安堵の息を吐く。




隣からミシェルの突き刺さるような視線を受け、そっと視線を彼女とは逆の方へ向けて黙り込む拓也。


ふとした彼の動作で筋が入ったり蠢いたりする彼の筋肉を前に、揺れるミシェルの自制心。


小刻みに震えながら彼に伸ばされる腕がそれを物語っていた。



「……」



このまま触ってもいいのか?いいのだろうか?……いいよね!



ミシェルの中でそんな呆気ない応酬があった後、彼女はそっと彼の上腕に手を添えて……思わず目を見開く。



「拓也さん……大丈夫ですか?」



彼は……小さく震えていた。


興奮していた脳内は一気に冷めて冷静さを取り戻す。ミシェルは自らの欲を満たすために彼に触れた手を、彼を気遣うようなものに変化させて心配そうにそう問い掛ける。


原因は恐らく……今日のマフィア支部の殲滅。



薄々感づいてはいたミシェルだったは、やはりか…というように眉を顰めて見せる。



「ごめん……情けないよな」



視線を前へ戻した拓也は、その顔に苦笑いを浮かべて謝罪と共に彼女へそう呟いた。



彼は神と戦う為に能力を高めた人間。ただの人間が相手ならば……本日の戦いを見てわかる通り無双状態。


戦闘能力において自分より圧倒的に劣っている者たちをあれだけ殺したことによる精神的なダメージは相当なものだろう。


彼の優しさは……自分自身を苦しめてしまうのだ。



「流石にあれだけの人間を殺したのは初めてだ……やっぱり結構”くる”な」



彼の最優先の目的はミシェルを護ること。


恋人に注ぐ愛が、彼が彼女のために戦う原動力。



故に彼女の命を狙っている全面的に敵対する神や天使たちが相手ならば、全力で戦える。


どれだけ辛くてもその罪を背負って戦い、彼女を護っていくと誓った。それが彼の正義。


彼女を狙うモノを殺すことに関してはもう迷ってはいない。罪を背負って生きて行くと決めた。



しかし……それを決めた時、同時に自分の大切な者たちを脅かすモノも排除すると考えていた彼。



助けたいと思ったカレナたちを護る為にそれを実行に移し……大量の人間を殺したのは……彼にとって初めての事だった。




「ミシェルを護る為に戦うのは……大丈夫だった。


でも………初めてそれ以外で人を殺して……ちょっと…ね」



初めてミシェルを護る目的以外でたくさんの人を殺した。


覚悟が決まっていなかったわけではないが……人ごみの中を駆け抜け、次々と命を奪っていたその瞬間に、一瞬でも迷わなかったのかと聞かれれば……答えは否。



自分にとって絶対的な存在のミシェル以外を目的として戦った時に……まさか迷ってしまうとは……拓也自身も思ってはいなかった。



「困ってる人を見捨てられないって言いながら……最善の策である……奴らの頭を除く全員斬ることを…迷った。



俺は結局、自分の目にイヤなモノが映るのが嫌いなだけなんだろうか……」



ミシェルの目に映るのは、悲しく顔を歪めた拓也の横顔。


自分の掲げた言葉が曲がってしまいそうになり……迷った状態であれだけの人たちを斬り殺し……ミシェルの目で見ても、彼の精神が憔悴してしまっていることは明らかだった。



しかし彼女は……以前のようには泣かなかった。



何故なら……一緒に強くなると誓ったから…。



そして何より……一緒に背負っていくと誓ったから…。



「それは違うと思いますよ」



優しくも力強い声色でそう呟いた彼女は、すっかり色の抜けた黒い瞳を向ける拓也に向かうようにソファーの上で正座をすると、彼の頭に両手を伸ばして、そっと自分の胸に抱き寄せた。


ふわっと彼の髪から香るシャンプーの匂い。ミシェルは女神のように穏やかに微笑み、彼の髪を撫でながら言葉を紡ぐ。



「あなたはとても優しいから……マフィアの人たちも救える他の道を探していたんじゃないですか?


でもきっと気が付いてしまったんです。凶悪犯罪組織として指名手配されている者の末路は処刑台。もし違ったとしても、収容所にあれだけの人数はとてもじゃないですけど入りきりません。


だから……下っ端は全員処刑。残されるのは少数の幹部だけだって」



驚いたように目を軽く見開く拓也。


ミシェルは抱いた拓也の頭を優しく撫でながら続けた。



「そうなってしまえば……他の人が殺さなくちゃいけません。


その人たちが罪の意識に苛まれないように……そうも考えたはずです。


私がそこまで考えられるんです。拓也さんはきっともっとたくさんのことを考えて、誰も傷つかないように……自分が背負ってしまうようにしたんですよね?


大丈夫です。分かってますよ。壊れそうなんですよね。大丈夫です。私も一緒に背負いますから。


私は拓也さんを一人にはしませんよ」



穏やかな声色。落ち着く彼女の匂い。途方もない安心感。


全身の力が抜けていくような感覚を味わいながら、拓也は静かに目を閉じて、その顔に苦笑いにも似た表情を浮かべる。



「あれ……おかしいな。ミシェルってこんな頼もしかったっけ……」



「うるさいです。辛いなら辛いってちゃんと言って下さい。


あなたはとても強いですけど……弱いんです。


これぐらいの事ならいくらでもしてあげますから……」



ミシェルは気が付いていた。拓也は隠そうとしているが、声が震えていることに。


いつものことだが……自分の弱っているところは見せたくないのだろう。


しかし……拓也がいくら隠そうとも、ミシェルにはお見通しだった。



だが彼女はそんな彼に怒ることはせず、ただしっかりと抱きしめて穏やかに微笑み……彼を撫でる。



すると……拓也ももう隠すことは不可能だと思ったのか……自分の腕をミシェルの背に回し、彼女ごとソファーに倒れ込む。


彼のそんな行動に少々驚いたミシェルは、彼が自分の胸にぎゅぅっと顔を埋めたことで頬に赤い色を宿したが……こうなるきっかけを作ったのが自分だったのと、精神的に参っている彼に対して止めろなんて言えるわけもなかった…。



それに……別に彼も下心でやっているわけではないだろう。



「ごめん……もうしばらくこうしてたい」



「…しょうがないですね、今日だけですよ?」



ミシェルは照れたような表情に聖母のような穏やかな笑みを浮かべて、甘える子供のようになってしまった彼にそう返した。




無言の時間が続く。


しかしその沈黙は二人にとって辛いモノではない。


むしろとても居心地のいい……そんな沈黙。



誰にも水の差すことのできやしない二人だけの空間。


すると、母猫に甘える子猫のような状態になっていた拓也が、ミシェルの胸に顔を埋めたまま、やっと聞こえる程度の声量で言葉を紡ぐ。



「なんかさ……俺がミシェルを大切に思ってるのと同じようにミシェルも……俺のこと大切に思ってくれてるんだな、やっぱり」



「……当たり前じゃないですか。でなきゃこんなことしませんよ」



独り言かと思ってしまうほどの小さな声。


一瞬返答するべきか迷ったミシェルだったが、彼に知って欲しいという思いが勝って口が勝手にそう発する。


顔を埋めているせいで表情は見えないが……彼の微かな動きで彼が微笑んだのが分かった。



「ミシェルってホント優しいよな」



「拓也さん程じゃないですけどね」



「あと海での事故の時も思ったけど……ミシェルのお○ぱいってなんて言うかこう……得も言われぬ心地よさがあるよな」



「…………………ハァ~。今日は特別に許してあげます。



というかそんな減らず口が叩けるようならもう大丈夫なんじゃないですか?」



「ご明察~」



呆れたような冷たい声色でそう言い放つミシェルの胸から顔を離した拓也。


その顔に浮かんでいるのはいつも通りのニヤケ面。


彼に悟られないようにミシェルが内心で安堵の息を吐いたのはもはや言うまでもないだろう。


冷たい仮面の下に隠した表情。しかし拓也にはそんなのはお見通し。



「ちょ、な、何するんですか!?」



「寝る時間ですのでベッドまでお連れ致しまぁぁぁぁぁぁす!!!」



そんな彼女の仮面を剥がすように……お姫様抱っこの要領でミシェルを抱き上げた拓也。


狙い通り面白いように仮面が剥がれ落ち、赤面するミシェルは必死にもがいて拓也の腕の中から逃れようとするが……拓也が離してくれるわけもなく、彼は高笑いしながら彼女と共に階段を駆け上がって行くのだった。




※この後めちゃくちゃ何もなかった。


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