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神様のお使い  作者: 泡沫にゃんこ
第一部
17/52

冬のエルサイド王国



「寒い、もうダメ。俺は冬眠する」



「バカなこと言ってないでとっとと行きますよ、遅刻しちゃいます」



季節は既に冬。12月に突入したエルサイド王国では、チラチラと雪が見られる程冷え込んでいた。


薪がパチパチと音を立てて燃える暖炉の前に居座り動こうとしない拓也を、リビングのドアに手を掛けたミシェルがそう咎める。



「それにどうせその気になればこの程度の寒さ平気なんでしょう?」



「…………普段は本気出さない主義なんですぅ~」



めんどくさそうにそう言いながらも拓也は立ち上がる。


クローゼットの中からグレーのコートを取り出して制服の上から羽織る様に着込んでミシェルが先へ向かった玄関へ歩みを進めた。



玄関には既に靴に履き替えているミシェル。彼女も防寒の為、黒のpコートを着込んでいるのが視界に入る。



「さぁ、行きますよ」



いつものように戸締りをし、通学路を歩く二人。


あまりの寒さに拓也はポケットに手を突っ込み身体を縮め、ミシェルでさえもマフラーで口元まで覆うのだった。



「こんな時に空間魔法使える拓也さんが羨ましいです…」



切実なミシェルのその言葉、しかし拓也は鼻で笑う。


それにしても鼻で笑うならせめて鼻水を拭いてからにしろと言ってやりたい。



「能ある鷹は爪を隠すのだよミシェル君」



「その能ある鷹さんが凍り付きそうに震えてるんですけど。一体いつ爪を出すんですか?」



「己の信念を貫き通す時だァ!!」



「とりあえず鼻水を拭きましょうか、汚いですよ」



相変わらず平常運転でふざけ続ける拓也。


そんな彼にそう冷たく言い放つミシェルだが、その言葉に反し行動は優しい。

彼女はおもむろに取り出したポケットティッシュを拓也に差し出すのだった。



「あ、どもっす」



これには拓也も素直に礼を言う。



受け取ったティッシュですぐさま鼻をかむと、ミシェルに向けて一言。




「俺って鼻セ○ブしか使わないんだ」




やはりこの男、クズである。




ミシェルにはその意味が分からなく、疑問符を浮かべる。それもそうだろう、鼻セ○ブは向こうの世界の商品名なのだから。



「……まぁ正直なところを言うと日常生活であまり魔法は使いたくないんだよね」



「そういうことですか、でも確かに拓也さんならいくらでも生活を便利にできますもんね」



「流石ミシェル、俺の才能と実力をよく分かってらっしゃる」



ミシェルにそう言われ、調子よく笑う拓也。なんだか腹が立つが憎めない彼のこんな態度を受けるミシェルは隣で優しく微笑むのだった。



それからも談笑しながら歩みを進める二人、ジェシカの家の近くを通り過ぎるが元気な彼女は姿を現さない。彼女は朝が弱いため行きにはこの二人に合流しないのだ。



すると談笑の中でミシェルがあることを思い出す。それは以前から聞こうと思っていたが、いつも拓也のペースに呑まれ聞きそびれていたこと。


ふとそんなことを思い出し、ミシェルはなんとなく口にした。



「そういえば今まで聞いたことなかったんですけど拓也さんの両親はどんな人だったんですか?」



自分のためにもう会えない存在になってしまったので少し聞くのも悪いという感じに思えたミシェルだったが、勇気を出してそう尋ねる。



それは素朴な疑問だった。


肉親がいないミシェルにとって、親と呼べるのはジェシカママくらい。


それに深い事情があってジェシカの家も父親がいないので、ミシェルは父親というものがどんなものなのか知らなかった。そこで拓也に聞いてみたのだ。


あえて両親といったのは彼の事をもっと知りたいという欲求から来たものだろう。



「…………あ、うん。俺の親の事ね」



一瞬拓也の表情が固まる。すぐにいつものように呑気な顔を取り繕ってそう言うが、ミシェルはマズい事を聞いてしまったと悟る。





「…や、やっぱりいいです!



そういえば最近メルさんが学園に来ませんね!どうしたんでしょうか?」



だれにでも踏み入られたくはない過去はあるのだろう。ミシェルはすぐさまそう撤回し、違う話題を振ることで話を逸らした。



拓也も拓也で気を使われたことをすぐさま理解する。



「…そうだな、もう4日くらい休んでるからなぁ」




折角気を回してくれたミシェルに甘んじ、拓也もその話題に乗っかった。


元は話題を逸らすために振られた新たな話題だったが、拓也も思い出すようにして、メルのことが心配になってくる。



「ですよね、メルさんが休んだことなんてなかったと思いますが…」



「………帝の定例会はまだ一週間ぐらいあるし…まぁ近々様子でも見に行くかな」




・・・・・




時間は流れ夜の王城。


数多くある部屋の内の一つで、二人の親子が食事をとっていた。



そのうちの一人、禿げ上がった頭部がとても特徴的なダンディーな顔の男が口を開く。



「ハイム、ちゃんと学園に行かないとダメだよ?」



エルサイド王国の国王でメルの父親である彼は彼女に向かって諭すようにそう言った。



「でもお父様……お母様が…」



「なに、心配しなくてもいい。キャリアを積んだ医療団がついてるから」



心配そうに俯いたメルに、王が笑顔を向けてそう返す。



しかし彼女の心配はその程度では払拭されない。




「それはそうとハイムももう十分大人だね、どうだい?気になる男性はいないのかい?」



それは王にもわかったのか、彼は話題を変えることにした。


チョイスしたのは彼女が取り乱しやすいような話題。そしてなにより一人の親として気になる話題。



「…いませんわ」



しかし表情は暗いままのメル。



ここで王はニコリと笑い、髭に手を当てて前々から言おうと思っていたことをこの状況でぶちまけた。



「それじゃあ…『剣帝』、拓也君なんてどうだい?」




その問いに訳の分からないといった顔をするメル。



「お父様…なぜあの男の名前が出てくるのでしょうか?」



心底疑問に思ったような顔でそう聞き返す彼女に、王はまた一つ質問で返した。



「ハイムが結婚相手に求める条件にはなにがある?」



「そうですね……」



王は気軽に聞いたつもりだったのだが、メルは意外にも首を傾げて深く考え始める。



そして一つ一つ条件を口にし始めた。



「真面目で…相性が良くて…あと優しい人です。



……あの男とは対極に位置する存在ですわね」




最後には拓也の事をバカにするようにそう言うメル。


しかし王は彼女のその発言を盛大に笑い飛ばしてしまう。



「な、何故笑うのですかお父様!?」



「ハッハッハッハ!…対極?違うよハイム、むしろ全ての項目が当てはまっている!」



「どういう意味ですかお父様!?あの男は帝の定例会の前に屋上で熟睡、人が発言しても無視いたします!


それにこの前屋上でわ、私の……」




少し赤くなりながらメルは、王が言った事を順に例を挙げて否定し始める。


真面目ではない、相性が悪い、優しくない。この内二つの例を挙げることが出来たのだが、残りの一つ。クマさんパンツ事件のことを言おうとした口が、油の切れた機械のように動きを止める。


彼女は今にも煙を吹きだしそうなくらいに赤面したかと思うと、俯き黙ってしまうのだった。



そんな実の娘の姿を見た王は楽しそうに微笑むと、内緒話をするように小さな声量で彼女に喋り掛ける。



「拓也君は帝の定例会には一度も遅れたことは無いよ。それに真剣な時は普段の剽軽な彼とはまるで別人さ。


次に相性だね、ハイムは彼と一緒に居て居心地が悪いかい?それにしてはお父さんに彼の事をよく話してくれるね」



「そ、それは……確かにそうですわ。……でもほとんど愚痴ですわ!」



言葉に詰まり、返すことにできない彼女は半ば叫ぶようにしてそう言い放った。



しかしそんな彼女の反応を見て王はただ微笑む。





「それに彼はこの国の誰よりも優しい。学園でいじめ事件があったのは覚えているかい?」



「はい、確かセリーさんビリーさんの事…ですわよね?」



「あぁそうだ、ハイムには言ってなかったけど、実は彼は学園の警備という名目であの学園に通っている。


触法行為や外敵の侵入に対抗するため、貴族の子息もいるからね。



でもあの事件が起きた時、彼は僕の所へ訪ねてきた。何でだと思う?」



興味深そうに話に聞き入るメルに、王はクイズでも出すように問いかけた。


分かりやすく答えを考える彼女は、顎に手を置いて首を傾げる。



「…どうすれば解決できるのかお父様に助言を乞いに来たのでしょうか?」



彼女にとっては一生懸命捻り出した答えなのだろう。しかし見当はずれなそんな彼女の考えに王は思わず笑い声を漏らす。



「ハハ、彼は僕より頭がキレるからそんな必要はないよ。



実はね、任された仕事の範疇を超えるけど問題ないか?って聞きに来たんだよ」



「…確かに真面目だと言うことは分かりましたわ。けれどそれがどう優しい…に繋がるのでしょうお父様?」



「まぁまぁ、まだ続きがあるんだよ。



どうやらビリーという子をイジメていた3人の中に一人貴族の息子が居たらしくてね。

そのことで仕事柄、お父さんに迷惑がかからないかを危惧した彼がわざわざ僕の承諾を取りに来たんだよ


それからこれは学園長から聞いたんだけど、拓也君は自分の事をイジメていた女子生徒二人と、ビリー君をイジメていた男子生徒3人の証拠を学園長へ提出した時ね、


彼女たちの未来を奪うようなことはしないであげて欲しいって頼んだんだって」



王は面白そうに声を上げて笑う。



メルは、最後の彼の行動が理解できずにまた疑問符を浮かべ首をかしげている。



「それでこの件はほぼ拓也君が解決したようなもんだから、学園長は素行が改善されないようなら次は学園側が判断するという条件付きで承諾したそうだよ。


もちろん問題を起こした生徒たちは拓也君の意に沿う様に厳しく指導したけどね」





黙々と食事をしながらその話を聞いていたメル。



その話を聞く限り、確かに彼が底抜けのお人よしだと言うことは分かった。


しかし頭の中でどれだけ想像しても、自分が彼と寄り添って生きていくという結論には至らない。



そんな彼女の心情を読み取ったのか、王は親の様な微笑みをメルへ向ける。




「まぁハイムはまだ彼のそういう部分をあまり見てないからよく分からないかもしれないね。


でもお父さんに言わせてもらえば彼ほどの人物はそうそういるもんじゃない。


…まぁ、こう見えても結構親バカなお父さんがこれだけ娘とくっつけたいと思うんだからそれも当然かな」



「…はぁ、そうですか」



拓也の事を絶賛する王。メルはよく分からなかったため、適当に相槌を打つ。



それにしてもこの親子、仲が良い。


思春期真っ盛りな年頃の娘とこれだけ会話できるのも十分凄いが、その話題がまさか娘の恋愛の話。


普通ならその話題を出しただけでも舌打ちして部屋に引きこもられかねないのだ。



そこで会話が終了し、食事を終えた二人が席を立とうとした時だった。


突然部屋の扉がコンコンと二回ノックされる。




「食器を下げに来たのかな?いつもより随分と速い。どうぞ~」



メルと顔を見合わせそんなことを呟いた後、扉の向こうの誰かの入室を許可する。



返事は返って来ない、代わりにドアゆっくりと開いた。




「やっほ~!来ちゃった☆」




二人の前に現れたのはメイドや執事、その他使用人ではなく……




「おや剣帝!今日はどうしたんだい?」



黒ローブを羽織り、ローブを被っている怪しい男。


しかし軽快な足取りで登場した彼は姿に似合わないセリフとポーズで登場する。


剣帝、というか今の雰囲気はもろ拓也。



彼も今は剣帝でいるつもりはないのか、周りに二人以外が居ないことを確認するとフードを盛大に脱ぐのだった。




「あなたは……一体何をしに来たのですか?」



彼のいきなりの登場に頭を押さえ、呆れたようにメルはそう言う。


拓也も王から視線をメルへ向けると、開けっ放しにされている背後のドアを閉める


そして彼女の身体見回し、異常がないことを確認すると少し安心したように口を開いた。




「何?じゃないだろ、お前が最近学園に顔を出さないから来たんだ。見た感じ体には異常はないみたいだが……



仮病ですかコノヤロー」



「ち、違いますわ!私はそんなこと致しません!!」



鼻をほじりながらそんなことを言う拓也に、いつものようにギャンギャン噛みつきに行くメル。


しかし彼女が少し悲しそうな顔をしているのを拓也は見逃していなかった。



ー…メルは仮病なんかで学園を休むほど不真面目じゃない。学園内でも人間関係のトラブルがあったとは聞いていないし……ー



すぐさま思考を巡らせ、彼女が欠席を続けている理由を模索する拓也。


そこへ王が声をかける。



「…実はね拓也君………」




「あぁなるほど。身内で何かあっ」



拓也もすぐに結論に行きつき、王が発言に被せるように喋り始めた時だった。


拓也の後頭部にいきなり走る鈍痛。


彼は思い切り床へとダイブした。



「た、大変です陛下!王妃様の容体が!!」



幸運にもダイブの拍子に、フードがひらりと被さる。


ドアを勢いよく開け、拓也を吹き飛ばした張本人であるメイドのお姉さんは大声で二人に向けてそう言い放つ。



ー…いってぇ!いきなりなんですかーこんちくしょう!!…ー



後頭部を強打したことでぐらぐらした気持ち悪い感覚が頭の中を駆け回る。



「なんだって!?それは本当かい!?」



「えぇ本当で御座います!!」



「お母様ッ!!」



急に慌てる親子2人。


急ぐようにとまくし立てるメイドの後を追う様に廊下へ出てどこかへ走っていってしまった。



床に張り付いたままの拓也は、一人部屋に取り残される。



ピクピクしながら、ゆっくりと立ち上がり一言。



「……何であの二人は俺のこと踏みつけていくの?」




後頭部を痛そうに摩りながら、部屋の中で一人そう呟いた。




「お母様ッ!!」




蹴破るように王妃の部屋のドアを乱暴に開け放ち、メルは目の前に広がった光景に目を見開く。


そこにはベットに横になったまま、上半身だけを起こし、女医に背中を摩られ苦しそうに咳き込む自身の母親の姿があった。



「…ッコホ!……あらハイム、どうしたの?」



部屋の入り口に立ち尽くすメルに気が付いたのか、王妃がそう声を掛けた。


娘の前だからだろうか、無理矢理微笑むが、それが無理をして作られているものだということぐらいメルにも分かる。



「大丈夫かい!?」



続けて現れる王とこの事態を伝えたメイド。



王はすぐさま王妃のもとへ駆け寄り、その手を取る。


握った手から伝わる小刻みな震え。彼は思わず泣き出しそうになってしまったが、すぐ傍に居る娘に心配をかける訳には行かないと、寸でのところで涙をこらえた。



「ふふふ、大丈夫。大袈裟ですよハイム、貴方。少し咳き込んでしまっただけだからそんなに心配なさらないで」



周りに居る人たちの心配を取り除くために王妃はそう発言する。


しかしそこまで言うとまた咳き込みはじめ、遂に苦しそうに胸を押さえながら前のめりに倒れそうになるが、

すぐさま女医二人が彼女の腕に手を回し、体を支える。



どこからどう見てもまったく大丈夫ではない王妃。メルも絶望した様に、足を震わせながらゆっくりとベッドの縁に縋り付いた。



「すぐに光の治癒魔法の準備を!急げ!その間に私は薬を準備する!」



毛が1本も生えていない頭皮。口元に髭を蓄え、丸眼鏡を掛けたリーダ的な初老の男性が各医師たちに指示を飛ばしながら自身も作業に取り掛かる。



女医たちは目を瞑り集中してから、光の魔法陣を出現させる。


それを王妃の胸に押し当てる…



が、とくに王妃の様子は変わらない。



「出来たぞ!」



彼女らがそうこうしている内に、初老の医師が薬の調合を終え、すぐさまそれを王妃に呑ませた。





「ッう…コホコホッゴホッ!」



呑み込んだ矢先、また強くせき込み始める王妃。


乾いた咳が何回も何回も繰り返し出てしまう。苦しそうに胸を押さえ背を丸めるが、収まる気配はない。


ベッドの傍に居るメルが王とは逆の手を握り、必死に声をかける。



「お母様!しっかりなさってください!!」



王も一緒に呼びかけるが、王妃の咳が止まらない。


彼女を支えていた女医が一人初老の医師に連れられ調合する机の近くで何かを話す。しかし少し経つとその二人も頭を抱える。



いよいよもうダメかと皆が覚悟したその時だった



「一度落ち着いて。ゆっくり息を吐いてください」



音も気配も無く表れた王族しか正体を知らない黒ローブの人物。拓也は女医が抜けて空いたスペースにいつの間にか移動すると、王妃の背に手を置いてそう呼びかけた。



この間も咳を続ける王妃、それに慌てる周りの人間。しかしそれに対し彼だけは落ち着いたまま王妃の咳が治まるのをじっと待つ。




「た、…剣帝。なにを……」



「俺の手持ちの薬品は今は使えません、自然に治まるのを待ちます」



取り乱す王に対し、拓也は非常に冷静にそう返す。


今は使えない。彼がそう言ったのは、初老の医師が調合していた場面を見ておらず薬の成分が分からないため、今持っている即効性の鎮咳薬を使うと、どんな副作用が起きるか分からないからという理由からだった



そうしているうちに徐々に治まる王妃の咳。


初老の医師の顔に安堵の表情が浮かぶ。きっと彼の調合もちゃんと成功していたのだろう。




「【酸素マスク】」



拓也は咳が収まったと見るやいなや、風属性の魔法陣を作り上げるとそう魔法名を唱え、王妃の口元に風の魔法陣を近づけた。



彼の処置を静かに見守る一同。王妃の部屋に流れるのは、彼女の呼吸音と拓也の指示の声のみ。



「ゆっくり吸ってください。……はい吐いて、苦しくないところまででいいです」



背を丸めたままの体勢でしばらく続くそのやり取り。



メルと王は、特に拓也と王妃へ真剣な眼差しを送るが、二人とも真剣すぎて全くその視線に気が付かないようだ。



拓也は王妃が落ち着いてきたことを確認すると、ゆっくりと上体を起こさせ、自身の左手、背に回していた方の手に重心を掛けると、彼女をゆっくりとベットへ横にならせる。


「……よし」



安堵した様にそう言いながら、王妃の口元から手をはなす拓也。


風の魔法陣はそのまま口元に固定され、今も稼働している。



王妃は深い呼吸をしながらいつの間にか眠りへと落ちていった。



「どうも、お久しぶりですねキースさん」



一息つき、拓也は初老の意志に向かってそう挨拶した。


そう、彼は学園祭の時に医療班として学園へ来ていた医師。キース=ブランドンさんその人である。


彼もいつ挨拶をしようかと思っていた所だったのか、額に滲む汗を拭きながら軽く会釈する。



「け、剣帝様。ありがとうございます…また助けられました」



「いえ、咳が止まったのはキースさんの薬の効果ですよ。私はただ酸素を供給しただけです。


それより…どう見ていますか?王妃様の病気を」



「…私の見解では呼吸器系。その中でも肺炎ではないかと思っています」



真剣に王妃の病気について話すキース。


拓也も彼が続けて話すその根拠を聞きながら頷いている。



「なるほど……。急な話で申し訳ないのですが、王妃様の担当を私に変わっていただけませんか?」



「……え、あぁはい。私は全然かまいません。


それとよろしければ今までの経過を記したカルテもお持ちいたしましょうか?」



「是非お願いします」



・・・・・



王妃の部屋の隅でイスとテーブルを置き、キースから渡されたカルテを読み漁る拓也。


今この部屋に居る人物は、王、メル、王妃。そして拓也の4人のみ。



つまり拓也の正体を知っている者だけ。なので拓也もフードをとって作業をしていた。



「お母様……」



涙目でそう弱々しく呟くメル。


王もベッドの傍のイスに腰掛け、項垂れて何も口にしない。先程までは心配を掛けまいと頑張っていた彼もやはり自身の妻がこんな状況では、こうなるのも無理はないのだろう。



それを見かねたのか、拓也はカルテのページに記載されている文字列に視線をやりながら二人に聞こえるように一言呟いた。



「安心しろ、絶対に助ける」




いつもの拓也からは感じることのできないその真剣な雰囲気と、少しのふざけも含まれていないその声色。


メルは父親の言っていたことが本当だったということに、驚きを隠せない。



すると拓也は呼んでいた一冊のカルテを読み切り、聴診器を手に王妃が眠るベッドの傍に歩み寄った。



「王妃の容体がおかしくなったのは2年ほど前、それから今日に至るまでに徐々に悪化している。これで間違いないですか?」



「あ、あぁ。間違いないよ」



その答えを聞くと、拓也は王妃に掛けられている毛布を腹の部分までどけると、彼女の寝巻の前のボタンを数個外し、胸部の一部をはだけさせる。


露わになる王妃の豊満なボディー。肝心な所は見えていないのでとりあえず全年齢対象だ。



拓也は聴診器を耳にはめる。そしてそれ胸に当て、王妃の体内の音を聞き、

しばらくすると頷きながら聴診器を離し、王妃の服を元に戻して毛布を元通りに掛ける。



「ど、どうだい拓也君?」



「これで一つ確信した。メル」



「な、なんですの?」



拓也がメルへ視線を向けそう発言する。


彼女はいきなり自分の名が呼ばれたことに動揺を隠せず、震えた声で返した。。


拓也はもったいをつけるように黙って間を作り出し、二人が息をのんで見守る中、自信満々に確信したことを口に出す。



「お前の巨乳は母親譲りだ」



次の瞬間拓也の顎をクリーンヒットするメルの拳


この不可避の一撃には帝である拓也もたまらず床に両膝を着いてしまう。


続けざまに拓也の胸部に前蹴りが炸裂。彼は後ろ向きに床へ吹き飛び尻餅をついた



「ちょ、ちょっとまって…ちょっとしたジョークだろ!」



片手でメルを制止しながら弁解する拓也


彼女は両手で胸を隠すようにしながら彼へと歩み寄る



「い、いい加減になさい!……ッ!あなたまさか診察という名目でお母様に!!」



「ねーよ。俺は人妻には手を出さないし診察中に劣情を抱くほど脆い理性など持ち合わせてないぜ


あと個人的には巨乳より美乳が好き」



「それ以上その下品な言葉を使うのでしたら…」



そう言い、近くにあった棒状の金属の塊を手にするメル。




「ま、まってお願い!そうだお話をしよう。人間言葉が与えられてるんだ、それを使わないなんておかしいじゃないか。








だからあえて言おう。お○ぱいは最高であると」




きりっと引き締まった表情でそう言い放った拓也。



メルはそれを聞き届けると、金属の棒を上段に構え、思い切り振りおろした。



「遅いッ!」



しかし相手は拓也である。


迫る脅威を止めるために、両手を顔の手前でパン!と合わせ、ニヤリと口角を釣り上げメルに向かい一言。



「クックック…まだ腕の筋力、そして得物の振り方を知らぬようだなこ……むす…め」



そして赤い液体を頭部から大量に流しながら仰向けに倒れてしまった。



なぜそのような大口を叩きながら、直撃しているのか不思議でならないメルは困惑の表情を浮かべる。



「この男は本当に意味が分かりませんわ……」



「は、ハイム…大丈夫だよね?死んでないよね?」



「安心してくださいお父様、このくらい彼にとってはいつものことです」



果たしてそれは安心してもいいのか、そして一体拓也は普段どんな生活を送っているのか非常に気になる王は、とりあえずそのことについて考えるのはやめようと自分に言い聞かせた。




「うぅん……?」



「あ、お母様!」



その時、先ほどまで落ち着いて眠っていた王妃が目を覚ます。



メルは慌てて拓也をぶん殴った鈍器を捨てると、ベッドの傍へ駆け寄った。



「…あらハイム、おはよう。…さっきは心配かけたわね」



「本当に良かった……体の調子はどうだい?」



「すごくいいわ、いつもみたいに息苦しくないの」



一家の団らんの光景、なんとも微笑ましい。


しかしそれもこの横に転がる白目を剥いて頭から血を流すインテリアが無ければの話だ。



「それはきっと剣帝のおかげだよ。君の口元にある魔法陣、それが酸素供給をしていると言っていた」



「へぇ、噂に違わず何でもできる御方なのね……姿が見えませんが、もうお帰りになられたの?」



「あの……えっと………実はそこに」




剣帝の居場所を問う王妃に、メルはばつの悪そうな顔をして、奇怪なインテリアの方へと視線を落とす。


おのずと王妃の視線もそちらへ向き、そしてソレは彼女の視界に入った。



「…最年少で学生の帝と聞いていたのでもっと化け物の様な外見かと想像していたのだけれど、案外普通の青年なのね」



優しい微笑みを浮かべ、拓也の外見の感想を述べる。



彼の白目から大粒の涙が溢れ出たのは言うまでもないだろう。




そこで白目を剥いて頭から血を流し、さらに大粒の涙を流すインテリア…こと拓也は何事もなかったかのように起き上がると、王妃へ向けて華麗に一礼した。



「お初に御目にかかります、王妃殿下。私はこの度殿下の専属医になりました、剣帝で御座います。以後お見知りおきを」



一瞬打ち所が悪かったのではないかと危惧したメルは、急にアタフタしはじめ手をしきりに動かす。


そんな彼女の取り乱し様を拓也はチラリと目をやり、口角を釣り上げる。


それを見逃していなかった彼女。そこで彼がただ王妃に礼節をわきまえているだけだと悟り、自身の先程の取り乱し様を恥じながら顔を赤くし、涙目で拓也を睨むのだった



「あらあら、そんなに畏まらなくていいのよ?あなたの事はいつもハイムから聞いてるから」




「…ッチ。そうでしたか、いやはや私としたことが」



「お母様!この男今舌打ちしましたわ!!」



「ハッハッハ、何をおっしゃいます王女殿下。己の仕える主君の前でそんな蛮行をするはずが御座いません」



王妃のその発言から、普段の自分の態度が筒抜けだという事を知った拓也は、突っかかって来るメルにわざわざ棒読みで敬語を使いながら更に煽る。


涙目で悔しそうに唸る彼女を見てニヤニヤする拓也。



更にその光景を微笑んで見守る王妃と王。



するとその空間を強制終了させるように、拓也が真剣みを帯びた声色で口を開いた。



「さて…と、冗談はここまでにしておいて本題に入ります」



「拓也君、やっぱりさっきので何かわかったんだね?」



「うん、呼吸音聞いて確信した」



そう、拓也が先程の確信したことというのは、別にメル巨乳遺伝説について確信していたのではない。


王妃の体の状態について確信したことが一つあったのだ。



拓也は視線を王妃に向け、衝撃の事実を口にする。




「落ち着いて聞いてくれ、王妃はこのままじゃ死ぬ」





「………え?」



それを聞いて真っ先に声を上げたのはメルだった。




王と王妃は、だいたい分かっていたと言わんばかりに俯く。


王は悔しそうな表情で拳を固く握るが、王妃は対照的に微かな笑みをその顔に浮かべて、静かに瞳を閉じた。



「し、死ぬ…?………お母様が…死んじゃう?」



震える声でそのカミングアウトを受け止めきれないメルは、膝から崩れ落ち床にへたり込む。


必死な表情で、その目には涙が浮かび、それが筋になって頬を伝う。




「嫌……そんなの…そんなの絶対に嫌ですわッ!!」




声を荒げ、喚き散らす。しかしそんなことをしても意味がないのは彼女も重々承知。


やがてその場に蹲って、声を殺して泣き始めた。


その姿を悲しそうに見つめる王も、喚き散らして泣きじゃくりたいという感情が自分の中で渦巻くが、自分が泣いてしまっては娘が掴まって泣ける場所を作ってあげられない。


そんな考えを持ち、精一杯なかないように上を向いて目を閉じる。


しかし自分の理性とは関係なく、徐々に目頭に涙が溜まっていってしまう。




そんな悲愴の漂う空間の中で、拓也は一人決心した様に言葉を紡いだ。




「確かにこのままじゃ死ぬ。…だから俺がなんとかします」




彼のその言葉に、メルは驚いたように顔を上げ、王は目元を袖で拭いながら彼へ視線を送る。



「まず王妃の病気だけど…間質性肺炎で間違いない、これは肺の中の肺胞の間の間質が硬化してガス交換が出来なくなり、最後は死に至る。そんな恐ろしい病気だ。


症状から見て結構進行してるから、肺の全摘をして新たに作った肺を移植する。


この治療法で行きたいと思います」





「間質性肺炎…?聞いたことのない病名だ。……それに全摘って…肺を体から取り出すってことだよね?新たに作った肺を移植すると言ったけど……そんなことが本当に可能なのかい?」




深く考えるように髭を指先で弄りながら拓也にそう尋ねる王。



ー…これ以上はこの世界ではまだ解明されていない事。果たして説明するべきなのか?…ー



そんなことを考える拓也。しかし現に人の命がかかわっている今、彼にとってそんなことは些細な問題であった。




「やったことはありませんが、俺の考えている理論上…可能です」



やったことはない。


その言葉に一瞬、不安が頭をよぎる3人。しかし拓也の真剣な眼差しを受けると、何故かそんなものは風に飛ばされるようにして無くなってしまう。



拓也は3人が自分に集中していることを確認すると、新たな肺を作ることについての説明を始めた。




「まず王妃の体細胞から核を抜き出し、その核から46本23組の染色体を取り出します。


核の中には…まぁ簡単に言うと体の設計図が収納されているんです。


ここから性染色体を抜いた常染色体、44本22組からDNAを取り出し、その中のゲノムから肺を作る遺伝子を見つけ出す。


それを元に構築した肺を王妃に移植すれば…」



「お母様は助かるのですね!」



「その通りだ」



話の内容はこの世界では使われていないような用語、発見されていないモノを利用するというもので、この場に居る拓也を除いた3人は理解できていない。


しかしメルは母親が助かるという事実さえ分かればそれでよかったようだ。


飛び跳ねて喜び、嬉しさの余り母親に抱き付く。





「そういう訳でこの部屋にちょっと大きめで頑丈な机と長時間座ってても疲れないような椅子を持ってきてちょーだい。


発作が起きても俺がいればなんとかなるから、常時ここに居ることにする」



「あ、あぁ。わかった、君の望み通りにしよう。




……その変わり…必ず…」



「さっきも言ったでしょう、絶対助けると。俺は約束を破らないんです」



・・・・・



王妃の部屋へ忙しく出入りを繰り返す執事やメイドたち。


拓也が指示した机や椅子以外にも様々なグッズが部屋の隅に汲み上げられている真っ最中だ。



その中には拓也がいつも持ち歩いていることからか、大量の飴も用意されている。



ベッドで横になりながらその光景を微笑んで見守る王妃。拓也はその隣に腕を組んで同じく見守っていた。ちなみにフードは着用済みである。




「拓也さんと言ったかしら?あなたは何故ここまでしてくれるの?」



不意に王妃が傍に立つ拓也にそう話しかけた。部屋と言ってもかなり広いこの一室、故にその会話は使用人たちには聞こえない。



突然のその問いかけに拓也は振り向き、なんのことなく返事を返す。



「ただの自己満足です」



「……自己満足?自分の事を随分と否定的な言い方をするのね」



クスクスと口元を隠して上品に笑いながら王妃がそう言った。



拓也は苦笑いを零すと、補足するように説明を付けたす。



「だってそうでしょう。俺は目の前で人が死ぬのなんて見たくないんです。だからその我が儘に王妃を付きあわせてるだけなんですよ。


それにあなたが死ねばメルや王が泣きます。そんなのも見たくない。



でもおかしいですよね。人が死ぬのを見たくないなんて言いながら、俺は…大切な人に危害を加えようとする奴らは容赦なく殺しました。その敵の死で悲しむ者も関わらず…結局は俺の我が儘なんです。自分とその周りが幸せならそれでいいんですよ。


だからもう覚悟はしています。相対した敵からどれだけ残虐非道な悪魔に見えようが俺は俺の大切なモノを護るんです」






拓也は自虐のようにそう言う。彼としては、本当はみんなを幸せにしたいのだろう。


彼のその喋りかたや、考えからそれを読み取った王妃は、面白そうに笑った。



「ふふふ、あなた面白いわね。そして何より…優しすぎるわ」



ー…確か…前にもそんなこと言われたなぁ。-



拓也は学園祭の時のことを思い出し、今王妃に言われたことを照らし合わせながらそう考えた。



そして思い出す。重要な人物に、連絡を入れていなかったことに



「…どうかしたの?」



急に冷や汗を流してガクガクと震えだす拓也に、病人であるはずの王妃の方が心配した様にそう声を掛ける。


ガチガチと鳴る奥歯。体感温度が10度ほど下がったかのような錯角に陥る拓也は、独り言のように呟く。



「……ヤバいどうしよう…ミシェルに連絡入れるの忘れてた……」



そう、家主ミシェルに、ここに行ってくるということを言っていなかったのである。



無理もない。メルの状態を確認しに来ただけのはずが、彼女の母親が病気だということを知り、更にその簡易な処置を施してから、これからの治療法を考え、それを編み出す事までやっていたのだ。


こういう時、彼の人の好さは本当に仇となる。



「みしぇる……確かハイムのお友達になってくれた子だったかしら?それが今何か関係があるの?」



「……諸事情で今彼女の家に居候しているんです……現在時刻は……Oh shit!!0時を回ってやがる!!」



「なるほど…居候のことについては今は深く聞かないわ、それはまた今度。


それより何か用事があるのでしょう?早くお行きなさい。あちらではまだ準備しているようですから」



彼の焦り様に何を思ったのか、王妃は優しく微笑みそう言うのだった。



その提案に拓也はしばらく黙って王妃の顔を見つめる。



「………………すみません王妃殿下、何かあればすぐに駆けつけます」



悩んだ結果、拓也は王妃の好意に甘えることにし、空間移動で部屋から音も無く消え去った。




・・・・・



視界は切り替わり、いつも見ているリビングの壁。



瞬間移動すぐさまヴァロア家へ飛んだ拓也は、辺りを見回しミシェルを探す。


キッチンからリビングへ視界を動かし彼女を探すが見当たらない。すると、突然背後から物音がする。



「…」



振り返ればそこには、驚いたようで嬉しそう。しかしどこか申し訳なさそうな顔をするミシェルが何も言わずに立っていた。


足元には彼女のものであろうハードカバーの本が落ちている。これが物音の正体だろう。



拓也は彼女のそんな様子に戸惑い、詰まりながら口を開く。




「あぁ…そのなんというか………何も言わずに外出してました。すみません」



素直に謝罪する拓也。



「…ごめんなさい」



ミシェルも何故かそう謝罪する。


拓也は彼女がそう言ったことに対し疑問を感じ、首を傾げる。



「…なんでミシェルが謝るんだ?俺は何もされてないけど」



疑問に思ったことを口に出して彼女に問う拓也。ミシェルはその発言に対して俯きながら、心底申し訳なさそうに口を開いた。




「私が……知られたくないような過去聞こうとしたから…拓也さんの気分を悪くしてしまいました…本当にごめんなさい」



「……はぁ?」



ミシェルは本当に申し訳なさそうにまた謝るが、拓也は思わず笑いながらそう返すのだった。



これには彼女もどうやら何かがおかしいことに気が付いたようで、顔を上げて拓也の顔を見つめる。



「いや、俺メルの所行ってただけなんだけど…あと俺は一々その程度のことで機嫌悪くなったりしないぞ」



「………え……、じゃあ……私の…勘違いですか?」



「そうだな、盛大に勘違いしてる」



「怒ってないんですか?」



「何故俺が怒る。そこまで沸点は低くないつもりと自負している」



ふざける拓也を見てミシェルもようやく状況がつかめたようだ。


安心したのか、ほっと息を吐く




彼女はよっぽど落ち着いたのか、おぼつかない足取りでソファーまで足を進めると、沈み込むように深く腰掛けた。



「ハァ、よかったです。だって晩御飯できたから呼びに行ったら部屋に居ないんですもん。


慌てて家の中を探したのに姿が見えなかったのでそのこと以外にも……その…心配してたんですよ?」



ミシェルは拓也の気分を害した他にも、拓也が自分の知らないうちに神と戦いに行ったのではないだろうか?と考えて心配していたのだろう。


拓也も追う様に向かいのソファーに腰掛けると、苦笑いを浮かべながら謝罪する。




「ごめんごめん、悪かった。すぐ戻ってくるつもりだったんだけどな……」




拓也はそこで長時間家を空けていた理由と共に、これから自分がやろうとしていることをミシェルに話した。


メルの母親が病気なこと。自分がそれを治すと約束してきたこと。しばらく王城に引きこもり、学園も休むこと。



ミシェルは、ただ静かに頷きながらそれを聞いていた。




「なるほど、最近メルさんが学園に来なかったのはそんな理由があったからなんですね。


それにしてもまた重大な役目ですね」



「まぁそうだな。




でもメルの親を見殺しにするわけにもいかんよ。……親を亡くすのは辛いからな」



最後を真剣な顔で発言する拓也。ミシェルもその雰囲気と言葉の中から何かを感じたのか、背筋に緊張が走る。


拓也はそんなミシェルの分かりやすい変化に気が付いていたようで、口角を釣り上げて笑うと、彼女に喋り掛けた。



「俺の両親の事……ミシェルには聞いておいてもらおうかな」



今朝、彼女が聞こうとした話題。それにあからさまに動揺した拓也だったが、今こうして自分からそう言いだす。



「………で、でも言いたくないなら…」



「いや、別に言いたくないわけじゃない」




申し訳なさそうな表情のミシェル。拓也は再び苦笑いを浮かべるとミシェルにそう返した。





「…まぁミシェルが察している通り、俺にとって軽いトラウマだしね。


でもミシェルには聞いておいて欲しい」



ヘラヘラとしながらそんなことを言う拓也。


ミシェルは自分が特別な存在のような言い回しをされたことで少し照れくさくなる。



「(よくそんなことを恥ずかしげもなく言いますね)」



だからそんな恥ずかしさを紛らわすために内心で彼の事をそう罵倒した。



それが済むと、ミシェルは拓也に優しい笑みを向ける。



「分かりました。聞かせてください」



「うむ、いいだろう話してやる」



「やっぱりいいです、お休みなさい」



「あぁ待ってミシェルごめん冗談だって!」



ふんぞり返って腕を組んでいた拓也だが、ミシェルのクールな反応により速攻でソファーから飛び降り、床に正座しながらそう謝罪する。


立ち上がり、自分の部屋へ向かおうとしたミシェルだが、それも彼女なりのジョークである。



「…まぁいいです」



彼女は大人しくソファーへ戻り、話を聞く姿勢を作る。


拓也も向かいに座り直し、一つ咳払いをすると、自分の事について語り始めた。



「あれは肌寒くなる少し前の秋だった。当時は俺も若くてねぇ。…そういえば冬だったかもしれない。


街を歩けば皆が振り返るほどのイかした男で…いや、やっぱり夏だった。そう、灼熱の太陽が王空に輝く真夏だった。


当時俺は切れ味のいいピアノ線のような男だった、その姿からは何故か気品すらも溢れ出ていたよ。



いやちょっとまてよ、もしかしたら春だったかもしれない。うむ、やっぱり春だった。桜が舞い散る美しい春の出来事だった」



拓也がそう語る中、ミシェルはせっせと支度を済ませると、彼がそこまで喋ったところで階段の方へ出るドアに手を掛けた。




「待ってくれミシェルゥゥゥ!!」



「まともに話す気がないようなので私は寝ます。お休みなさい」



足元に縋り付こうとする拓也を物理的にも一蹴りし、扉を開けて階段を上がる。



「(…これだけふざけ倒してくるってことは、やっぱり話したくないのかもしれませんね)」



そんなことを考えながら、ミシェルは階段の曲がり角の段に足を掛ける。




「あれは俺が5歳の時だった…今でも忘れられない」



「…」



しかし階段を登りきったところには拓也。2階の床に腰を下ろし、階段の段に足を置き、両ひざに両肘を付きしんけんな顔でそう言った。


きっと空間魔法で先回りしたのだろうと思考するミシェル。


彼のその真剣な喋りかたに、思わず階段を上る足を止める。




「といってもやっぱり忘れてしまっているのかもしれない。その可能性は記憶が古ければ古いほど高くなる。これは学界でも証明された。…いや、やっぱりされていなかったかもしれない」



真剣になったと思ったらまたふざける。少しイラッとしたミシェルは居ない者のように扱い、彼の横を素通りする。



拓也もまたポーズを維持し、彼女が通り過ぎたのを確認するとまた真剣な声色に戻し喋り掛ける。



「……まぁそこで聞いててくれ、床が冷たいから…ほれ座布団とクッション。毛布も一応置いとくぞ」



階段を上り切った突き当りにゲートを開き、グッズを落とした拓也。



ミシェルはどうしようか少し迷ったが、言われた通りに座布団に座りクッションを抱く。


彼女に背を向けて座る拓也、距離にして1メートルほどだが何故かミシェルにはその背が遠く悲しく見えるのだった。



「じゃあ聞いてもらおうかな、俺の過去を。





………俺の人生はちょうど俺が5歳になってから狂い始めた」



・・・・・



彼の家は普通の一般家庭。優しい両親の間に生まれた男の子は、『拓也』と名付けられた。


自らの進む道を拓くという意味でそう名付けられた長男は、両親からの寵愛を受けすくすくと成長する。



彼が生まれた時には既に父方の祖父母は亡くなっていたが、母方の祖父母は健在。

初孫に歓喜し、彼を大そう可愛がっていた。




まさに幸せな家族。しかしそれもある時を境に狂い始める。



「お父さ~ん!お母さ~ん!準備できた~!」



それは彼の5歳の誕生日から数日。父親の仕事が休みの日曜に、遊園地にでも遊びに行こうということになったのだ。



「おぉ、お父さんより早く着替えられたのか。すごいぞ、拓也」



「えへへ~」



無邪気な笑顔を浮かべる幼き日の拓也。父親にぐしゃぐしゃと頭をなでられ、照れくさそうにそう笑った。



「それじゃあ行きましょうか」



「今日はいっぱい遊ぶんだ!」



「ふふ、そうね。よ~し!お母さんもいっぱい遊んじゃうぞ~」




一行が乗り込む乗用車。運転席に乗り込むのは父親。


助手席にはお腹が見てわかるくらい大きい母親が乗る。そう、彼女はこの時第二子を妊娠していた。

ちょうど6ヵ月目。



そして拓也は一人後部座席に乗り込む。




車は出発し、市街地を走る。


一直線に続く道。街の中を通る広めの片側一車線。その左車線をなぞるように運転する父親。


彼に非は一切なかったのだ。




「ッ!?」



次の瞬間、反対車線を走っていた大きなトラックが白線を割り、こちらの車線へ乱入した。



突然のその出来事に対応できるわけもなく、車はトラックと真正面から衝突した。



刹那、車に伝わるとてつもない衝撃。拓也は何が起こったのかもわからず、突如として体を襲う浮遊感。


空色になったり灰色になったりと目まぐるしく変化する視界の色。それが何を映しているのかまで捉えられるほど当時の彼は強くない。



しばらく浮遊感と視界の色の変化をぼんやりとしながら体感していると




「う゛ぅッ!!」




体全体に強い衝撃を受け、治まる浮遊感と視界の色の変化。







鼻を突く悪臭。



当時の彼では、今自分が置かれている状況を把握するのに時間がかかる。


よく見てみれば、周りには積み上げられたビニール袋。



そこからようやく自分がゴミ捨て場に突っ込んだんだということを理解した。



やっと落ち着いてきた頭の中。しかし落ち着きを取り戻したからか、次第に体全体に痛みが走りはじめ、寝ているだけだというのに指一本動かすだけでも激痛が走る。



「ぉ…とう…さん……おか……ぁさん…」



しかしすぐさま両親を探し、首を動かす。



そして見つける。道路を大きく外れ、建物に衝突し、グチャグチャの金属の塊に成り果てた車だったものを。



そこからはもう本能だった。道路を這いずるようにしてなんとかそこへたどり着いた拓也は、助手席のドアの部分にしがみつき、なんとか中にいる頼りの両親とコンタクトを取ろうと試みた。



やっとのことで粉々になったガラスの部分から車内を覗くことが出来た…が、そこで見えた色は…赤だった。



「…ぁ…ぁ……お…か……さん?」



疑問符を浮かべた拓也。無理もない。ふだん見ている自分の母親とはかけ離れた姿をしていたソレは


体の数か所が本来向くべきではない方向を向いており、皮膚からは白い棒状のナニカが突き出ている。


さらに至る所から血が噴き出しただろう。母親の薄いベージュであるはずの肌は、真赤なペンキをぶちまけたかのように真っ赤に染まっていた。


よく見れば奥にも同じようなモノがある。



次の瞬間、突然機能を回復した様に臭いの情報を取り入れ始めた鼻。


そのむせかえるような血独特の臭いと、流れ出したガソリンの臭いを嗅覚が情報として取り入れたのを最後に、拓也は視覚、嗅覚、聴覚などの全ての感覚を塞いだように、その意識を闇に落とした。




次に彼が目を覚ましたのはその事故から三日後だった。



気づけば知らない天井を見上げていて、体にはグルグルにまかれた包帯。


少しでも動かそうとすれば全身に激痛が走った。



奇跡的にあの事故から生還した拓也は病院に搬送されていて、なんとか一命を取り止めていた。


しかし両親は…即死。



迅速に通夜と葬式が済まされ、両親は火葬されたと母方の祖父母から聞かされる。





その後拓也は母方の祖父母に引き取られ、過ごすことになった。



「婆ちゃん、今日で60歳だよね?これ誕生日プレゼント!」



時は流れて拓也10歳。あの悲劇から5年たった頃には、拓也もなんとか精神面も回復し、体にも後遺症などは無く元気に過ごしていた。



祖母の誕生日に、溜めた小遣いを叩いて買った老眼鏡を拓也はプレゼントする。


ただでさえ孫を溺愛していた祖母は、それに対して大いに喜ぶ。



「まぁ拓也、ありがとう!大切にするわね!」



「ガハハハ、拓也は優しいなぁ!」



前のようには行かないが、彼にとっては幸せな日常が戻り始めていた。



彼も祖母や祖父を慕うことで、両親が亡くなりポッカリと空いた心の隙間を埋めようとしていたのだろう。







しかし運命とは時として残酷すぎる。




「拓也ッ!勝美ッ!逃げろ!!」



拓也10歳の夏休み。アウトドアが好きだった祖父の提案で、北海道の山へ登山に出かけた時だった。


帰り道に遭遇したヒグマとの間に、祖父が割り込んでそう叫ぶ。



全員が逃げることは不可能と判断した為の行動だったのだろう。




戸惑う祖母と拓也に叫び、早く行くように叫ぶ祖父。



祖母はやがて決心すると、拓也の手を引いて全力で山を下り始めた。



「婆ちゃん!まだ爺ちゃんが!!」



「…~ッ!」



何も言おうとしない祖母に、拓也も思わず口を閉じる。



「…あッ!!」



無理してスピードを出していたせいなのか、麓まであと一息ということで祖母が木の根に躓き、思い切り転び近くに埋まっていた鋭い石で、脹脛をザックリと切ってしまう。



そんな祖母を心配し、背負っていたリュックから包帯などを出してみるが、拓也はまだ10歳。


適切な手当の仕方など分からない。



苦痛に顔を歪める祖母の痛みを和らげてあげようとする拓也はとりあえず包帯を傷口にグルグルと巻いてみる。





「…ハァ…ハァ……、ありがとう拓也。上手ねぇ、もう痛くないわ」



孫に心配を掛けまいと必死に笑顔を作って見せてくれる祖母。拓也もまた自分の処置で少しでも祖母が良くなったことが嬉しく、その顔に笑顔を浮かべた。



しかし悲劇はまだ終わらない。



「ば、婆ちゃん!あれ!」



拓也が指さす先に居たのは、先程のヒグマ。


まだ距離はあるが、地面に鼻を付けながら臭いを嗅いで、着実にこちらへと迫っていた。



それを見た祖母は、落ち着いて一つ息を着くと、拓也の肩を両手でしっかりと掴む。


年甲斐もなく強い力に拓也も思わず体が硬直した。




「逃げなさい。麓へ下りて、どこでもいい。助けを求めなさい」




その口から放たれた言葉は、自分を置いて逃げろというものだった。



「で、でも婆ちゃんが!」



「大丈夫!拓也のおかげですぐに動けるようになるさ!だから早くお行き!!…さぁッ!!」



祖母は、いつまでたってもうじうじしている拓也を麓の方へ押し、声を荒げた。


拓也にも分かる。このままおいていけば、祖母が死ぬことくらい。



「早くッ!間に合わなくなるよッ!!」



「ッ!!」



祖母のその怒声に、拓也はようやく走り出した。


祖母に背を向け、ひたすら山道を駆け降りた。あちこち擦り剥き、気が付けば民家が見える麓まで下りてきていた。



「おい坊主!どうしたんだそんなボロボロになって!!」



底を偶然通りかかった猟師の様な恰好をしたおじさんが、服も肌もボロボロになった拓也を見つけ、慌てたようにそう尋ねた。



「……マ…が…ヒグマが……」




それからはあっという間だった。



拓也たちを襲ったヒグマは討伐され、後の警察の捜査で祖父母は見つかった。



死体となって。




そして二人の葬儀が行われた。両親の時には眠っていたため、拓也にとっては生まれて初めての葬儀だった。



二人を焼いている時も、拓也だけは火葬場から離れようとはしない。


血縁者が待合室へ行こうと誘っても、ただ何も言わずにオーブンの方を虚ろな目で見つめているだけだった。



骨上げの時も粛々と行われていく中、拓也はただ何もせずにその光景を見つめている。



そして独り呟いた。



「何で俺ばっかり…」



・・・・・



「まぁだいたいこんな感じ。それからは親戚をたらい回しにされてな、小学校通っている間に4・5回くらい家が変わった。中学では一度も無かったけどね。


それになんかあの子の周りでは人が死ぬなんて噂されちゃってどこに行

ってもいい顔はされなかったんだ。


当然家にも居場所は無くって、必要以外は親戚の人とも会話をしなかった。

それに学校でもイジメられてた。今思えば相当冷めた態度とってたから、周りにはそれが面白くなかったんだろう。けどもう涙なんて出なかったよ。今まで自分の周りで起こったことと比較すれば、どんなことも蚊に刺される程度。


まぁ中学で唯一無二の親友ができてから俺の人生変わる訳だけどね。


んでなんとかその親友と同じ高校入学。それと同時に当時厄介になってた親戚に追い出すように一人暮らしを進められてな。お金の面は親戚一同がなんとかしてくれて高校近くのボロアパートに一人暮らしすることになった。あの時は本当に救われた気持ちだったよ、もうアイツらの顔を見なくても良くなったんだからな。



んで中学からの親友と普通に高校通ってたらいきなり神からの呼び出しくらって今に至る。


これで俺の両親の事と昔話はおしまい。長い話になっちゃったな」




背を向けたままそう話を締めくくる拓也。



想像を遥かに超えていた壮絶すぎる彼の境遇に、ミシェルは思わず閉口してしまう。



「確か親戚の間では死神なんて蔑まれてたっけ。中三の時にそれを知って思わず笑っちゃったのをまだ覚えてるわ~、どんな中二ネームだよってさ」



笑い話にしようと拓也がそんな冗談を飛ばすが、ミシェルは駆ける言葉が見つからない。脳をフル稼働させてみるが、何を言えばいいのか分からない。



すると彼女が何を考えているのかが分かったのか、拓也が振り返りいつものようにミシェルに笑い掛け、強い信念を宿した瞳で彼女を見つめながら口を開いた。



「確かにこれは俺のトラウマだ。だけど実際に起こった事実から目を背けるつもりはない。


二度とあんな思いはしたくない。もう二度と目の前で大切な人が死ぬところなんて見たくない。


その思いが俺を強くした。だから俺は敵と戦い、自分自身と闘い、失わない為にこの力を使うんだ」




そう話した拓也は、まだ固まるミシェルに少しの苦笑いを向けると立ち上がり、彼女の隣へ腰かけた。


壁に背を預け、胡坐をかく彼に、彼女は複雑な感情を宿した目を向ける。



拓也はその視線に目を合わせずに、前を見たままどこからか取り出した飴を一つ口にする。



「…じーさんに呼ばれてこの仕事を頼まれた時も人の命がかかわっているって聞いてすぐに承諾したよ。


でもなんでだろうな、それがミシェルだなんて知らなかったのにすぐ引き受けちゃったんだ。もしかしたら極悪人だったかもしれないのに。




これコーヒー味じゃん……」




真面目な話をしている最中に、今しがた口にした飴の味に文句をつける。


そんな彼からいつものような部分を感じ取ったミシェルは、ようやく体の硬直が解けた。



「…それは……やっぱり拓也さんが…優しいからじゃないですか?」



彼の発言にそう返し、微笑むミシェル。


拓也も彼女がようやく硬直が解けた事に安堵する。


まるで人間性を賞賛するような言い方に、拓也は少し嬉しそうに微笑む。

対してミシェルは少しだけ恥ずかしくなって、ちょっと冗談交じりに口を開く。



「というか相手がどんな人かも知らないのにとんでもない間修行してたんですか?」



「そうだなぁ、なんでだろ?」



「…やっぱり優しすぎるんじゃないですか?過度な優しさは身を滅ぼしますよ」



彼に惚れた理由。その優しさが原因だと考えるミシェルは、取り繕ったクールな顔でそう言った。



「…でもまぁ、俺の護衛対象がミシェルで良かったよ」



苦笑いを浮かべながらそう言う拓也。ミシェルは視線を外しながら、顔色を何とか変えないように素っ気なく返事をする。



「…………そうですか」





「じゃあ俺は戻るよ。何かあったらすぐに飛んでくるから。寒しから体調崩さないように気を付けろよ」




「拓也さんも気を付けてください」



「あいよ~」




二人はそう会話を交わす。


拓也は次の瞬間、王城へと戻って行った。




・・・・・




カリカリカリカリ…ペンを走らせる音が規則的に続く王妃の部屋の隅。



すやすやと眠る王妃の部屋の一角で灯りをつけてそんなことをやってていいのかと思うかもしれないが。彼女にその音は何も聞こえてはいない。


何故なら拓也がこちら側から向こう側への音を遮断する防音結界を半径3メートルほどに張り、それに加え一定以上の光度の光を通さないというなんとも都合のいい結界を張っているからである。



窓からは朝日が差し込む。部屋の時計の針は既に午前6時30分を示していた。



「…」



魔武器である優秀な解析道具の銀色の片眼鏡を左目に装着し、液体の入ったシャーレを双眼鏡の片割れの様な黒い筒を通して覗く拓也。



実はこの黒い筒も鬼灯印のトンデモ道具である。



なんとこのサイズで、見たものを原子顕微鏡並の倍率で見ることが出来るのだ。



しかし当然使い方が難しく、拓也以外には扱えるようなものではない。



「…組み合わせはどれだ…?」



そう独り言を零し、手を止める。



その時ちょうど王妃の部屋のドアが開き、そこから拓也もよく知る人物入って来る。


その人物は王妃がまだ眠っていることを確認すると、拓也の方へ歩み近寄った。



「おはようございます。調子はどうです?」



そう言いながら防音結界の中へ踏み入る王女、メル。


拓也は彼女が自分の3メートルに侵入していることを振り向かずに確認すると、注文通りの座り心地のいい椅子の背もたれに思い切り倒れ込む。



「まだ何とも言えない。今肺を構築する遺伝子の解析中」



「そうですか……。こっちは何ですの?」



まだこれといった成果が無いと察したメルは、少し悲しそうな表情をする。


彼女が不意に視線を落とした先には丁寧に積まれた紙の山。なんとなく気になり、指を指さしてそう尋ねる。



「あぁこれ?俺の朝食」



「はぁ…徹夜明けだというのによくそんなテンションでいられますわね」



こんな時でも平常運転の拓也に対し、寝起きでテンションが低いのか、メルは小さめの溜息を吐いた。






「…数字に…記号?」



一番上の紙を見てみれば、紙にビッシリと何かが書かれている。目を凝らして見てみれば、彼女には全く分からない数字と記号とアルファベットの羅列。


疑問符を浮かべたメルに拓也は床を蹴り椅子と共にクルクルと回りながらその紙の山について説明する。



「それは常染色体のゲノムの中の遺伝子の部分だけを解析、数式化したものだ。


今やってる作業は、この中の総遺伝子中から肺の構成する組み合わせを見つけ出す作業」



「組み合わせ?遺伝子というものを解析できればそれだけで作れるのではないのですか?」



「性染色体を除いた常染色体、44本22対のDNA。それぞれ一本一本に肺を作る設計図、心臓を作る設計図、身長に関係する遺伝子。それらが100%入っている訳じゃない。


設計図はDNAの何本かに散りばめられて保管されてるんだ」



それを見つけ出すという気の遠くなるような作業。


拓也はクルクルと回転しながら、視線を天井へ向け、大きく溜息を吐いた。



そして椅子と自分の回転を止め、再び机に向き合う。



「さて、本当に大変なのはこっからだ。こっちは俺が何とかするからお前は今日こそ学園行け、みんな心配してるから」



「え?でもお母様が………」



「安心しろ、キースさんも俺も居る」



任せておけと続ける拓也。メルは母親の事がとても心配であったが、何故か彼のその言葉聞くと、どこか落ち着いてしまうのだった。



「分かりました。…頼みましたわよ?」



「あいよ。


それとそんな可愛らしいルームウェアで俺のところ来るとか誘ってんの?」




この後、彼が暴力の嵐に晒されたのは言うまでもない。




「次は許しません、いいですね?」



「…ひゃい」



数分後、某菓子パンマンよろしく晴れ上がって真ん丸になった顔面の拓也。


なんとか資料類は死守し、その点の損害はゼロである。



「…ったく…本気で殴りやがってこの胸部強調マンが…」



恨みを込め、メルに聞こえないようにそう罵倒する拓也。睨んでいるようだが顔が張れているためどちらにせよ糸目にしか見えない。



「なにか言いました?」



「ちゅす、何も言ってないっス」



突如襲う、背後からのプレッシャー。拓也は本能的な危機を感じ、背筋をピンと伸ばして作業に戻った。



そんな彼の背後で溜息を吐くと、メルはめんどくさそうに彼に喋り掛ける。



「そうでしたわ、朝食を用意しますがなにかリクエストはありまして?」



どうやら彼女は王妃の様子を見に来たついでに彼の朝食のリクエストも聞きに来たようだ。


拓也はその質問に対し、迷わず答える。




「母乳」



「ぼ、……ぼにゅ…ッ!//……そこに跪きなさいッ!二度とその口を開けないようにして差し上げますわッ!!」



ついに我慢の限界に達したのか、メルは魔武器である大鎌を呼び出し拓也に向けて構えた。


対する拓也は、椅子から下りる仕草も見せずにそのまま作業を続けながらおちょくる様に返事をする。



「は?なに勘違いしてんの、俺が言ったのは牛の母乳なんですけど……え、なに?他に何を想像したの?ねぇねぇ、他に何を想像したの??」



ワザと紛らわしい言い方をして相手を翻弄して遊ぶ。拓也の常套手段である。


まんまと嵌められたメルは、思い切り赤面しながら精一杯反論を始める。




「そ、それはあなたが紛らわしいことを言うからですわ!」



「え?だから何を想像してたの?俺わかんないから教えてよ」






「そ、それは…//」



自分の失言に羞恥し、真赤になったメルの顔。



それを報復だと言わんばかりにニヤニヤとしながら眺めた拓也は、それを一通り眺め終えると、机に向き直る。



「まぁこれで許しといてやる。



朝食の事だが…そうだなぁ……じゃあコーヒーだけ貰っていいか?」



「ハァ…ハァ……。あなた…コーヒー飲めないのではなかったですか?」



「確かに常飲する分には苦手だけど、こういう時には脳の覚醒を助けてくれるからね。

あとできればチョコレートもお願い」



「チョコレートも脳の覚醒が目的なのですか?」



「それもあるけど、ただの口直し」



頭を片手で掻きながら、机に視線を落としそう発言する。



メルはその用件だけを聞くとあまりこの空間に長居してはいけないと思ったのかそそくさと王妃の部屋を後にするのだった。



・・・・・



「あ!メルちゃん久しぶり~!」



「わぁ!」



久しぶりに学園にやってきたメルに飛びつくジェシカ。


二人して床へ倒れ込み、メルは思わずそんな声を上げた。



「どうしたの~もう!風邪でも引いてた?」



「い、いえ…そういう訳ではないですわ」



「ジェシカさん、床は汚いからとりあえず起きた方がいいよ」



「そうだね!」



すると下敷きにされているメルを不憫に思ったのか、すかさずアルスがジェシカへそう助言をする。


すぐさま彼女はメルの上から飛び退き、手を引っ張り立ち上がらせ、椅子に座らせた。



「というか拓也はどうしたんだろう、姿が見えないけど」



「そ、そのことなんですけれど…」




メルはSクラスに居るいつもの顔ぶれに事情を説明した。



王妃が病気でそれを直すために拓也がしばらく学校を休むことを。



「え~…またたっくんしばらく居ないのか~つまんないよミシェル~!}



「私に振らないでください」



「ミシェルちゃんも冷たい~!



……まぁ家に帰ればたっくん居るもんね~寂しくないよね~」



こそこそとミシェルを弄って遊ぼうとするジェシカ。



「た、拓也さんはしばらく家に帰って来ません。泊まり込みで作業するって言っていましたから……」



「あ、じゃあ寂しいね」



「……」




周りの2人には聞こえない声量で喋っている二人。ジェシカはミシェルの顔が少し赤くなったのを見て満足げに微笑む。




・・・・・



時刻は午前9時。



王妃の部屋の隅で、拓也は未だ人体の設計図を組み立てる作業と格闘していた。


王妃が既に起きている事から、防音結界と光の遮断用の結界を解いて作業をしている。



「………」



遺伝子情報を数式化した紙を自分の周りの壁一面に取り付けられたコルクボードに張り付け、それを見て設計図を抜き出す為の紙を手元に置き作業する拓也だが、如何せん手が動かない。



理由は問題が難しすぎるのも一つだが、それ以上に彼の背後から送られる視線に原因があった。



ー…作業する場所間違えたかねこりゃ…ー



内心でそう呟く拓也。その背中を射抜かんばかりに王妃が彼を見つめている。



「あ、あの…王妃殿下、なにか…ご用ですか?」



背後から襲うプレッシャーに流石に耐え切れなくなったのか、拓也が遂にしびれを切らして彼女にそう尋ねた。



「あら、そんな堅苦しい呼び方は止めて。気軽にミラーナおばさんとでも呼んで頂戴。


ハイムの大切なお友達なのですから…そういえばあなたはメルと呼んでいましたね」



「あぁ、それは名前が長かったのでファーストネームの中から略称を作ったんです。学園の友人間ではすっかり定着しました」



その名が付いた由来を喋る拓也。


王妃は後ろ緩い三つ編みに結った腰まで伸びる長く美しい金髪を自分の腹側に抱え、面白そうに微笑んだ。



「娘にちゃんと友達が出来てるようで安心したわ。でも…それもどこかの誰かさんのおかげね」



「ハハ、聞いてたんですか。でも俺はきっかけを作っただけです、その後はメル自身の力ですよ」




拓也も面白そうに笑って椅子を回転させ、完全に王妃の方へ向き直る。



「もっと聞かせて頂戴、娘は学園でどんな生活を送っているのか…気になるわ」



「はぁ…でもこっちの作業が…。王…ミラーナさんの命に関わります」



「いいのよ、親っていうのは自分の事より子どもの心配をするの」



やさしく微笑んでそう言うミラーナ。


拓也は困ったように苦笑いを浮かべたが、結局は彼女のそのお願いを断ることが出来なかったようだ。



「わかりました、少しだけですよ」



苦笑いを浮かべたまま、諦めたようにそう言ったのだった。




・・・・・



「只今帰りましたお母様!体調はどうですか!?……」



勢いよくドアを開け、王妃の部屋に飛び込むようにして入るやいなやそう叫ぶメル。


しかし彼女の目に飛び込んできたのは、スヤスヤと寝息を立てて静かにベッドに横になっている母親の姿だった。


そこでもう一つの目的。部屋の隅に目をやれば、黙々と作業する黒髪の男の方へ足を運ぶ。



「病人の近くで大声出してんじゃねぇよ、面会禁止にすんぞコラ」



彼女が防音結界へ入ったと感じた途端、おちょくる様にそう言った拓也。


突然の暴言にメルは怒ったように口を開く。



「自分の母親の心配をして何が悪いのですか!?」



「ハイハイ、そう吠えるな。ストレスで禿げるぞ」



「っな!!誰がそのストレスを与えていると思っているですか!!」



「わたしです」



そんないつも通りのやり取りをしている間も、拓也の手は動き続ける。


朝見た時より明らかに増えている綺麗に整頓された紙の山、ゴミ箱に投げ込まれている丸められた紙屑。



「…それより………どう…ですか?」



メルは作業の進行状況が気になり、話題を変えた。


その質問に拓也は手を止めず、振り向きすらしないまま答える。



「四分の一くらいは完成した、残りもこの調子で片付ける。


こっちは俺に任せておけばいいからお前は宿題でもやってこい。今日は魔法学があったはずだから多いだろ?」



「……私にも何か出来ることは無いでしょうか?」



俯きながら申し訳なさそうにそう言ったメル。


彼女も友人一人に任せ切って自分がこうして何もできないことが悔しいのだ。



「無い。少なくとも俺が今やっていることはお前じゃ無理だ」



拓也に姿勢も変えずに厳しい声色でそう言われ、メルはその事実に唇を噛み、悔しそうに拳を握る。


自分が無力であることは分かっていた彼女だが、ここまで素直に言われてしまってはなんだかやるせない気持ちにならざる得なかったのだ。



「だが王妃を心の底から安心させるのは俺じゃできない。


だから傍に居て楽しい話でもしてやれ。学園での楽しかった話やちょっとした世間話。なんでもいい。


親ってのは子どもが傍で楽しそうにしてるだけで嬉しいもんだ。


まぁ受け売りだけど」



続けて拓也はそう言う。


メルは思わず顔を上げるが、拓也は先程と変わらず真剣な表情で紙にペンを走らせていた。



「もちろん、治った後には真っ先に喜んで抱き付いてやるのもお前の役だ。

その舞台は俺が整えてやるからもうちょっとだけ待ってろ」



表情を変えずにそう言い切った拓也。



ポカンとして彼の言葉を聞いていたメルは、自分にもできることがあったという安心感でいっぱいになり、その目にジワリと涙を浮かべる。


同時にそのことに気づかせてくれた拓也に少しの感謝を感じ、背中に僅かに微笑んだ。



「わかりましたわ、ではしっかりとお願いします」



「あいよ、任せときな」



ー…確か朝もこんなことやり取りしてたな…でもまぁ母親の事だしそりゃ心配か…ー



拓也は今の会話を朝の会話と照らし合わせ、内心でそんなことを考える、ちょっとだけ口角を釣り上げ笑う。



「何を笑っているのですか」



「いいや、なんでもない」



「そんなことありませんわ、今絶対笑いましたもの」



「ハハ、しつこいなぁ…笑ってないって」



「ほら!今また笑いましたわ!何を笑っているのですか!?」



長い時間表情を変えずに作業をしていたためか、拓也は何故かこのやり取りが面白く感じてしまう。


感覚がおかしくなったかと考える拓也だが、別にいつも学園でやっているのと変わらないやり取りだということを思い出し、また笑うのだった。




拓也が笑っている理由を追求しようとするメルだが、結局邪魔だと一蹴りされ、追い出されるようにして部屋から撮み出されてしまった。



「なんなのですかあの男は!!…確かに頼りにはなりますが無礼ですわ!!」



プンスカしながら自室への廊下を歩くメルはそんな愚痴を零しながら足音を立てて進む。


自分の父親が言っていた通り真面目な所は真面目なようだが、結局はそれも長続きせずに自分に対しての扱いがいつもと同じそれではないかと少しイラッとした彼女だった。




「は、ハイム!剣帝の調子はどうだった!?」



そんな時、背後から小走りで近づいてきた実の父親である王がメルにそう声を掛けた。


今、彼のことでほんの少し苛立って居るメルにはタイムリーな話題である。



「…別にいつもと何ら変わりませんわ。作業の方も順調に進んでいるようでしたし」



「そ、そうか。それは良かった」



「……何か気になることでもあるのですか?」



自分から彼の事を尋ねるのには少し抵抗があったメルだが、何があったのか知りたいという欲求が勝り、結局そう尋ねる。



王は心配そうに唸ると、口を開く。



「実は彼、朝からコーヒーとチョコレートと飴しかとっていないんだよ。『腹が膨れると眠気が来るから』って言ってるけど……まともな食事をとらないのはちょっと心配でね」



「…はぁ!?何をしているのですかあの男は!!そんなことして体を壊されては…」



「そうなんだよ…、僕も何度か食事をとるように声を掛けたんだけど……それに彼が来てからずっと発動している風の魔法、あれの消費魔力もバカにならないと思うんだ」



驚いたように目を丸くするメル。王は唸って困ったように俯いた。




「多分このままじゃ夕食もまともにとらないと思うんだ……どうにかならないかな?」



そういう王。メルも何か手段は無いかと考えていると、廊下の曲がり角から人影が現れる。



「その必要はないぜ~……確かトイレはあっちだったな……」



「た、拓也君!…それはどういう意味かな?」




いつもの様な呑気な顔で廊下を歩く拓也は、その質問に頭をかきながら返す。


トイレを探しているのか、辺りを見回しありそうな場所を探している。この広い城の中では設計を覚えることすら難しいのだ。



「まぁ自分の身体の事は自分が一番知っているからな、俺だってばかじゃないから体調崩しそうなら休養も取るし飯も食う」



「で、でも…朝から何も食べていないというのは……」



心配そうにそう喋り掛けるメルの横を、頭の中で色々な物を組み立てながら過ぎ去り、果たして前が見えているのかという程一点を見つめたまま、拓也は口を開く。



「何もじゃない。飴とチョコ食ってるし、コーヒーも飲んでる。



それに………やっと感覚を掴んできたんだ……。俺のことなら心配する必要はない」



そのまま曲がり角を曲がって行き、その場から姿を消した拓也。



自分たちが言ってもどうにもならないということを痛感している王とメルは、お互い俯いたまま黙り込んでしまうのだった。



・・・・・



翌日早朝。まだ空は暗い。



時刻にして6時頃、王妃の部屋の防音結界の中で継続的に聞こえていたペンを走らせる音が軽快な手の動きと共に止まった。



「完ッ成!


ヒャッッハアアアアアアアアアアアアアッッアアアアアアアアアァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァッァァオオォォォォォッェェェェェェェェェェェェッ!!!!!」



どうやら王妃の肺の構成式が完成したようだ。



大喜びする拓也は奇妙な叫び声を上げながら、防音結界内の床を派手にのたうち回った。


そのさまはまさに世紀末である。





「ん゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛!!!!」




今までしてきた苦労を爆発させ発散させている拓也、渾身の魂のシャウト。


防音結界内なのをいいことにやりたい放題である。




「……」



そして彼のそんな姿をビクビク震えながら見守るある人物。


部屋の入り口のドアに半身を隠しながら拓也の方を覗く、美しい金髪を伸ばした彼女は、恐ろしい物を見てしまったと言わんばかりに目を見開く。


拓也が彼女の存在に気が付かないのは、彼女が保有するステルススキルが強力過ぎるという理由があげられるだろう。しかしそれもずっとは続かない。



「!!」



次の瞬間、拓也が遂に彼女の存在に気が付いた。



仰向けの体勢で、ぐりゅんと首を大きく上へ逸らし、彼女の顔を確認する彼のその姿はまさに化け物。



「ひぃ!!」



目が合ってしまった恐怖に、小さく悲鳴を上げる。


何故安全であるはずの王城でこのような気分にならなくてはいけないのだと理不尽な気持ちになるが、体は目の前のクリーチャーが発する形容し難い恐怖に正直であった。


勝手に後退りを始める足。言うことを聞かない自分の体の一部をなんとか制御下に置こうとするが、それすらも恐怖で阻止されてしまう。



「ぁ…あ?ぁ゛ぁ…?………お゛ぇぁ゛……?」



後退りするも、ドアの枠にすぐに背中が当たり、動きが止まる。


その間に拓也は仰向けのまま、手と足を床に付け徐々に立ち上がり始めていた。


所謂ブリッジである。



「…へ…ぇへ……ぇ゛ぇ…」



その体勢のまま右手と左足を一歩踏み出し、メルが後ずさった分を縮めると、目を細め、口角を三日月の様に釣り上げて作り出すマジキチスマイル。

時間帯、光源がほぼ無い暗い部屋の中という状況を合わせて最早ホラーである。



今にも走り出してこの場から逃げ出したいメルだったが、如何せん体が言うことを聞いてくれない。


ともかく拓也が接近した分の距離を離れようとするメルだが、足が動かないという以前に背中はドアの枠に付いてしまっている。


更に離れる為にはこの部屋から脱出するほかない。彼女がそう結論付けた時だった。




「…キイイイィィィエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエェェェェェェッ!!!」




耳が劈けるほどの大絶叫。思わず耳を覆い、目を瞑ってその爆音をしのいだメル。



しかしそれは悪手となった。




「ッ!?イヤァッ!!」



目を開ければ飛び込んでくる最悪の光景。


ブリッジのままとんでもない速度で四足歩行を始めた化け物は、先程同様の不気味な笑顔のまま自分へと向かってきているのだ。



「!?体が!」



その叫びがきっかけか、動かなかった足が重い鎖を外したかのようにようやく自由になる。


目の前のヤツは本能的にヤバいと確信した彼女は、そのまま韋駄天如き速さで廊下へと飛び出した。



「ッ!ハァ!!っう……はっ…ッハ!」



呼吸は乱れ、額には嫌な汗が滲む。



まるで迷路に広がる廊下を駆け回り、曲がり角を左へ右へ。背後からする足音。まだ距離はある。


メルは後ろからついて来ているであろうものを振り切るためにひたすら走った。



一国の王女がこのような振る舞いでいいのかと思う人もいると思うが、少し考えてみて欲しい。


あんな化け物の相手を相手取って戦うなんてことは、たとえ祈祷師だろうがエクソシストだろうが役不足すぎるのだ。


そんな彼らでもできないであろうことを王女が出来るはずもない。そう、仕方ないのである。




「……ッハァ…っく…!」




ふと気が付けば背後の足音が無くなっていることに気が付く。



ゆっくりと後ろを振り返ってみれば、長い直線の廊下。


その直線にあの化け物はいなかった。




「……ハァ…ん……どうやら…やったみたいですわ」



膝に両手を付き、呼吸を整える。



恐怖からの脱出に心の底から安堵するメルは、自分の胸に手を置いて勝利の微笑みをその顔に浮かべた。









…しかし彼女は気が付いていない。





自分の発言と行動が余裕のフラグだったことを……




『ペタ……ペタ…』



前方から聞こえる不気味な音。



メルは思わず音のする方へ振り向く。



視界に入ってきたのは、前方8メートル先のT字路。音はその先から聞こえている。



張り裂けそうな心臓の音を誰にも聞こえないように押さえつけようを胸を押さえつけるが、生憎音は大きくなる一方。



そしてソレは遂に姿を現した。



腕、頭、胴体、脚。その順で登場する。おまけに天井に張り付きながら。



「ッ!!」



恐怖の余り意識が飛びそうになるメルだが、いつの間にか足の方が先に動き出していた。



来た道を戻り、廊下を全力で疾走。


城の中だというのにも関わらず全力の身体強化をした彼女は、走り去った場所に旋風が発生するほど速かった。


流石はSクラス…と言いたいところだが、今の彼女のこの速さは恐怖によって引き出されているモノ。


つまり人間とは死ぬ気になればここまでパフォーマンスを上げることが出来るのである。



遂にはフェイントまで駆使し、行く手を予想させぬようにしているこの王女。

プロサッカー選手も真っ青なボディフェイントの切れ味だ。



左右に体を振り、左の廊下へ飛び出す…と見せかけ、左足に乗せた重心を切り返して右の廊下へ走り出す。



メルはそこで背後から迫る化け物の様子を探るべく後ろを振り向いた。



「キョェェイ!キョエエェェェイッ!!」



「イヤァァァァァァァァァァァ!!}



しかし一定の距離を保ったままぴったりと着いてくるそれは離れる気配はない。


それによく見れば顔面に謎のお札が張ってある。



もうこの世のものとは思えないモノを見てしまったメルは、振り返ったことを深く後悔し、廊下を物凄いスピードで駆け抜ける。






そして同時に純粋な怒りが彼女の心を満たす。


何故何も悪いことをしていない自分がこんな目にあっているのか?よくよく考えればただ母親の部屋に入っただけなのに自分が負われる理由が分からない。


そんな疑問は怒りへと変化し、満を持して限界点を突破した。



「これでも食らいなさいッ!!【サンダーボルト】【エクスプロージョン】ッ!」




床、壁、天井を縦横無尽に這いずり回る化け物にまず放ったのは雷の矢。


クロスボウなどで用いられるような短く太い矢が拓也の体に突き刺さり、さらに襲い来る矢は彼の体を後方の壁へ固定する。



そして止めとして放ったのはお馴染みエクスプロージョン。



メルの攻撃は見事に化け物に直撃し、火球は大爆発を起こす。



「い、今のうちですわ!」



その隙に走り出し、とにかく遠くへ逃げる。


一階の倉庫まで逃げた彼女は、物置の扉を開き、そこへ飛び込む。




「…真っ暗ですわ……」



しかし追っ手の存在を気にしてドアをすぐ閉めてしまったため、逃げ込んだ先の明かりの場所が分からない。


暗中模索。魔力灯のスイッチを探すべく暗黒へ伸ばされた手は、何かをつかんだ。



「…?なんでしょうか……あ、剥がれてしまいましたわ……」



相当緩く張られていたものなのか、それは簡単に剥がれてしまい彼女の手の中には長方形の薄い紙のような物が残る。


目を凝らしてみてみるが、暗闇のために何も見えない。



とりあえずこれからどうしようか…そんなことを考えていた時…




なにやらその紙のようなものを剥がした場所から人の笑い声が聞こえ始めた。




「ケケッ!ケケケケケケケケケケケケケケケケケッ!!!」



収まっていた恐怖がぶり返し、彼女の額に再び汗が滲んだ次の瞬間、その笑い声を発しているであろう人物の顔が青白い光でライトアップされる。




「みぃつけた…☆」



それはさっき撒いたはずの化け物だった。


自分の手に握られていたのは、意味の分からない文字が書かれている先程コイツの顔に張られていたお札。



そして…後に彼女が語るに、そのお札の下に隠されていた表情は、彼女が最初に目撃したものより5割り増しの不気味すぎる笑顔だったという。




この後彼女が大絶叫したのは言うまでもないだろう。




・・・・・


時間は流れ午前7時。


日は昇り、窓から差し込む光が眩しい。



二人は王妃の部屋の一角に居た。




「いってぇ………何も本気で殴ることないだろ」



「あなたがあんなことをするからですわ!!」




両方の頬をリスの様に腫らし、恨めしそうにそう呟く拓也。


メルはさっきの出来事がよっぽど怖かったのか、目に涙を浮かべながらそう叫んだ。



それに対し拓也は、机の上を整理しながらめんどくさそうに返す。



「だって床転がり回ってるところ見られたんだぞ?ただの可愛らしい照れ隠しじゃねぇか」



「あんな照れ隠しがあって堪るものですか!!」



「まぁまぁ、思春期なんだよ許せ。それから…相手が俺だからよかったけど、城の中で魔法なんてぶっ放してんじゃねぇよ。それに爆発系とかアホか、結界張ってなかったら城の一角ぶっ飛ぶところだったぞ


…おまけに移動中もお前が叫ぶから防音結界常に移動させながら発動させなくちゃいけなかったし……」



「確かに魔法はやり過ぎましたわ……というかあなたの方が叫んでましたわよね!?}



「否定はせんよ」



そう言いながら必要な書類を纏め机の引き出しへ放り込み、机上に置かれたガラスの容器に大量に盛られた飴玉を二つ取る。



その一つをメルへ投げ渡し、もう一つを包み紙を取り、自分の口に放り込んだ。



「まぁいい運動になったよ、凝ってた体がほぐれた」



「……ほぐすならストレッチでいいではないですか…」




何故か憎めない彼の人柄。メルは愚痴を零しながら飴玉を口に含んだ。




「あら、朝から仲が良いですねぇ」



そこに目を覚ました王妃が、二人へ声を掛ける。


メルは完全に拓也から興味が失せたと言わんばかりに彼女に振り向き、そちらへ駆け寄った。



拓也も防音結界を解き伸びをした後、包み紙をゴミ箱へ捨てる。



「お母様おはようございます!身体の調子はどうですか?」





「えぇ、凄くいいわ」



そう答える王妃は、口元に魔方陣こそあるものの、それを除いてはいたって健康そのものに見える。


そんな様子を拓也は何度か首を回しながらコリをほぐす。そして再び椅子に座り込み、引き出しから蓋がされたシャーレを取り出す。



透明なガラスケースの中にポツリと存在するピンク色の小さな塊を観察し、真剣な表情で小さく頷いた。



「それは何ですの?」



「ん?あぁ、ミラーナさんの肺」



それをこちらへ戻ってきたメルが後ろから覗き、そう尋ねる。


拓也は簡潔にそう返し、左手に複雑な光の魔法陣を展開してその魔法陣から放たれる柔らかい光を肺と言った物体へ当てた。



「その魔法は……一体どんな意味が?」



彼女の質問に対し、拓也は手を止めることなく解説する。



「光の特性、【治癒】ってのは間違いではないが、実は【活性】という言い方の方が正しいんだ。


俺が作った【ヒール】の魔法も、効果は傷口を塞いだりすることが出来るだけで失った血液は戻らないだろ?

だからこの魔法を使って病気を治癒するには、免疫や関わる臓器などを活性化する必要がある。

決して光の特性が直接作用して病気を治すわけじゃない。



今やってるのは、この小さな細胞を活性化させて急速成長させてる作業」



「……難しいですわね…」



「……………そうだな」



拓也もかなり集中しているのか素っ気なくそう返し作業に没頭し始めた。



メルはそんな彼をこれ以上邪魔をするのは悪いと思いそっと部屋を出ると、王妃の部屋の前に用意していた彼の分の朝食をトレーに乗せ、彼の左後ろの机の端へ置き、部屋を後にするのだった。




・・・・・



「ミシェル~、たっくんいないと暇すぎるよぉ~!!」



「仕方ないですよ、手が離せないんですから」



昼食中にジェシカが机に突っ伏しながらミシェルにそう零す。


ミシェルはいつ戻りクールな表情でそう返し、食事を口に運んでいた。


しかしそのミシェルも、食事の時間もビリーとセリーが増え賑やかになったが、彼が居ないとこうも盛り上がりに欠けるのかと再度認識する。



「鬼灯君いつ戻ってくるのかな?」



「まぁそのうち戻ってくるんじゃない。でもこの寒さだし体壊さないように気を付けてもらいたいね」



セリーとビリーもすっかり溶け込んでいる。



彼を心配するかのような皆の発言に、震えて拳を握る人物が一人…メルである。



「毎朝顔を合わせるこっちの身にもなって欲しいですわ……」



メルは昨日の朝、そして今朝の出来事を思い出しながら握った拳を机に押し付ける。



プルプルと小刻みに震える彼女を純粋な表情で見つめながら、単純に疑問に思ったという感じでジェシカが質問する。



「え、なに?二人ってそういう関係だったの?朝ベッドで…的な?」



拓也の代役のつもりなのだろうか?今日のジェシカは下ネタが快調である。


その質問に、貌を赤くしながら必死に否定するメルを見て、ジェシカは満足そうに微笑んだ。




「ち、違います!断じて違います!…ただ朝会うたびに何かしらふざけた真似をするのですわ」



「拓也の事だ、きっと地面を這いずり回ったりするんだろうね」



「な、何でわかったのですかアルスさん!?」



「ハハハ、感だよ」



そしてこの男アルス=クランバニア。相変わらず腹黒くそして何を考えているのかわからない。


おまけに拓也の行動すらお見通しとは恐るべき人物だ。




・・・・・



「お母様、只今帰りました」



時刻は午後5時30分。


日は既に沈んでおり、外は既に暗い。



そんな中メルは王妃の部屋のドアを開けながら自分が帰宅したことを報告した。



「あら、お帰りなさいハイム。今日はちょっと遅かったわね」



「それが…少しお友達と話し込んでしまいまして」



「うふふ、それなら仕方ないわね」



いつもより少し帰りが遅かったことに心配そうな表情を浮かべてそう聞いた王妃ミラーナ。


しかしそれが友達との交流のためだと知ると、嬉しそうな表情に変わりそう言うのだった。



「でも、帰りが遅くなることが分かってるときや外泊するときはちゃんと報告すること。いいわね?」



「はいお母様」



指をピンと立てて喋る王妃に相槌を打ったメルは、辺りをキョロキョロと見回し、ある人物がいなことに気が付き首を傾げる。



「お母様、…あの男はどこへ行ったのですか?」



いつもいるはずの部屋の隅にもいない。


そこで拓也の居場所を知っているであろう王妃にそう尋ねた。



「あぁ、拓也さんなら今そこでシャワーを浴びてるわ。つい先程までそこで魔法を使ってたのですけどね」



尋ねられた王妃は部屋にあるドアの一つ、シャワールーム繋がるドアに視線を送りながらそう言う。


メルは軽く頷きながら身の回りで起こった学園の話をしようとする。


その時だった。王妃が思い出したように口を開く。



「あぁ、そういえばここ最近体調が悪くて一人でシャワーを浴びられなかったからあそこのシャワールームあまり使ってなかったわ。


確か……大きいタオルは置いていなかったと思うの……そこのチェストに入っていると思うから持って行ってあげてくれないかしら?」




・・・・・



「さぁて……一体どうするべきだ?」



広めの脱衣所で拓也がそう呟いた。


流石王城、ただの脱衣所だというのに中々の広さである。



ー…これは困った……まさか普通のタオルしか無いなんて……


とりあえず一つ腰に巻いておこう…ー




いつまでも全裸で居るのもマズいと思ったのか、とりあえずタオルの山から一つ、真っ白な柔らかい生地のタオルを腰に巻く。


そしてその恰好のまま、左手を腰に、右手の指で顎を触りながら考える。



ー…どうする…ここにあるタオルを大量に使えばとりあえず服を着れるまでには水分を拭き取れる…ー



しかしここで拓也の頭に一つの不安が過る。



「…でも洗濯する人が大変だよなぁ……」



それは日頃家事をこなしている自分の体験を元に導き出した考えだった。



ー…風魔法で送風して自然乾燥でもさせるか……それとも炎で……いや、これだとお肌に負担が……ー



他の方法を考える拓也だが、如何せんいい方法が思いつかない。


おまけに考えていることがなんとも女子である。



「ハァ…何故私が…」



そんな時、唐突に脱衣所のスライド式のドアが開いた。



ドアに背を向けていた拓也はそちらへ振り返る。


そこには見慣れた金髪を、今日は母親に倣ってか三つ編みにしたメルの姿。


俯き加減でそんなことをぼやきながら入ってきた彼女は、落としていた視線を上へあげる。



そして拓也と目があった。



「……あ」



間隔をあけて彼女の口から零れる意味のない音。


現在進行形で不覚にも肉体美を晒している拓也は、何故か無言で彼女を見つめ返す。



「ご、ごめんなさい!」



すると、気まずくなったのか視線を明後日の方向へ逸らし、その頬を赤く染めるのだった。





そして生まれる無言の空間。



何を考えているのか、拓也はボディービルのリラックスポーズをしながら彼女へ向き直った。



「別にそんなつもりは無かったのですわ!…私はただお母様に……これを持って行けと……」



恥ずかしそうに頬を染め、拓也をなるべく視界に入れないように視線を泳がせる。



その間も拓也はリラックスからラットスプレッドのポーズに移行し、広背筋を披露する。



「こ、これ!持って来てあげましたから使いなさい!!」



視線は合わせないまま、雑に王妃から持って行くように言われたタオルを差し出し、そのまま固まるメル。



彼女がそんなことをしている間にも、拓也は身体を斜めに見せサイドリラックスへ移行。そのままサイドチェストで胸筋と肩、脚の筋肉を披露していた。


まともな思考をしている人間ならそろそろこのドヤ顔をぶん殴ってやりたくなるのだろうか、生憎普段は常識人であるメルは、現在まともな思考を失っている。


それをいいことに更に拓也は両手を上げ、オリバーポーズへと移っていた。




そしてそのポーズのまま一言。



「健全なる筋肉は、健全なる肉体に宿る」



ドヤ顔でそう言い放つと、メルの差し出したタオルに手を伸ばす。


それを使って体の表面の水分を拭き取ると、いつまで経っても硬直している彼女へ向けて口を開く。



「あの……すみません、そこに居られると着替えられないんですが………



それとも見たいの?……まさかお前も…筋肉フェチ……なの?」



最後の方には、彼にとって恐ろしい存在の事を思い出し、生まれたての小鹿よろしく震える拓也。



「ご、御免なさい!!」



メルは拓也にそう言われ、何故まだここに居るのかと自分の行動を疑問に思った後、一瞬真っ赤になったかと思うと勢いよく脱衣所を飛び出していった。




・・・・・



「さて、拓也君。話しって何かな?」



時刻は午後6時。


王妃の部屋に集まった王、王妃、メルら三人は、自分のデスクから引っ張ってきた椅子に座り必要な書類を握る拓也に注目する。



「ミラーナさんの移植用の肺が完成しました。そこで早速、今夜手術を行おうと思います」



「………そうか」




「安心してください、大丈夫です」




部屋に漂う真剣な雰囲気。


王は思わず神妙な顔でそんな声を漏らすが、拓也がすかさずフォローに入る。



その声で落ち着きを取り戻した王は、王妃と顔を見合わせ少し微笑んだ。



しかし、メルだけは心配そうな目でなにかを訴えかけようとしている。




「麻酔の手段は、食後に遅行性のカプセルタイプのモノを処方します。


ミラーナさんが寝た後、さらに注射で麻酔を打ち、意識をより深く落としてから手術を始めます。


何か気になることはありますか?」



実際に使用するを出してそう説明する拓也。


質問は無いかと周りに声をかけると、王妃が軽く手を上げる。



「その手術の時間はどのくらいかかるのかしら?」



「切開して肺の取り換え、縫合までは30分~1時間程です。そこから光魔法で傷口を塞ぎます。


翌朝にはすっかり良くなっていますよ」



「そう、それは楽しみね」



上品に微笑んで見せるミラーナは、ベッドに横になりながらそう言った。


続いて王が口を開く。



「その交換用の肺というのは今どこにあるんだい?」



「あぁ、それは空間魔法の【ゲート】の中の異空間にしまってあります。

メルも居るので精神衛生上よくないかと思いまして」



「あぁそういうことだったのか。わかった。…どうか頼むよ」



「任せといてください。


それと個人情報保護のために、解析データを記した書類と摘出後のミラーナさんの肺は、手術成功後燃やして消滅させます。


それでいいですか?」



「あぁ、それでお願いする」





「じゃあ俺は少し準備してきます。薬はここに置いておくので食事後に水と一緒に呑んでください」



拓也はそう言うと、小瓶に入っているカプセル状の薬をサイドテーブルに置き、椅子から立ち上がる。



そのまま部屋のドアを開けると外へと出て行った。




迷路のような廊下を歩く拓也は、一つ大きな欠伸をする。



すると背後から唐突に声がかかった。



「…眠いのでしたら……一度寝た方が良いですわ」



「ッうわ!気配消して近づいてくんなよ心臓止まるかと思っただろっ!!」



「なっ!なんですかその言い方は!!別に気配なんて消していませんわ!!というよりそのような技術私にはありません!!」




大袈裟に驚き、後ろを振り向いてよろめく拓也。彼が真剣に気が付けなかったのは、きっと彼女のステルススキルが高すぎることにあるのだろう。

彼女もいきなり彼がビクリと震えたことに驚いたのか、同じように身体を一瞬強く震わせる。



拓也は害のない人物だと判明したことで再び廊下を歩み始める。



そしてメルも何故か彼の後ろをついていく。



「…何故ついてくる」



「……ですから…眠たいのなら一度寝た方が………心配ですし」



「俺は人智を超越してるから大丈夫」



「え、いや…眠気で手元が狂ってしまったらという意味でお母様の心配をしているのですが………」



「………………………ツンデレ乙」




拓也は勘違いしてしまった事に対して少し恥ずかしくなって低いトーンでそう返す。


メルはツンデレという言葉に疑問符を浮かべるが、今はきっと関係ない事だろうと独自に判断して意味を尋ねるのをやめた。



「まぁ…その辺りは大丈夫だ、俺を誰だと思ってる」



「そうですけれど……一応あなたも人間なのですから、これだけ徹夜続きでは流石に…」



「少しは俺のことを信用しろ、この程度で手元狂わせるなんて無いから」



そんな会話をしながら給湯室へ来た二人。拓也はゲートを開くとステンレス製のバットと、手術に必要な道具一式を取り出す。


続いて水の入ったガラス製の容器と金属製の深い容器を二つ取り出し、金属容器へ注いだ。



「何を始める気ですの?」



不思議そうにその光景を眺めるメルは拓也の斜め後ろからその光景を見守る。


拓也は続いて取り出したもう一つの液体をもう一方の金属容器へ注ぎながら彼女の質問に答える。



「消毒。一応昨日消毒しといたけど心配だからもう一回しとく」



そう答える拓也。メルは興味深そうな視線を機材に送る。


彼女はきっと気が付いていないだろうが、給湯室全体に菌の侵入を防ぐ結界が張っているあたり拓也である。



拓也は真剣な面持ちで、手元にある水ともう一つの液体、エタノールを混ぜ、濃度がちょうどいい感じになったと判断すると、ゴム手袋をはめてメス、医療ハサミなどを丁寧に沈めた。



そして拓也は金属容器に視線を落としたまま、驚愕の事実を口にする。



「俺が徹夜で作業してる理由な……実はミラーナさんが結構危ない状態なだからなんだ」



「……え、…え!?ど、どういうことですの!?」




「そのままの意味だよ、病気が結構進行してる。だから急ぐ必要があった。


余裕があるなら俺だって飯食って寝るわ」



メルは彼の話した事実に思わず目を丸くして口調を荒げる。



「な、何故そんな重要なことを黙って……何故さっき言わなかったのですか!?」



「今から手術なんだ、患者のメンタルにダメージを与える行為になり得ると判断した」





目に涙を浮かべて悔しそうに歯を噛みしめるメル。


拓也はそんな彼女に振り返り、いつものようにニヤリと口角を釣り上げ、彼女の不安を拭い去る為に口を開いた。



「唯一の不安が肺が完成できないということだったが……それはもう無くなった。

一応失敗したときの為に、肺に関する資料は残してあるからすぐに作り直すことも可能。


この世に絶対なんて事は絶対にない。けど今回の件俺は限りなく自信がある。


だからあえて言っといてやるよ。ミラーナさんは絶対に助ける」



彼にも不安が無いわけではない。


しかしここで言い切った、限りなく自信があると。



メルは涙をためる瞳で拓也の事を見つめ、静かに言葉を紡いだ。



「………絶対………絶対ですからね?」



「お任せください、王女殿下」



「や、止めなさい。そう呼ばれるのは慣れていないのですわ」



「へーそうなの~。じゃあ…任せときな」




何故か拓也がそう言うと安心してしまう彼女は、会話の中で思わず微笑む。


拓也はそんな彼女の仕草を確認すると、こちらも安心した様にそう言い、作業していた台の方へ向き直り、手術道具を取り出し始める。



その彼の背中を無言で見つめるメル。服を着ていると、同じ年代の男性のそれと何ら遜色ないその背中だが、今の彼女の目にはとてつもなく頼もしく映るのだった。







・・・・・




翌朝、いつものように朝日が昇る。



今日は土曜日で学園は休みである。


普段なら今頃ドレッサーの前に座り、寝癖が付いた髪を櫛でとかして、寝間着のルームウェアから私服に着替えているメル。



しかし彼女はドレッサーの前ではなく、ベッドの端に腰を掛けていた。




「……きっと……きっと大丈夫ですわ…」



自分一人しかいない部屋の中でそう呟く彼女は、忙しく立ち上がったり歩いてみたり、また座ってみたり。そんな行動を繰り返す。



邪魔だから7時までは部屋に入ってくるなという拓也の言いつけを従順に守り、自分の部屋に戻った彼女は、結局一睡も出来ずに今に至る。



時計の針は現在6時50分を示している。彼女はそれをじっと見つめて一言。



「ちょっとくらい…いいですわよね」



謎の理屈で自分をそう納得させると、メルは廊下へ出て母親初心の部屋への道を歩き始めた。



その道を歩き、部屋に近づけば近づくほど彼女の歩みは重くなる。



それは彼女の頭の中にどうしても存在していた”最悪の状況”のせいだった。



「大丈夫……きっと成功していますわ。あの男は………そう約束いたしました」



そう言い聞かせるが、どうしても足は重りを付けたように重かった。



必死に前に動かし、そして遂に王妃の部屋の前に到着する。




知るのが早いか遅いか、ただそれだけ。


そう自分に言い聞かせると、メルは冷たいノブに手を掛けゆっくりとドアを少しだけ開く。



「…」



そこから少しだけ首を覗かせ、中の様子を恐る恐る窺う。



すると見つけた。ベッドに横になる母親の姿を。


もっと目を凝らし、彼女の姿を確認するメル。



「!」



そして見つけた。彼女の胸部がゆっくりと上下している。



どうやら手術は成功のようだ。



「…お母様…よかった………」



安堵し胸を撫で下ろす彼女はドアを開け放ち、母親のもとまで歩み、そっと寝顔を確認する。



「ちゃんと呼吸もしていますわ…」




次に視線を部屋の端にやるメル。



この件の功労者は、イスに深く沈み込み、両腕を組んで目を瞑っていた。


きっと眠っているであろう彼を起こさないように、足音を消してそっと近づく。



「…………ありがとう……」



そして目に嬉し涙を溜めながら、目の前で眠る拓也に向けてそう感謝の言葉を述べた。


当然だが返事は無い。



「…余程疲れているのですね……お疲れ様です、拓也さん」




自分がこれほどまでに近づいても起きないところからそう解釈した彼女は、そんなことを言う。



同時に始めて彼の名前を呼んだなんてことを思い、今まであの男やあなたという代名詞でしか呼んでいなかった自分は失礼だったなんてことを考える彼女だった。



「拓也さん…あなたはすごいですわ。私と同い年ですのに、この国最高峰の医療団が治せなかった病を治してしまうなんて。


きっと私はあなたの事を見誤っていたのですわね、ごめんなさい」




優しい微笑みを浮かべるメル。



彼女はそっと拓也の頬に自分の右手を添えると、今まで見せたものとは比にならない程…花畑一面の向日葵が開花したかのような笑顔を浮かべ、優しく口を開く。



「母を助けていただいて…心から感謝いたします、拓也さん」



そういうと同時に、目にたまった涙が頬を伝って床へ落ちた。



カーテンの隙間から差し込む朝日が幻想的に拓也とメルを照らし、彼女の目に朝日に照らされる拓也の顔が映る。



これといって良くも無ければ、これといって悪くも無い。所謂フツメン。


通常では表情筋が緩んだ呑気な顔や、ニヤけが付加されていたりするのだが、今の拓也は真顔。


いつもとは違う表情だからか、メルはその顔に、少しだけだが凛々しいと感じてしまっていたのだった。



「まだ6時58分だぞ、俺は7時まで入ってくるなって言ったはずなんだけどなぁ…」



「ひゃあ!?」



するといつから起きていたのか、突然拓也が目を瞑ったまま溜息交じりにメルにそう発言した。



寝ていると思っていた人物がいきなり声を発したことで思わずビクリと体を震わせ、彼に触れていた手を慌てて離すと、胸の前で量の手を軽く重ねる。



メルは混乱で情報処理がうまくできない頭を何とか回し、噛みながらだが拓也に質問する。



「い、いちゅからおぉ、起きていたのですか!?」



「…見ての通り今起きた所だけど……一応お前が廊下歩いてる時から気づいてたけど知ってる気配だったから思わず寝ちゃった。


んでビンタで起こされるかと思って急いで先に飛び起きたんだが…どうやらそうじゃないみたいでよかった」



「そ、そ…そうですか……」



大欠伸をして目じりに涙を浮かべた拓也は、思い切り伸びをしてから椅子から気怠そうに立ち上がる。



メルはとりあえず自分が彼に触れていたことを変な意味でとられなかったことに安堵し、同時に何故あんなことをしてしまったのかと自分に問いただす…が、答えは見つからない。



「まぁちょうどいい。あっちはもう起きてたみたいだぜ」




そう言い、王妃の方へ視線を送る拓也。


その先には、ベッドからゆっくりと上半身を起こし、バレたかと苦笑いを浮かべる王妃の姿があった。


昨日までと違い、口元に酸素を供給する魔法陣は展開されていない。


彼女は今、しっかりと自分の力で呼吸をし、生命活動の一環をしているのだ。




「ふふ、気づかれてたのね。


おはようハイム、昨日はよく眠れたかしら?」



「お母様!体の具合は!?」



「えぇ、もう最高よ。これだけ気分のいい目覚めは久しぶりだわ」



上品な彼女の割には柄にもなく、元気にグッドサインを娘に向ける王妃ミラーナ。


実は昨日一睡もできていないメルだったが、そんなことは忘れ母親の腕の中へ飛び込んでいった。


整った顔を涙でグチャグチャにしながらミラーナの胸に埋まるメル。



そんな中、大きな音を立てて部屋のドアが蹴破られるようにして開け放たれた。



「ミラーナ!!」



「あら貴方。おはよう」




颯爽と登場してくれたエルサイド国国王。


セットしていない為か、いつもに増して散らかって見える頭。



しかしそれに反して、その顔に浮かんでいるのは妻の身を案じる夫の顔。


だがその表情は彼女の無事を確認すると徐々に緩み、終いには娘同様グチャグチャの泣き顔に変わった。



周りを不安にさせまいと彼も我慢していたのだ。それが感情の濁流となって涙として彼の頬を濡らす。



「ありがとう拓也君…!ありがとう!!



妻を救ってくれたお礼にはまったくもって及ばないがなんでも褒美に取らせるよ!好きなモノを好きなだけ言ってくれ!!」



ミラーナに抱き付きながら、拓也の方を振り向きそう言った王。



拓也はそれに対してめんどくさそうな顔で、何かを考えるように頭をかく。



ー…自己満足でやっただけだから別にそんなもん要らないんだが……でも何かもらわないと王の気が収まりそうにないぞこりゃ……



どうしようかなぁ…別に給料ももらってるからお金なんていらないし……ー




そんなことを声に出さずに考える拓也は、しばらく考え込むと何かを思いついたように手を叩いた。



「じゃあ何でもいいんで飯を食わせてください。そういえばここ最近ろくに食べてなかったんで空腹で倒れそうです」




「飯?そ、その程度のことじゃとても報いきれないよ!!もっと無いのかい!?金貨とか!!」



「いや……もうほんと限界なんですよ、多分そろそろ三途の川が見えてくると思うん…で早くしてもらっても……いいで…すか………ね」



他にないのかと迫る王。


拓也は強行突破するべく空腹が限界値に到達したぜ…と言いながら前のめりに倒れた。



「わ、わかったよ!とりあえず食事だ!!」



恩人のその惨状に、王も流石に追及を止め、城の使用人急ピッチで働かせ始めた。




・・・・・



その後、大量の食事を食べ終えた拓也は『ちょっと怖い家主さんに剣術の稽古をつけないとだから』というと王の制止も聞かずに空間移動で帰って行ってしまった。



時刻は9時を少し回った所である。



「あの拓也という青年は本当に欲が無いのですね。


人の命を救っておきながら、その恩返しを食事だけでいいと言うなんて」



紅茶のカップを片手に、感心した様にそう言うミラーナ。



そんなことを言う彼女だが本当の拓也は様々な欲に塗れているということを知って居て欲しい。




「私も驚きですわ。普段は呑気で掴み所の無く、いつも一言余計で人の感情を逆なでするような男なのですが……」



「あら、中々酷評なのね」



「当たり前ですわ。あの男は学園で私に何かしらちょっかいを掛けてくるのですから…」



思い出しながら、憎たらしそうに左の拳を握るメル。


その力が母とお揃いのカップを持つ右手に伝わらないように気を付けながら彼女はそんなことを言った。



ミラーナは苦笑いを浮かべ、娘の愚痴に耳を傾ける。



一通り話し終えたメルは、紅茶を一口。愚痴り過ぎ乾いた喉を潤した。



「…という感じで色々無礼なのですわ!」




拓也の事を無礼だといったメル。



ミラーナはそれに対して少し苦笑いを浮かべると、彼女の誤解を解く為に口を開く。



「それはねハイム、彼があなたに対して王族としてではなく友達として接しているからよ。


少し拓也さんと話す機会があったのだけれど、彼は非常に多くの事を考えているわ。

きっとハイムにそういう対応をするのにもちゃんと理由があるのよ。



それともハイムは拓也さんのことが嫌い?」



「…いえ、そんなことはないです」



視線を逸らしてそう嫌いではないと言うメル。



ミラーナはそれを聞くと、おばさんがいたいけな少女をからかうときの様にニヤニヤと表情を緩ませる。



そしてメルにとっての爆弾を投下した。




「そうよねぇ…嫌いな男性なんかの頬に手を添えるなんてしないものね」




刹那、止まるメルの思考。



ミラーナはそんな彼女にさらに追い打ちを掛ける。



「確かに……あの人が拓也さんをハイムの旦那さんにしたい気持ちがよくわかったわ。


肝心のハイムはどうなの?彼の事好きなの?あ、でも好きじゃなきゃ普通ボディータッチなんてしないものねぇ…それもあんなに満面の笑みで」




俗におばさんと呼ばれる生き物は、人の…それも思春期真っ盛りの少年少女の恋愛話が大好物である。


見た目はとてもおばさんに見えないミラーナも、年齢的にはそちら側であったのだ。



攻撃対象になってしまったメルは、一瞬ポカーンとした後、一気に顔を真っ赤に染め、体を小刻みに震わせ始める。



そして勢いよく立ち上がり、動揺を隠すためか口元に手をやり震えながら言葉を紡ぐ。



「お、…ぉお母様…まさかあの時………」



「えぇ、もちろん起きてたわ。後ろからしっかり見させてもらったもの」



「ぁ……ぁ……あああぁぁ!!」



ニヤニヤしながら地面にへたり込むメル。


しかしおばさんの攻撃フェイズはまだ終了していない。




「それで…頬に手を置いて次はどうするつもりだったの?



もしかして……そのまま顔を近づけて接吻?」



「ち、違いますッ!!そんなこと考えていませんわ!!」



目に涙を浮かべながら必死に抵抗する。



そんな彼女の様子を面白そうにして観察するミラーナ。王妃としての上品さは最早無い。


そこにあるのは…そう。おばさんとしての姿だった。



「第一あの男の事なんてッ!!………………」




『好きじゃない』そう続けようとした口は何故か止まってしまう。



その時メルの頭の中では、ここ数日の拓也の姿が映し出されていた。




自分の母を助けるために、寝る間も惜しみ、食事もとらず作業していた彼。


今思い返せば彼が放ったジョークの数々も、すべて落ち込む自分や父親を元気づける為のものだったのだろう。


そして何よりその背中。いつものなんの変哲もない彼の背中と何ら変わらないはずのそれだが、作業している時だけはどんなモノよりも頼もしく見えたその背中。



顔が徐々に上気していくのがはっきりとわかる。



そして最後に、彼の声が映像と共に脳内に響いた。





『絶対に助ける』





彼の黒い瞳。


真剣になった時だけ見られる全てを見通すようなその視線。



その視線が当てられたとき、自分は一体どんな感情を抱いていただろうか?


メルの中でそんな思考が渦を巻く。



「ハイムどうしたの?」



ミラーナのその呼びかけにも答えず、その疑問を解くべく頭を回転させたメル。



しかし自分がそう質問したミラーナだが、やがてすべてを悟ったようにメルを優しい眼差しで見守る。




「わ、私は!///」



そしてその答えに気が付いた時には、メルの顔は朱に染まっているのだった。




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