ヒカリ
「あだ名、な。あるぞ、お前にも」
ヒカリ、だ。彼が言うと、彼女はーーヒカリは、貰った名前を何度も呟く。まるで、言えば言うほど、ヒカリという名前が彼女に染み込むようで。キラキラと輝く彼女に、ぴったりの名前だと。僕は思った。
ギン自身があだ名を考えたわけではないということは、彼がそれを言う時の雰囲気でわかっていた。ではいったい、誰が考えたのか。僕か、彼女か。はたまた、【別の誰か】、か。僕と彼女のはず、ないか。または僕らが、【忘れている】のかもしれない?
……そんなはずはない。僕の記憶はしっかりしている。しかも、彼女もまた、何も知らないのだ。二人が同時に記憶を失う等という都合のいいことなど、起こりっこないだろう。
じわじわと、紙に広がる黒いインクの染み。
……でも記憶を失わせられた、としたら? ただの事故なんかじゃなくて、大いなる陰謀が……。
ちょっとまて。僕は自分で言ったばかりじゃないか。僕の記憶は、しっかりしている。と。
……七年前。遊んでいたのは、本当に僕と彼女だけか?
……本当に僕はギンを知らないのか?
「セイ……?」
心配そうに僕の顔をのぞき込む、ヒカリが映った。
「あ……うん」
唐辛子みたいに萎びた声が、ふにゃふにゃっと口からこぼれる。
どうやら僕はしばらく黙りこんでいたようだ。こういうときに何て言えばいいのかわからず、僕は俯いてしまう。人と会話することなど、全然なかったのだ。強引にギンに引っ張られ忘れていたが、僕は人であることを放棄して生きてきた。今更、人と交わり生きることなど、許されるわけがない。
ーー許されたい。
ビクっと、心臓が震えた。まるで条件反射のように、僕が【許されるわけがない】と心の中で言ったら、【許されたい】と思ってしまった。ヒタヒタと心の奥から、利己がやってくる。
許してくれ。助けてくれ。惨めな叫び声が、聞こえた。
僕はその声を聞きたくなくて、心に蓋をした。防弾防音仕様の、とても頑丈なやつ。
「殴られたところがまだ痛むんでしょ? 無理しないでいいから、少し横になりな」
と言い終わらないうちにヒカリは僕の肩を掴み、ぐっと力を込めて押した。
「ずいぶんと無理矢理だね……」
青空と、ヒカリだけが見える。
「親切は押し売っちゃうものだよ」
弾むような口調で、彼女は光のように笑った。
「ありがと……」
「んー? 何がぁ?」
僕の上に乗ったままどかないヒカリは、とても楽しそうに笑っている。
不思議な感じだ。久しぶりに会ったはずの彼女だったが、まるで今までずっと一緒にいたような心地よさがある。
昔と変わらない、優しさが見える。
「捕まえた」
まるで子供に言い聞かせるように、彼女は囁いた。
「…………え?」
ヒカリの手が僕の腕を強く掴んで、離さない。
「よし、じゃあ俺はこれで……」
「えっ、ちょっと! 待ってよ、ギン!?」
ギンは振り返ることなく、手を少し挙げて去っていった。
謎の急展開に、何よりも戸惑いが勝る。
「僕は……」
薄暗い路地で、僕は女の子に押し倒されていた。冷たい地面の感覚が、背中を這う。
「結局彼、一回も顔を見せなかったね」
「……そうだね」
ヒカリの吐息が顔にかかり、くすぐったい。
「でも不思議。どこかで会った気がするわ」
「僕もだよ」
「あら。親友じゃなかったの?」
「……そうだった」
ヒカリは何も訊かずにいてくれた。
沈黙の中で、二つの心音だけが響いている。
「話したいことがあるの。少し歩かない?」
そういえば彼女が僕をわざわざ探しに来ていたことを思いだす。
僕はうなずいた。
「僕も訊きたいことがあった。とりあえず立とう」
「……逃げない?」
「逃げないよ……」
近すぎるヒカリの顔から目を背けるようにして言う。
「ほんと?」
優しい温かさを頬に感じた。包み込むようにヒカリが両手を僕の頬に添える。
ゆっくりと正面を向かせられた。
最後の抵抗とばかりに、必死に視線を逸らす。
「…………」
「あたしの顔をみて」
あきらめて言うことに従った。
さらさらと流れる髪。
輝くような黒髪だった。光を反射するはずのない黒色でありながら、艶やかな輝きを放つ。
星星のようにきらきらと煌めき、川面に反射する陽光のように眩しかった。
瞳には翡翠の宝石がはまり、強く清らかな光をたたえている。力強い光。でありながら、優しい光でもあった。白と黄色と赤を混ぜ合わせ、最後に太陽のカケラをまぶしたような。僕がずっと前から、惹かれ続けた瞳だった。
「まるで……光みたいだ…………」
「あら、あたしはヒカリよ?」
そういって微笑むヒカリは、やはり眩しかった。