逃走
頭がぼうっとする。なんだか靄がかかっているようだ。
次第に靄が消え、意識が覚醒してくる。
ペチペチと冷たい何かが頬を叩いた。
僕はゆっくりと身体を起こす。
「ここは……?」
手で布団の感触を確かめると、次に僕は男の姿を認めた。椅子に座り、腕を組んだ彼はただ固まったように動かない。
僕がゆっくりと立ち上がると銀の彼は静かに目を開けた。透明な琥珀色の瞳がすっとすぼめられ、次第に冷たさと鋭さを帯びる。
さきほど目を開けたときと、同じ色合いの光がさしていた。
さきほど……?
「おはよう。実はいらないだろ」
銀髪の男の声が頭上から降ってくる。眠気は、ない。
「……どうして?」
「当然だ。丸一日寝ていたのだからな」
そもそもどうしてこの男は、僕が起きるとき必ず赤い実を食べることを知っているのか。
「……何が起こったんだ…………?」
そんな疑問とは裏腹に、僕の口からでたのはさっきの出来事についてだった。
「地震だよ。お前は床に叩きつけられて気を失った」
そうか……。地震か。
あれほど大きな地震は初めてだった。まるで地面がひっくり返ったかのような揺れと、衝撃。
僕は男の後頭部を睨む。揺れる銀髪は、汚れも、清さも。
ーーすべてを吸い込む黒でもなく。すべてを映す白でもなくーー
すべてを反射していた。なにも映さない。
ーー嘘だ。
だからこそ、彼のことは信じられなかった。この男が、僕は心の底から怖いと思う。
「嘘ではない」
ほら。
彼は僕のことを知りすぎている。まるで息をつぐが如く、僕の思考を読み、先回りしてみせる。ボードゲームでの一戦のように。
そして彼は、僕がそのことについて何も言わず、一人で考え込むことも理解していて、わざと先回りをしてみせているのだ。
彼はわざと、僕に疑念を抱かせようとしている。
「早く支度をしろ。そろそろここを出るぞ」
だから、男の言った言葉の意味もすぐに解った。
「……うん」
命令口調で言う男に、僕は黙って従う。
試合に負けたのは僕だ。約束をしたのも僕だ。文句を言う筋合いはなかった。
逆に彼は、僕が何も言わずに従うとわかっていたからこそ、このような勝負を挑んだのだと解る。
「これを着ろ」
頭をすっぽり覆う外套を渡される。
男も同じものを着て、顔を隠した。
「でも……どうしてそんな急いでいるんだ?」
身支度を整え、パンを食べながら男に問う。
「もう少しであれがくる。あれに見つかる前に早くここを出なければ……」
ドンッ! ドンッ! と扉を激しく叩く音が聞こえた。
「……ばかな」
男が小さく呻く。
僕は首を傾げた。
そもそも僕を訪れる人などいない。
ということは……。
「ほら、食ってないで! 逃げるぞ」
パンを持っていた手を強く握られ、思わず落としてしまった。
「あれは、誰?」
扉は悲鳴をあげ続ける。
壊す気だろう。次第に音が大きくなる。
「ちぃっ」
男が窓に手をかけた。
「ちょっ。ここは二階だよ?!」
僕の手を強く掴んだまま、ーーーー飛び降りた。
僕たちは地面に吸い込まれるようにして落ちていく。
どこか他人事のようにそれを眺めていた僕だったが、……。
堅そうな地がすぐそばまで迫ってくる。
あきらめて目を瞑った。できるだけ衝撃を和らげることができるように、力を抜く。
これほどまでに落ち着いているのは、昨日今日で起こったことが、すべて急すぎるせいだろう。
急に殺されて、男が現れて、ボードゲームに惨敗する。
もしかしたらこの地面に潰されたら、いつもの無気力に過ごしている日々に帰れるかもしれない。
「はぁ……。男を抱っこする趣味はないんだがな」
ふぁっ、と体が軽くなったように感じられた。
目をあけるとそこには銀髪を揺らした男が僕の顔をのぞき込むようにして、いた。後ろにはまだ昇ったばかりの太陽が見える。
「うわあ、きもちわりー」
男の顔が遠くなる。それと同時に背中に衝撃を感じた。
「うぁっ」
堅い地面だった。
「男にお姫様抱っことか……」
そういいながらも、男が僕に向かって手を差し出す。
「ありがと……」
どこか複雑な気持ちを抱えて、僕は立ち上がった。
「どこだー!!」
上から女の声が聞こえた。どこか荒々しく、怒っているようだった。
「走れ!」
男は上を一瞥すると、すぐさま走り出した。
「あれは誰だよ!」
男と横に並んで走りながら、叫ぶ。
息はすぐにあがっていった。長年、外に出ずに引きこもっていたツケが今になって巡り巡ってきたようだ。
「……捕まったら命はないと思え」
「え……?」
二手にわかれた道で男は一瞬迷い、右を選ぶ。
「……いったいあの女は何者?」
男が答える気がないのはわかっていた。自分自身への問いかけだった。人は得体の知れないモノに遭遇したとき。脅威を感じたとき。まず何なのかを確認したがる。
知ったところで、どうにもならないと言うのに。
僕は右に曲がる寸前、少しだけ後ろを見てしまった。ほんの一瞬だった。そもそも、僕らを追っている人物をみるつもりはなかったのだ。一瞬の興味。一時の気の迷いだ。けれど。
ーーーー目が、あった。
「みつけた」
か細い小さなつぶやき。
まるで悪魔のようなその小さな囁きは、この距離からでも聞き取れた。
「…………」
身動きがとれなくなった。
まるでこの世の理すべてを掌握したよう。
女の獰猛な獅子のような視線が僕の体を地面に縫いつけた。
一歩も動けない。指一つ、曲げられなかった。
「何をしているんだ。早くこい!」
焦ったような彼の声は、どこか意外だった。
タンタンタンと近づいてくる足音。死が、近づいている音のようだった。蝕まれる。苛まれる。じわじわ。ゆっくりと。僕の身体を、精神を。
もうだめだと。思った。
それは光なのかもしれない。目映い光が、すべてを白に染めあげる。跡形もなく、白に。何もない、白に。
それは夜なのかもしれない。闇色の夜が、あらゆるものを飲み込む。終わりなき、夜に。何もない、夜に。
銀が一閃。光も夜もきりさく。
「じっとしろ」
僕は彼に引っ張られ、路地に面した建物の扉の陰に隠れていた。二人で息を殺す。
タンタンタン。
タンタンタン。
死の音が、すぐそばまで聞こえる。
「…………」
音が、聞こえなくなった。張りつめていた緊張の糸をほぐそうとした瞬間ーー
「しっ」
口元に指を当てて、静かにするよう促された。男は扉を撫でる。取っ手に手をかけた。
激しい音をたてて、扉が開いた。
「……何してるの?」
「ここは建て付けが悪い。無理矢理やれば開くんだ」
「……そんなこと訊いてないんだけど?」
「早くしろ。今の音で他の危ない奴らが嗅ぎつけた」
何も言う気が起きなくて、僕は黙って男を追った。