風降る海で
ぼくが夢から覚めたのは、目の奥が日差しにくすぐられて、くしゃみが出そうになったときだ。
大きな海が見おろせる山の頂上。
木造りロッジの屋根の上。
ここは、緑豊かな木々の枝葉が光の目隠しになって、昼寝をするには一番の場所だ。
寝ころんだまま小さく目を開けると、空をふさいでいる若葉のあいだから、真昼のまぶしさが、ちらちらと瞳におちてくる。
そっとまぶたをとじると、また、からだがほの暖かい空気に包まれる。
きのうは一日中、きょうのようなよい日よりで、ぼくは、うっかりこの場所で寝すごしてしまったんだ。
半分だけ目をあけて、半分だけ夢のなかで、きのうの夜のことを思いかえした。
この山とむこうに見える海のあいだには、ちっぽけな町がある。ふもとの町と海には、いつも、この山から風が吹きおりていた。
うたた寝から目を覚ましたときには辺りはもう真っ暗になっていて、屋根のはしから身を乗りだすと、遠く眼下に見る町にも、ぽつぽつと明かりが灯っていた。
真下の窓からは電気の明かりがもれていて、室内から大勢の人の、にぎやかな声が聞こえてくる。
ぼくは暗がりの屋根から木をつたって地面におり、ロッジの壁によりかかって、とじられた窓のむこう側に耳をかたむける。
聞こえてくる談笑の大半はぼくと同じくらいの年の子の話し声で、ぼくは、それをもっとよく聞こうと、さらに壁にへばりついた。
そういえば、きょうは子ども会かなにかの集まりで、たくさんの人がこのロッジに泊まりに来ていたんだ。
ぼくは一度も山を下りたことがなかったから、たまにこうして町から人がやってくると、すごく、うれしかった。
それがきょうは、こんなにも人が来ているものだから、どうしても我慢できずに、つい窓からロッジのなかを、のぞきこんでしまった。
ロッジのなかには、床に座りこんでおしゃべりをする子、輪っかをつくってトランプ遊びをする子、それからテーブルに着いて楽しそうに話しあいをしている数人のおとなが見えた。みんな楽しそうに笑っている。
ふと、おしゃべりの輪のなかにいたひとりの女の子がこちらの方にふりむいた。
ぼくは、さっと顔を引っこめて、ぺしゃんこになるくらい、壁にくっついた。
胸のどきどきが、背中にあたる木の内側にこだまして、二倍にも三倍にもなって、またぼくの胸にもどってくる。
そうしているうちに、頭上の窓がぱっと開いて、さっきの女の子が顔を出した。
ぼくは、見つからないように、壁にへばりついたまま女の子を見あげる。
空をこめる闇が深くなり、一層に光を増した月を映す瞳の彼女は、日焼けをした茶色い顔に黒い髪がよく似合っていた。
「気持ちのいい風……」
ながい髪が風にゆれると、そう言ってその子は、ひと呼吸、ふた呼吸、深呼吸をして、パタンと窓をしめた。
ぼくはそのままの体勢で、ロッジの明かりが消えるまで、あの子の声を追いかけていた。
朝はやくに、きのうの人たちは山をおりて町に帰ってしまったらしい。
今まで生きてきたなかで、けさは一番不思議な気持ちで目を覚ました。
どうしてなのかは、わからないけれど、きのうのあの子にもう一度会いたい。山をおりて、町に行って、あの子をさがしたい。
目を開くと太陽に手が届きそうな屋根の上で、ぼくはまだ悩んでいた。
悩んでいると、あの言葉がずっと遠くの方から聞こえてくる。
「山をおりたら、帰ってこられなくなるよ」
だれからともなく、昔から繰りかえし聞かされていた言葉だ。
今まで一度だって山をおりたいなんて思ったことはなかったから、全然考えたことがなかったけど、「山をおりたら、帰ってこられなくなる」って、どういうことなんだろう。
じっと考えていると、また聞こえてくる。
「山をおりたら、帰ってこられなくなるよ」
さっきまでゆれていた草木がだまりこんで、こちらを心配そうに見ている気がした。
ぼくは、口を開けて、音を出して息を吸いこみ、はきだした。
悩んでいたけれど、きのうの夜からどうするかは決まっていた。
ばっと立ちあがって、勢いよく屋根から飛びおりると、おどろいた草木が、わっとざわめいた。
山をおりて、あの子に会うんだ。
ぼくが下山道めがけて強くかけだすと、鳥も花も空も、山中の自然が、またザザッとざわめいて、決心したぼくを見送ってくれているような感じがした。
ぼくは、大声でさけんだ。
「山をおりて、あの子に会いに行くんだ」
ロッジの周りには色取りどりの花が咲いていて、どこかのいたずらな女の子が、摘んだままそこに置いていった、一輪の白いアヤメの花を、横切る間際にさっと手に取った。
この花をわたせば、きっと喜んでくれる。
心がうきうきして、かける力はさらに強くなる。
くだり坂が始まるすこし手前で、そのままの勢いでざっと飛びはねると、ぼくは空まで飛びあがった。
豆粒みたいだったちっぽけな町が、今度はもう見えないくらい小さくなってしまった。
空中にいたぼくは、一瞬とまって山にお別れを言い、そこから町をめがけて、山の斜面すれすれに急降下しはじめた。
鳥を追いこし、木々を揺らし、さっきまで片手でつかめそうだった町が、またたく間に目前に広がっていく。
まもなく、近づいてくる町のなかに見覚えのある女の子を見つけた。
さっきまで景色はうつろに見えるだけだったのに、今でははっきりと目が冴え、確かにその子をとらえることができた。
ぼくは空中で一気に減速して、その子の方にゆっくりと飛んでいく。
すると、突然の風に、女の子がかぶっていたぼうしが、かわいいリボンの飾りをゆらしてふわりと飛ばされてしまった。
はっと思ったすぐ直後に、そのぼうしを、となりにいた男の子が跳びはねてしっかりとキャッチした。
男の子はうつむきながら女の子にぼうしを手わたした。
「ありがとう」
女の子も、少しうつむいて、はにかんだ笑顔でぼうしを受けとった。
ふたりのほおは、真昼の夕日に照らされて、赤く色づいていた。
そうか、そうなんだ。
あの子には、あの男の子がいま一番の友達なんだ。ぼくが出ていったら、きっと迷惑なんだ。
ぼくは、すごく悲しくなった。
遠い空から、プレゼントの花をそっと落とすと、もうだれも追いつけないくらいの速さで、遠くへ遠くへと飛んでいった。
小さな波音を立てつづける静かな海からは、ほどなく訪れる夜の気配が漂ってくる。
だいだいにそまった水平線を海岸から見ながら、ぼくは考えごとをしていた。
もう、山には帰れないんだ。
それに、あの子にも、もう会えないなんて。
これから、どうしたらいいんだろう。
海に浮かぶ船は黒い点のようで、風切りのはたはたと振れる姿だけがかすかに見てとれる。
山から吹きおりる風は、いつも町をとおって、それから海にそよいでいた。
ゆっくりと海の上を眺めていると、ぼくは一隻のヨットを見つけた。
見つけた小さな影は、ぼくの視界のはしに入ったり消えたりするのみで、はじめぼくは気にもとめていなかった。
ただ、ぼんやりとそのままでいた。
と、不意に、ヨットの上が反影に照らされ、その途端、見えた人影にぼくは目をうばわれた。
ヨットに乗っているのは、まぎれもなく、日焼け顔のあの子だった。
ぼうしには、かわいいリボンといっしょに、白いアヤメの花が飾られている。
あのプレゼント、受け取ってくれたんだ。
ぼくはうれしくなって、女の子の乗るヨットまで飛んでいった。
「そっか、きみはヨットが好きなんだ」
ぼくは、女の子の笑顔といっしょに、ヨットの帆を力いっぱいあと押しした。
そうだよ。もう帰れなくってもいい。
だってぼくは、自由な風だもの。
二度と山のてっぺんには帰れないけど、この子だけの風になって、毎日、ヨットの帆を押すんだ。
この子の笑顔を、これから何度も何度も、見ていきたいから。
ぐっと力をこめて帆を押すと、女の子の長い髪は、やさしい風にまたふわりとなびいた。
(了)




