1-6
トムは納屋に向かい、錆付き始めた戸を力を入れて横へずらしていく。
人一人が入れるくらいの隙間が開いた時、チコは納屋へ入りこんだ。
トムは戸を全開にするためにチコから目を離している。
チコは納屋の中の卯小屋にかけだした。
納屋の中にある卯小屋はチコの大好きな場所の1つだ。
卯小屋の中には卵を産む酉もいて、黄色い雛のもこもことした羽毛をいじるのが大好きだった。
だが、チコが小屋に近づいても物音ひとつなく静まりかえっている。
チコは小屋の傍らに蹲った大きなヒトのような影に気付く。
影の周りにはたくさんの酉の羽根が散らかっていて、中には居ないはずの赤い色の酉の羽根もあった。
なにが起きているかわからないが、怖くなったチコは父親の元へ走り出そうと小屋へ背中をむけた。
「ギャンッ!」
トムはようやく戸を全開にしたところでチコのあげた変な声を聞いた。
「顔から転びでもしたか?」
元気なのはいいが、チコは歩くより走るの大好きでケガが絶えない。
「おーい。どうしたチコ」
覗きこんだ納屋の中でトムは信じられない光景を目にする。
そこには背中を赤く染めたチコがうつ伏せに倒れていた。
「チコー!」
駆け寄ろうとするが卯小屋の方から、大きな影が飛び出してきた。
トムを2回りは大きくした大申だ。
雨の降る前日に納屋を開け卵を取りに来たときはなにも異常はなかったはずだ。
こんなに大きな疾風申が雨に紛れて納屋に入り込んでいたとは。
「チコ! このクソ野郎! ガッ!!!」
突然左腕に走る痛み。見ると左腕の肘から先に大きな裂傷ができていた。
「クゥゥ。チコ今行くからな」
疾風申は名前の通り、風の性質を使う攻撃や能力を好んで使う魔物だ。
この傷は振りぬかれた状態の申の腕から放たれた魔法か何かだろう。
あと数歩でチコのところに行けるのに。
この世界では身勝手な理由でヒトを襲う生物をまとめて魔物と呼んでいた。
疾風申は娯楽のため、力試しのためにヒトを襲う典型的な魔物だ。
群れへの誇示のため人里に降りてきたに違いない。
群れに戻った際に、纏ったヒトの血の匂いはボス争いで重要な要素だ。
申の腕が振るわれる度にトムの体に裂傷が増えていく。
魔物と野生動物の違いがもうひとつある。
魔物は笑うのだ。
表情筋がヒト並みに発達しているからだろうか魔物はとてもイヤらしく笑うのだ。
トムとチコを襲った申はニタニタとイヤらしく笑っている。
「チコ! チコ!」
トムの悪夢は始まったばかりだった。
納屋と家をはさみ、反対側の花壇のとなりに厩舎がある。
厩舎には荷馬車用の道産子みたいな馬が4頭飼われていた。
1頭目が繋がれているロープを解こうとするが結び目が固い。
解こうとした指先が赤くなるころ花壇の方からマコさんがやって来た。
「納屋の方からチコを呼ぶ声が聞こえるんだけどかくれんぼでもしてるのかい?
なんだかトムが必死みたいでね」
「見てきますんで馬を外しておいてくれませんか?」
「済まないね。納屋の匂いが苦手でね。午はやっておくよ」
「お願いします」
マコさんが卵を納屋に取りに行く度、くしゃみをしていた事を思い出す。
小走りで納屋に向かうと確かにトムさんがチコちゃんを呼んでいる。
だが様子がおかしい。こんなに悲しそうなトムさんの声は初めてだ。
納屋にたどり着き、中を見て悲鳴を上げた。
ナンダコレハ。
腰を抜かしたように座って泣き叫ぶトムさんは赤い水たまりの真ん中にいて。
少し離れたチコちゃんはうつ伏せで赤い背中で。
そんなチコちゃんの背中に足を載せ、イヤらしい笑い方をする大きな毛だらけのヒトがいて。
先程あげた悲鳴はすでに嗚咽に変わっている。
理由もなく流れ出す涙。
苦しいのに吐くことしかできない呼吸。
見たくないのに逸らせない視線。
ただただ逃げ出したいのに震えるだけの両足。
何もできない。
ナニモデキナイ。
疾風申は新たに現れたもう1匹のヒトが大きな声を上げた後に震えるのを見て、愉しくてしょうがなかった。
1匹目は1回腕を振るったら動かなくなってつまらなかった。
2匹目は最初の数回は愉しかったがもう動かない。
1匹目の皮を剥ごうとしたところで3匹目が現れたのだ。
もっと大好きな大きな音を鳴らそうと腕を振り上げ、振り下ろす。
疾風申は3匹目を無視していたら労せずにヒトの肉でお腹をいっぱいにできたかも知れない。