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マコはトムが嘘をついている事に気付いていた。
心配をかけたくない気持ちからついた嘘だという事も。
納屋で何か恐ろしい出来事は確かにあったのだ。でなければチコの着ていた服の背中に走る大きな切れ目は説明ができない。
しかしチコを風呂で洗う時に見た背中にはなんの痕跡もなかった。
チコは目の前で与えた飲み物を飲んでいる。
そんなチコを見ているうちにマコは深く考えるのを止めた。
元気なチコがそこにいる。それだけでマコはよかった。難しく悩んだ顔をチコには見せたくはない。
全身をすぐにでも支配してしまいそうな不安をマコは心に閉じ込める。
母親だけが持つであろう強さで。
おそらく確実であろうお腹の新しい命のためにも。
「誰も家に残らないでいいんですか?」
「残ってるほうが危ないからな。それに数日は申の血の匂いで魔物も来ないだろう」
グロすぎる解体作業はなおも続いていた。
「こんなもんか。牙も大きさから言ってなかなかの値段で売れそうだ。荷午車を出すのを手伝ってくれ」
兎小屋の前に幌のついた大型の荷馬車がある。車輪止めを外し、同じく納屋の中の農作物の収蔵庫前に押していく。そして卸す予定の作物を荷台に山のように積みこむ。その上に藁のような枯草をさらに山のように被せる。
すでに重くてヒトの力では動かすことはできないので、厩舎から馬を連れてくる。さすがにトムさんはロープを解くスピードが違う。
荷馬車に4頭の馬を繋ぎ、中庭まで荷馬車を引かせる。
「桶に水を汲んで午にやっといてくれ。俺は風呂に入って着替えてくる。そしたら出発だ」
「ごゆっくり」
トムさんと入れ替わるように旅行鞄を抱えたマコさんとチコちゃんがやってくる。トムさんが家に入ったのをマコさんが確認すると、
「深くは聞かないけど。本当にありがとう」
そう言って強く抱きしめられた。なにも言い返せない自分が悔しい。
マコさんとチコちゃんが荷馬車に乗り込むのを手伝うと、それぞれの馬に水桶を運ぶ。
あとはトムさんを待つだけだ。
トムは風呂で泣いていた。号泣していた。
自分は弱くなってしまったのか。
結果的にはチコは生きている。だがどうしても納屋で見た倒れているチコの姿が脳裏から離れない。
守れなかった。
魔除けが効いていなかったせいでもあるし、予想外の大きさの魔物がいたからでもある。
だがそれが何だというのか。言い訳ならば他にいくらでもできる。
マコを幸せにするためにこの地へ戻ってきたのだ。
どんな理由があろうとも守らなければならないのだ。
偶々、クラスがいたから助かった。自分ではない誰かが家族を、俺を救ったのだ。
悔しさと後悔で流す涙は最後にすると固くトムは誓う。
風呂へ行く途中のすれ違いで聞いたマコの言葉。
「家族が増えそうよ」
風呂に頭まで沈むとトムは一気に立ち上がった。
荷馬車は明るい道を行く。
風呂に入りボロボロの服を着替えたトムさんが御者台に座り、荷台のマコさんとチコちゃんを確認すると手綱を持ち軽く馬を叩いた。
同じ御者台に腰かけていた俺は身を乗り出して、加速し始めた馬車から畑を見る。
なぜか涙がこぼれる。
戻ってくる事はあるだろうか。
畑仕事をしていた数十日の生活はとても充実していたと思う。
元の世界では、なんとなくで全てのことをこなしていた為なおさらに。
なぜ俺はこの世界にいるのか。何か目的があるのだろうか。
いや。きっとあるはずだ。でなければこんなに中途半端な中年をこの世界に跳ばす理由がない。
天高く上っている2つの太陽。影が交差するほどに離れていて、交わることは決してないのだそうだ。
だが俺はこの世界と交わった。
ならばこの世界に来た理由も探してみよう。
振り向いて眺めたトムさんの農場の光景は、元の世界に帰れたとしても覚えていたいと思った。




