対策会議
1965年5月12日、大日本帝国帝都東京首相官邸地下3階戦闘指揮室で藤咲瑞希内閣総理大臣が対策会議を開催していた。坂内梨華国防大臣が大型画面の前に立ち、偵察衛星からの画像を見せながら説明を開始した。ロシア戦線と中東戦線を優先し、北アフリカ・南米・アメリカの各戦線は放置とはいわないが、優先順位はロシア戦線と中東戦線の次となったがようやく各戦線に大日本帝国からの大規模軍事援助が届いた。
特にロシア戦線と中東戦線の各1個方面軍(3個軍で合計6個師団)には平時兵員数が15万人程度だったのを、残りの人員を空軍の輸送機により大規模空輸を行った。これにより各駐留軍は総数20万人の兵員充足率を満たした。各方面軍の戦力は重厚であり保有する戦車数(約2300両)は、イラン帝国陸軍やロシア連邦陸軍の保有総数に匹敵するほどだった。装備・弾薬は全てロシア連邦とイラン帝国各所に保管・備蓄されていたので、空輸で残りの兵士は送り込まれ準備を整えた。
また空輸という点では、緊急時の空挺師団や空中強襲師団も大日本帝国本土から派遣された。更に大日本帝国は緊急事態だとしてかつて無い早さで、2個軍(4個師団)の重装備部隊を大日本帝国本土からロシア連邦とイラン帝国に持ち込むことを決定した。それは大日本帝国陸軍の1個軍(2個師団)を中核とした緊急遠征軍や、大日本帝国各所に配備されている装備を満載した事前集積船の群れなどが大部隊の迅速な移動を可能としていたのだ。その為にロシア連邦には日本海を渡りウラジオストクに展開しシベリア鉄道で輸送される事になり、イラン帝国にはペルシャ湾に向けて出撃した海軍連合艦隊と共に輸送されていた。
アメリカ合衆国駐留の1個方面軍にも大日本帝国本土から兵員が空輸され充足率を満たしていた。更に4個師団(2個軍)ずつのロシア連邦・イラン帝国・アメリカ合衆国派兵の為の即応待機部隊が緊急派遣される事になった。また2個空挺師団と1個空中強襲師団がロシア戦線に、2個空挺師団が中東戦線に派遣された。常に出動できる体制で国内待機していた事による成果だった。
大日本帝国陸軍の残る25個師団のうち、ロシア連邦・イラン帝国・アメリカ合衆国向けにそれぞれ2個師団(1個軍)が準備されていたが、その部隊はロシア戦線と中東戦線を優先して派遣準備が行われていた。
そして軍需庁主導により各財閥の戦時生産体制が始まった事から、大日本帝国は本土備蓄分を中心に大規模軍事援助を開始した。それは圧倒的な物量であり、各戦線に大量に供給される事になった。その成果は各戦線が安定して戦えるという、状況として現れていたのだ。




