大日本帝国軍統合運用司令本部
大日本帝国帝都東京の国防省は、昨日から戦時体制であった。そしてその中心を担うのが、『大日本帝国軍統合運用司令本部』であった。大日本帝国軍統合運用司令本部が設立された背景と歴史的経緯は次の通りになる。設立時期は1947年1月1日であり、神聖ゲルマン連邦帝国との東西冷戦開始と同時に正式に発足した。その背景は1945年10月1日の大日本帝国憲法改正により、天皇陛下は陸海空軍の大元帥として名誉的地位を維持しつつも、統帥権を完全に廃止したのである。
これにより大日本帝国軍の最高指揮権は内閣総理大臣に帰属する事になった。それは第二次世界大戦に勝利はしたが、その間のみならず第二次世界大戦前からの陸海軍対立の反省が最大の理由だった。統帥権の独立性を主張し特に陸軍は満州事変や支那事変を引き起こし、統帥権干犯問題は政治家が政争の具として利用し、それに呼応して軍が政治への介入を深めていった。
第二次世界大戦には何とか勝利したが、陸海空軍の対立と統合司令部が無い事が大日本帝国軍の最大の弱点だった。そして更に核兵器と戦略爆撃機の統合運用についても課題があり、大日本帝国憲法を改正し統合組織を創設する事が決定されたのである。
法的根拠は改正大日本帝国憲法及び改正帝国国防方針である。新たに大日本帝国軍は内閣総理大臣を最高指揮官とし、陸軍省・海軍省を統合した国防省国防大臣が日常管理を担当する。そして国防省傘下に正式名称、大日本帝国軍統合運用司令本部(Imperial Japanese Armed Forces Joint Operations Command Headquarters)、略称は『統運本部』とされた。位置付は国防大臣直属の最高軍事運用機関であった。
作戦・運用(軍令)を一元的に担当し、軍政(予算・人事・装備)は従来通り陸軍参謀本部・海軍軍令部・空軍総合本部が管轄する。文民統制を徹底しつつ、実戦的な統合運用に特化した組織だった。神聖ゲルマン連邦帝国の軍事独裁体制に対抗する為に、迅速な意思決定と各軍の効率的活用を重視した。
そして新たに生まれ変わった大日本帝国軍の組織構造と構成員は次の通りになる。大日本帝国軍の最高指揮官は内閣総理大臣であり、日常運用責任者は大日本帝国軍統合運用司令本部総長となる。現役軍人で元帥が就任する事になり、内閣総理大臣が任命する。任期4年で陸海空軍から輪番制となり、第三次世界大戦勃発時には陸軍の篠原一馬元帥が大日本帝国軍統合運用司令本部総長であった。
そして主要構成員は次の通りになる。陸軍運用部長として陸軍参謀総長の結城詩織大将、海軍運用部長として海軍軍令部総長の橘明日香大将、空軍運用部長として空軍総合本部総長の中野良治大将、となっていた。
大日本帝国軍統合運用司令本部の部門構成(Jコード制を採用)は次の通りになる。各部門の責任者は中将が就任する事になっていた。
J-1(総務・人事運用部)、J-2(情報・諜報運用部)主に軍事情報収集と軍事情報保全を行う大日本帝国諜報機関の一種ともいえる。
J-3(作戦運用部)このJ-3が大日本帝国軍統合運用司令本部の核心部門であり、陸海空軍を統合指揮を担当する。
J-4(後方・補給運用部)、J-5(戦略計画・演習部)、J-6(指揮統制・通信部)、J-7(新領域運用部) 1960年代に新設され宇宙と初歩的な電子戦を担当している。
そして大日本帝国軍統合運用司令本部本部の所在地国防省内に設置された。人員規模は約3000名(軍人70%、文民職員30%の比率。文民は陸軍憲兵隊と帝国情報庁の徹底的な身辺調査が行われている)となる。大亜細亜連合の各国からも連絡要員として軍人が派遣されている。
以上が大日本帝国軍統合運用司令本部の全容であった。そして大日本帝国軍統合運用司令本部総長の篠原一馬元帥は、主要構成員と各部門の責任者を集めて、更に坂内梨華国防大臣以下国防省幹部陣も出席しての検討会議が開催された。




