13 契約
午後。レオナルドの執務室に案内されたミレイユは、ひたすらに書類を書いていた。机を挟んでレオナルドと向かい合い、何とも言えない緊張感の中で背筋を伸ばす。
次で、最後の一枚だ。
(補佐としての雇用契約、それから、守秘の誓約書……これで、全部かな?)
レオナルドとの間に交わす付与術師の補佐としての契約は、侯爵家との直接契約になる。
レオナルドの研究内容、侯爵家の書庫に収められた古い文献――補佐として知ることになる範囲が、これでもかというほど細かく列挙されている。誓約違反があった場合の罰則、退任後の取り扱い、生涯にわたる秘匿の範囲。ひとつひとつ目を通しながら、ミレイユはひとつ深く呼吸をした。
(やはり、侯爵家ともなればすごいのね)
責任の重さに背筋が伸びる。
そして残りの書類は読み込めば読み込むほど、ミレイユにとって良いことしか書かれていなかった。
衣食住の保証、無理のない勤務時間、好きなだけ使ってよいという破格の研究費。そして、想像していたよりずっと多い給金。
(目を皿にして読んだのに、不利な条項がひとつも見当たらない……)
ミレイユのほうが、申し訳なくなるくらいだ。
顔を上げると、レオナルドはきっちりと組まれた指で書類の山を整えていた。その眉間には、ふだんより少しだけ険しい影が落ちている気がする。
「あの、侯爵様。書けました」
「……ああ」
最後の確認を終えたミレイユは、書類をレオナルドのほうへ差し出した。書類を受け取ったレオナルドは、署名の部分をしっかりと確認している。
(間違いがなければいいけれど)
静けさがミレイユの心音を逆に大きく感じさせる。婚約の書類については、すぐに必要とのことであの日に即座にサインをしたのだが、今さら緊張してきた。
「ありがとう。これで契約は以上だ。もう食堂で働く必要はない」
「えっ」
思わず声が出た。
(そうだよね。いまの立場を考えれば、それが当然よね……!)
侯爵家に迎えられて補助の付与術師として雇われ、しかも婚約者という肩書きまでもらっている。そんな自分が、王都の裏通りの食堂で働き続けるのは、確かに筋が通らない。
食堂で働くのは嫌いではなかった。没落してからなんとか就くことができた仕事だったが、半年のあいだ、ミレイユはあの食堂に救われ続けてきた。
「……ミレイユは、料理が好きなのか?」
ふいに尋ねられて、ぱっと顔を上げた。
「はい。あの、料理って術式と少し似ているんです。素材の性質を理解して、順番を組み立てて、火加減を読んで……うまくいったときの達成感が、似ているなって」
たとえば、固いお肉でも酸性のものに少し漬けておくと、繊維が緩んで口のなかでほどけるくらい柔らかくなるし、玉ねぎを飴色にするときも、最初にひとつまみだけ塩を加えておけば、水分が早く抜けて半分の時間で済む。
素材の性質を理解して、順序を組み立てれば、結果はちゃんとついてくる――そういうところが、術式と似ていて楽しいのだ。
うまく言葉になっただろうか、と一瞬不安になったが、レオナルドの目は柔らかく細められた。ただ、再び眉間に皺が寄る。
「確かに。君は楽しそうにしていたな……」
訳知り顔のレオナルドに、ミレイユは首を傾げる。
「侯爵様、私が食堂で働いているところを、ご覧になったのですか?」
食堂にレオナルドが客として来たら、きっと騒然としたはずだ。いくらミレイユでも絶対に気が付く。そう思っていると、レオナルドはふっと口の端を緩めた。
「噴水の一件の後、気になって足を運んだんだ。姿は変えていたが」
「そうなのですね!?」
全然気が付かなかった。というか、すでに存在をマークされていたとは思わなかった。
(きっと、雇い入れる前にどんな働きぶりか確かめにいらしたんだ)
妙に納得したミレイユは、慌ててぺこりと頭を下げる。
「あの、粗相がなかったならいいのですが」
「いや」
レオナルドは短く首を振った。
「料理はもちろん美味しかったが――皆、君の笑顔に見惚れているようだった」
褒め言葉なのに、口にしているレオナルドの表情はなぜか憮然としていて、視線は手元の書類の角に固定されている。
(今のは……褒めてくださっている、のよね?)
ミレイユは目を瞬かせる。
褒められた内容と、レオナルドの不機嫌そうな顔。ミレイユにはそのちぐはぐさの訳がわからない。
(でも、料理と接客を評価してもらえたのは、嬉しい)
「ありがとうございます。良ければここでもなにか作らせてください。報酬をいただく分、ちゃんと働きます!」
嬉しくなったミレイユは、姿勢を正して明るく宣言する。
レオナルドは、ぱちりと瞬きをした。きょとんとした顔は初めて見た。
ふっとレオナルドの口元が緩む。
「それはいいな。ぜひ頼む」
「はい。お任せください」
ミレイユもつられて笑顔になり、先ほどまでの緊張感が嘘のようにほどけていった。
***
翌日の昼下がり。王都の裏通りへ続く石畳の道を、ミレイユは軽い足取りで歩いていた。
半年も通い続けた道だから、石の凹凸ひとつひとつまで足の裏がきちんと覚えてくれている。
「……」
立ち止まって振り返ると、ミレイユについてきていた足音もぴたりと止まった。
揃いの濃紺の騎士服に身を包み、まっすぐ伸びた背筋と腰に下げた剣を揃えた侯爵家の護衛が六人、整然とミレイユのうしろをついてきているのだ。
(ものすごく目立つのだけれど……!?)
これまで食堂で働かせてくれたお礼をきちんとアデラに伝えたい、とレオナルドに告げたのは昨夕のことだった。
承諾自体はあっさりと得られたのだが、こうして護衛騎士までつけてくれることになってしまった。
(でもきっと、侯爵様ご本人がいらっしゃるよりは目立っていないはず……よね。うん)
そう自分に言い聞かせながら、すれ違う住人たちが何事かと振り返るのを、ミレイユは敢えて見ないことにした。
そうこうしているうちに、ミレイユは食堂の前まで辿り着いた。
開け放した窓からふわりと漂ってくる煮込みの匂いは、半年のあいだ毎日嗅ぎ続けたものだ。ここは、何もかも失ったミレイユにとって安心できる場所のひとつだった。
「アデラさん、こんにちは」
意を決して声をかけると、アデラは鍋越しにこちらを見て目尻に柔らかく皺を寄せた。
「おや、ミレイユちゃんじゃないか」
(あれ……?)
アデラとは、広場で連行されてから一度も話をしていない。もっと驚かれるかと思っていたが、アデラはいつものように落ち着いた笑顔を浮かべている。
「うん。顔色も良さそうだ。元気そうでなによりだよ」
おたまを置き、エプロンの裾で手を拭きながら、アデラはゆっくりと近づいてくる。
ミレイユは、一度小さく息を吸い込んでからできるだけ普段どおりにぺこりと頭を下げた。
「アデラさん。今日はご報告と、ご挨拶に伺いました」
新しい雇い主のところで補助の付与術師として勤めることになったこと、そして急に勤め先を変えることになってしまったことを、ミレイユは順を追って丁寧に話していった。
アデラは鍋の火を止めて、頷きながら聞いてくれている。
「急なことで、申し訳ありません。一番大変な時に雇ってくださったのに」
「良かったじゃないか、ミレイユちゃん」
アデラは何でもないことのように頷いた。
「実はね、大体のことはもう聞いてるんだ。ミレイユちゃんが連れていかれた日にね、隊長さんご本人がわざわざこの店まで訪ねてきてくれたのさ」
「侯爵様が?」
「立派なお馬車からひょいとお一人で降りてきて、腰が抜けそうになったよ。ミレイユちゃんをこれまで支えてくれてありがとうって、あたしみたいな庶民相手に丁寧に礼を尽くしてくれてさ」
その日のことを思い出すように、アデラは腕を組んで何度も頷いている。
レオナルドがすでに食堂に来ていた。その事実にミレイユは目を丸くするばかりだ。
「ミレイユちゃん、あの隊長さんと知り合いだったのかい?」
そういえば、まだアデラには話していなかった。ミレイユは少しだけ姿勢を正す。
「侯爵様も、父の弟子だったそうです。わたしの今の境遇を知って、色々と気にかけてくださっているみたいで」
「ああ、そういうことかい! テオールさんの」
アデラがぽんと膝を打った。しみじみと頷いてから、ふと目を細める。
「隊長さん、ミレイユちゃんのことはこれから自分が必ず守るとも仰っていたよ」
その言葉に、ミレイユの胸の奥が温かくなる。
テオールは恩師だときっぱり語ってくれたレオナルドの声が、耳の奥に蘇る。
父の名前を覚えていてくれて、ミレイユのために、自分から食堂の女将にまで頭を下げに来てくれた。
「ミレイユちゃん。これからは付与術師として働けるんだねえ」
「はい。補佐にはなりますけど」
「いいじゃないか。本当に良かったよ」
アデラはふっと表情を緩めた。
「ミレイユちゃんの笑顔と、正確な味付けには随分助けられたもんだ。どんな料理でも、組み立てさえ覚えればすぐにそっくり再現して、なんならそのうちにこっちが教えてもらいたいくらいの味に仕上げちまうんだから」
アデラはほんの少しだけ目を細めて、それからふっと肩をすくめる。
「食堂としては寂しくはなるけどね。またいつでもご飯食べにおいで」
その優しい眼差しに、涙が出そうになるのをミレイユはぐっとこらえる。
アデラが支えてくれた半年は、本当に大切な時間だった。これがなかったら、ミレイユが今どこで何をしていたかわからない。誰にも頼れずにいた時間ごと、静かに包まれていくような感覚があった。
「ありがとうございます! このご恩は一生忘れません……!」
また深く頭を下げて、ミレイユは食堂をあとにした。




