アルトスの沈言の湖
風は、音を持たない場所にも吹いていた。
アルトスは、草の低い丘を越えたところで足を止めた。
目の前に広がるのは、波ひとつない湖だった。
空は薄く曇っていて、光はどこか遠くから届いているように見えた。
湖面は鏡のように静かで、近づくほどに音が遠のいていく。
足音も、衣擦れも、やがて吸い込まれるように消えていった。
「……ここか」
アルトスは小さくつぶやいたが、声はすぐに薄れていった。
そのとき、ふわりと光が揺れた。
「きたねぇ、アルトス」
振り返ると、空気の中にやわらかな光の粒が浮かんでいた。
それは、ゆっくりと形を持ち、小さな姿になっていく。
丸い体に、やさしく揺れる光。
どこか眠たげな、あたたかな存在。
「ルルン……」
「うん。ひかりのネムのルルンだよぉ」
ルルンは、ぽよんと浮かびながら、アルトスの肩のあたりをくるりと回った。
「ここ、しずかだねぇ」
「音が、沈む場所らしい」
「うんうん。言葉もねぇ」
ルルンは、湖の方へとふわりと漂っていく。
アルトスも、ゆっくりとそのあとを歩いた。
湖の縁には、白い石が円を描くように並んでいた。
そのひとつに手を触れると、ひんやりとした感触が伝わる。
ルルンが、ぽつりと言った。
「ここねぇ、言えなかったことが、沈んでるの」
アルトスは何も答えなかった。
ただ、湖を見つめていた。
水は透き通っているのに、底は見えない。
その奥に、なにかがあるようで、なにもないようでもあった。
ルルンは、少しだけ近づいてきた。
「アルトスは、なにを沈めにきたの?」
アルトスは、すぐには答えなかった。
風が、湖の上をなでる。
けれど、水面は揺れない。
やがて、アルトスは腰の袋から、小さなものを取り出した。
それは、炭のように黒くなった、小さな火のかけらだった。
「……これを」
ルルンは、それを見て、少しだけ光をゆらした。
「それ、まだあったんだねぇ」
アルトスはうなずいた。
火のかけらは、かすかにあたたかい。
けれど、もう燃えることはなかった。
「渡せなかった」
短い言葉だった。
ルルンは何も言わず、ただ近くにいた。
湖の方へ、一歩、また一歩と進む。
白い石の輪の内側に入ると、さらに静けさが深くなる。
アルトスは、膝まで水に入った。
冷たさはない。
ただ、重さだけがある。
火のかけらを、そっと両手で持つ。
少しだけ、迷った。
ほんの一瞬だけ。
そのあと、静かに水の中へ沈めた。
波は立たなかった。
ただ、すっと、沈んでいった。
そのときだった。
湖の奥で、かすかに光が揺れた。
ルルンが、小さく息をのむように光った。
「……あ」
水の底の方で、いくつもの光が、ゆっくりと動き出していた。
小さな灯り。
淡い色。
それぞれが、違う形をしている。
声は聞こえない。
けれど、なにかが伝わってくるような気がした。
アルトスは、動かなかった。
ただ、それを見ていた。
やがて、その中のひとつが、ゆっくりと浮かび上がってきた。
それは、火ではなかった。
あたたかい光だった。
水面に近づくと、ふわりと揺れて、アルトスの前で止まる。
ルルンが、そっと近づく。
「これねぇ、沈んだままじゃないの」
「……」
「ちゃんと、かたちを変えてるの」
光は、アルトスの手のひらの上に、静かに降りた。
さっきまでの炭のような重さはなく、
ただ、やわらかなあたたかさだけが残った。
アルトスは、それを見つめた。
何も言わなかった。
ルルンも、何も言わなかった。
風が、またひとつ、湖をなでる。
今度は、ほんのわずかに、水面が揺れた。
遠くで、小さな鳥の声がした。
音は、消えなかった。
アルトスは、水の中から足を上げた。
岸へ戻り、白い石の外へ出ると、
世界の音が少しずつ戻ってきた。
草の揺れる音。
風の流れ。
自分の呼吸。
ルルンが、ふわりと肩の高さに戻ってくる。
「ねぇ」
「なんだ」
「もう、いいの?」
アルトスは、少しだけ考えた。
それから、手のひらの光を見て、
「……ああ」
と、短く答えた。
ルルンは、うれしそうにゆらゆら揺れた。
「じゃあ、いこっか」
アルトスはうなずいた。
湖を背にして、歩き出す。
振り返ることはなかった。
けれど、背中のどこかで、
水の中の光が、まだ静かに揺れている気がした。
丘を越えると、空は少し明るくなっていた。
雲の切れ間から、やわらかな光が差している。
ルルンは、その光の中で、ゆっくりと回った。
「ねむくなるひかりだねぇ」
「そうかもな」
アルトスは、少しだけ笑った。
風は、今度はちゃんと音を運んでいた。
草の匂いも、土の感触も、はっきりとしている。
道は、どこまでも続いていた。
アルトスは歩く。
ルルンは浮かぶ。
そのあいだに、やわらかな光が、ひとつ。
それはもう、消えることのないものだった。




