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アルトスの沈言の湖

作者: 大慈真一
掲載日:2026/04/07

風は、音を持たない場所にも吹いていた。


アルトスは、草の低い丘を越えたところで足を止めた。

目の前に広がるのは、波ひとつない湖だった。


空は薄く曇っていて、光はどこか遠くから届いているように見えた。

湖面は鏡のように静かで、近づくほどに音が遠のいていく。


足音も、衣擦れも、やがて吸い込まれるように消えていった。


「……ここか」


アルトスは小さくつぶやいたが、声はすぐに薄れていった。


そのとき、ふわりと光が揺れた。


「きたねぇ、アルトス」


振り返ると、空気の中にやわらかな光の粒が浮かんでいた。

それは、ゆっくりと形を持ち、小さな姿になっていく。


丸い体に、やさしく揺れる光。

どこか眠たげな、あたたかな存在。


「ルルン……」


「うん。ひかりのネムのルルンだよぉ」


ルルンは、ぽよんと浮かびながら、アルトスの肩のあたりをくるりと回った。


「ここ、しずかだねぇ」


「音が、沈む場所らしい」


「うんうん。言葉もねぇ」


ルルンは、湖の方へとふわりと漂っていく。


アルトスも、ゆっくりとそのあとを歩いた。


湖の縁には、白い石が円を描くように並んでいた。

そのひとつに手を触れると、ひんやりとした感触が伝わる。


ルルンが、ぽつりと言った。


「ここねぇ、言えなかったことが、沈んでるの」


アルトスは何も答えなかった。


ただ、湖を見つめていた。


水は透き通っているのに、底は見えない。

その奥に、なにかがあるようで、なにもないようでもあった。


ルルンは、少しだけ近づいてきた。


「アルトスは、なにを沈めにきたの?」


アルトスは、すぐには答えなかった。


風が、湖の上をなでる。

けれど、水面は揺れない。


やがて、アルトスは腰の袋から、小さなものを取り出した。


それは、炭のように黒くなった、小さな火のかけらだった。


「……これを」


ルルンは、それを見て、少しだけ光をゆらした。


「それ、まだあったんだねぇ」


アルトスはうなずいた。


火のかけらは、かすかにあたたかい。

けれど、もう燃えることはなかった。


「渡せなかった」


短い言葉だった。


ルルンは何も言わず、ただ近くにいた。


湖の方へ、一歩、また一歩と進む。

白い石の輪の内側に入ると、さらに静けさが深くなる。


アルトスは、膝まで水に入った。


冷たさはない。

ただ、重さだけがある。


火のかけらを、そっと両手で持つ。


少しだけ、迷った。


ほんの一瞬だけ。


そのあと、静かに水の中へ沈めた。


波は立たなかった。


ただ、すっと、沈んでいった。


そのときだった。


湖の奥で、かすかに光が揺れた。


ルルンが、小さく息をのむように光った。


「……あ」


水の底の方で、いくつもの光が、ゆっくりと動き出していた。


小さな灯り。

淡い色。

それぞれが、違う形をしている。


声は聞こえない。

けれど、なにかが伝わってくるような気がした。


アルトスは、動かなかった。


ただ、それを見ていた。


やがて、その中のひとつが、ゆっくりと浮かび上がってきた。


それは、火ではなかった。


あたたかい光だった。


水面に近づくと、ふわりと揺れて、アルトスの前で止まる。


ルルンが、そっと近づく。


「これねぇ、沈んだままじゃないの」


「……」


「ちゃんと、かたちを変えてるの」


光は、アルトスの手のひらの上に、静かに降りた。


さっきまでの炭のような重さはなく、

ただ、やわらかなあたたかさだけが残った。


アルトスは、それを見つめた。


何も言わなかった。


ルルンも、何も言わなかった。


風が、またひとつ、湖をなでる。


今度は、ほんのわずかに、水面が揺れた。


遠くで、小さな鳥の声がした。


音は、消えなかった。


アルトスは、水の中から足を上げた。


岸へ戻り、白い石の外へ出ると、

世界の音が少しずつ戻ってきた。


草の揺れる音。

風の流れ。

自分の呼吸。


ルルンが、ふわりと肩の高さに戻ってくる。


「ねぇ」


「なんだ」


「もう、いいの?」


アルトスは、少しだけ考えた。


それから、手のひらの光を見て、


「……ああ」


と、短く答えた。


ルルンは、うれしそうにゆらゆら揺れた。


「じゃあ、いこっか」


アルトスはうなずいた。


湖を背にして、歩き出す。


振り返ることはなかった。


けれど、背中のどこかで、

水の中の光が、まだ静かに揺れている気がした。


丘を越えると、空は少し明るくなっていた。


雲の切れ間から、やわらかな光が差している。


ルルンは、その光の中で、ゆっくりと回った。


「ねむくなるひかりだねぇ」


「そうかもな」


アルトスは、少しだけ笑った。


風は、今度はちゃんと音を運んでいた。


草の匂いも、土の感触も、はっきりとしている。


道は、どこまでも続いていた。


アルトスは歩く。

ルルンは浮かぶ。


そのあいだに、やわらかな光が、ひとつ。


それはもう、消えることのないものだった。

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