ナンパな婚約者
浅かった眠りが段々に深くなって、トレーへ預けた体重もゆっくりと増していく。
小さくいびきをかき始めるとクスクスと笑う声が聞こえて犬井は目を覚ました。
「トレー?」
問いかけながら目をこじ開ける。
まだ半分夢の中にいる瞳はトロンと蕩けたままで、すぐ近くにいるはずのトレーを探した。
だが、一番に視界に入り込んできたのは狼を思わせる大きな獣の顔面だった。
パチリと目が合った鋭い黄金の瞳が柔らかく細められる。
「おはよう、お嬢さん。噂には聞いていたけれど本当に愛らしい姿をしているね。特に柔らかな狼耳と大きく立派な尻尾が素敵だ」
狼獣人の青年は酷くやわらかな声で犬井に語り掛けると、親愛の証だと微笑んでモフモフの手で彼女の柔らかな手をすくい、滑らかな肌に一つキスを落とした。
「……よろしく」
狼獣人の青年ことベルテは獣人の中ではかなり整った顔立ちをしている。
狼の血が強く綺麗な牙の立ち並ぶ口元や真直ぐで切れ長の瞳、筋肉質で大きな体、手入れの行き届いたモフモフ艶々の体毛。
全てが獣人たちの中では極上であり、ベルテは絶世の美青年とされている。
だが、例え獣人に転生し、モフモフの耳と尻尾を手に入れたとしても犬井の感覚は転生前の人間のままだ。
ベルテに口説かれても大きな犬にじゃれられたとしか思えず、適当に返事を返した。
すると、ベルテは柔らかく細めていた目をまん丸く開いてジッと犬井を見つめた。
「自分で言うのもなんだが、僕はかなりモテる方だ。こうやって声をかけて頬を染めなかった子も、フンと可愛らしく怒らなかった子も、獣人の中では初めてだよ」
「そうなんだ」
「ああ。それにしても、君は随分と落ち着いているね。いや、遊び慣れているのかな? それなら僕と今夜、食事でも」
「え? でも、食事はトレーと……」
グイグイと体を近づけてくるベルテに犬井は困惑したまま言葉を返し続ける。
ベルテの発する圧におされて身をのけ反らせると、少し硬くて柔らかなトレーの腹に頭がぶつかった。
振り返ると、自分と似たような困った表情のトレーと目が合う。
「ベルテ様、そのくらいにしてやってください。マオの話はしたでしょう。コイツは色々とこっちの常識に慣れていないんです。感覚も獣人……こっちの世界の人間とは違うから、ベルテ様の言葉を口説き文句だとは思えない」
「そうなのかい? 『大きくて立派な尻尾』は自分でも際どい事を言ったつもりだったんだけれど」
「マオには分かりませんよ。多分、褒められたとか事実を言われたとしか思っていない」
「それは、ちょっと危ないねえ。無垢すぎる。まるで子供だ」
「まあ実際、無知以外に子供っぽさもある奴ですが、そういうわけなんでコイツを揶揄うのは勘弁してやってください」
犬井がベルテに言われたこと、それは「お姉さんおっぱい大きいね!」とか、「足の曲線美が素敵だ!」といったようなセクハラまがいの誘い文句だ。
しかし、トレーが言うように彼女の感覚は獣人のものではなく、自分の耳や尻尾の形にも無関心だったため、ベルテの言葉の意味が全く分からなかったのだ。
「トレー、私、口説かれてたんだ」
「そうだよ。しかも、まあまあアレなやつだ。やっぱり気が付いてなかったか」
「まあ。だって、よく分かんないし。そもそも、この人誰?」
「馬鹿! 指をさすな! 無礼だぞ。ベルテ様はミモザ様の婚約者で、この家の実質的な支配者だ」
不躾な視線を向ける犬井をトレーが慌てて注意する。
しかし、犬井は変わらずキョトンとしたままだ。
「凄く偉い人か」
「そうだよ。だから、いい加減起きろ」
犬井はいまだにトレーの膝の上に頭を置いたまま、コテンと地べたに寝転がっている。
しかし、彼に促されて起き上がると軽く頭髪や尻尾の毛並みを整え、それからベルテにぺこりと頭を下げた。
「転生者のマオです。よろしくお願いします」
「よろしく、マオちゃん。僕はトレーからも紹介された通り、ミモザさんの婚約者だ。今はまだ支援レベルのことしかしていないけれど、近いうちにベリア家の運営を任されていくことになるだろう。今から仲良くしておくことをオススメするよ」
ベルテはパチリとウィンクをして、それからトレーにも微笑みかける。
犬井はキョトンとし、トレーは苦笑いを浮かべていた。




