困った犬
犬井がベリア家にやってきて、約一週間が経過した。
客人として屋敷へ迎え入れられた犬井には豪勢で快適な暮らしが保証されている。
何をせずとも毎日三食、豪華な食事を与えられ、空き時間は室内で自由に過ごし、夜には花の浮いたバスタブでのんびりと入浴をする。
一切の不安や苦労の無い、穏やかで怠惰な日々を享受するができるのだ。
しかし、犬井が屋敷内で寝起きしていたのは三日ほどがせいぜいで、気が付けば彼女はトレーの部屋で一日を過ごすようになっていた。
何故、満たされた生活を放棄してトレーの微妙に小汚く獣臭い小屋に住み着くようになったのか。
それは、屋敷での生活があまりにも平たんでつまらなかったからである。
上等な餌と寝床、室内で可能な娯楽を与えられる代わりに無断で部屋を出ることを禁じられる犬井の生活は実質軟禁だ。
おまけに使用人には、「私たちは転生者様と言葉を交わしてよい身分ではないから」と会話すら拒まれる。
恭しい態度の裏はどこまでも冷酷で、犬井は屋敷に来てからずっと誰からも無視をされているような残酷な錯覚を覚えた。
犬井は他人に無関心な方だが、それでもすっかり心は疲弊して優しくブラッシングをしてくれるトレーだけが癒しとなっていた。
必然的に犬井はトレーとの時間を恋しがり、やがて彼の元へ行きたがるようになる。
通常は部屋から出ることを禁じられている犬井だが、屋敷の主であるミモザの認識が、
「獣人に最も優れたサービスを与えられるのは屋敷内ではトレーのみである」
ということから、魔獣小屋通いだけは咎められず、そこに宿泊することも禁じられない。
犬井は、「本当に屋敷より俺の方が良いのか?」と呆れるトレーにしっかりと頷いて、彼と大部分の時間を共有するようになった。
今日も夜中の内にひっそりと入り込んだソファーベッドの中でトレーに抱き着き、眩しい朝日に目を細めている。
「……あっつ」
ボソッと寝言のような独り言を吐いてトレーが目を覚ます。
薄い毛布をペロンと捲れば、そこには犬井が乗っかって丸くなっていた。
犬井の起床に気が付いたのは彼女の耳はピョコピョコと嬉しそうに揺れ、尻尾もわさわさと忙しなく動いているからだ。
キャミソールの胸元から覗く谷間が凶悪で、トレーは犬井ら目を逸らすと「またか」と小さくため息を溢した。
「おい、マオ。退けろ」
寝起きの低い声で話しかければ、犬井のピンと立った耳がそっぽを向く。
すると、彼がキュッと犬井の耳を引っ張った。
「起きてるのはバレてんだぞ。寝たふりすんな」
「寝たふりじゃない。これから二度寝をしますという意思表示。あえて言うなら無視」
「ふぅん。それなら別にいいけど、俺はお前と違って働き者だから、さっさと起きてメシの準備するぞ」
「トレー、起きるの?」
「起きる」
「じゃあ、私も起きる」
ムクリと体を起こすトレーに続いて犬井も起き上がる。
そうして台所へ向かうトレーについて行った。
犬井は野菜を洗ってサラダを作り、屋敷から差し入れられたふかふかのパンを焼き直す。
トレーは厚切りのベーコンを焼き、スクランブルエッグを作った。
二人でテーブルに食事を並べ、揃って食べ始める。
一口目からベーコンを齧ったトレーが目を輝かせた。
「うっま。やっぱ分厚いベーコンって何度食っても旨いのな。マオが俺んちに来て以来、食事の質が上がったわ。前はくそマズい乾燥肉一切れと古くなった、火を通しても食えるか怪しい卵、カチカチでかびる寸前の酸っぱいパンしか与えられなかったからな。今も変わらず材料支給型とはいえ、良いもんが差し入れられるから、その分、贅沢な食事が作れる」
「それは良かった。でも、トレーは転生者の相手を任せられて、屋敷の大事な魔獣も全部お世話させられるくらい重要な仕事に就いているのに、なんでそんなに待遇が悪いの?」
「そんなの俺が聞きてーよ。俺、屋敷では結構重要人物なはずなのにな。まあ、でも、ここの価値観はイカれてやがるし、それに俺、獣人のハーフだからな」
「そうなの?」
突然の告白に犬井が目を丸くさせる。
しかし、トレーはアッサリとした様子で頷いた。
「そうだよ。言ってなかったか?」
「うーん、聞いたような、聞いてないような?」
「マジかよ。俺の屋敷での通り名は魔獣使いか半獣だからな。知ってると思ってたわ」
「半獣?」
苦笑いを浮かべるトレーに犬井がコテンと首を傾げる。
すると、トレーは気まずそうに顔を歪めた。
「ま、転生者様の耳に汚い話なんて吹き込まねーだろうし、そもそもロクにお喋りすらできなかったんだもんな、知らなくても当然か。俺は、獣人の母親と使用人の男の間に生まれたハーフだ。だからこそ、この屋敷の人間の中では一番魔獣に親しみを感じているし、他の連中と違って獣人も守備範囲内になる。むしろ、ただの人間より獣人の方が好みなまである」
「人間より獣人が好き? なんで?」
「なんでって、耳とかモフモフで可愛いだろ。俺、毛並みが良い生き物好きなんだよ。全身モフモフな獣人ですら、一応タイプの範囲内だし。あと、獣人は大体胸も尻もデカい。それに」
「それに?」
言い難そうに口籠ったトレーへ言葉を促せば、彼は視線をスッと下に逸らして小さく口を開いた。
「それに、俺は事情があって物心ついた時から魔獣使いをやっているわけだが、そうするとただの人間……使用人どもにはきつく当たられるわけだ。ハーフで、ここじゃ嫌われる仕事をしてるからさ、必然的にな、そうなんだ。それで、ただの人間には馬鹿みたいに虐げられる中、無意識に思っちまったんだよ。ただの人間ならダメでも、もしかしたら、獣人になら好かれるかもしれないって」
青年になって少しの自由を手に入れたトレーは獣人が普通に暮らす町へ遊びに出かけた。
同世代の友達や話し相手が欲しくて、積極的に住民へ声をかけた。
しかし、トレーに支給された衣服にはベリア家の紋章の刺繍がある。
ベリア家の使用人として獣人差別主義者のカテゴリに括られてしまったトレーに友好的な獣人はおらず、結局、彼は町の誰にも受け入れてもらえなかった。
トレーはあまりにも苦い青春を思い出し、思わず乾いた笑みを浮かべた。
「今んとこ俺に恋愛感情を持つ人間は現れてねーけど、まあ、それでもワンチャンあるなら、それは獣人の女だと思ってる。だから、俺には気を付けるんだな」
「何を?」
「何をって、俺に襲われないようにだよ。朝っぱらからうっすい下着みてーな寝間着を着て、抱き着いて誘惑してきやがって。獣人はただの人間より性欲強いんだからな。今んとこは転生者に手を出したらヤベーって欲に打ち勝ってるけど、夜中、熟睡してるお前にのしかかられてみろ。多分、ロクな事しねーぞ」
「ロクなこと?」
「流石にそれは言わせんな! 俺は事情があって老若男女問わず、人間にはほぼ誰にも優しくされねーで育っちまったんだよ。女にも飢えてる。だから、あんまり懐くな、くっつくな。とりあえず夜は与えてやったベッドで寝ろ!」
「結局その話に戻るんだ」
犬井が初めてトレーの自宅に泊まると決めた時、二人は一つ約束をした。
それが、犬井がトレーの使っていたベッドで眠り、彼は新たに屋敷から差し入れられた古いソファベッドで眠るというものだった。
しかし、犬井は初日から、
「自分がソファで寝るからトレーにはベッドで寝て欲しい。一方的に小屋に泊まることを決めたのに、ベッドまで奪っては申し訳ない」
と、彼にベッドで眠るように促し、二日目には、
「せめて一緒にベッドを使おう」
と、声をかけていた。
そして、三日目には何故かベッドへの執着を手放し、代わりにトレーのソファベッドに潜り込むようになっていたのだ。
毎晩、一緒に眠ろうとしては叱られ、夜中、懲りずにコッソリ彼の布団に入り込むという悪質さを持った犬井は毎朝トレーに注意されている。
今日はその件をすっかりうやむやにできたと思い込んでいたので、犬井は不機嫌そうに唇を尖らせた。
「当たり前だろ。マジで、なんで俺の近くで寝たがるんだよ。暑いし重いしエロいんだよ。食うぞ」
「だって、トレーの近く安心するから。食べるのは、ちょっとやめて欲しいけど」
「やめてほしいなら抱き着くな! 被害者みてーな顔しやがって、お前はどっちかっつーと加害者だからな! 毎朝毎晩、拷問しやがって。というか、食うとか言ってくるやつに安心を覚えるな!」
「でも、安心するものは安心する。一緒寝たい。体温と匂いが好き。あと、寝ぼけて頭と背中撫でてくるのが好き。お尻もたまに撫でてくるけど、眠ってるからノーカンにしてる」
「おまえ、それ、もしも寝惚けたふりしてわざとやってるって言ったらどうする?」
「え? ケダモノ。軽蔑します」
「嘘だよ。覚えてるわけねーだろ、寝てる時のことなんか」
スンと引いた犬井の態度に苛立ちを覚え、ガリガリと頭を掻く。
そのままムシャムシャと朝食を食べ進めると、犬井がおかしそうに吹き出した。
「なんだよ」
「いや、私も嘘だよ」
「なにが……ああ、さっきの話か。そうだよな。全く、ビックリさせんなよ。でも、安心したわ、寝ぼけてるとはいえ、俺はマオに触ってなかったのな」
ホッと安堵のため息をついて一人で頷くトレーに、犬井は不思議そうに首を傾げた。
「ん? そっちじゃなくて、軽蔑するのが嘘だよ」
「え?」
目を丸くしたトレーが犬井の顔を覗き込む。
すると、彼女は無表情にほんの少し恥じらいを浮かべて目線を下げた。
「私も大人だから、自分を性的に見てくる男性と眠ったらどういうことが起こるかくらい、理解してる。でも、それでもやっぱりトレーの近くは安心して、多少のリスクがあっても一緒に眠りたくなる。だから、その、食べられるのは微妙だけど、触られるのは良いかなって。お尻以外は素直に嬉しいし」
少しだけ体を揺らし、耳や尻尾をパタパタとさせる犬井の言葉は本心のようだ。
トレーは無言で犬井の両耳を外側に引っ張った。
「キャンッ」
ビックリした犬井が悲鳴を上げて耳を押さえ、机に突っ伏す。
トレーのソレはあくまでも暴力ではなくマッサージであるため、痛くはなかったが、如何せん刺激が強い。
犬井は両耳を元気なく落ち込ませた。
「トレー、何? マッサージはもっと優しいのがいい。これは、ちょっと早い」
「アホへのマッサージはこれで十分だ。全く、意図的に触るのは食う気満々の時だよ。何が食べられたくないけど触るのはオッケーだ。触られるのを許す時は、せめて食われることも了承しておけ。それが無理なら、今日からちゃんと寝床を分けるんだな」
呆れたトレーがフンと鼻を鳴らして朝食の残りをかき込む。
その間、机に付したまま考え込んでいた犬井が、やがてそっと顔を上げた。
「トレー、あの」
「聞かねえぞ」
「場合によってはカプッてしても、その、食べても」
「聞かねえって言ってんだろ。俺はもうメシ食い終わったから、自分の食器片づける。マオもさっさと食って片付けねーと置いてくからな。ブラッシングも、早いもの順だから先に魔獣にかけることになるし」
「待って! 最初のブラッシングは私!」
朝、食後にゆったりとブラッシングしてもらう時間を至高としている犬井だ。
犬井は大慌てで朝食を頬張り、食器を持ってトレーを追いかけた。
トレーは、酷く単純な犬井に苦笑いを浮かべている。




