ブラッシング
犬井が兵士に案内されたのは厳格な内装の執務室だ。
室内には屋敷の主である女性、ミモザが執務を行っており、書類の上に羽ペンを走らせていた。
トレーには、ミモザは獣人や魔族が大嫌いな人でなしだと聞いていたが、犬井が虐められることは特に無く、話も淡々と進んだ。
そして案の定、犬井は屋敷に身を寄せることになり、彼女の面倒はトレーが見ることとなった。
ミモザ曰く、トレーが最も魔獣や獣人の扱いに長けていて、犬井を最大限にもてなし、快適な生活を与えることができるのも彼だけなのだという。
それをトレーに伝えれば、彼は「適当なこと言いやがって」と苦笑いを浮かべていた。
「私の部屋はトレーが用意してくれているって、ミモザ様が言ってたけど」
「ああ、それならちゃんと準備できてるよ。まあ、用意っつっても、場所は屋敷側が提供して、掃除はメイドがしたから、俺は獣人に必要なものを詰め込んどいただけだな。普段は魔獣ばっか扱ってるガサツな男が、いきなり女の子の部屋を一から準備したわけじゃねーからさ、そこは安心して良いぞ」
「そっか、ありがとう」
ミモザは例のメイドのように激しく敵対してきたわけではなかったが、間違いなく友好的ではなく、時折、酷く冷たい視線を犬井に浴びせていた。
犬井は比較的、他者からの悪意を受け流せるほうだが、それでも屋敷に来てからは怯えられるか冷たくされるかの二択だったので、トレーの柔らかい気遣いがありがたくて、どうしようもなく温かかったのだ。
彼女がふんわりとした笑顔を向ければトレーはピシリと固まって、それから、「おう」とだけ照れくさそうに返事をした。
「ほら、ついたぞ、ここがお前の部屋だ。今はまだつまんねー感じだけど、これからお前が住む場所だからな、好きなように物を足していけば、いずれは賑やかになるさ」
トレーたちが用意した部屋は確かに質素で、室内にはベッドと衣装ダンス、背の低い棚、机くらいしかない。
本棚の中身もスカスカで、犬井が昏睡に陥って寝かされていた部屋に近しかった。
屋敷内の上等な部屋を知っているトレーにとって、この部屋は転生者に与えるべきものではない。
そのため、彼は多少の申し訳なさを感じていた。
だが、これに対して犬井は転生前、少し手狭なワンルームに住んでいた。
生活水準も日本人の平均程度。
ホテルのようにピンと張られた真っ白で皺の無いシーツも、中のフカフカとした綿で大きく盛り上がっている枕も、その上に乗せられているいかにも上等そうな寝間着も、なによりリビングほどの大きさがある部屋も、その全てが新鮮で素晴らしく映っていた。
大きな衣装ダンスや鏡付きの立派な化粧机も有り難い。
犬井は良い意味で、この部屋は自身には不相応だと感じていた。
「こんな部屋、いいのかな」
「ん? まあな。多少は不満もあるだろうが、しばらくは我慢して使ってくれ」
「うん。ありがたく使わせてもらう。それで、机の上のバスケットに入っているのが、獣人に必要な物?」
「そうだよ。見てみな」
トレーに促されて中身を確認してみれば、そこには柔らかく細かな毛で構成されたブラシや目の粗い木製のブラシ、加えて犬猫の毛を取るような金属製のブラシも入っていた。
また、小瓶に入った洗髪料のような物や、いわゆるコロコロのような布製品についた毛を粘着テープでからめとる道具も入っている。
「凄い。なんか、毛の手入れに対する凄まじい圧を感じる」
「実際、獣人にとって大切なのはソレだからな。お前、少し前までは俺らみたいな姿の人間だったんだよな。そしたら、俺の髪とお前の髪の毛を触り比べてみな」
軽く屈んで自分へ頭を差し出すトレーの髪に触れ、それから犬井は自身の髪を触った。
「トレーの毛は柔らかで、私の髪は柔いけど硬い!」
目を丸くする犬井にトレーは頷くと、それから犬井を近くの椅子に座らせ、木製のブラシで優しく彼女の髪を撫でた。
「獣人の毛はな、だいたいそうなんだよ。手入れしてやればふわふわで柔らかくて極上の手触りになるけれど、その分、扱いが特殊で難しいんだ。それに加えて、女性は髪を伸ばしたりするからな。いきなり目の細かいブラシでガシガシと梳かしたらモチャモチャに絡まって毛玉になる。解せなくなって切るしかなくなっちまう。だから、多少面倒でも毎日手入れしてやる必要があるんだよ。お前、全身モフモフにしなくてよかったな。髪と尻尾と耳の手入れだけでも面倒なのに、全身に毛を生やしてたら手に負えなかったと思うぞ。俺も、流石に女の子を風呂に入れたり、全身をブラッシングしてやったりとか、色々ともたなかったと思うし」
心底安心した様子のトレーに犬井も頷き返す。
トレーは絹にでも触れるような慎重かつ丁寧な手つきで知らぬ間に絡まっていた犬井の髪を解すと、それから複数本のブラシを使い分けて、獣人には必ず発生してしまう抜け毛を除去し、彼女の髪をサラサラふわふわな状態にした。
「よしっ! こんなもんだろ。鏡で見てみな」
一仕事終えたトレーが自信満々な様子で笑い、バスケットに入っていた手鏡を取る。
艶のある黒髪はハリとコシを手に入れており、思わず触れてみれば高級な毛皮を思わせる触り心地だった。
おまけに、髪を梳かされた関係で血行も良くなって、ほんのり赤らむ頬には生気が宿っている。
「耳のマッサージも気持ち良かった」
「だろうな。耳は常に立ってるし、血行も悪くなりやすいから凝りやすいんだ。気が付いた時に揉んでやった方が良い。それで、まあ、髪はいいとして、尻尾の方なんだが、そっちは自分でやってみな」
「なんで?」
気まずい様子のトレーにキョトンと返せば、彼は一瞬目を丸くしてから苦笑いを浮かべた。
「そんなの、ケ……お尻に近い場所だからに決まってるだろ。デリケートな場所だからな、俺も扱いかねるし、いずれは自分でブラッシングできるようにならなきゃいけないんだ。見ててやるからやってみろ」
トレーにブラシを数本渡され、コクリと頷いた犬井は自身の尻尾の手入れを始めた。
しかし、尻尾は自分の後ろ側についているため、よく見えないし櫛も通しにくい。
自らの尻尾と一生懸命に格闘していると、見かねたトレーが尻尾の先の方をふわりと目の粗い櫛で梳かした。
「ほら、いっぺんにやるんじゃなくて少しずつ、丁寧に梳かしていくんだよ。じゃなきゃ毛玉になるぞ。尻尾は髪以上に毛玉になりやすいんだから、優しく扱ってやれ」
「……」
少しだけのつもりが、トレーはつい癖で話をしながら尻尾の中ほどまでブラッシングを進めていく。
やがて、付け根以外の箇所をブラッシングし終えると、ハッとした表情になって犬井の顔を見た。
犬井は、気持ちが良さそうに溶けていた。
「尻尾、よい。もっと」
いつの間にか体をベッドに預け、尻をトレーの方に突き出すようにして寝転がっていた犬井が、ふわりゆらりとモフモフの尻尾を揺らして催促する。
柔らかく形の浮き出た犬井の尻に、トレーは顔を赤く染めて目を背けた。
「お前、なんて格好してんだ! ついブラッシングしちまった俺も悪いけど、なんも言わねぇお前もお前だぞ」
「だって、気持ち良かった。もっと」
「駄目だ!」
「でも、付け根の方、してもらってない」
「そこは本当にダメなんだって。今度説明してやるから、諦めろ!」
「うぅ……」
ベッドの上で溶けたまま犬井が唸った弱り声を上げる。
すると、トレーは肩を跳ね上げ、顔を真っ赤に染めたまま、
「じゃあ、俺は他に仕事があるからな! 困ったら魔獣小屋に来いよ! じゃあな!!」
と声をかけて、逃げるように勢いよく退室していった。
すっかりトレーのブラッシングに骨抜きにされた犬井は、そのまま、しばらく起き上がれずにベッドの上でふわふわとした気持ち良さを味わっていた。




