約束
「やっぱり、近くにいると嗅いじゃう。柔らかくて甘くて少し刺激的なトレーの良い匂い」
スンスンとトレーの匂いを嗅ぐ犬井は、そのまま彼の胸に頬をくっつけて、
「お肌もちもち、好き」
と、幸せそうにため息を吐いている。
だが、すぐに不可解そうなトレーの視線に気が付くと、「理性の無いケダモノでごめん」と耳を落ち込ませた。
昨晩、眠る前に考え事をしていたのはトレーだけではない。
彼よりも単純ではあるが、犬井もまた、二人の今後について思いを巡らせていた。
そして、トレーの出自やそれを話す彼の態度、自分への言葉、それらを総合した結果、犬井の導き出した答えは、
「きっとトレーは自分に性的な目で見られることが不快で苦痛なのだろう」
ということだった。
犬井は元々、自分の理想のためにトレーを遠ざけていたのだが、そこに彼の個人的な気持ちも加われば、その度合いも増す。
今までのように中途半端な真似はできなくなる。
犬井は自分が欲に忠実でロクに制御の効かない獣であることを知っていたから、トレーを傷つけないために、そもそも彼を視界に入れない、関わらないことを決めた。
「お前な……」
犬井の斜め上の発想にトレーが呆れて額を押さえる。
すると、自分の堪え性の無さを非難されたのだと勘違いした犬井がビクッと肩を揺らした。
「ごめん、トレー。もっと我慢する。だから、嫌わないで」
「嫌わねーよ、お前が俺のことを好きなうちは。ただ、何でお前は、こう、変なところがややこしいというか、面倒くせえんだ?」
「え? ややこしい? 面倒?」
「そうだよ。人を疑うことも嘘を吐くことも苦手な本能丸出しのアホ狼のくせに、なんで俺には素直に尻尾を振らねーんだ。俺、一度もお前のことを遠ざけようとなんかしてねーだろ。むしろ、昨日だって甘えてたじゃねーか。俺の希望と正反対のことばっかしやがって」
「だって、トレー、天邪鬼だし繊細だから。自暴自棄というか、あんまり自分のこと大切にしない所もあるし」
犬井はだいぶ鈍感な方ではあるが、トレーが母親のようにはなりたくないと思っていること、そして、犬井を自分の父親に重ねていることに気がついていた。
加えて、犬井は時に人間が自分の望みと正反対の行動をとってしまうことも知っていた。
それによって、心を傷つけてしまうことがあることも。
「トレーはきっと、私に甘えたいけど甘えたくないんだと思った。お酒を飲み過ぎちゃう人が、もう飲んじゃ駄目だって思うのに、快楽を忘れられなくて飲んじゃうみたいに」
「俺がお前に依存してるって言いたいのか?」
「そう、なのかな」
「なんでわからねーんだよ」
苦笑いを浮かべるトレーに犬井はコテンと首を傾げた。
「私とトレーの性格は、ぜんぜん違う。私の平気なこともトレーにとっては駄目な事、たくさんあると思う。いつもの調子でいたら、きっといつか、深く傷つけるから」
「ふ~ん、でも、俺は今日お前のしょうもない深読みのせいで、めちゃくちゃ傷ついたけどな」
「え!?」
「え!? じゃねーよ、ほんと、わかんねーやつだな。確かに俺は昨晩、動揺して頭グチャグチャになったけど、それでも根本的な部分は変わらない。相変わらずマオとは恋人になりたいし、エロいこともしたい。そんで、俺が犬井にスケベな態度とられたからって嫌うことも無い。むしろ」
言いかけてトレーがハッとしたように口をつぐんだ。
「むしろ、何?」
「いや、何でもねえ」
「駄目。そこで内緒にされたら、私、また勘違いをしてトレーを傷つける。ちゃんと教えて」
犬井が真剣なまなざしでトレーを見つめる。
すると、彼はガシガシと乱暴に頭を掻いてため息を吐いた。
「むしろ、くっつかれたい。愛されたいんだよ。お前は素直なところがいいところなんだからさ、好意も欲も隠すなよ。傷つけたくないって言うなら、俺を遠ざけるのをやめてくれ。今までも逃げられるたびに地味に傷ついてたんだ。俺のことを好きなら、ややこしい事はしないでくれ」
言い切った後、視線を逸らすトレーは酷く恥ずかしそうだ。
犬井はコクリと頷いた。
「わかった、もう逃げない。トレーとイチャイチャするし、やらしい目で見る。でも、トレーも約束して」
「何だ?」
「私とイチャイチャしてる時は、付き合ってって言うの禁止。頷いちゃうかもしれないから。それが守れるなら、私も、もうトレーを遠ざけるのやめる。トレー不足で私も辛かったし」
「不足って、わりとくっついてたくせに。夜中には俺に悪戯までしてさ」
「でも、足りないものは足りない。本当はもっとあまあまがいい」
少し照れた様子で告げると、トレーは既に腕の中にいる犬井を抱き直し、彼女の頬にキスを落とした。
それから口にもキスをして、そのままペロリと唇を舐める。
「マオ、昨日の続きがしたい。開けてくれ」
柔らかく甘えたが、犬井はフルリと首を横に振る。
トレーは不満そうに口角を下げた。
「逃げるの、やめたんじゃなかったのか?」
「ううん。でも、トレー、まだ約束してない」
「守れるか分かんないからな。駄目か?」
弱ったように目を伏せる。
トレーの姿は、犬井の目には傷ついて、酷く落ち込んだように見えた。
そのため、犬井は自分の意地とトレーの心を天秤にかけると少し考え込んだ。
やがて、「トレーは悪い子だ」と小さく溢すと静かに口を開ける。
「マオは単純で騙されやすいな」
軽口を叩くトレーが嬉しそうに笑ってマオの口内を弄ぶ。
強引にいじくるというよりはじゃれるつもりで遊んで、マオの反応を楽しむ。
何度も犬井と唇を重ねてきたトレーだが、襲うことばかりを目的としていない余裕のあるキスは初めてだ。
以前のものよりも豊かで温かくて、トレーはキスという行為を気に入った。
「トレー、あのね、好きだよ」
濡れた唇で溢す。
トレーは満足そうに頷くと甘い熱に浮かされ、ポーッとしてしまう犬井を何も言わずに抱き締め、そのまま穏やかさに身を任せた。
昼近くまでのんびりとしてしまって、二人は業務を大きく遅延させてしまったが、それを咎める魔獣はいなかった。




