身勝手な優しさ
「トレー、私は嬉しいよ。トレーは苦しかったかもしれないけれど、トレーが痛いのは私も嫌だけど、でも、トレーが生まれてきてくれたから、私はトレーに会えた。あの、あのね、私はトレーが好き。だから、トレーが生まれてきてくれて嬉しい」
犬井は今、地雷原に立っている。
既に踏み抜いた彼の地雷を、何度も、何個も踏み抜く可能性は十分にあった。
一番に踏んだものよりも大きな物を踏む可能性も。
だが、それでも何か声をかけずにはいられなかった。
どうしても、トレーを励ましたかった。
愛しい人間が自己嫌悪に陥って己を否定し、苦しむ姿を見るのが嫌だったのだ。
だから、思ったことを素直に伝えた。
犬井の無垢な身勝手さにさらされたトレーは小さく舌打ちをする。
「お前の話はしてない」
「うん。ごめん」
「謝るなよ」
「うん」
この会話を最後にトレーが押し黙ってしまったから、部屋には気まずい沈黙が充満する。
しかし、結局部屋の静けさを拭い去ったのはソワソワと尻尾を動かし、必死に状況を打開しようと思考を巡らせる犬井ではなく、何気なく口を開いたトレーだった。
「マオは、いつから俺のことが好きだった? 露骨に好き好き言い始めたのは、確かあの日からだよな」
「え? うん。でも、その前から好きだったと思う」
「証拠は」
「証拠!? えっと、前からトレーの近くが温かくて、一緒に寝たかった。トレーの近くが一番安心できて、屋敷にいる時は早くトレーがブラッシングに来てくれないかなって、そればっかり考えてた」
アワアワと言葉を出して顔を赤く染める犬井は、普段無表情な彼女にしては随分と分かりやすく感情を出している。
もっとも、トレーは随分と犬井の思考を読めるようになっていて、彼女を分かりにくい人間だとは全くもって思っていなかったが、それでも、あまりに単純な態度をとる彼女に少し安心した。
「露骨に欲情するようになったのは、あの後のくせに」
攻撃的な態度で吐き捨てれば、犬井は素直に頷いた。
「否定しないんだな、エロ狼」
「しても仕方がないから」
再度肯定する犬井の姿が少しだけ想像上の憎たらしい父親に重なる。
同時に、自分は母親に重なった。
「なあ、マオ、俺は淫乱か?」
「淫乱……」
「エロいか?」
問われれば、ピンとこない表情で首をかしげていた犬井の耳がピンと立ち、尻尾がソワソワと揺れる。
視線も左右に揺れて、明らかに動揺していた。
「あの、淫乱は違うけど、エッチかと言われると、その……」
犬井は嘘を吐けない。
出力される言葉、態度、思考が嘘に向いていない。
そのため、トレーを傷つける可能性を自覚しながらも頷くと、彼は乾いた笑みを見せた。
「あっそ。なんか、もういいや。眠い。寝たい」
トレーはずっと起こしていた体をおもむろに倒すと自分に毛布を掛け、そのまま腕を開いて犬井を誘った。
「ほら、来い」
「いいの?」
「いいよ。むしろ、寒いからさっさと来い」
トレーが腕を揺らして催促すれば、犬井は吸い込まれるようにトレーの胸元に入り込んで嬉しそうに尻尾を振った。
いつもの癖でトレーの匂いを嗅いで甘える。
「どうしようもないな、お前は」
トレーが呟けば犬井はハッとした表情になって、慌てて彼から距離を取ろうと体を遠ざける。
それをトレーが抱き寄せて、ポフンと彼女の頭を撫でた。
「今日くらいは離れるな。落ち込んだ時くらい、一緒に寝てくれてもいいだろ」
珍しく、トレーが心から甘えた言葉だった。
「不快じゃないの?」
「お前が欲に忠実なアホ狼過ぎて、どうでもよくなったよ」
ふわりと笑うトレーがギュッと力を込めて犬井を抱き締める。
通常であれば「痛い!」と腕を叩きたくなるほどギチギチに力を込めるトレーだが、相手は転生によって身体強化された犬井なので問題ない。
彼女は強い抱擁にいっそ心地よさすら感じていた。
『俺は母親みたいになりたくなかったのかな』
どうして犬井への好意を素直に認められず、彼女への感情、欲求が複雑になるのか。
その答えは両親に対する嫌悪にあるような気がしたが、そう思い至っても何故か腑に落ちなかった。
『まだ何かあるのか、面倒だな』
小さく舌打ちを打つ。
ふと、あっという間にスヤスヤ熟睡した犬井の柔らかな寝顔が目に入った。
気持ちよさそうに呼吸する姿は愛らしいが、零れそうな口元の涎が少々マヌケだ。
ずっと締め付けられていたトレーの心臓が拘束を抜け出し、少し楽になった。
体の中心が温かくなった。
『俺はコイツとどうなりたいんだろうな』
ひとまず、癒されたいとは思った。
甘えることが許される関係にもなりたいとも。
『やっぱ、恋人になるのが一番かもな。それが一番後ろめたくないし。明日から、また頑張るか、面倒なことをグチャグチャ考えないでさ』
トレーは犬井の額にキスをすると目を閉じた。
数分後に熟睡したトレーの表情は犬井に似て、少しだけ幸せそうだった。




