穢れ
「何してんだ、お前」
大きな欠伸を噛み殺して問いかける。
犬井はトレーの背中にピッタリと張り付き、フスフスと首元を嗅いで美味しそうにうなじにキスをしていた。
両腕はしっかりとトレーに回され、ギュウッと彼を抱き締めている。
激しく尻尾を振り、興奮する姿はオヤツを食べてはしゃぐ犬の姿に酷似している。
だが、振り向くトレーに声をかけられると、犬井はギョッと目を開いてパキリと硬直した。
「寝てなかったの!?」
「いや、寝てないんじゃなくて起こされた、お前に。で、何? マオ、やっぱり襲われたいの? 別に今からでも遊べるけど」
「ち、違う」
「ああ、襲いたいのか。お前、狼だもんな。ほら、どうぞ、好きなように食っていいぞ」
「違うってば。ただ、いつもはもっとギュってしてくるのに、トレー、大人しかったから」
トレーに甘えられ、誘惑されると困ってしまうというのは事実だ。
だが、若干Mっ気のある犬井なので、彼に意地悪をされる日々が楽しくて気に入っているというのも事実だった。
そのため、物足りなさを覚えた犬井は不足した欲求を生めるようにトレーにちょっかいをかけていたのである。
大人しくなった耳と尻尾が、構われ足りない犬井の我儘な心情をよく表している。
トレーは思わず笑ってしまった。
「やっぱり襲われたいんじゃねーか、スケベ狼」
「違うよ、トレーの肉食ウサギ」
発情狼にスケベ狼、アホ狼。
トレーはよく、そんな言葉で端的に犬井を表して彼女を揶揄っている。
それに対し、犬井の方もトレーを真似して軽く言い返しただけだったのだが、予想外にも彼は目を丸くしてバギッと固まった。
突如、隠していた罪を暴かれたような、あるいは埋めておいたゴミを掘り返して眼前につきつけられたような、激しい困惑と動揺を見せている。
「お前、どうして俺にウサギ獣人の血が流れてるって知ってんだ? いつから、知ってた?」
ほんの少しだけ震えた声で問いかけた。
「いつ……いつだろう、ちょっと前かな。でも、前からトレーはウサギかもって思ってた。だって、トレーからはウサギと同系統の匂いがするから。柔らかくて、かわいい匂い。でも、どこか強さを感じる不思議な匂い。好き」
幸せな夢でも見ているかのようにホワホワと語る犬井だが、トレーの方はそれどころではない。
少し問い詰めれば、犬井は彼の部屋に転がっていた薬の紙袋を見て種族を確信するに至ったのだと述べた。
「薬の袋、俺は捨てておいたと思ったんだけど、まさか、ゴミを漁ったのか?」
犬歯を光らせてガルガルと唸る。
敵対心剥き出しのトレーに、犬井はあっさりと首を横に振った。
「そんな気持ち悪いストーカーみたいな事しない。袋は普通に丸まって床に落ちてただけ。何だろうって広げたら、それだった」
発情期の夜が明けた朝、トレーは犬井の目に触れぬよう密かに薬の入っていた紙袋を捨てていた。
そうして犬井にだけは明かしたくない秘密を抹消したつもりだった。
だが、実際にはその前に犬井が紙袋を見つけてしまっていたらしい。
物の少ないトレーの部屋は片付いていて、床に何かが落ちていれば嫌に目立つ。
それが、不運にも犬井の興味を惹いてしまっていた。
「最悪だ」
偶然の生んだ悲劇にトレーは怒りの矛先を失い、力なく呟くと絶望したように深い溜息を吐いた。
「トレー、ウサギなのかわいいと思う。何が最悪なの?」
トレーは何も言わず、頭を両手で覆ったまま静かに首を横に振った。
「ねえ、トレー、もしかして、ウサギ嫌いなの」
「……そうだな、嫌いだ。俺の人生を滅茶苦茶にされた」
「でも、トレーはウサギ魔獣のこと、大切にお世話してる。愛情を注いでいるように見えた。本当に嫌いなの?」
犬井の瞳は無垢で純粋だ。
清い心が彼女の澄んだ声にも入り込んでいて、トレーはなぜか耳を塞ぎたくなった。
小さく、首を横に振る。
「血が憎い」
ポツリと呟く。
犬井が「血?」と首を傾げると、トレーはコクリと頷いた。
「俺の体には半分、獣人の血が流れている。母親の、ウサギ獣人の血だ」
トレーの両親は互いに恋に落ちて駆け落ちをしたわけだが、それにはもちろんキッカケというものが存在する。
父親が母親を愛するようになった原因、すなわち出会いは発情期に苦しむ彼女を目の当たりにしたことだった。
当時、奴隷たちに用意されていた寝床は一人用ではなく、八畳ほどの室内に数十人の獣人らを詰め込んでいた。
男女を共にすれば盛って無駄に子を増やすだろうから、二つの建物は遠く離されていたが、どちらの部屋にも性別に関わりなく弱者を欲やストレスのはけ口にする者が存在した。
発情期が到来した自分など、格好の獲物だ。
複数人から嬲られ、最悪の場合にはそのまま殺される。
そのため、母親は発情期が近づくと寝床には戻らず、建物から離れた小さな川のほとりで自らを鎮めることを習慣化させていた。
そうやって、自分を守っていた。
しかし、その防御も予想外の事態によって崩れ落ちる。
偶然、深夜の散歩をしていた男、すなわちトレーの父親に見つかったのだ。
白銀の月夜に照らされ、火照った体を悩ませる彼女はさぞ艶やかだったのだろう。
父親は彼女を襲ったし、母親も他者に害されないために外出していたはずなのに、発情期のせいか彼を求めた。
以降、二人は川のほとりで密会して体を重ねる日々を送るようになる。
父親はすっかり彼女の性的魅力に取りつかれたし、母親の方も奴隷に接するには随分と優しい態度で自分を求めてくる彼に夢中になった。
やがて、穢れから始まった恋は屋敷に広く知れ渡り、子であるトレーを含め彼らは嘲りの的となる。
「わらってたんだ。あいつらは、わらってた」
トレーはこれまでの人生で多くの人間から暴力を振るわれていたわけだが、そこに殴る蹴るの肉体的な暴力のほか、自身の両親の関係を暴かれるという精神的な暴力もあった。
普段はトレーの存在を無視する使用人らも、そういった話をする時だけは嬉しそうに、滑らかに舌を回したらしい。
「淫売ウサギ」
唇を震わせたまま、母親のあだ名を溢す。
子供には決して聞かせてならない話を誰よりもいやらしい顔で、脳にこびりつくようなざらついた音で語った彼らの姿を忘れられない。
トレーは心に深い傷を負った。
「なあ、マオ、俺がウサギに見えるか? 長い耳も特徴的な前歯も小さな尻尾も無い俺が、ウサギに見えるのか?」
犬井は首を横に振った。
トレーが片手で目を覆ったまま首を横に振り、口元を嘲笑的に吊り上げる。
「だよな、そう思うよな。でも、俺は確かにウサギなんだ。血が流れてる。俺はただでさえ半分獣人で、それだけで皆に嫌われてるのに、なのに、なのにさ……」
あの女のせいで。
その言葉を飲み込んで、トレーは嗚咽を溢した。
「生まれてきたくなかった。あんな思いするなら、俺、生まれたくなかったよ」
嫌に吊り上がり、一見するとにやけているようにすら見える口から悲痛な言葉が漏れる。
目から溢れた雫がボタボタとシーツを濡らした。
「トレー」
あの夜と同じ、ただトレーを心配する犬井の声が彼の耳に入り込む。
柔らかく肩を叩かれ、トレーは思わず犬井の手を叩き落した。
犬井の目が見開かれ、一瞬、時が止まる。
トレーは今、この瞬間から触れてはいけない腫れものになった。
だが、それでも犬井は少し考え込むとギュッと両手を握り、慎重に口を開いた。




