唐突な呼び出し
とある昼下がり。
いつもならば午前の仕事を済ませてトレーと昼食をとっているところだが、今日の犬井はミモザの命を受け、彼女の執務室へやってきていた。
「悪いわね、急に呼び出したりして」
「大丈夫です。ただ、午後からも仕事があるので」
早く私を解放してくださいね。
そんな言葉を犬井は無言でミモザに押し付けた。
犬井は相変わらずの無表情で、大抵の人間ならば彼女を見ても特に違和感を覚えないだろう。
だが、トレーならばきっと犬井の顔を一目見ただけで、
「何をそんなに不機嫌になってるんだ? 珍しいな」
と、小首を傾げたはずだ。
口角をごくわずかに下げ、眉間に微少な皺を浮かべた非常に分かりにくい不機嫌面で犬井はミモザを見つめている。
ミモザの方も例の妙に冷たい目線で犬井を睨みつけると、小馬鹿にするようにため息をついた。
「仕事、ね。ねえ、イヌイ様、貴方は今、この屋敷でどのような立場となっているのか分かっていらっしゃるのかしら」
「お客さん」
「そうね。貴方は転生者。神からの手厚い加護を受けた類稀なる獣人。貴方に害をなせば、いえ、それどころか貴方を丁重に、特別に扱わなかったら、それだけで私たちは恐ろしい天罰を受けかねない。だからこそベリア家は貴方を客人として家に置いている」
「知っています」
ミモザの鼻にかけるような嫌味ったらしい話し方、じっとりとした氷の目つき、上から目線の態度が犬井の苛立った心をザリザリと逆撫でする。
彼女の態度をそのまま返すように冷たく言葉を出した犬井をミモザは鼻で嗤った。
「分かっていないでしょう。客人は汚らわしい家畜小屋で働いたりしないもの。ですから、私は貴方に相応しい立場を与えたいと思います。すなわち、メイドの立場をね」
「メイド?」
「そうよ。メイドと言われると卑しい立場に落とされたように感じるかもしれないけれど、勘違いしないでくださいね。むしろ私は、貴方の地に落ちた待遇を回復しようと努めているのですから」
ミモザが犬井に与えようとしているのは通常では考えられないような破格の待遇を持つ最上級のメイドの地位であり、かなり特殊な立場だ。
メイドとなった犬井には屋敷の外に自宅と直属のメイドやシェフが与えられる。
そうすると犬井は自宅の中でのみ貴族のような振る舞いをすることができ、生活の一切をメイドらに任せることができる。
トレーのもとで働くことはできなくなるが、代わりにもっと楽で優雅な仕事を振り分けられ、犬井は遊んで暮らせるらしい。
話を聞き終えた犬井は酷く不愉快そうに表情を歪め、
「嫌です」
と、ハッキリ首を横に振った。
予想外の反応にミモザがギョッと目を丸くする。
「嫌って、何が嫌なの!? メイドの肩書がそんなに不愉快なの? でも貴方、元の世界では平民だったのでしょう? 敷地内に貴方専用の土地が貰えて、貴方はそこではお姫様になれるの。それだというのに肩書一つで突っぱねるなんて、異様な高慢だわ。平民の獣人ごときが持つべきでないプライドよ」
「いや、別にメイド云々はどうでもいいです。私はトレーから離れたくないだけなので」
煽るようなミモザの言葉は全てが癇に障ったが、だからと言っていちいち怒っていられない。
犬井は重要な部分だけ告げるとミモザをきつく睨みつけた。
久しぶりに明確な悪意を向けられたミモザがグラリとたじろぐ。
「な、何よそれ。だって貴方、屋敷にいたくないからって、ただそれだけの理由であの男の小屋に逃げ込んだのでしょう? いくら非常事態だからって、汚らしく獣臭い家でケダモノと生活するのは耐えがたかったはずでしょう!?」
「汚くないし臭くないです。それに、ケダモノってトレーのことですか?」
「そうよ。男なんてみんな性欲に取りつかれたケダモノだわ。だから私たちは不用意に男性には近づいてはいけないって幼い頃から口を酸っぱくして言いつけられているんだもの。それを、何日も同じ空間で過ごすだなんて! あの男も馬鹿ではないでしょうから破廉恥なことはしていないでしょうけど、でも、でも」
ミモザが震えるように自身の肩を抱き寄せ、青ざめる。
だが、おぞましい妄想に囚われる彼女に対して、犬井は呑気な様子でトレーとの日々を思い出していた。
「確かに、一緒に寝てますけど変なことはされてないですね。トレーは紳士? なので」
「一緒に!? 何が変なことはしていないよ! 十分おかしいわ! 不潔、破廉恥よ! このケダモノ! 近寄らないで!!」
「いや、破廉恥なことはしてないです。ただ、一緒に寝てるだけ」
箱入りお嬢様のミモザには未婚の異性が寝床を共にしたと聞くだけで酷くおぞましく、嫌らしく映る。
そのため激しく取り乱し、壁にぶつかるほど後退して犬井から逃げていたのだが、彼女があまりに無垢な様子でキョトンとした表情を浮かべているから、次第に落ち着きを取り戻すことができた。
「ほ、本当に一緒に眠っただけなのね? そ、それならいいけど、でも、あれ? 私、最低でも寝床は分けて生活できるようにってベッドに準じる何かを支給させたはずだけど」
「ソファベッドをもらいました。でも、私がトレーと一緒に寝たいので寝床が一個空いてても無視して彼の懐に潜り込んでいます」
ピッキングスキルを身に着けた犬井は無敵だ。
無駄に高い身体能力を駆使して気配を殺し、もう何日も彼の布団に潜り込み続けている。
犬井が得意げに笑むとミモザは再び顔を青ざめさせた。
「ケダモノは貴方だったのね! この変態! 恥を知りなさい!!」
「変態……エッチなことはしてないのに」
ワタワタと慌てるミモザの対面で犬井はプウッと頬を膨らませた。
「とにかく、ミモザ様は良い事だって思いこんでいる家自体、私には不要なんです。しかも、トレーの所に行けなくなるって、最悪以外の何物でもないです。魔獣の世話も結構楽しいですし。私は今の生活が人生で一番好きです。初めて何かが満ち足りた気がした。それを奪うような真似はしないでください」
キッパリ告げればミモザは頭をかき乱す手を止め、じっと静かに犬井の顔を見つめた。
「ねえ、まさか貴方、本気であの男との日々を気に入っていたの?」
「はい」
「もしかして、まさかだけれど、あの男が好きなの?」
「好き……多分、そうです。トレーに触れるとふわふわするから。アレが好きでトレーの布団に入っちゃうんです。頭を撫でられるのも、ブラッシングも、たまに寝惚けてギュっとされるのも、全部好きです」
トレーに触れられた温かさと名前を呼ばれた喜びを思い出して犬井の狼尻尾がブンブンと暴れ出す。
恥ずかしそうに悶える姿はミモザが初めて目の当たりにした犬井の人間らしい姿で恋する乙女そのものだった。
すると、ずっとゴミ屑を見るような目で犬井を見つめていたミモザの瞳が彼女に憧れるようにキュッと細められる。
「そう。それは良いわね。そういう感情を持つことが許されているの、羨ましいわ」
ポツリと呟いた言葉が犬井の耳に入り込んで彼女が不思議そうに首を傾げる。
ミモザは苦笑いを浮かべた。
「貴方がそういうスタンスなら、私も交渉内容を変えなきゃね。私が無理やりにでも貴方の立場をメイドにしようとした理由は一つ。イヌイ様にはね、私に協力してほしいの。私が獣人と対等に接することができるように、毎日一時間だけ、一緒にお茶を飲んでほしいのよ」




