死者と寂しい神様
『自分でも、あっけなくて衝撃的な最期だったと思う。まさか、社員旅行中にクマに噛まれて死ぬなんて』
真っ白い霧に包まれたようなぼやけた空間の中で、犬井真緒は数分前の己の死因を思い出していた。
年に一回の社員旅行。
今年は山へキャンプに出かけていたのだが、そのレクリエーションの一つである山登りの途中で犬井は熊に襲われてしまい、命を落としたのだ。
『あっという間だったな。痛いのは覚えてるけど、でも、どこを噛まれたかとかそういうのは全く覚えていない。何も抵抗もできなかった。あれが自然の驚異ってやつか』
何となく腕を噛まれていた気がして、触れた感覚すらない肌を撫でる。
背筋もゾクリと震えた気がして、犬井はブンブンと首を横に振った。
『ここ、どこなんだろう。私はきっと死んだんだろうから死後の世界にでも行くんだろうけれど、もしかして、ここがそうなのかな。でも、それは流石に嫌だな。何にもなくて寂しすぎる。何もできない無の空間なんて、死んでいるのに狂ってしまう』
大地の無い空間で進むこともできているのかも分からないまま、ただただ足を動かす。
どのくらいの時が経っただろうか。
ふと、声をかけられた気がして後ろを振り返ると、そこには小学校三、四年生くらいの幼い子どもが立っていた。
「こんにちは」
涼やかな声はスルリと犬井の中に入り込んで心地良い。
柔らかな笑顔も非常に友好的なのだが、どこか目が笑っていないような不気味な違和感があった。
「驚いてるね」
ニコニコと目を細めたまま子供が言う。
「他に人がいると思わなかったから」
「そうだね。基本的に死後の世界にたどり着くまでは一人だ。他の誰も干渉できない。肉体の無い魂だけ、精神だけの状態になって無の空間に閉じ込められ、たっぷり自分と向き合う。そうして、思考の果てにやりたいことが決まったら次に進めるんだよ」
「やりたいこと?」
キョトンと首を傾げると、子どもはコクリと大きく頷いて、
「そう。やりたい事だよ。あるだろ、色々」
と微笑んだ。
しかし、いまひとつピンと来ていない様子の犬井に子供はクスクスと笑うと、もう少しだけ噛み砕いて説明をした。
もしも、自分の人生を振り返った末の望みが愛しい人と過ごす事なら、死者の世界に行って相手に会ったり、あるいは相手を待ち続けることができる。
遊んでいたいなら、やはり死者の世界に行ってスポーツやゲーム、読書など、その世界にある娯楽を楽しむことができるし、もう一度、新しい人間として人生をやり直したいのなら転生することもできる。
行く先は転生課支社の世界への移動かの二択だが、そこに至る理由は人さまざまだ。
「まあ、いくら愛しい人と過ごしたいとはいえ、相手がとっくに転生しちゃってたらどうしようもないし、遊び続けたいって言っても用意された娯楽に飽きたりしたら転生を望むようになることだってある。色んな事情があってさ、自分で決めた道を後から変更する人もいるね。転生した後に、やっぱり死者の国に行きたいですって言うのはシステム上無理だし、そもそも、前世の記憶とかでも持ってない限り到底持ち得ない願いなんだけど、死者の国の住民が、やっぱ転生して新しい人生を歩みたいですって言うのはありなんだよ。だから、僕はとりあえず死者の国に行っておいたらいいんじゃないかなって思うけど、君はどう?」
問いかけられて、犬井はパキリと固まった。
時間にして約三分。
重い沈黙の後、彼女は分からないと首を横に振った。
子供が嬉しそうに弧を描いた自身の唇を指先でなぞる。
「分からない? それなら転生する? 今の自分ではなくなって、記憶も自我も全部捨てて、新しい人生と体を手に入れるんだ。きっと、想像もしていなかった何かになれて楽しいよ」
提案されて、犬井はフルフルと首を横に振った。
「それは嫌。なんか、嫌」
「なんで? 自我を手放すのが苦しいの? それなら死者の世界に行く? 君が君のまま、したいことができるよ。死者の世界には沢山の人間がいて、コミュニティが作り上げられているから、望むなら生きていた頃と似たような生活ができる。ただ存在することだってできるよ」
「それは……」
「嫌なの?」
「嫌じゃないけど、したい事なのか分からない」
「自分のことなのに、分からないの? ただ、存在していたいか、いたくないかっていう単純な願いさえ?」
「お恥ずかしながら」
犬井が無表情に近い真顔で頷くと、子どもは「そっか」と笑った。
「君みたいな自我があるようでない、ないようであるタイプは、だいたい死者の国に行くかな。それで、何だかんだ存在し続けている。暇なままの生活を続けて、ふとした瞬間に転生したりする。僕は君みたいな子をたくさん見てきたからね。君も放置していたら、きっとそっちを選ぶはずだ。惰性の日々を貪って、飽きたら転生するありきたりな道をね。けれど、僕はそれを選ばせない。そして、単純な転生もさせない。何故だか分かるかい?」
「知らない。そもそも、私は貴方が誰なのかも知らないし」
「あんまり興味も無い?」
犬井の言葉を繋ぐように子供が言う。
彼女は少し考えて、「まあ、どちらかと言えば」と頷いた。
「そっか。まあ、そんな気はしたけれど、それじゃあ少し困るな。僕は君の今後に大きく干渉して、しばらく君を観察し続けるんだから。定期的にお喋りだってするつもりだ。だから、君が僕にあんまり興味ないと、ちょっぴり困ってしまうんだ」
「そう言われても……大体、私に大きく干渉って、貴方は何者なの? どうして私に関わりたいの?」
問いかけられると、子どもはニコニコしたまま落ち込んで俯いていた顔をパッと上げた。
「今、僕に少し興味が湧いたね。良かった。実は僕さ、神様なんだ。君がいた所とは違う世界を管理している神様」
「神様?」
「そうだよ。神様だ。親しみやすいように子どもの形をしているけれど、本当の姿はきっと人間じゃ形容できない見た目をしている。下手をすれば君たちじゃ認知できないかもしれないね。でも、僕はわざわざ君たちとコミュニケーションをとることができる姿になって、旅路の間に入り込み、僕と似た魂を持つ人間を片っ端から集め、自分の世界に放っている。自分の世界の人間以外にも声をかけて連れて行ってしまう姿は節操ないと思われても仕方がないけれど、僕も結構必死でね。どうしてか分かるかい?」
「知らない。貴方の世界がピンチで、なんか、助けてほしいとか?」
「いや、違うよ。僕の世界には戦争も紛争もあるし、決して平和なだけの場所ではないけれど、でも世界崩壊の危機とか、そういうのには瀕していない。僕の管理は完璧だからね。物語のように、自分の世界を救ってもらうべく異界から勇者を募っているわけじゃないんだ。それに、僕は君たちを連れていくけれど、君たちには何も要求しない。ただ、その姿を観察させてくれて、たまに話をしてくれればいい。それだけなんだ」
「なにそれ。ただ趣味で人を誘拐してるだけってこと? 怖いんだけれど」
「趣味ってわけじゃないなあ。なにせ、僕にも僕なりの目的があるわけだから。ヒントをあげようか? 僕は自分と著しく似た人間を集めています。魂の感覚が似た人間をね」
指をピンと立てて、ドヤッと胸を張る姿は可愛らしい子どもそのものだ。
しかし、犬井は考えるそぶりも見せずにゆるりと首を横に振ると、
「ヒントより、さっさと答えが欲しい」
と、無表情に冷たく言い放った。
すると、子どもはニコニコ笑ったまま再び落ち込んで、しょぼんと肩を落とした。
「ちょっとくらい遊びに付き合ってくれてもいいのに、せっかちだなあ。でも、いいよ。教えてあげる。僕さ、人の感覚を知りたいんだよね。それで最終的には僕も人に近い感覚を持つ神様になって、今よりももっと人を愛したいんだ」
「なにそれ」
「何それって、言葉のままだよ。僕さ、自分で作った世界も、そこで生きる人間たちも大好きなんだ。空から世界の営みを眺めていると、自然と愛しさを感じる。僕の世界にいるどんな存在も僕は好きなんだけれど、その中でも知的生命体であり、文明を築いたり壊したり、予想外の動きをする人間が好きでね。よく観察をしていたんだ。でもね、見れば見るほど気が付かされるんだよ。僕は人間じゃないってさ」
「そんなの当たり前じゃないの? 神様なんでしょ?」
不思議そうに首を傾げる犬井に、神様は初めて苦笑を浮かべた。
「そうだよ。その通りだ。だけどさ、どうやら僕はそれを受け入れられるほど神の性質が強くなかったみたいなんだ。なんかさ、誰かが死んで涙する人間の感情は理解できないのに、できなくていいはずなのに、人間に共感できなくて、僕と君たちは異なる存在なんだって実感させられた時にさ、酷く寂しくなるんだよね。もっと人の感覚を知りたい。あわよくば人間の性質を持つ神様になりたい。人の心を共感できるようになって、それで、心から人間を愛してみたいんだ」
「神様は人間になりたいの?」
「極論を言えば、多分そうだ。でも、同時にそれは叶わない願いだ。神様がいなくなったら、世界は本当に崩壊してしまうからね。本当はこんな願い、持つべきじゃない。神の感覚が僕の願いを拒絶するのを感じるからね。でも、それでも僕は、少しでも人に近づきたいんだ。物理的にも、精神的にも。君たちを少しでも知って、同じ感覚を持って、僕は君たちをもっと愛したいんだよ」
「よく、分からない。貴方の願いも、それに、その話が私を貴方の世界へ拉致することに、どう繋がるのかも」
犬井の素朴な感想に神様は「そっか」と呟いて曖昧に笑うと、それから少しだけ考え込んで口を開いた。
「僕はね、人になるには色んなものが欠けている。神様だからね、人の感覚を持ってないんだ。そして、実は君も欠けた人間なんだよ。僕とは違って得られるはずだった心の欠片を落っことしてるんだ。元から持っていないのか、あるいは途中で失ったのか、それは僕にも分からないけれど、でも、確実に持っていないんだよ。魂が欠陥品なんだ。旅路の間で僕に気が付けたのが、その証だよ。僕は唯一、欠落した魂とだけは共鳴できるようになっているからね」
神様は、どこかの世界で死者が出る度に旅路の間に入り込んで死者を見つめていたのだという。
そして、自分の存在に気が付いた者にのみ声をかけて干渉し、自身の世界に転生させていた。
目的は一つ。
欠落した魂を持つ人間が自分の世界で満たされることにより、人としてあるべき姿、感情、心を取り戻す過程を観察し、人に近づく方法を探すことだ。