12.かみ合わない導火線
薄暗い霧をかき分けながら、ディアとルビオンは南東方向の丘を目指して歩いていた。
足元の岩は湿気を含んでいて重く、ブーツの裏をぬるりと撫でるように粘ついた感触が残る。転びはしないが、どこか足の裏を引っ張られているような心許なさがあった。
空気は重く、言葉すら霧に吸われていくようだ。
「……足元、気をつけろ」
ディアが低く言うと、ルビオンは肩をすくめて見せる。
「ありがとうございます! でも僕、こう見えて機動訓練はしっかり受けてるので!」
声は明るく響いたが、どこか空回りしていた。
ルビオンの内心は、初任務の高揚感がまだ胸に残っている。
だがそれでも、霧の濃さや空気の重さ、そしてディアの無言の背中――それらが、少しずつルビオンの心を冷やしていく。
あれほどまでに憧れていた存在が傍にいるのに、どうして不安ばかりが込み上げてくるのだろう。
否、これは『焦り』だ。
(認めてもらわなきゃ――だけど、現場がこんなに過酷だなんて……)
彼は周囲を見渡す。何も見えない。何も聞こえない。
それなのに、胸の奥で何かがざわついていた。
体は軽いはずなのに、妙にぎこちない足取りと、浅くなる呼吸。
ディアに悟られまいと、意識を外に向けようとするのに、焦りの熱はどこまでも自分の内側に居座り続けた。
「止まれ」
ディアが短く合図の言葉を漏らした。
それと同時に霧の切れ間に、淡く滲むような紫の光が浮かぶ。
ディアとルビオンは姿勢を低くしてその光に向かって数歩進み、電子ゴーグルや測定器で数値の確認をする。
「……やっぱり、こっちにも反応があるな」
岩陰に、かすかに明滅する淡い光があった。
ラリとアメリアが見つけたものと同じ色だが、こちらの光はゆらゆらと不安定でもある。
「ありましたね……遺物!」
声を弾ませたはずの自分の声が、妙にかすれていた。
けれど、そのときにはもう、彼の頭の中では『次にすべきこと』しか考えられていなかった。
ディアがルビオンの反応に苦言を出そうとするも、彼はそれを振り切るようにして大きく一歩を進む。
(……アークさん達より先に見つけた。だから、証明しなきゃ。僕の力も意志も、役に立つって――)
手柄を奪うつもりなど、無いはずであった。
だが、ただ一歩前に出ることが彼にとっては今、すべてなのだ。
「ルビオン、待て。まだ不用意に近づくな。ラリとアメリア側の反応と照合してから――」
ディアの制止は冷静で、声の調子も変わらなかった。
だがその眼差しには、わずかな緊張と警戒が滲んでいた。
遺物に対する経験則が、彼に『慎重すぎるほど慎重に動け』と告げていたのだ。
「大丈夫です! 僕、やれますから!」
サイバーボックスを展開しながら伸ばした手は、自分のものではないかのように震えていた。
霧と寒さのせいだ――そう思いたかった。
そうして、遺物まであと一歩、というところで。
――キィィィ……ン。
耳を刺すような金属音が鳴り響く。反応装置が悲鳴をあげたかと思うと、遺物の紫の光が、一瞬だけ赤く染まる。
続いて、鼓動にも似た重たい震動が指先から背筋を伝って、全身を揺さぶった。
「っ――!」
その瞬間、彼は確かに『何かの意思』を感じた。無機質なはずの遺物が、まるで生き物のように拒絶している。
『私に、触れるな』と――そう叫ばれた気がした。
「ルビオン!」
ディアが即座に腕を引き戻し、ルビオンの身体を庇うように自身の背後へ押しやる。
遺物はビリビリと脈打つように激しく光を放ち、霧の中の空気すら震えていた。
警告音が一斉に鳴り始め、周囲の地面が微かに揺れ始める。
「あ……」
思わず漏れた声は、ルビオン自身のものだった。
胸の奥が、一瞬で凍りつく。
あれは、ただの暴走などではない。――生きている、意思を持った存在の拒絶だと、感じ取れたのだ。
無力化したサイバーボックスが足元で転がっている。それへと視線を泳がせながら、ルビオンは自分の『失敗』を痛感していた。
呆気ないほどに、先ほどまで握っていたはずの自信は掌から零れ落ちて、どこにも見つからなくなっていたのだ。
「……これは、まずいぞ」
ディアの低い声が、淡く揺れる霧の中で重く響いていた。
◆
ラリがふいに顔を上げた。ディアたちが向かった方向を見たのだ。
何かが――視界ではなく、身体の奥の方で『揺れた』気がした。
「……っ」
小さく息を呑んで、彼は空を仰ぐ。
風はないのに、どこかがざわついている。
耳鳴りに似た、けれどそれよりももっと内側に響くような、高いノイズが全身を撫でていた。
あちら側で何かが起こった。ある程度の予測は出来るが、今は動くべきではないと判断する。
「……、っ……」
ラリのすぐ横で、アメリアが測定器を握ったまま固まっていた。
彼女の眉間には見たことのない緊張が刻まれ、その目は何かに怯えるようにも見える。
「ラリ……遺物が、怒ってるよ」
その声は小さかったが、確かに震えていた。
まるで、感情をそのまま言葉に載せたような、そんな響きだった。
「……やっぱり、そっち側か」
ラリがそう呟いたとき、霧の向こう――遥か彼方で、淡く逆流するような光の揺らぎが見えた。
淡い紫の光――今ここにあるものと共鳴する何かが、もうひとつ存在している。
アメリアの瞳がさらに細められた。それは、彼女にしか聴こえない『声』に集中しているときの顔でもある。
「怒ってるっていうより……泣いてるの。助けてって、ずっと呼んでるのに、誰にも届かなくて――」
言葉を選びながら、それでも確信を持って彼女は言葉を続ける。
「戻りたいって、ずっと言ってたのに。……無理やり触られたから、怖がってる。拒絶してる」
「そうか……」
ラリは、ふっと小さく息をついた。
ほんの一瞬だけ目を閉じ、そしてゆっくりとアメリアに手を伸ばす。
手袋越しに、彼女の小さな手に触れた。
その温度は、ほんのりと体温を含んでいて、霧の冷たさを和らげてくれるかのようだった。
「今度は……こっちから、ちゃんと声をかけよう」
ディアのように命令や制御で押さえつけるわけでもない。
無理やり理解させるでもない。
ラリは――この世界と遺物と、そしてそこに宿る『記憶』と、ただ静かに繋がろうとしていた。
「……アメリア、遺物の座標を同期して。こっちから『調和』してみるよ」
優しく、けれど確かな声で言葉を置くと、アメリアが遅れずに頷いてくれる。
「う、うん。やってみる」
霧の向こうで、まだ見ぬ記憶が、微かに呼吸している。
何かを探し続けるように、震えながら返答を待っていた。
きっとそれは、孤独な光だったのだろう。
誰かに『わかってもらえる日』を、ただずっと――ひたすら孤独に、待っていたのだ。




