五
「くそっ、まぁた数が減ってやがる」
おやじはそう言ってぎろりと辺りを見渡した。
ふいにその場で突っ立っている公平と目が合った。おやじが眉間の皺をさらに深くし、何か言いたそうに今にも怒鳴りそうな形相で店の中から出てきた。
「てめぇか! 売り物を食ったのは!」
突然、何を言い出すのかと公平は怖くなって後退りをする。見る間におやじは公平の目の前まで進み出て、襟をきつく掴んだ。
「売り物に手を出すんじゃねぇ!」
おやじの拳が公平の左頬をがつんとえぐった。「自分は何もしていない」と声を出すよりも早く拳が飛んできたのだ。しばらく忘れていた痛みが襲った。
「二個も食いやがって!」
二度目の拳が左頬に入った。なぜ、どうして。あまりの理不尽に公平は涙も出なかった。おやじの大声に周りにいた人々も何事かと視線を向けている。
「二度とすんなよ。次は届け出るからな」
公平は突き放され、どさりと地面に放り出された。おやじは仕事は終わりと言わんばかりに、手をぱんぱんとはたき店へと戻って行く。なぜ、どうして。何もしていないのに。すると、周りにいた女が一人、公平に寄って来て
「大丈夫かい? 売り物に手を出しちゃいけないよ。もう、悪い事するんじゃないよ」
そう言って公平の手を引き、立つのを手伝ってくれ着物についた埃をぱんぱんと払ってくれた。土埃は茶色い雲を薄く作り消えた。
「今からそんな人間になるんじゃないよ」
なぜか女も眉間に皺を寄せ、悲しい目で公平を見下ろした。公平が握飯をとった犯人だと決めつけているようだった。
なぜ、どうして。
殴られた頬はじんじんと痛み、その痛みはだんだんと強くなって来た。公平は悔しくて恥ずかしくて、逃げるようにその場を後にした。
痛む頬を押さえ、空腹と痛みに耐えながら近いようでまだ遠くに見える神田明神の方角へと歩く。何だって自分ばかりがこんな目に合うのか。歯が頬に当たり切れたのか、口の中にじわりと血の味が広がった。この味は痛みが伴うから大嫌いだった。不気味な色をした痛くて不味い血の味。
頬を押さえて下を向きながらゆっくりと歩いて行く。こんな思いをするのもそろそろ終わりだ。神田明神に着いたらきっと今までの苦労も報われる。家出をしてまでここまでやって来たのだから。
そこでふと思った。着いたその後は自分はどうするのだろう。目的の場所にはもう間もなく着く。建物が所狭しと並んだその先に、朱い社殿が見えている。公平の足取りはひどくゆっくりになった。
通りはいよいよ賑やかになって来て、はしゃぐ子ども達の声や、客を呼び込む店先の丁稚の声、荷車が荷物をがらがらと引く音、降売の掛け声、女達の話し声、活気のある江戸の町の声が辺りに響いている。だが、公平だけはぽつねんと取り残されたような裏寂しい気持ちでいた。目的地についた後、そこに行った後は自分はどうするのだろう。そればかりが頭の中を巡っている。
周りの景色も目に入らず、足元ばかりを見ながら進んで行くと、いつの間にか神田明神の鳥居が目の前であった。
周りの人々は吸い込まれるように鳥居をくぐり、江戸で最も有名と言われるだけあって賑やかだった。公平は参拝をしてしまったらそこで終わってしまう気がして、境内には入らずに、右手に周り、人気のない崖の下へと行った。やっと目指していた場所まで辿り着いたというのに、全くもって気持ちは晴れやかでは無かった。どうしたら良いか分からなくなり、公平はずっと丸めて手にしていたむしろを広げ、それに包まった。
むしろに包まれると、藁で編まれた隙間から光が何本も細く入ってくる。目を閉じ、自分に自分で聞いてみた。これからどうしようか。
腹は減った。殴られた頬も少し熱を持ち痛みがあった。家には帰れない。神田で古着屋をしていた父をまずは探そう。父の名前は覚えている。「神田柳原で古着屋の露天をしていた一平太」そう届けを出して助けてもらおう。いや、届けを出したらきっと品川の両親も届けを出していて、すぐに連れ戻されてしまう。もう二度とあの家には戻らないと決めた。
うん、うんと唸りながら考え込んでいると、いつしか瞼が重くなり、公平はうとうととしていた。
むしろに差し込む光が一瞬遮られたかと思い、うつらとしていた眠気が覚めた時、むしろの向こう側に目が見えた。真っ黒で瞳の奥深くに怒りがあるような、ぎょろりとした真っ黒な目だった。人なのかどうかも怪しいが、二つの目に鼻と口がある。きっと人の顔だ。知らない人がむしろの向こう側で公平をじっと見つめている。途端に怖くなった公平は、そのまま震えながら声も出さずにじっとしていた。
風が吹いた。風が吹いたと思った。だが、風はびゅうびゅうと音を立てているだけで、体に風は当たらなかった。風の音に混じり、人の声が聞こえた気がした。むしろの隙間から見える人の口が音に合わせて動いている。え、今何て? 言葉が聞き取り辛く、人の言葉ではないようにも聞こえたし、ただ滑舌が悪いだけのような気もした。そんな低い声であった。
しかし公平が何回も「はい?」と、聞き返しても何も返事は無かった。むしろに差し込む光が急に元通りになったかと思うと、急激な眠気が襲って来て公平は再びうつらとし始め、やがて小さな寝息を立てた。
この物語はフィクションであり、実在の地名・建物名・人物・団体とは一切関係がありません。
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