三
暗闇に目が、夜の怖さに心が慣れ始めた頃、公平は唐突に腹が減って来た。
腹が減ると今度はなぜだか腹が痛くなって来た。ここら辺りでそろそろ歩くのを止めて横になろうか。自分には拾ったむしろもある。どこか安全な建物の中であれば尚良い。立ち止まり、どの辺りまで来ているのか辺りを見渡した。
すると薄い月明かりの下で山の上に建つ鳥居が見えた。鳥居の奥には寺か神社のような建物が見える。愛宕山の愛宕神社である。愛宕神社には急な石段があることで有名だが、その石段に小さな火の玉が見えた。火の玉は二つあり、ゆっくりと石段を上っている。目を細めてよくよく見れば人が石段を上っていた。提灯の明かりと思われる。そこには人がいるようだ。
公平はそう思うと、東海道から少し外れた愛宕神社へと向かうことにした。やはり夜に一人でいるのは心細く、少しでも人の気配を近くに感じていたかった。
愛宕神社のある愛宕山は江戸で一番高い山で、月見に良かった。こんなに寒い冬の夜でも月が良く見えるという理由で月見にやってくる人がいた。
公平は愛宕山の麓まで行ったが、下から見上げる石段の急勾配に心が折れた。これを上がるのは無理だ。とっさにそう思い、石段から右手に回り、木が何本か茂る麓で寝転がることにした。腹も痛く、この際、寒さは我慢するしかない。急いで周りにある落ち葉をかき集め、布団代わりにする。乾いた落ち葉はかさかさと寒い音を立てていたが、地べたに寝そべるよりはいくらかましだ。無理矢理そう自分に思い込ませた。そしてむしろに包まりながら寝転がると、目を閉じる。
腹の痛みばかりが気になって寝るどころではないが、寝てしまえば腹の痛みもきっとわからなくなる。早く眠気がやって来ないかなと寒い中、ぶるぶると震えながら口を少し開けてみる。上の歯と下の歯がかたかたと鳴り、何だかそれは面白かった。自分がまるで玩具にでもなったみたいだった。
寒さに気をとられていると今度は腹の痛みが和らいで来た。自分の体はどれか一つのことにしか気が向けないらしい。腹の痛さと体の寒さを天秤にかけた時に、寒さの方がまだ我慢ができそうだと思った。公平は寒い寒いと思いながら、歯をかたかたと鳴らし目をつむった。
目をつむり、暗闇の中に意識を沈めていると、父親の怒号が聞こえてきた。
「どこをほっつき歩いてる」
そして、その後に腹を蹴られる。
思わず体がびくりと強張った。今、自分は愛宕山の麓にいて一人のはずなのに、思い出すのは恐ろしい父親の顔であった。
今ごろ両親は自分を探しているだろうか。寂しく無いと言えば嘘になる。母に会いたい、母から離れるのは寂しい。家を出る前に受けた仕打ちも忘れて、公平は母への寂しさを募らせた。母を思い出すと、必ずその横には父がいて自分と同じように母にも手をあげていた。母の泣き叫ぶ声がすぐ側で聞こえる。
自分がいることで母も暴力を受けるのだ。やはりあの家には帰ってはいけない。弟が生まれる前の優しい母を思い出しては寂しい寂しいと叫んでいる心に蓋をした。
冷たい風が愛宕山の上から吹きつけ、辺りに散らばる落ち葉を運んで来ては散らして行く。何枚かの落ち葉は寄り添うように公平のくるまっているむしろに張り付いた。
遠くで人の声がした。
「今日も寒ぃな」
「まったく本当だねぇ」
その声はざっざっという草履が地面を擦る音と共に近付いて来た。
「改元はまだかね」
「俺は何だって良いけど、めでたいのが良い」
そして足音と声は公平の横たわる木を通り過ぎ、やがて聞こえなくなった。
公平は目を開けてゆっくりと起き上がった。かき集めた落ち葉は、ぱらぱらと乾いた音を発して着物と地面に散らばった。着物についた葉を手で払いのけ、髪についた落ち葉のくずも乱暴に払う。辺りは薄っすらと明るくて朝が来たのだと悟った。
とうとう家に帰らずに夜が明けたのだ。公平は何とも言えない高揚感が芽生えた。
腹の痛みはすっかり無くなっている。たとえ一人でも、子どもでもやれば出来る。家から逃げ出すことができた。そう思うと堪らなく嬉しくて、自分はなんだってできる気になってきた。
このまま日本橋に行ってしまおう。公平はむしろについた葉のくずを払うと立ち上がり、愛宕山を後にした。
この物語はフィクションであり、実在の地名・建物名・人物・団体とは一切関係がありません。
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