二
品川宿は東海道の一番目の宿場町で、中山道の板橋宿、甲州街道の内藤新宿、日光街道の千住宿と並び江戸四宿と呼ばれた。通過する大名行列の数や旅籠数など他の四宿よりも多く、幕府は重要視していた。また東海道の初宿として、西国へ通じる江戸の玄関口として大いに賑わっていた。そして江戸四宿の中で唯一海に面した宿場町で、海の向こうは遠く上総、安房の山が見え、夜は漁船の篝火が海にぽつりぽつりと浮かび、風光明媚な場所であった。「北の吉原、南の品川」と称される江戸随一の遊場でもあり、その賑わいは昼も夜もさほど変わりはない。
公平の家は通りから一本入った少し奥まったところで小さな旅籠を営んでいた。通りの広くて豪華な旅籠に比べると見劣りするが、静かで良く寝られると、品川宿に来る度に泊まりに来る常連客も何組かいた。
公平は両親が戻って来る前に、慌てて家を出て通りへと出た。通りに出てしまえば、夜ではあったが人は途切れる事なくひっきりなしに行ったり来たりとしており、雑踏に紛れ込むのはわけもない。子どもが一人で夜道を歩いていても気に掛ける者は誰もおらず、家からどんどんと離れて行っても誰にも怪しまれなかった。
早く家から離れないと。異変を察知した父親が追い掛けて来るかもしれない。早く早く。痛む足を引きずりながら、気持ちばかりが急いてしまい、途中足がもつれて転んでしまった。
「そんなに急いでどこへ行くんだい?」
見知らぬ酔っ払いに声を掛けられたが、家を飛び出して来たことがとても悪いことのような気がして足早に去った。なるべく人と関わらないようにしたかった。
東海道をそのまま北上すれば日本橋に着く。日本橋から神田明神までは目と鼻の先だ。大人の足であれば夜通し歩き、日が明ける前に日本橋、もしくは神田明神に行けるだろう。しかし公平にはその自信が無かった。夜の道を歩くのに提灯も持っておらず足も痛む。何と言っても暗闇は怖い。月明かりは心許なく、暗闇は文字通り本当に真っ暗だった。途中、どこか暖がとれるような場所で寝て夜をやり過ごそう。無論、金を持ち歩いていないので野宿だが。そんなことを思いながら一人、人の流れとは逆方向に歩いて行った。
海に浮かぶ小さな篝火と、通りの旅籠から聞こえて来る人の笑い声を背に、公平は真っ直ぐと北へ進んだ。物悲しげに波の音がざぁざぁと途切れることなく小さな背中を送っている。
品川宿から離れ、しばらく歩いていると、立派な寺が見えて来た。泉岳寺である。この辺りの寺のことなら何となくではあるが場所と名前がわかる。宿泊客の話題にのぼることもあった。その為に、今自分がどの辺りまで歩いて来たのかおおよその目安になる。まだまだ先は遠い。品川宿より少し歩いた程度の距離であった。
泉岳寺はその昔、主君の仇討ちを成し遂げた有名な武士達の墓があるらしいが、公平は詳しくは知らなかった。周辺は建物が並び、戸や窓からは薄い灯りがいくらか漏れてはいるが、それよりも先に目をやると道の先には漆黒が包む野であった。ただただ暗い。
父親に蹴られた痛みは既に冬の射るような寒さの前には消え、公平の中にあるのは、夜の恐ろしさであった。これより先に進むのが怖い。真っ暗なところから人ではない何か恐ろしいものが出て来て追いかけられる。そんなありもしないことを考えてしまう。
怖い。
誰か人が歩いて来ればそのまま後ろから勝手に付いて行ってしまおう。そう思い、後ろを振り返るが、人影はおろか犬の鳴き声すらなかった。
ふと、公平は今から家に帰った場合のことを考えてみた。ここからならまだ家に帰れる。帰った途端にどこに行っていたんだと酷い目に合わされるだろう。それか、運良く親に見つからずに寒い庭にこっそり何事もなく戻れるかもしれない。蹴られ殴られ放置された庭先。庭は外であって家の中ではない。それは自分の戻るべき場所なのかと疑問に思った。
遠くに広がる暗闇と、家に戻ってからの仕打ち。どちらも想像した時にすぐに鮮明に浮かんだのは夜叉のような顔の父親だった。その横で泣いている母親。こんなにも自分を痛めつける父親のことは直ぐに想像出来るというのに、かつて自分が暮らしていたという神田の町や前の父親の顔はうろ覚えであった。神田の父親の声はもうわからない。覚えていない。それが悔しくて堪らなかった。
冷たい風が吹き、がたがたと建物の引き戸を揺らす。人が出て来たのかと思った公平は足早に人家から離れた。人は家から出て来ずに、寒空の下、静寂を保っている。
公平は道端に落ちているむしろを掴み、自分の肩にかけると暗い道を進み出した。むしろは所々に穴があり、編まれた藁がほつれている箇所もあったが寒風はいくぶんか防げる。むしろに包まれていれば、闇夜の化け物達からもきっと身を守ることができる。なぜかそう思った。
泉岳寺には仇討ちを成し遂げた武士達の墓がある。彼らがどこの誰で何をしたのかは知らないが、きっと暗闇を進む自分を見守ってくれていると、そう思うことにして、暗い夜道を進むことにした。
この物語はフィクションであり、実在の地名・建物名・人物・団体とは一切関係がありません。
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