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つどいて巡る神田人情記  作者: 汐見かわ
暗闇を行く
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 この夜、少年は忽然と姿を消した。

 親が気が付いたのは明け方だった。やり過ぎたか、まさか死んではいないよな。一抹の不安がほんの少し脳裏にかすめた。

 いつもは体調を気にかけることさえしなかったが、人目につかない宅の庭先へと足を運ぶとそこには誰もいなかった。吐瀉物の、液体の残骸がそこに乾いてしみを作っているだけであった。


 少年の名前は公平(こうへい)と言った。神田柳原(かんだやなぎはら)の古着屋の息子であった。古着屋と言っても、店を構えていた訳ではなく、むしろを敷き、その上に仕入れた古着を並べて売る露天であった。

 当時の庶民は古着を買うことはごく当たり前の行為で、柳原には古着を扱う露天が多く集まっており、大変な賑わいだった。

 公平の父親は、いつかはこの辺りで店舗を構えられるようにしたいと志を高く持っていたようだが、母親と父親の折り合いが悪く、公平が五つの時に両親は離縁した。その後、母親は何の縁か知らないが品川宿で小さな旅籠を営む男と再婚した。母親と新しい父親の間に息子が生まれると公平は父親から疎まれるようになった。

 初めは草履を揃えなかっただけで頬を叩かれた。そのうちに食事中に椀や箸を投げつけられた。


「行儀のなってないお前に食わす飯は無い」


 そう言われ、一人だけ食事のない時もあった。そんな日は父親のいない時に、母親が取っておいた米をこっそり食べさせてもらえた。次第に父親からの理不尽な暴力は増えていき、静かに読み書きをしていても暴言を吐かれ、弟と遊んでいても殴られ蹴られた。

 最初は父親から暴言をぶつけられる度に、母親は庇い、手をあげられる度に身を呈して守ってくれていたが、庇う母親にも手をあげるようになり、いつしか母親は守ってくれなくなった。母親の腕にも自分と同じように紫色のあざがいくつかできているのは知っていた。母親の目からは輝きは無くなり、次第に死んだ魚のような目になった。何の感情も無い、光を無くしたかのような表情を思い出すと今でも胸が締め付けられる。


「お前は生きている価値はあるのか」

「何で生きているのか」


 そう父親は蔑むような目で見下ろし、ちっという舌打ちと共に毎日毎日言った。父親がそんな言葉を投げる度に、母親はしくしくと泣いた。

 口から発せられる舌打ちの音は、言葉こそないが不快だった。拒絶、苛立ち、侮蔑、全ての否定的な意味がその音に込められている。舌打ちを聞く度に自分の中で黒くて重い感情が蓄積されていく。行き場の無い黒い感情は、自分で自分の腕を掻きむしり、皮膚が血でにじむまで掻くことでやっと晴れる気がした。

 そしていつも母を泣かせているのは自分のせいなのだと公平は思っている。自分がいることで、なぜだか知らないが父親はいつも苛々としている。あぁ、自分が生まれてこなければ母も自分もこんな目に合わなかったのに。そんなことを思う日々であった。

 腹と背中にできたあざも増えてきて、紫に変色した打撲跡はなかなか治らなくなってきた。父親があえて腕や足などを殴らなかったのは人目に触れる事を恐れたからだった。


「本当に利発そうな子だねぇ」


 この日、自分のことを褒めてくれた宿泊客がいた。側にいた父親は


「ええ、算盤が得意なんですよ」


 と、にこにこと相槌を打っていたがその夜、それはそれは酷いせっかんにあった。

 声を出すなと言われており、声を出すと余計に暴力は酷くなるので必死に耐えたが、何度も腹を蹴られ、その日は腹や背中だけでなく、顔も殴られた。

 父親は心の内から何かを吐き出すように、執拗に何度も何度も殴り蹴った。その時にとうとう見兼ねた母親が止めに入って言った言葉がこうだった。


「あんた、やめて。あざを誰かに見られたら気付かれる」


 唯一味方だと思っていた母親もいつしかこうなっていた。母もあちら側の人間だった。自分をかばってくれていた母親はもういないのだ。自分には味方はいないのだと、この時に気付かされた。

 ろくに食べ物は食べさせてもらっていないので、ほとんどが水のような泥のようなよくわからない液体だったが、その日に口に入れた食べ物は全部吐いた。喉と、喉からさらに奥が焼けるようにひりひりと痛んだ。蹴られた為か、母親の言葉に衝撃を受けたのか公平にはわからなかったが、とにかく嗚咽と共に吐いた。


「顔の怪我が引くまで納屋に入れておくしかないよ。周りにばれちまうよ」

「ちっ、汚ねぇな。自分で拭いておけよ」


 二人は残酷に吐き捨てて、公平は冷たい冬の外に放置をされた。この時ばかりは死を覚悟した。腹も足も腕も身体中が痛くてたまらない。手足は凍えるように冷たく感覚は無い。

 なぜ、自分ばかりがこんな目に合わなくてはならないのか。弟は温かい火鉢の側で書き物の練習をしているのだろう。涙がぽろぽろと流れ、視界は揺らいだ。何も悪さはしていないのに。なぜ。生きていることが悪いことなのか。ならばなぜ自分は生きているのだろう。

 寒空の下、思い出すのは昔住んでいた家と、両親と共に参拝をした朱い社殿の神田明神であった。

 今の住まいとは違い、狭い長屋での暮らしだったが、飯が食えて寒さからはしのげた。そして何より父も母も優しかった。父と別れた最後の方は両親はけんかばかりして母の怒鳴り声を聞くのは辛かったが、手をあげられたことは一度もなかった。そして時々両親に手を引かれ、連れられた先は神田明神であった。

 緩やかな坂を上り、眼前にそびえ立つ朱い社殿は青い空に良く映え美しく荘厳であった。社殿の前ではいつも「父ちゃんの商売が繁盛しますように」そう祈った。別れた父に会いたくて、助けてもらいたくて、嗚咽の中で呼んでいた。


「父ちゃん、父ちゃん……」


 公平は寒くて痛い体を自分で抱きしめながら考えた。このままでは蔵に閉じ込められる。家にいたら今の父親に殺されてしまう。自分は家にいてはだめなのだ。昔、住んでいた場所に行こう。逃げよう。本当の父親に会いに行こう。「助けて」と。

 住んでいた家の場所は思い出せなかったが、不思議と神田明神には行ける。そう感じた。きっとそこに行けば何か手掛かりがあるに違いない。何か変わるに違いない。そしてこの時に覚悟を決めた。

 公平は痛みを堪えてゆっくりと立ち上がり、ふらつく足を一歩と前に出しとっさに駆け出していた。

 神田明神に行くことばかりを考えて、不思議とその時、ほんの一瞬だけは寒さを感じなかった。公平は静かに走った。


この物語はフィクションであり、実在の地名・建物名・人物・団体とは一切関係がありません。


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