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つどいて巡る神田人情記  作者: 汐見かわ
神田のおちゃっぴい
3/16

 

 人の波が落ち着いた午の刻。

 八重は客のいなくなった卓を手ぬぐいで拭っていた。すると男が二人、店に入って来た。


「……と、まぁ神田と言えば納豆に味噌にあとは麹。それと何と言っても人でさぁね。神田っ子って言葉は知ってますでしょ。江戸っ子の中の江戸っ子。男も女もおとこ気があることで有名ですから」


 この二人、昼間から酒を飲んで来たらしく周りに構わず大声で会話をしている。途端に店内は騒がしくなり、店にいた客は何事かと二人の男に視線を向けた。

 特によく通る声でぺらぺらとしゃべっているのは額の狭くやや吊り目で鼻梁の通った男であった。柳色の着物を端折り、紺色の股引きを履いている。いかにも職人風であるが、この男、八重は何度か神田明神の境内で見かけたことがあった。話をしたことは無かったが、いつもこの界隈をうろついているらしく、ちょっとした有名人で、名は文蔵(ぶんぞう)と言う。

 この文蔵なる男は境内に来ては何をするわけでもなく境内の木陰や階段で寝て、時たま近所の子らと遊んだり、知り合いに会えば愛想良く話し込んだりと、普段やることもないのか日がな一日をふらふらとして過ごしていた。八重は大の大人が働きもしないでだらだらと過ごしているのは情けないと思っていたし、緊張感もなくへらへらとしている文蔵は信用がおけず何となく嫌いであった。八重の店にもこのように時々来るが、いつも違う人と来ては大声で話し迷惑だった。そしてどこか得たいの知れない男だなと訝しく思っていた。


「やっちゃ場には行ったんですかい」

「とんでもなく大きくて驚いたぜ。あそこが公方様の胃袋を支えてるっつうことだね」

「神田の青果市場は江戸随一ですからねぇ」


 文蔵はへらへら笑いながら勝手知った風に椅子にどかりと座ると、もう一人もそれに習った。


「甘酒二つ」


 手を上げ、すぐ近くの卓を拭いている八重の方に顔を向けるでもなく奥に向かってそう言うと仲間の男がしかめっ面をして言った。


「おいおいおい、俺はどちらかというとまだ酒が飲みたいんだよ。甘ったるいのはいらねえよ。ここは一膳飯屋じゃないのかい」

「まぁまぁ、旦那。神田の名物が見れますよ」


 文蔵は男の言葉ににやにや笑いながら返事をした。

 この二人、大声でしゃべっている為に、会話の内容は店にいた客に筒抜けだった。

 それにしても、神田明神前のこの店がなんたるかを知らないで男は文蔵に連れられて来たのだろうか。店の暖簾にも大きく書いてあるはずだ。「明神甘酒」と。

 八重はむっとした。言われた通りに店の奥から甘酒を二つ運ぶと、ほんの少し乱暴に甘酒を卓に置いた。


「お兄さん。うちは甘酒が有名なんですよ。明神甘酒って言うの。一膳飯屋じゃないの」

「ああ?」


 男は怪訝そうに八重に赤くなっている顔を向けた。文蔵も店にいる周りの客も何だかにやにやと八重と男のやり取りを見ている。文蔵は素知らぬ顔をして湯気がほんわかと立ち上る甘酒をちびりと飲んだ。


「うちは甘酒の名店として江戸一番の有名店なの。そこら辺の甘酒屋とは違うの。暖簾にも大きく書いてあったでしょ。あんたの目はふし穴なの? 地下の天然の土室でできた麹を使ってて、ひと口飲めば寿命が十日、ふた口飲めば一月、お椀全部を飲めば一年延びるって言われてるわ。味はこってり優しい甘さ。昼間っからお酒を飲んでるのんだくれの体にもとっても良いから。覚えて。明神甘酒の天木屋。あ・ま・き・や!」


 八重は腰に手を当て、もう片方の手で男の顔を指をさしながら言ってやった。

 自分の生まれたこの店は江戸一番だと自負しているし、どこの甘酒屋にも負けないと思っている。神田のうちの店に来て「酒が飲みたい」などと、どこのたわけが言っているのだろうか。八重はそんな男に知らしめてやりたかった。

 男は赤い目をぱちくりさせて口をあんぐりとさせていた。側にいる文蔵は甘酒をすすりながら肩を震わせくつくつと笑い、店の客達も笑っていた。


「何でい、このおちゃっぴいは!」

 

 その声に、店内からはどっと笑い声が溢れた。

 おちゃっぴいとはおしゃべりで小生意気な娘を意味する言葉で、特に八重はその勝ち気な性格から神田のおちゃっぴいとしてこの界隈では有名であった。当の本人はそれに気が付いていないのだが。

 男とやりあった際、店の奥から八重の母親である女将がすっ飛んで来て男に何度も頭を下げて平謝りをしていた。男は「すっかり酔いが覚めちまった」とか何とか言っていたが、特に怒るわけでもなくちびちびと文蔵と甘酒を飲んでいた。


 江戸の男女差は7対3で、完全な男社会であり、女は男に媚びる必要もなく結婚ができた。どんなに性格が悪くても醜女でもだらしなくても家事さえできていれば結婚はできた。その為に「あたしがあんたと結婚してやったんだからね」と言わんばかりに女房の方が亭主よりも態度が大きく、遠慮が無かった。そんな母親の態度を見て育っているので、江戸の少女達はおちゃっぴいが多かったのだという。それでも地域の人々からは「元気があってよろしい」と可愛がられ大事に大事に育てられた。そんな八重も地域の人達に可愛がられているおちゃっぴいの一人だ。


 しかしその後に女将からは「お客様に何てことを言うんだい」と怒られ、八重はもう店に立たなくて良いと店を追い出されたのであった。




この物語はフィクションであり、実在の地名・建物名・人物・団体とは一切関係がありません。


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