一
開店前の朝、八重は日課の参拝をしにすぐ裏手の神田明神へと足を運んだ。この時刻にまだ参拝客は誰もいない。静かな朝だった。
冬の凍てつく空気の中で吐く息は白く、身も心も凛とする心持ちになる。朱い社殿が青い空に映え、いつも見ている風景が今日はやけに荘厳に見えた。
社殿の前へと進むと、一つ深呼吸をし、背筋を伸ばす。深いお辞儀を二回。次に手を二回打つ。思ったよりも弾けた音が境内に響き、その音で地面を忙しなくつついていた雀達が一斉に飛び立った。
「今日もお客さんがたくさん来ますように」
そう心の中でとなえ、最後に深いお辞儀をして今日の参拝は終わった。
くるりと振り返ると遠く安房、上総の稜線が海の向こうに薄らと見える。東に上る太陽が、きらきらと眼下に広がる瓦葺の屋根や駿河台の台地を照らしている。その上を大きく翼を広げて飛んでいる鳶は気持ち良さそうに旋回していた。今日も新しい一日がこの時から始まるのだ。
本日の江戸もきりりとした気持ちの良い快晴。これから始まる一日に八重は心の中で拳を握り、「よぉし」と気合いを入れた。
さあ店に戻ろうと振り返った時、一人の男が手に息をはぁと吹きかけ、手を摩りながら足早にこちらに向かってやって来る。参拝客だ。通り過ぎる男に軽く会釈をして、もう一度澄んだ空を見上げる。今日も江戸で最も有名な総鎮守神田明神は賑わいそうだ。
門をくぐり境内から外に出るとその脇に裃を着た宮司がいた。箒を持ち、小刻みに門前のちりをはいている。ざっざっと規則正しい間隔で音が刻まれる。一定の間隔の音が静かな朝に響き心地良い。
「おはようございますっ」
「おはよう八重さん。今日も寒いですねぇ」
「私、寒いの好きよ。冬は大好き。気持ちがぴしっとなるもの」
宮司はにこやかで穏和な顔を八重に向け、少し皺が目立って来た目尻を細める。
その二人の横をするりと亜麻色の衣を着た人が通り過ぎる。二人はその姿をちらりと見やり、また顔を見合わせた。
「なあんで、いるの」
「稲荷社の例祭があるのと、近く改元があるので少しそわそわとしている感じでしょうか。まぁ……そっとしておいて下さいね」
「ふーん、ま、良いけど。あんまり出て来ないで欲しいわ。だって宮司さんも知ってるでしょう。改元で不吉な事が起こるって。お店に来る人が面白そうに騒いでたわ。私、そんなのこれっぽっちも信じてないけど、頭の悪い人達は何かあったらすぐに、ほらやっぱりあの時の改元はって騒ぐもの。こういう時には特に慎重に過ごさないと。自覚を持ってもらいたいわ。何考えてるのかわかんない」
八重は細い眉毛をくしゃりと縮こませ、早口にひとしきり言いたいことを言うと、大げさに一つため息をついた。口から出た息は白かった。
宮司は柔らかな笑顔をほんの少し引きつらせ、一歩二歩と八重から距離を取り始める。八重は子どもながらに小うるさく、少しでも自分の理にあっていないことがあると「何で、どうして」としつこいのだ。
八重の性分をよぉく知っている宮司は朝からそれに巻き込まれるのはたとえ神職と言えども萎えるのだ。
「ほら、それは誰かが流したただの噂話ですからねぇ、あの、じゃあ八重さん。お店頑張って下さいね」
「宮司さんもお掃除頑張ってね」
八重はその年頃の娘特有の弾けるような眩しいにっかりとした笑みで返し、小走りで自分の店へと戻って行った。
境内から出て行く八重の後ろ姿を見送ると宮司はほっと肩をなでおろした。
この物語はフィクションであり、実在の地名・建物名・人物・団体とは一切関係がありません。
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